2024年4月19日金曜日

お前はハナクロ

                      
 4月の中旬にはなんとなく気持ちが重くなる。同じ日常の繰り返しなのに……。するとやがて(これも毎年のことながら)、16、17日に個人的な記念日が重なっていることを思い出す

 16日は下の子の誕生日、そして義父の命日。17日は田村郡常葉町(現田村市常葉町)の「常葉大火」があった日だ。

 常葉町で生まれ育った。大火事が起きたのは、小学2年生になって間もない昭和31(1956)年4月17日の夜。

そのときの様子を、『かぼちゃと防空ずきん』(いわき地域学會)に書いた。それを抜粋して紹介する。

 ――夜7時10分。東西に長く延びた一筋町にサイレンが鳴った。こたつを囲んで晩ご飯を食べようという矢先だった。消防団に入っていた父が飛び出していく。母と弟は親類の家に出掛けていない。残ったのは祖母と小学5年生の兄、そして私だけ。

 火事はいつものようにすぐ消える。そう思っていた。が、通りの人声がだんだん騒がしくなる。胸が騒いで表へ出ると、ものすごい風だ。

黒く塗りつぶされた空の下、紅蓮の炎が伸び縮みし、激しく揺れている。かやぶき屋根を目がけて無数の火の粉が襲って来る。炎は時に天を衝くような火柱になることもあった。

パーマ屋のおばさんに促されて裏の段々畑に避難した。烈風を遮る山際の土手のそばで、炎の荒れ狂う通りを眺めていた。やがてわが家にも火が移り、柱が燃えながら倒れる――。

買ってもらったばかりの自転車も、赤ん坊のときから小1までの写真も、何もかもが灰になった。飼い猫の「ミケ」はほかのペット同様、どこかで焼け死んだにちがいない。

ところが一週間後、私たち家族が身を寄せている親類の石屋の作業場にミケが姿を現した。

自宅から親類宅まではざっと500メートルある。猫が生きのびたことだけでもすごいのに、飼い主一家が避難しているところをよくぞ探り当て、たどり着いたものだと感心した。

13年前の原発震災でも「奇跡」が起きた。わが家には猫が3匹いた。茶トラ2匹、ターキッシュアンゴラの雑種らしいのが1匹。古株の「チャー」は老衰がひどかった。えさをたっぷりおいて、人間だけ避難した。

 9日後に帰宅すると――。チャーは衰弱して息絶え、ミイラ化しているのではないか。そう思っていたら、3匹とも元気な姿で現れた。

足を引きずっていたチャーはミイラになるどころか、4本の足でちゃんと歩いている。下半身に力が戻り、排便もきちんとできるようになっていた。カミサンが歓声をあげた。

 チャーたちが死んだあとは、猫を飼うのをよした。代わって、今は迷い込んできた「さくら猫」にカミサンがエサをやる。

すると、そのうち白と黒の「ハナグロ」もやって来るようになった=写真。これはまだ私の姿を見ると逃げる。

ハナグロより「ハナクロ」。何かの名前が頭に浮かんだので、それに合わせてハナクロと、濁らずに呼ぶことにした。とにかく鼻が黒い。それを見ただけで口元が緩む。

2024年4月18日木曜日

令和5年度ガン・カモ調査

                      
   毎年1月、環境省主催で「全国一斉ガン・カモ調査」が行われる。いわき地方は日本野鳥の会いわき支部が担当する。

ありがたいことに、同支部の元事務局長峠順治さんから毎年、調査結果の載った支部報「かもめ」の恵贈にあずかる。今年(2024年)も4月に入ると届いた=写真。

まずは一覧表を眺める。コハクチョウの合計が令和4年度は818羽だったのに、同5年度は343羽と激減した。

パッと思い浮かんだのは、ハクチョウ越冬地での河川改修工事だ。「かもめ」もまた、同じような指摘をしていた。

それはそうだろう。ハクチョウのホーム(繁殖地)は極寒の地だ。冬は寒さを避けるために南下し、セカンドホーム(越冬地)で過ごす。

そのセカンドホームで工事が続いている。しかたないこととはいえ、ハクチョウたちにとっては落ち着かない。で、どこかいわき以外に散らばったのだろう。

ガン・カモについては、私は街からの帰りに平・塩~中神谷の夏井川で、日曜日に小川・三島の同川で観察する。

いちいち細かくカウントはしない。「見た目」でざっと20羽、50羽、100羽といったように、概数をつかむ。

その数は毎回変わる。1月のガン・カモ調査時とも一致はしない。日々、あるいは時間によって増減がある。

今年は1月14日の日曜日に一斉調査が行われた。私はこの日、カミサンと一緒に朝、夏井川渓谷の隠居へ行ってネギを収穫した。

それがすむと、カミサンに従ってアッシー君を務めた。その行き帰りにチラッと三島のハクチョウを見た。

そのときのコハクチョウの数はどうだったか。夏井川水系では、上流から三島111羽、平窪と愛谷(あいや)堰85羽、新川合流部の塩123羽、いわき南部の鮫川では沼部24羽の計343羽だった。

沼部にはコハクチョウのほかに、コブハクチョウが4羽いた。日本野鳥の会いわき支部の『いわき鳥類目録2015』によれば、コブハクチョウはいわきでは「漂鳥」扱いだ。

公園などで飼われていたのが逃げ出し、野生化したのが日本各地に定着している。平成30(2018)年度のガン・カモ調査では、鮫川でコブハクチョウが繁殖し、定着していることがわかった。つまりは留鳥化した、ということだろう。

ほかの水鳥も減った。マガモは751羽。一昨年並みで、去年の945羽よりはかなり少ない。

三島では冬場、ハクチョウに寄り添うようにオナガガモがいる。そこは113羽だったが、ほかは塩20羽、沼部43羽だけだった。去年は全体で483羽だったから、これも激減した。

特記事項として、①南部=沼部橋上流・ポンプ場で河川改修工事中、高柴ダムは堤体付近で工事中②中部=夏井川の複数個所で河川改修工事中③北部=夏井川河口で横川水門工事中、立場橋―大苗代間で工事中――とある。

減少理由としてはたまたまかもしれないが、工事個所の多さ、気温上昇などが気になるところだという。

2024年4月17日水曜日

春の土の味

         
 夏井川渓谷の隠居の庭にフキが群生する一角がある。今年(2024年)はなぜか、フキノトウの出現が遅れた。とはいえ、1月下旬の極寒期が過ぎると、目に見えて頭をもたげ始めた。

 私はとりあえず一つ、二つ、といった程度にフキノトウを摘んで持ち帰り、水洗いをしてカミサンに渡す。

 ナメコその他が入った味噌汁に、フキノトウのみじんが浮いているのを口に含む。ほのかな苦みと香り――。これこそが春の土の味なのだと、年をとった今は納得する。

 子どものころはこのフキノトウの苦みが嫌いだった。祖母、両親、子どもたちの3世代が同じ食卓を囲む。大人にとっては春の土の味も、子どもにとってはただ苦いだけの食べ物にすぎなかった。

 それが大人になって就職したあと、酒の席に出てきた。苦いのは苦いが、なぜか酒に合うことを知った。そのことは前にも書いた。

 男の私と違って、カミサンは丹念にフキノトウを摘む。日曜日のたびに、笊(ざる)にいっぱい収穫した。

 多くは「ふき味噌」になって出てきた。これも子どものころに味を覚えた。砂糖の加減で甘みが強かったり、弱かったりするのはしかたがない。

 最近は薹(とう)が立ったフキを刻んで酢味噌和(あ)えにしたものを食べた=写真上1。これは面白い味の組み合わせだった。

 フキの苦みがきたあと、酢の味と味噌の味がくる。時間差がある。フキノトウとしては終わっているが、花茎はまだやわらかい。知り合いから教わった作り方だという。

 今は隠居の庭がヨモギの新芽で覆われつつある。これもカミサンは2時間、3時間と飽きずに摘む。

 まずはアクを抜き、刻んで、油で炒め、醤油で味を付けたものが出てきた。さっぱりした味だった。

 種本があるという。移動図書館から若杉友子『若杉ばあちゃんのよもぎの力』(パルコ、2022年第5刷)=写真上2=を借りた。その中に「よもぎのしょうゆ炒め」が出てくる。

まず、①アク抜きしてしぼったよもぎを1センチ幅くらいに切る②フライパンを熱してごま油を回し入れ、よもぎを入れて菜箸を回してサッと炒める。

そして、③よもぎに酒を振って混ぜ、アルコール分が飛んだら醤油を鍋肌から回し入れ、再度混ぜて仕上げる。

別の日には、よもぎのパンケーキを試食した。小麦粉や砂糖その他が入ったパンケーキミックスを利用したという。

種本には出てこない。ミックスされたものに卵や牛乳を混ぜ、サラダ油で炒めると、それらしいものが出来上がる。

ゆでて、冷水でアク抜きをする、というのが基本らしい。そこまでやっておけば、刻んだり、すりおろしたりするだけでいい。昔ながらの食べ方もいいが、洋風の春の土の味も、それなりに新鮮で面白かった。

2024年4月16日火曜日

花見谷

                     
 「花見山」という言葉がある。その連想で「花見谷」という言葉が思い浮かんだ。4月14日・日曜日の夏井川渓谷はまさに「花見谷」だった。

 Ⅴ字谷をアカヤシオ(岩ツツジ)の花が彩り、ヤマザクラの花が咲き誇っていた。隠居の庭にあるシダレザクラも満開になった。

 それだけではない。隠居の庭には上の孫が小学校に入学したときに植えたサクラがある。

 このサクラは義弟からの入学祝いだ。義弟がホームセンターから買ってきた苗木を、私が代わって植えた。

 それが10年ほどたって樹高3メートルを超え、四方に枝を広げながら、花をいっぱい咲かせるようになった。

 2~3年前まではいかにも幼木そのものといった感じだったが、今年(2024年)はりりしく立っている。若木なりに生長し、花見の対象木に加わった。

 前の日曜日(4月7日)、対岸にある前山のアカヤシオが満開だった。庭のシダレザクラと、義弟のサクラは開花したばかりで、1週間後は庭も、対岸の奥山も花で彩られるはず――そう踏んだとおりになった。

 カミサンが弟に声をかけると、「花を見たい」という。14日は朝から快晴だった。義弟を加えて3人で隠居へ出かけた。

 平郊外の丘陵地は青空とヤマザクラのピンクの花、淡い芽吹きの緑でさわやかな水彩画を見るようだった。

 道々のサクラは、今年は開花が順不同だ。行く先々でシダレザクラは散り、ソメイヨシノが満開だった。

 さすがにソメイヨシノの花の華麗さは群を抜く。遅まきながら満開のソメイヨシノに心が洗われた。

 渓谷に入ると、ヤマザクラの花が迎えてくれた。木々も芽吹き始めていた。隠居に着くやいなや、カミサンが弟をサクラのそばに連れて行く。

 義弟は、自分で買い求めた苗木が育ち、いっぱい花を付けていることに満足した様子だった。

品種はソメイヨシノらしい。にしては、花の色が白い。土壌がそうさせるのか。あるいは、ヤマザクラ系の品種だろうか。一部ですでにあおい若葉を広げていた。

 その白い花を手前に、庭のシダレザクラと対岸のアカヤシオのピンクを一つのフレームに収めようと、カミサンがカメラを手に取った=写真。

 足元にはオオイヌノフグリの青、辛み大根のピンク、タンポポの黄色い花が散らばるように咲いている。

快晴無風。徐々に気温が上がって、上着を脱ぐ。樹木も、草も陽光に輝いて、いっぱい酸素を吐き出している。

30年近く前、渓谷へ通いはじめたころ、地元の長老に教えられた。「ここは『五春』だよ」。梅、ハナモモ、アカヤシオ、ヤマザクラ、ソメイヨシノが時を重ねるようにして咲く。

それだけではない。木々の芽が吹いて、早緑色や臙脂色、黄色、薄茶色のグラディーションが広がる。梅の花はすでに散ったが、渓谷はまさに春の花盛り。

この日、「花見谷」にはひっきりなしに行楽客が訪れ、隠居の前の県道を行ったり来たりしながら花を楽しんでいた。

2024年4月15日月曜日

「カフェー燈台」

                               
 4月の1日は月曜日。新年度の始まりと、NHKの新しい朝ドラ「虎に翼」の始まりが一緒になった。

 「虎に翼」は、日本初の女性弁護士・裁判官になった三淵嘉子(1914~84年)がモデルだという。今は昭和初期の東京が舞台。主人公はまだ学生だ。

 女学校を卒業した主人公猪爪寅子が明律大学女子部に入学する。法律を学ぼうとしたのは、ひょんなことで明治民法に疑問を持ったからだ。

女性は結婚すると「無能力者」になる。ハア?――。そうか、主人公は「新しい女」の側に身を置いているのだ。

「良妻賢母」や「男尊女卑」の世界から飛び出して、自分らしく生きる、そうした女性を守る「盾」として法律家になることを決意する。

 「新しい女」の淵源は明治44(1911)年に発行された雑誌「青踏」だろう。平塚らいてうを発起人に、与謝野晶子や伊藤野枝、田村俊子らが集った。

男性につき従う「良妻賢母」の殻を破り、自我の確立を主張する、その先陣を切ったのは、しかし、いいとこのお嬢さんたちだった。

高等教育を受けていて、物おじをしない。ときに、世間が眉をひそめるようなこともする。「虎に翼」の主人公も、どちらかといえばこちら側のお嬢さんだ。

そんな時代の表と裏を思い起こさせるシーンがあった。男装の女子学生山田よねは、上野歓楽街の「カフエー燈台」で「ボーイ」として働く苦学生だ。いいとこのお嬢さんではない。

 男装にこだわるのは、たぶん男になめられてたまるか、という気持ちの表れだろう。男尊女卑に抗う手段として男装する、というのは、むしろ男性優位を認めてしまうことになりはしないかと、令和の男は考えてしまうのだが、ここではそこに深入りしない。

 そのころのカフェーについては、前にちょっと触れた。林芙美子や佐多稲子、平林たい子らも若いころ、「女給」として働きながら作家を目指した。

 いわきでも大正時代にカフェーやバーが開業し、女性給仕員、いわゆる女給の仕事が生まれた。

やがて濃厚なサービスをするところも出てくるが、女給といえば、すその長いエプロン姿というイメージが定着する。

 ちょうど野口孝一著『明治大正昭和 銀座ハイカラ女性史――新聞記者、美容家、マネキンガール、カフェー女給まで』(平凡社、2024年)=写真=を図書館から借りて読んでいたところだった。

 朝ドラでは上野の「カフェー燈台」をのぞき、本を開いては銀座にひしめくカフェーを追う。

カフエーは銀座から周辺へ、地方へとひろがり、関西系カフェーが参入して、サービスをエロ化するところも現れる。

 そんなカフェ―文化がおぼろげながら頭に入りつつあったので、どうしても今は男装の山田よねから目が離せない。

山田よねがこれからどう変貌し、寅子とどうからんでいくのか。当面はこのへんに絞って朝ドラを見る。

2024年4月13日土曜日

朝の体操

        
  月に1回、診療のために義弟を内郷の病院へ送って行く。カミサンが付き添う。国道399号(旧6号)の交差点にある平消防署のそばを、朝8時半前に通過する。

署員が何人か体操をしているときがある=写真。8時半過ぎに通ると、もうだれもいない。なるほど! そうやって119番に備えるのか。

しかし、事故や急病は時間を選ばない。体操どころではないときもあるだろう。実際、国道を、家の前の旧道を、朝となく夜となく救急車が通る。近くでサイレンが止まることもある。

最近は救急車が日常化している――そんな実感がある。地域全体が高齢化して、体調を崩したり、家庭内で転んだりする人が増えているのかもしれない。

 救急車だけではない。新聞折り込みの「お悔やみ情報」や記事で訃報に接する回数も増えてきた。

「あれっ、先日、電話で話をしたばかりだったのに……」。ふだんはつきあいがないが、行政区の役員として一緒に仕事をした元区長さんが亡くなった。お悔やみ情報で知った。

 3月末の日曜日に行政区の総会が開かれた。あらかじめ議長をお願いしていた人が、日曜日に急用ができた。

 あとは元区長さんしかいない。というわけで、電話をかけると……。「もう歩けなくなった、入院もした。できない」という。

 ウオーキングを欠かさない人だった。私が車で夏井川の堤防を行き来すると、河川敷のサイクリングロードをスタスタと歩いていた。

 最近は確かに姿を見ないな、そう思ったが、まさか電話からわずか10日ほどで亡くなるとは。

 通夜に参列した。行政区では、区長経験者は「顧問」になる。まだ元気だと思っていたので、なにかあったときには「最後のとりで」のように頼っていた。それも今となってはかなわない。享年88だった。

 少子化が進んで、地域の行事が負担になったのか、子どもを守る会が去年(2023年)解散した。

 もう一方の高齢化では、まず行政区の役員のなり手がいなくなった。隣組の班長がなかなか決まらないケースも出てきた。そうしたなかで顧問を失うのは心細いことでもある。

 しかし、これは行政区の役員に限らない。カミサンもまた知人の訃報に接する機会が増えてきた。

 1年以上音信がないと思っていたら、亡くなっていた。共通の知り合いから連絡がきて、知り合いと2人で墓参に出かけた。

 同じころ、朝日新聞の社会面に、若いころ、いわき支局に勤めていた元同社幹部の死亡記事が載った。私よりは3歳、年下だった。

 ほかにも、年下の知り合いが急死した、という連絡が入った。カミサンも同じように、昔、世話になった人の訃報に接した。

 そういう年齢になったということなのだろう。ここまできたら、もうジタバタせずに、成り行きにまかせるしかない。

2024年4月12日金曜日

石炭ができたワケ

                     
 なるほど、なるほど――。「なるほど」一つでは足りないくらいの納得感だった。植物と菌類(キノコやカビなど)の関係を論じた啓蒙書を読み始めてすぐのことだ。

 前に紹介した斎藤雅典編著『もっと菌根の世界――知られざる根圏のパートナーシップ』(築地書館、2023年)の「序章・菌根とは何か」に出てくる=写真。

 ネギもまた菌根共生をする。菌と共生すると生育がいい、と知ったあとに、それが記されていた。

 「植物と菌の出合い」の項目、つまり地球規模の歴史の中で、あっさりと述べられている。シロウトにはそのことが驚きだった。

 石炭ができたワケは、科学の知見からいえばそうなのだろう。そして、炭鉱が基幹産業だったいわき地方の人々にとっては常識だったのかもしれない。

が、15歳まで阿武隈の山里で暮らした人間には、石炭を菌類レベルから考える発想はなかった。

全く単純なことだ、といってもいいかもしれない。「チコちゃんに叱られる」風にいえば、「石炭ができたのは菌類がいなかったから」となる。

地球が誕生したのはざっと43億年前。やがて生物が生まれ、進化を重ねて、4億5千万年前ごろ、水中から陸上へと植物が進出する。

さらに3億5千万年前、シダ類が巨大化し、大森林が出現する。植物の体はリグニンなどによって構築されたが、それを分解する微生物はまだ現れていなかった。

その大森林を構成していた巨木が倒れ、湿地に埋まり、土中深く積み重なって、今の石炭になった。

一方で、石炭紀の終盤ともいえる3億年前ごろになると、リグニンを分解できる担子菌(白色腐朽菌と呼ばれるグループ)が登場する。

この菌の出現によって、リグニンを含む樹木はほかの有機物と同様、分解されるようになった。というわけで、石炭ができたのは菌類がいなかったから、なのだった。

植物は生産者、動物は消費者、菌類は分解者――。菌類は菌根共生もするが、分解もする。

リグニンがなぜ残ったのか、つまり樹木がなぜ分解されずに石炭になったのか、逆から発想すれば、おのずと答えは見えていたのかもしれない。

ともあれ、産業革命以降、人類は地中から化石燃料を掘り出し続け、石炭が閉じ込めていた二酸化炭素を大気中に放出し続けてきた。それが何をもたらしたかは、私がいうまでもない。

43億年という長い地球の歴史のなかでは、温暖化があり、寒冷化(氷河期)があった。大きな寒暖の波があるとはいえ、現代の温暖化は「地球沸騰」ともいわれるほど、人類がもたらしたものだ。まさかキノコから地球温暖化を考えるとは思ってもみなかった。