2008年11月30日日曜日

スズメバチの古巣を床の間に


夏井川渓谷(小川町上小川字牛小川)の紅葉も終わりを迎えつつある。無量庵の正面、対岸の広葉樹はすっかり葉を落とした。一部に黄葉が見られるものの、灰色の幹が林立し、同じく灰色の枝がむきだしになって四方八方に広がっている。「木守の滝」の白糸もちらちら見えるようになった。

師走を前に、しておかねばならいことがある。梅の木の剪定だ。「サクラ切るアホ、ウメ切らぬバカ」で、徒長枝をほったらかしにしておくと、高い所に実がなって取りづらい。枝が横にはうように、実をもぎやすいように、ときにばっさりやることも必要。思いきり切った。風呂場の前のカリンの幹も、枝も切った。

脚立を持ち出したついでに、軒下のキイロスズメバチの古巣をはぎとる。最初、手でやったが、びくともしない。すごい接着力だ。巣は何層にもなっているらしく、一層一層は紙のように薄くもろい。強く手が当たったところは壊れてばらけた。雨に弱いから軒下のようなところを選ぶわけだ。

自然界のなかに人間が見え隠れし始め、雨風をしのぐ人間の住まいが目前に現れたとき、ハチたちは雨風をしのぐ樹下や木のうろなどの代替環境をそこに見いだしたのだろう。これは私の想像だが、スズメが子育て場所に木のうろより安全な人家の屋根裏を選んだように、ツバメが洞窟より人家の軒下が安全なことを発見したように。

ハチの古巣は、軒下に接している部分が壊れてもやむを得ない。ナイフを入れて、切り取るようにしてやっとはがした。近くにある小さな古巣も同じ要領ではぎとった。なんという軽さ! 見た目は「茶色い練り込みの壺」でも、原材料はセルロースだから「折り紙」に等しい。できるだけ壊さないようにして、無量庵の床の間に飾った=写真

プラスチックのように、人工的に稠密にされた化合物ではない。天然の化合物だから、やがては分解してバラバラになる。そこがいい。そのときまでしげしげと古巣を眺めては、天然の造形の妙を感じていたい。

2008年11月29日土曜日

電信柱のカラス除け


半年前のことだが、なにげなく家の近くの電信柱を見上げたら、てっぺんの横木に黒いお玉の「風力計」のようなものが付いていて、クルクル回っていた=写真。何だろう? その先の電信柱にも、その先の先の電信柱にも付いている。

朝晩の散歩コースのうち、家の近所の旧国道沿いにある片側の電信柱19本についてチェックした。すると、ある所に集中して5本、反対側に1本、計6本に「風力計」が付いていた。風のある日は、それが全部クルクル回っている。

ネットで調べてもさっぱり分からない。お手上げだ。知り合いの電力OB氏に会ったら聞いてみよう。究明を中断し、時々見上げては「何だっぺ、何だっぺ」を呪文のように繰り返す。そのうえ、電力OB氏に会ったときに限って「風力計」のことを忘れている。

おととい(11月27日)、私も所属しているいわき地域学會の役員会が開かれた。電力OBのSさんと話をしているうちに突然、「風力計」のことを思い出した。「何ですか、あれは」。Sさんにも分からない。調べてみる、ということになった。

翌日の11月28日午前、Sさんがわが家へやって来た。古巣の東北電力いわき営業所へ行って聞いてきたという。「カラス除け」だ。Sさんが現役のころにはなかった工夫である。

電力会社はカラス被害に悩まされている。電力マンがカラスを観察した結果、敵は電信柱の一番高い所に止まることを突き止めた。針金をくわえて止まると感電・ショートし、辺り一帯が停電する。てっぺんに止まらせないためにはどうするか。その答えが「クルクル回るものを取り付ける」だった。

「カラス除け」と聞いて、集中的に取り付けられているわけも推測できた。生ごみである。道をはさんで市・県営住宅が密集している。早朝、カラスが飛来して集積所のごみ袋をつつき、生ごみをあさるのだ。近くの電信柱はカラスの格好の休み場。で、生ごみ散乱の苦情や停電被害があったのだろう。

車で出かけたときに、青信号を待ちながら周りの電信柱を観察していることがある。その結果をいえば、わが近所の例は極端に近い。よそでは今のところ見かけたことがないのだ。

「カラス除け」と分かった以上は、仮説も立てやすい。生ごみと関係する――という視点で、昼間、飲食店街を巡り歩いてみてもいい。ともかく半年ぶりに「のどにささったとげ」が取れた。スーッとした。

2008年11月28日金曜日

小名浜・冷泉寺を見学する


先週の土曜日(11月22日)、小名浜へ行ったついでに港近くの高台にある冷泉寺を訪ねた。私以上に副住職のブログ「しんぼっちの徒然日記」=「しんぼっち」は「新発意」、新米住職のこと=を愛読しているカミサンが、好奇心丸出しで道行きを催促した。

カミサンの興味の対象は完成したばかりの新しい建物だ。2人でのっそり境内に立ったら、古い建物から「しんぼっち」のおふくろさんが顔を出した。あいさつを兼ねて声をかけたら「しんぼっち」が現れ、引っ越し(完了は25日)さなかにもかかわらず、ていねいに建物の中を案内してくれた。

国際的に名高い建築家隈研吾さんが設計した。一言でいえば、「21世紀の新しい寺院」だ。黒地に白と灰色っぽい縦縞があしらわれた金属の屋根、青空が映った1階正面のガラス戸=写真。崖の上から見た印象をいうと、いわき芸術交流館「アリオス」の「別館」といった雰囲気だ。おそらくそのへんに現代建築の最新思想が集約されているのだろう。

内部は左側が本堂と客殿(2階)、階段のあるスペースをはさんで、右側が住職一家の住まいと寺務所だ。本堂にはいすが用意されている。現代人の生活習慣を反映して座らなくともいいようになっている。客殿の照明は天井からからつりさげられている細い管、ろうそくをイメージしたものだという。

斬新なデザインだが日本の伝統をしっかり押さえている。屋根裏の木の板。ガラス戸に映える夕焼け。青空がのぞく掛け軸のような階段踊り場の天窓。隈さん自身の言葉でいえば、自然と融合した「懐かしくて新しいもの」、メディアのいう「新世代ジャパンモデル」らしい。

「しんぼっち」は黙っていたが、2階のテラスは夏に小名浜港で開かれる花火大会の絶好の桟敷になる。そのことも当然、計算に入れているだろう。

ともかく「隈建築」の一端を小名浜で見られるのはすごいことだ。いわき市立美術館で建築家を取り上げるとしたらこの人しかいない。そのくらいに旬の建築家である。一見の価値あり。

2008年11月27日木曜日

対岸のダンプカー


朝晩散歩する夏井川の堤防の対岸、国道6号常磐バイパス終点手前、夏井川橋上流のいわき市平山崎地内で河川工事が行われている。工事の標識板は3つあって、1つは「(夏井川筋)河川拡幅工事」(平成20年3月21日~11月27日)、あとの2つは「(夏井川筋)広域基幹河川改修工事」(平成20年8月18日~21年2月10日)だ。

きょう(11月27日)で終わるのは「河川拡幅工事」。「この工事では川幅を広げて、台風や豪雨でも安全な川を整備する工事です」と、日本語になってない説明文が付いている。来年2月10日まで行われるのは、河川に堆積した土砂の除去と新しい堤防の建設工事だ。

標識板からは工事の全体がよく分からない。対岸の丘にある浄土宗の旧名越派本山専称寺から俯瞰した。専称寺と同じ旧名越派故本山如来寺わき~専称寺のふもとの水田で道路取り付け工事が進められている。ダンプカーが堤防を利用して、ひっきりなしに夏井川橋の下から土砂を運んでいるのだ=写真

対岸の堤防は一部が県道甲塚古墳線を兼ねる。つまり、除去した土砂を利用して甲塚古墳線を兼ねた堤防を山側に新設し、旧道をカットして堤外地(河川敷)を広げる、ということなのだろう。――堤防の「うち・そと」にはいつもながら悩まされる。堤防は水害から人間の生命と財産を守る城壁だから、人間の住む土地は城内=堤内、川は城外=堤外だ。

のどにささったとげがある。だいぶ前に実施した河川拡幅工事の後遺症(あちこちに中州ができた)と言ってもいい。山崎のこちら側、平・塩と中神谷の境で夏井川は大きく右にカーブする。その岸が大水のたびにえぐられる。それで、河川敷の一部に立ち入り禁止のロープが張られた。

河川拡幅工事の結果、逆に堤防決壊、水害の危険性が高まったために、新たな築堤工事を必要とした――夏井川を長年見てきた人間には、そうとしか思われないのだ。

考えようによっては「大改造工事」なのに、川から遠い浸水想定地区の住民は岸辺の実態も、工事もよく分からない。新聞報道も寡聞にして知らない。河川管理者は説明責任を果たしていないのではないか。そんな疑問も消えない。

2008年11月26日水曜日

『新宿鮫Ⅸ 狼花』2冊


好きな時代小説は池波正太郎の『鬼平犯科帳』、現代小説は大沢在昌の『新宿鮫』。人間がきめこまやかに描かれている。『新宿鮫』シリーズ9作目「狼花」が<カッパノベルス>になって発売された。新聞広告がドンと出たので、思わず「最新刊に違いない」と買いに走った。

『新宿鮫』の魅力は物語の展開が緊張感にあふれていることだ。面白くないはずがない。といっても寝床で読むので、睡魔が邪魔をしてなかなか先に進まない。何ページも読まないうちに、『狼花』を以前、単行本で読んだことを思い出した。

ある日、客人がやって来た。本棚のある部屋で話をしていたら、『狼花』という背文字が目に留まった。『狼花 新宿鮫Ⅸ』。2006年9月初版第一刷の単行本だ。この本を読んでいたことをすっかり忘れていたのだ。

たった2年前、夢中になって読んだはずなのに、すっかり記憶が欠落している。文字の小さいノベルス版をやめて再び単行本を読み出したら、少しずつあらすじがよみがえってきた=写真右

現実には大麻事件のニュースが頻発している。「大麻による摘発が今年、過去最悪になる見込みだ。警察庁によると、栽培や所持など大麻取締法違反容疑で逮捕や書類送検された検挙人数は、10月末現在2,149人で、昨年同月の1.2倍に増えている。これまで最悪だった06年を上回ることも確実だ。10年前と比べて2倍のペースになっている」(朝日)という。

『狼花』に、頭の切れる広域暴力団員が大麻について語るくだりがある。大学生が立て続けに摘発されたニュースを見て「これか」と思った。

「しゃぶと並んで大麻は、日本では市場が大きい。なんでかというと、素人が手を出しやすいからや。ひとつ、しゃぶやヘロインとちがって依存性が低く、体に悪くない、と思われている。ふたつ、自家栽培ができて、面倒な化学合成などをせんでもすぐに楽しめる。みっつ、しゃぶには極道がからんどる暗いイメージがあるが、大麻はお洒落な印象がある。マンションの部屋をひとつまるまる使って、大麻の自家栽培をやっている素人は多い。……」

上記のような理由で若者がいとも簡単に手を出す、そんな風潮が蔓延しているのだろうか。                                                     
事実は小説より奇なりという。が、小説が事実の先を行くこともある。『新宿鮫』に引かれるワケは虚実皮膜のあわいで現代社会の暗部をえぐってみせてくれるから、らしい。それによって、今暮らしている日本の社会についてのリアルな感覚を磨くこともできる。『新宿鮫』が伝えるのは読む快楽と現代日本の危うい状況だ。

2008年11月25日火曜日

ランドマーク「塩のケヤキ」


およそ30年前に今の住まいへ引っ越して来た。その日から朝晩、目にしてきたケヤキがある。今も目にしている。いわき市平の中心市街地から車で10分ちょっと。平・塩の国道6号に面して堂々と枝を広げている=写真。先日、たまたまケヤキの持ち主と話をした。樹齢はおよそ130年だという。数年前まで2本あった。

ある晩、台風が襲い、根元にサルノコシカケの生えていた1本が前の国道に倒れた。ものすごい地響きがして外へ出た。幸い下敷きになった人や車はなかった。持ち主はすぐ警察に連絡する。業者もやって来て、交通規制をしながらケヤキを片付けた。同じ日、平の街なかでも教会のヒマラヤ杉が倒れるなどした。

家を訪ねたついでにケヤキの大木をじっくり見る。何年か前まで剪定していたが、木をいじめるようでやめたという。それで枝が大きく伸びやかに広がっている。幹は夫婦で手をつなげるほど太い。街からの行き帰りに見てきた「塩のケヤキ」の素顔がよく分かった気がした。

「塩のケヤキ」は一種のランドマークである。この木を目にしながら通学する小・中学生や通勤するサラリーマンにとって、大人になって帰省したとき、あるいは出張から帰ったとき、なにかホッとさせるものがあるのではなかろうか。「わが領分」に入ったことを教えてくれる「一里塚」のような存在――。

「一里塚」といえば、国道6号は江戸時代、「浜街道」と呼ばれた。街道松が植えられていた。ケヤキの持ち主はずらりとあった街道松を記憶しているという。6号がまっすぐに拡幅・改修される前のことで、私が住む「旧道」にも街道松が何本かあった。

道端の松は消えたが、明治時代の初期に植えられた「塩のケヤキ」は残った。大切にしたいランドマークの1つである。

2008年11月24日月曜日

街の落ち葉を山里へ


久しぶりに日曜日(11月23日)を街で過ごした。午前中、いわき市立美術館(ピサロ展)、市文化センター(いわき市医師会芸術展)、ギャラリー界隈(峰丘の黄金背景展)とはしごして回った。午後も仕事を兼ねて人に会った。

文化センターと界隈の北側は新川西緑地。新川を埋め立てて設けられた、平の市街地では貴重なグリーベルトだ。新川東緑地を加えた総延長は約2キロ。植樹された樹種は、東がケヤキ・クスノキ・イチョウ・ヤナギ・ハナミズキ・ツツジなど、西がメタセコイア・クスノキ・マテバシイ・ケヤキ・ツツジなど。

西緑地で、知り合いの女性が男性と2人でケヤキの落ち葉をごみ袋に詰めていた。毎年のことながら、界隈の前の緑地はケヤキの落ち葉が雨のように降る。それを界隈の経営者らがごみ袋に詰めて「燃えるごみ」として出す。

何年か前にも、落ち葉の袋詰めが山のようにできた。「燃やすのはもったいない、堆肥にするから」と一部をもらい受け、夏井川渓谷の無量庵へ運んだ。今度も車に詰めるだけ積んで無量庵へ急行した=写真。街で人に会うまで多少時間があったので、急遽、車を走らせたのだ。堆肥枠に落ち葉を入れる時間的な余裕はない。脇に並べ、重しをしてとんぼ返りをする。

街の落ち葉を山里へ――カミサンの実家のケヤキの落ち葉も、何度か無量庵へ運んだことがある。そちらも大きな袋に入って山里行きを待っているかもしれない。

渓谷はこの1週間でかなり落葉が進んだ。大正13(1924)年の初冬、この地を訪れた随筆家大町桂月(1869~1925年)は「散り果てヽ枯木ばかりと思ひしを日入れて見ゆる谷のもみぢ葉」と詠んだ。それに近い。江田駅前の「直売所」は紅葉見物の車と人でごった返していた。このにぎわいも間もなく「散り果て」る。

2008年11月23日日曜日

産直ルート399・いなかみち物産展


「あぶくまロマンチック街道」。どこが? 国道399号が、だという。いわき市と山形県南陽市を結ぶ延長約181キロの3ケタ国道で、阿武隈高地を縦断する。峠あり、カーブあり、隘路あり。阿武隈高地で生まれ育ったから言うが、「ロマンチック街道」とはちょいと気恥ずかしい。

豊かで美しい里山、澄んだ空気、清らかな水、日本の原風景ともいえる景観、さまざまな農産物、伝統文化、生活文化を体感できるのが国道399号、すなわち「あぶくまロマンチック街道」だとか。実際には「山道」いや「あぶくまスカイライン」、よく言えば「東洋のスイス」(作家の故田中澄江さん)だが。

それはさておき、小名浜港の小名浜さんかく2号交流館できょう(11月23日)まで、「あぶくまロマンチック街道 産直ルート399・いなかみち物産展」=写真=が開かれている。自称「阿武隈高地応援団」の一人として、初日の午後、カミサンと出かけた。

「産直ルート399」の「399」は、もちろん国道399号のこと。「いなかみち」は国道399号でつながる、北から飯舘村(い)・浪江町津島(な)・葛尾村(か)・田村市都路町(み)」・川内村(ち)の語呂合わせだが、「ロマンチック街道」よりよほどいい。そのものズバリ、「日本の田舎」がここにある、と胸を張れる。

その田舎をPRする物産が並んだ。漬物・凍み餅・大豆製品・ジュウネン(エゴマ)・どぶろく・お菓子……。本当は無料の餅入りきのこ汁を食べたかったのだが、先着400人限定で着いた途端に品切れになった。キムチのカクテキと白菜漬けなどを買った。

さて、いわきの人間は国道6号に沿った南北のタテ糸、とりわけ東京に目が向いている。バブル経済時代にゴルフ場の建設・計画が相次ぎ、水環境問題が起きてやっと東西のヨコ糸、水源の阿武隈高地にも目を向けるようになった。

その間を縫う「山のタテ糸」国道399号に対する認識はだから、まだまだ薄い。いわき市外、相双地区の「ロマンチック街道」となればなおさらだ。

10月中旬に葛尾村へ行ってきた。「福島県中山間ふるさと事業『あぶくまの水源を歩こう――葛尾川源流(五十人山)散策と、間伐材を利用したクラフト』」に、いわきから40人余が参加した。その1人として、葛尾村の自然と料理を堪能した。そういう仕掛けでもないと、「あぶくまロマンチック街道」に足を踏み入れることがない。

いわきから葛尾村へ行くのに国道6号と288号を利用するのが現状では、「あぶくまロマンチック街道」も限定的、局所的でしかないだろう。カネ(行政の補助)の切れ目が縁の切れ目になる前に、「あぶくまいなかみち」としての地力をつけておきたいところだ。阿武隈高地は日本を代表する田舎なのだから、それを誇りにして。

2008年11月22日土曜日

「初霜」観測


きのう(11月21日)の朝、外へ出ると車のフロントガラスが白く曇っていた。「初霜」である。空は雲ひとつない快晴。放射冷却が進んで、この冬一番の冷え込みになった。

室内にいても首筋がひんやりする。早朝散歩にはなにか1枚、首に巻かないといけないようだ。マフラーが見当たらないので、アスコットタイを首にぐるぐる巻いて出かけた。吐く息が白い。耳がひんやりする。

住宅街を過ぎて空き地へ出ると、草むらが霜で白くなっていた。夏井川の堤防の土手もうっすら雪をかぶったように白い。南斜面の霜は朝日が当たるとすぐ消える。散歩中のおばあさんが畑のブロッコリー=写真=を見て、びっくりしたように言った。「大した霜だー」

去年までは小名浜測候所が「初霜観測」を発表した。が、この秋、測候所は無人になった。去年までのデータでいえば、小名浜測候所での初霜は平年値が11月11日、去年は平年より6日遅い11月17日に職員が初霜を観測している。おととしは11月25日。今年は非公式というか私的というか、11月21日にいわきで「初霜」を観測したことにする、しかない。

きのうの朝、テレビがローカルニュースで「今朝、福島市で初霜・初氷が観測されました」と伝えた。福島地方気象台があるから当然、職員が肉眼で確かめる。市民もそのおかげで歳時記的感覚を味わえる。いわきはこれがなくなった。なんだか季節のメリハリがぬるくなった感じである。

植物の開花・満開・発芽・黄葉・紅葉・落葉、動物の初鳴・初見といった生物季節観測は人間の目と耳が頼りだ。四季折々、自然と向き合い、自然を活用して暮らしてきた伝統の遺伝子があるから、市民は測候所の発表を受けて季節の移り行きを実感できた。自然と人事を網羅した俳句歳時記を読むように。それがなくなったのだから、情緒面での損失は大きい。

測候所が無人になった以上、私的でいいからだれかが生物季節観測を続け、データを蓄積するしかない。そんな意識を持っていわきの自然と向き合う市民が増えるといいのだが。

2008年11月21日金曜日

花の絶えない「草野の森」


いわきの平地の「ふるさとの森」(潜在植生)は照葉樹林。その若い森が平の国道6号常磐バイパス終点にある。この欄で何度か紹介している「草野の森」だ。

朝晩の散歩の途中に立ち寄るスポットなので、何か変わったことがあると「?」となる。広場と森の境には灌木が植えられてある。花が咲いていればすぐ気づく。花を見てないのに花びらが散っていた。「?」

立ち止まって観察を始める。体を右に左に傾げて様子をうかがうと、膝くらいの高さにつぼみをいっぱいつけた灌木があった。赤い花を開き始めていた。標識盤で確かめたら「カンツバキ」である。カンツバキはサザンカとツバキの交配種、冬中、紅色の花を咲かせる、と説明文にあった。

小学3年生の疑似孫が、前にツバキとサザンカの花の違いを教えてくれた。ツバキは花の形を残したまま落ちるが、サザンカは花弁がばらばらになって落花する。サザンカの血が濃いのだろう。

よく見たら森の内側にもカンツバキの花が咲いている=写真。1週間前、ここで写真を撮っていたとき、声をかけてきたおじさんの話を思い出した。「前はサザンカがあったのに、なくなった」。ほかの木が育ってカンツバキが見えにくくなった、ということではないのか。

照葉樹の森は常緑樹なので1年中緑が絶えない。が、木々の花は意外と地味だ。そのなかで、色鮮やかな花を咲かせる灌木が人目につきやすいところにある。

春はヒラドツツジ。夏はクチナシ。秋はヤツデ。冬はカンツバキ。毎日「草野の森」を見ながら散歩して分かった、宮脇昭横浜国立大学名誉教授の思想。市民の慰安、親しみのために、1年中花が咲いているように森を設計したのだ。

2008年11月20日木曜日

カラス駆除で誤射?


早朝散歩の途中、残留コハクチョウにえさをやっているMさんが軽トラを止め、憤慨して話した。Mさんはコハクチョウを介して私と話すようになったが、私が何者かは知らない。ゆえに、以下のことは私の責任で書く。

先月のことだ。カラスがなにかの果樹を食害するので、だれかがいわき市に「有害鳥獣捕獲」を申請して許可されたらしい。Mさんが残留コハクチョウの「左吉」と「左七」にえさをやっていると、弾が飛んで来た。当たらなかったからよかったものの、背後のやぶの中から散弾銃でMさんの周囲のカラスを狙った人間がいた。

Mさんは散弾銃を撃った人間に詰め寄り、「刑事事件にするぞ」と怒鳴った。「事件」にするのは思いとどまった。が、許せない行為であることに変わりはない。

カラスが害鳥に当たるとき、1件当たり64日を期限の上限に200羽の捕獲が許可されるそうだ。ただし、繁殖期と狩猟解禁の始まりと終わりの日の前後15日間は原則として除かれる。狩猟が解禁されたのは11月15日だから、捕獲作戦が実施された(誤射事件が起きた)のは、Mさんのいうとおり、先月だろう。

掲載の写真は10月31日早朝に撮影した。左にいるのは「左七」、右は「左吉」で、Mさんの背後にカラスが群れている。このあと「事件」が起きたのだろうか。

夏井川河口にいる残留最古参の「左助」はともかく、Mさんと一緒に銃弾を浴びせられた「左吉」と「左七」は、市北部浄化センター向かいの砂地から姿を消した。「左吉」は上流、国道6号常磐バイパス終点の夏井川橋の下へ、「左七」はさらに上流、平・塩のコハクチョウ越冬地へと移動してバラバラになった。「発砲事件」に遭って、砂地を危険地域とみなしたのだ。

有害鳥獣の捕獲を許可し、捕獲の確認をする責務がある市は、事の顛末を調べる必要がある。たまたまけががなかったからよかった、では済まされない。

越冬地の平・塩は19年度に「身近な鳥獣生息地の保護区」(84ヘクタール)になった。浄化センター付近はどうか、朝も夕方も日中も人が散歩し、サイクリングをして楽しんでいる場所である。そんなところでも捕獲という名の駆除が許されるのか。再発防止のためにも、詳細に、厳しく、調べを進めるべきではないか。

2008年11月19日水曜日

「森の案内人」余話


またまた第1回夏井川渓谷「紅葉ウオーキングフェスタ」=写真=について書く。日ごろ足を踏み入れないコースということもあってか、参加希望者が相次ぎ、予定の先着50人をすぐ超えたという。急遽、参加者のわくは80人に拡大された。

当日、11月16日は雨。何人かがキャンセルしたが、80人近い参加者に変わりはない。主に地元の住人が案内人になった。私も牛小川の週末の住人として案内人に加わった。参加者をおよそ20人ずつ、色違いのリボンで4グループに分けた。私の知っている人は参加者の中にはいなかった。

が、長い身過ぎ世過ぎのうちには1、2度会ったり、会わなくとも間接的にこちらを知っていたりする人がいる。ウオーキングフェスタ終了後、以前に会った人に声をかけられた。初めて会う人も話をしたいとやって来た。以前、新聞で連載した「アカヤシオの谷から」を読んで、心にとどめておいてくれていたのだそうだ。

前に会った人は川前に通勤したことがあるという。毎日、夏井川渓谷を行き来した。「アカヤシオは平の方から来るとよく分からないが、川前から行くとよく分かる」。その通りだが、自生地の集落、牛小川で1軒の家が解体され、杉林が消え、新たに大きな視点場が生まれた。来春は、平方面から来てもすぐアカヤシオの花が目につくことだろう。

初めて会った人は元中学校の校長先生。福島県の野生動植物保護サポーターでもある。おのずと自然の話になった。元校長先生は背戸峨廊(セドガロ)がフィールド、私は夏井川渓谷を観察・休養のフィールドにしている。私同様、森の案内人を務めた。一足早く牛小川の人たちとウオーキングコースの下見をしたとき、私の話が出て興味を持ったらしい。

さて、紅葉ウオーキングフェスタは雨にたたられながらも、無事、終わった。折り返し地点でのごみ拾いのほかに、賞品(しょうゆなど)が当たるクイズも行われた。歩き始めるとすぐ、森の中に滝が見える。その高さはいくら、というものである。

私は、その滝を「木守(きもり)の滝」と呼んでいる。知人が名前をつけた。渓谷の森を守る滝というイメージが気に入っている。高さはいくらあるか、いつも見上げるばかりで分からなかったが、14.2メートルだという。このフェスタのために主催者の小川町商工会の人たちが計測した。また1つ、夏井川渓谷について学ぶことができた。

2008年11月18日火曜日

カエデの枝を切ってあげる


夏井川渓谷の「紅葉ウオーキングフェスタ」(11月16日)は、関東森林管理局の阿武隈高地森林生物遺伝資源保存林の中で行われた。生活慣行として利用できる地元の人以外は、ふだんは立ち入りが制限されている。水力発電所の導水路に沿って巡視路を設けている東北電力の協力もあって、今回初めて一般の人の「森歩き」が実現した。

折り返し地点での環境美化(ごみ拾い)を兼ねたイベントであるからには、保存林の動植物に対してストレスを与えないようにしなくてはならない。ウオーキングのスタートに当たって、主催者が植物や菌類の採取禁止を告げたのは当然だ。第1回の結果が悪ければ2回目はないのだ。

そういうイベントの趣旨を理解して参加した人たちである。カエデその他の紅葉・黄葉などを間近に見ながら、案内人(地元の住人)の説明に素直にうなずいていた。せめて記念にと、足元の落ち葉を拾うグループがいた。それはそれでゆかしい光景だ。赤いカエデの葉が人気の的だった。

森に入ってみると、まだ葉が青々としたカエデがある。真っ赤に染まった対岸のカエデが見える。アマチュアカメラマンが吸い寄せられるように集まるカエデもある=写真。その見事な赤がよく見えた。

カエデはしかし、1枚1枚をよく見ると傷だらけだ。虫に食われたり、裂けたり、色が汚れていたり…。春のアカヤシオの花もそうである。間近に見ると風雨にさらされて薄汚れている場合が多い。室生犀星のふるさとと同じく、花も、紅葉も遠くから見るものらしい。

朝9時に受け付けが始まったウオーキングフェスタは午後2時に終了した。参加者は雨具をまとい、傘も手にして森に入った。が、私はフード付きのアノラックを着たものの、防水加工はされていない。帰路にフードをかぶると、たまった雨水が頭を濡らした。

イベント終了後、会場隣の無量庵へ戻る。カミサンがNPO法人「ザ・ピープル」のもとに寄せられた古着などを、玄関や縁側に置いてバザーを開いた。カミサンの同級生や知り合いが協力した。ウオーキング参加者も立ち寄った。

ウオーキングの途中、カエデの落ち葉を大事そうに拾ったグループも来たので、無量庵にあるカエデの若木の枝を切って進呈した。見事な紅葉とはいえないが、黄色く変わったカエデの葉をまとった枝を、喜んで持ち帰った。

私もわが家に持ち帰った。しかし、水の吸い上げがよくなかったのか、カエデの葉は翌日(11月17日)には乾いて丸まってしまった。枝を切って持ち帰っても一瞬。しっかり谷間で目に焼き付けるのが最良の紅葉狩りのようだ。

2008年11月17日月曜日

雨の紅葉ウオーキング


いわき市小川町上小川字牛小川地内の夏井川渓谷で昨日(11月16日)、初めての「紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれた。私が週末を過ごす無量庵の隣家が解体され、斜面に植えられた杉が伐採されて「広場」になり、昔ながらの美しい景観がよみがえった。土地と建物の所有者が風景の復活を、と解体・伐採を英断した。

上流の川前町では、11月初めに夜のイベント(紅葉ライトアップ)が行われる。それはそれとして、牛小川に復活した景観を生かした何かをと、小川町商工会が「フェスタ」を企画した。

雨・おふかし・ごみ拾い――。まず、この三つからイベントの中身を報告したい。

イベント前日(土曜日)の夕方、商工会のスタッフが最後の下準備を終えた。天気予報は芳しくなかった。「夜はお神酒で天気祭りをしよう」。私も無量庵で一人、天気祭りをした。一夜明けた午前6時、表へ出ると庭は露で湿っているものの、雨が降る気配はない。ラジオも「雨の確率は午前30%、午後40%」と告げる。よし、と思ったのもそこまで。

イベントの参加者の受け付けが始まった9時ごろから、パラパラと降り始めた。渓谷の森を巡る時間帯(午前10時半~午後零時半)も雨に濡れて行進した。イベント終了時間の午後2時まで、降ったりやんだりの繰り返し。晴れて小春日和になるのが最高だが、それは2回以降に取っておく。そう考えれば、雨のフェスタは貴重な体験になった。

ウオーキングは渓谷の対岸、水力発電所の導水路に沿う片道約2.5キロの間で行われた。折り返し地点には大水が上流から運んで来た発砲スチロールやペットボトル、空き缶などのごみが山積している。そこで、80人近い参加者が5分程度、1人1袋だけごみ拾いをした=写真。それだけで70袋以上になる。すごいパワーだ。

秋の紅葉だけでなく、春のアカヤシオの時期にもごみ拾いを兼ねたウオーキングをすると、渓谷はいちだんときれいになる。ただ見るだけの紅葉でもなく、花でもない。その風景の中に分け入ることで帰りにはさらに風景がきれいになる。時代の潮流とマッチしたイベントだと確信した。

会場になった牛小川の区長のKさんは当日早朝、隣組にきのこのおふかしとフキ・タケノコ・ゼンマイの油炒めを配った。「牛小川始まって以来の大イベント」を区長として祝い、支援する気持ちを表したのだ。その心意気こそが共同体の根源にあるものだろう。私は早速、おふかしを朝飯にして森の道案内に出かけた。

2008年11月16日日曜日

カルガモとミミズの死骸


いわき市平の東部を流れる夏井川の河川敷にサイクリングロードがある。私の散歩コースで、堤防の上を歩くか岸辺のサイクリングロードを行くかは、そのときの気分次第。平・塩の「川中島」にコハクチョウが舞い降りるようになってからは、堤防下のサイクリングロードを歩く回数が増えた。

塩では、コハクチョウのほかに留鳥のカルガモ、ウ、サギ類、冬鳥のマガモなどが観察できる。

4羽の残留コハクチョウは、仲間のコハクが飛来してから散り散りバラバラになった。最古参の「左助」は夏井川河口に、二番目に古い「左吉」も国道6号常磐バイパス終点の夏井川橋付近にそれぞれ1羽でおり、三番目の「左七」は流れをさかのぼって塩の仲間に合流した。一番若い「さくら」はさっさと飛び立ったが、今は「左七」同様、塩にいるらしい。

ウは数が増えた。警戒心が強い。近づくそぶりを見せただけで、水しぶきをあげて飛び去る。散歩がてら、潜水して顔を出したところを写真に、ともくろむこと自体、甘いのかもしれない。ウを狙うならブラインドを張ってじっくり近づくのを待つのが常識というものだ。

カルガモは単に「川下り」を楽しんでいるとしか思えないときがある。流れに乗って下るだけ、それ以外にどんな意味があるのか。カルガモも遊ぶ、と思うのだが、専門家からみたらどうなのだろう。

最近、またまたミミズがサイクリングロードで大量死を遂げた。アスファルト路面を覆うほどの数が干からびている。足の踏み場もないので、そのまま歩くしかない。乾燥タンパク源だ。スズメやムクドリには最高のごちそうと思われるのだが、意外と彼らは振り向かない。で、ミミズの死骸が減る気配はなさそうだ、と思っていたら――。

きのう(11月15日)の朝、コハクチョウの飛来地に近いサイクリングロードでカルガモが3羽、盛んに何かをつついていた。警戒心の強い留鳥なのに、10メートルほどに接近しても飛び立たない=写真。ひものようなものを飲み込めずにくわえ直したのを見て、分かった。ミミズの死骸をあさっていたのだ。

カルガモは植物の種子や水草のほかに昆虫やエビも食べるというから、干からびたミミズを食べても不思議ではない。が、初めて目撃した私にはきわめて不思議な光景だった。

2008年11月15日土曜日

カメラが対話を引き寄せた


朝晩、首からデジカメをぶら下げて散歩する。「朝練の息子を車で学校へ送り届ける途中に、カメラをぶら下げて歩いてるのを見ましたよ」。酒席で知人に声をかけられた。「いつもだよ」

彼は散歩コースから少しはずれたところに住んでいる。チラホラ車が通るだけの早朝、こちらは知らずに知人とすれ違っていたわけだ。随分早くから練習するものである。子どもは高校の駅伝競技の選手だという。

いつかの夕方にはこんなこともあった。散歩へ出るとすぐ、住宅と畑の混在する小道で同じく散歩へ出た人とばったり顔を合わせた。「何を撮るんですか」「鳥とか花とか、いろいろです」。その人もカメラが趣味で、チョウを追いかけている、と聞いた。首からぶら下げているカメラが気になったのだろう。言葉を交わしたのは初めてだ。

最近はいつもそばにカメラがある。1年前までは考えられなかったことだ。デジカメを車に積んでおいてもたまに撮る程度だったのが、今や毎日撮るくらいに変わった。プロから見たらおこがましいことだが、カメラがなんだか体の一部になったような気がするのだ。

キノコ好きは森に入るとすぐキノコが目につく。いわゆる「キノコ目」になる。これまたおこがましいが、少し「カメラ目」になってきたのだろうか。絵になりそうだと思っても、「まあいいや」で通り過ぎていたのが、「今撮らないといつ撮れるか分からない」に変わった。足を止めてパチリとやるのだ。

そうなると欲が出てきて、デジカメの機能をいろいろ試してみたくなる。今になって初めて使用説明書が「座右の書」になった。ときどきは息子にも聞く。それでつい最近、マニュアルで接写するやり方を覚えた。望遠とは違った味わいがある。

きのう(11月14日)の朝、国道6号常磐バイパス終点の「草野の森」の広場で木の実を接写していたら、同じ散歩組の人が足を止めた。「何を撮ってんの」。すれ違ってあいさつするだけの人と、初めて話をした。カメラが対話を引き寄せた。

被写体はネズミモチとマルバシャリンバイの黒い実。照葉樹の一種で、標識盤で名前を確かめた。ハマヒサカキの白い小さな花も写真に収めた=写真。ピンボケかどうかすぐ分かるのも、デジカメのいいところだ。

2008年11月14日金曜日

村松流マンウオッチング


いわき市立草野心平記念文学館で先日、作家の村松友視さんが講演した=写真。演題は「人間は最高の風景」。「人間って面白い」ということを、少し格調高く「最高の風景」と表現したのだろう。

その人の物の見方・考え方は家族関係や生い立ちで決まる、と言い切る自信はないが、無縁ではあるまい。もちろん、大人になるまでの過程で人と出会い、自然と出合い、話を聞いたり本を読んだりしながら、自分なりの見方・考え方を身につける、というのが一般的だ。

村松さんもまた、そうして小さいころから独自の見方・考え方を培った。ど真ん中を見ない――が、村松さんの流儀になった。異なったアングルで見ると、人間の言動は面白い。おかしくもある。「まじめ」が表通りなら、裏通りの「不まじめ」ではなく、それをつなぐ路地の「非まじめ」、そんなところに村松さんは位置しているようだ。

新興宗教に入るのは「出家」でも、ひっくり返してみれば「家出」。地下鉄サリン事件の前によく見られた光景だ。シンクロナイズドスイミングはてんぷら揚げに似ている――。

あるいは、旅先でのエピソード。地元の人間と会食した際、若い女性が魚のカレイをひっくり返して「私、カレイのB面が好きなの」。電車での女性と車掌のやりとり。「空いてる席は空席ですか」「あいにく空席は満席です」といった話を次々に披露した。何度も爆笑の渦ができた。

「ぼけ」を老人のユーモアと取る。「マイナス×マイナス=プラス」という考え方。リンゴの皮と身の間に一番栄養が詰まっているというが、「皮と身の間とは何?」と悩むこだわりも「非まじめ」のあかしだろう。

「カレイのB面」の連想でいえば、こんなことがあった。市役所には上級職と初級職がある。個性的な上級職員としゃべっていたとき、どんなはずみか上級・初級職の話になった。すると「おれはB級職員だから」。これには大笑いした。最近の秀句は「年を取ると熟睡する体力もない」。笑う代わりにうなずいた。

虚実皮膜をガブッとかじることで人間は一番、人生の栄養を補給している。そういうことらしい。

2008年11月13日木曜日

「石川葎展」始まる


石川葎展が11月12日、いわき市暮らしの伝承郷で始まった=写真。同展実行委員会が主催し、いわき地域学會・同暮らしの伝承郷が共催している。16日まで。

石川葎(本名・美子=1928―2001年)。「近代詩文」を得意とした書家だ。同門の「墨調社」主宰・宮本沙海さんは石川葎展の図録で、「体当たりの飾らない本物の美しさをたたえていて実にたのもしい」書であり、「『文学と書と人』が上質に結びついた信念の書」と、その書体を評している。

いわきの喫茶店や割烹、ブティック、お菓子のロゴマークが、書の場合がある。作者は石川さんという例が少なくない。デザイン的にもすぐれた書体だった。

旧磐城平藩の城下町、平・本町通りの商家に生まれた。江戸時代には「余力学問」で俳諧をたしなむ商家の旦那衆がいた。石川さんの先祖も、ほかの商家の先祖も、一日の商いを終えると、いっとき、風流の世界に遊んだはずである。そんな家柄だから、石川さんも短詩型文学を親しいものに感じていたのではないか。

生前、人を介して、江戸時代の俳諧を調べるなら、どこの誰の所へ行った方がいい、といったアドバイスを受けたことがある。平・山崎の専称寺で修行した俳僧、一具庵一具(1781―1853年)を調べていたのが、耳に入ったらしい。石川さんはそれから間もなく亡くなり、教えてもらったご老人も亡くなった。

それはさておき、遺作展でも「永劫(永遠)・瞬間(矢)・循環」といった世界、いうならば地質学的時間、いや天文学的時間にまで想像力を働かせる石川さんの感性を再確認させられた。

元NHKディレクターで9月に亡くなった吉田直哉さんのエッセーの一節を切り取った書がある。「時間とはゆきてかえらぬ矢である しかし反面 日はまた昇り 花はまた咲く環でもある 矢と環の二面を永遠が結ぶ」

平地学同好会の一員でもあったわけが、ここにある。「一億年程前の 石の魚が いま 自分の前に横たはっている 時が流れ 雲が流れる」(草野心平)。西脇順三郎に引かれるのも、彼が「永劫の旅人」だったからだろう。「時間」について振り返るいい機会になるかもしれない。

2008年11月12日水曜日

「草野の森」がきれいに


国道6号常磐バイパスの終点、平・神谷(かべや)ランプ(本線車道への斜道)はちょっとした公園になっている。斜道に沿って照葉樹の「草野の森」が広がり、広場の中央に「未来の風」と題した乙女のブロンズ像が立っている。

朝晩、散歩の途中に立ち寄る。風邪気味だったので金・土・日と散歩を休んだ。月曜日(11月10日)の朝、「草野の森」へ足を運ぶと、きれいに草が刈られてあった=写真。斜道のり面も、広場も、森の中も、ごみひとつ落ちていない。セイタカアワダチソウやオオマツヨイグサがうそのように消えていた。すがすがしい気分になった。

ブロンズ像の周りにはツツジが植わってある。セイタカアワダチソウに占領されていたのが、除草されて、鮮やかな紅葉を見せている。ブロンズ像との組み合わせがいい。

午後、カミサンを車に乗せ、バイパスを利用して植田へ行った。「草野の森」を巻くようにバイパスへ入ると、カミサンが声を上げた。「きれいになったこと!」 。斜道にポイ捨てされていた空き缶も、ペットボトルも見当たらない。

バイパス終点は一般に「草野」と呼ばれる地区だ。それで「草野の森」と名付けられた。地元に「草野の森を守る会」がある。草野公民館の事業内容を見ていたら、5月と11月にそこで除草作業が行わる。合点がいった。おそらく土曜日(8日)の朝、中学生らも参加して守る会の除草作業が行われたのだ。

「草野の森」は平成12(2000)年3月、バイパスの全線約28キロが暫定供用になったのを記念してつくられた。宮脇昭横浜国立大名誉教授の指導で、地元の小学生らが参加し、いわきの平地の潜在植生である照葉樹のポット苗を植えた。「ふるさとの木によるふるさとの森」再生事業だ。

年長の小学生は今年、20歳になったはず。それに比べると、照葉樹の成長は遅い。草刈り作業は、まだまだ若い「草野の森」には欠かせない。森自体が育てばセイタカアワダチソウなどははびこる余地がなくなる。それまでは人間の支えが必要だ。人間も人間の支えが必要だが。

きれいに散髪された「草野の森」をことほぐように、へりに植えられた常緑低木のヤツデが白く小さな花をつけていた。

2008年11月11日火曜日

物置に生酒


年に1、2回は夏井川渓谷の無量庵へ遊びに来る朋友がいる。出会ったのは45年前、15歳のときの、とある学校の入学式。セレモニーが終わって教室へ戻ったら、前の席に彼がいた。席は「あいうえお」順。「ま」と「わ」の間だ。私は寮生、彼は通学生。以後、教室の延長で今も会えばしゃべり続ける。

学校が目指していたのは「物をつくる中堅技術者」で、「物を書く人間」ではなかった。が、どういうわけか2人とも「書くこと」に夢中になった。

彼は短歌と短編小説を書いた。学校の勉強を続けて立派に卒業した。工場のプラントの設計者として独立した。私は早々とドロップアウトした。で、彼には今も「書けばすごいはずだ」という思いを抱き続けている。

その彼から、土曜日(11月8日)の昼、わが家に電話がかかってきた。「母親を連れて夏井川渓谷へ紅葉見物に行って来た。無量庵の物置に酒を置いてきたから」。彼は首都圏に住む。母親はいわきにいる。

土曜日に何もなければ、昼前から無量庵へ出かける。午前中、仕事の打ち合わせがあったので、渓谷行は夕方になった。いつもなら途中のコンビニで焼酎を買い、スーパーで酒の肴を調達するのだが、今回は朋友が持って来た酒がある。それに合わせて、肴はボイルされたイカの下足(げそ)にした。刺し身代わりだ。

無量庵に着いてすぐ物置を開ける。あった。彼がこよなく愛する、長野県小諸市でつくられている日本酒「献寿」(生酒)=四合瓶=が2本。

実は、10月下旬の土曜日に同級生十数人が集まって、無量庵の近くの旅館で「還暦同級会」をやった。そのときにも日本酒は「献寿」だった。彼が調達した。9日に旅館の若だんなに会ったら、「みんな飲みますね」とあきれていた。

さらにいえば、10年以上前、無量庵で4、5人が集まって飲んだとき、初めて彼が持ち込んだ日本酒が「献寿」だった。生酒だからと、風呂に水を張って冷やしたら、ラベルが剥がれた。それを風呂場の白壁に張ったのが、今も残っている=写真。       


というわけで、土曜日の夜は独酌を楽しむ。酔って、トム・ソーヤーの気分にひたる。夫婦円満の秘訣は一緒にいない時間をつくることだという。「夫」の上着をぬいで「不良少年」に戻るのだ。これでストレスはあらかた解消される

2008年11月10日月曜日

「紅葉ウオーキング」コース下見


いわき市小川町の夏井川渓谷で11月16日、「紅葉ウオーキングフェスタ」が行われる。道案内人の1人なので、9日朝、実行委員会の5人とコースを下見した=写真。片道ざっと2.5キロ。途中、籠場の滝付近に峠が1カ所あるので、アップダウンの分を加味して1万歩強、往復2時間はかかる。

水力発電所の導水路に沿った「巡視路」がコースだ。途中までは毎週のように歩いている。が、峠を越えてその先まで行くのは年に一、二度。コースの様子は頭に入っているものの、自然は絶えず変化する。倒木・落石・転落の危険性がゼロではない。街の歩道を行くようなわけにはいかないのだ。

ざっとコースを歩いた印象だが、危険なところは最初の落石注意個所と、谷が眼下に迫る斜面の2カ所だろうか。斜面には山側にロープを張って手すり代わりにする。あとは倒木が2カ所、道をふさいでいるくらい。ここは木の下をくぐるか、う回すればよい。

導水路はコンクリートのふたがかかっているところ、むきだしになってフェンスが張られているところと、一様ではない。1人、2人はともかく、80人が同時にふたの上を歩くような事態は初めてだろう。何グループかに分かれてふたを避け、やむを得ないところではふたのへりを歩くようになる。

折り返し地点では、大水が運んで来た岸辺のごみを拾う。来たときよりきれいにして帰る――たいそうなことではなく、誰でもその気になればできる自然環境美化を兼ねたウオーキングだ。ごみの入った袋はあとで実行委員会が農業用水の取水堰を通路代わりにして対岸へ運ぶという。発泡スチロール、ペットボトル、空き缶・瓶と、結構な量になりそうだ。

夏井川渓谷の紅葉は今が見ごろかもしれない。カエデの紅葉のトンネルをくぐると光が赤く染まって見える。そのカエデが燃え上がるのはこれから。森の中にある「もう一つの夏井川」に沿って、渓谷のふところの深さ、ふかふかした道の感触、峠からの眺望を楽しめるウオーキングになることだろう。

2008年11月9日日曜日

吉野せい賞表彰式


いわき市立草野心平記念文学館できょう(11月9日)、第31回吉野せい賞の表彰式が行われた=写真。選考委員として初めて表彰式に出席した。表彰式のあと、作家の村松友視さんが「人間は最高の風景」と題して記念講演をした。講演内容についてはいずれ触れるようにしたい。

選考委員は5人。昨年までは3人による一次選考と、5人全員による二次選考を経て各賞を内定し、同賞運営委員会で正式に決定してから発表する、という段取りだった。それが、今年からいきなり5人全員で全作品に目を通す、という方式に替わった。

8月15日に締め切られたあと、応募原稿(コピー)の入った段ボール箱が届いた。小説34編、童話5編、ノンフィクション3編の計42編が入っていた。昨年は64編だったというから、今年はその3分の2だ。おおかたは400字詰め原稿用紙に換算して100枚未満の中編。これを毎日、1カ月半ほど読み続けた。

ふるいにかける基準として【快楽】―【冷静】―【苦痛】の「やじろべい」を頭に置いた。読む【快楽】の度合いが大きいのか、【苦痛】の度合いが大きいのか、可もなく不可もない作品なのか。ただし、【苦痛】の方に「やじろべい」が傾いたとしても、応募者への礼儀として最後まで作品を読み通すことを心がけた。

10月中旬の最終選考委員会の前に、一次選考に当たる委員推薦作品の一覧が届いた。「吉野せい賞」候補作品はこの時点で11編、青少年特別賞候補作品は5編。そんなに的外れではなかったことに安堵する。

とはいえ、過去に奨励賞や準賞を受賞している作者への評価は厳しい。準賞受賞者はせい賞、奨励賞受賞者は準賞かせい賞しか選考の対象にならないから、ほかの作品より優れていても選外になる可能性が大きい。私が推薦したのはおおかたが常連組の作品だったので、1編をのぞいてことごとく選外になった。

表彰式の前に5人の受賞者と懇談した。二、三、作者に確かめたいことがあったので、いい機会とばかりに参加した。作者の生の声を聞いて、あらためて作品に寄り添えるようになったのは収穫だった。

2008年11月8日土曜日

松田松雄展を見る


いわき市平のエリコーナで、11月16日まで「松田松雄展――黒の余韻 パート1」が開かれている=写真。原因不明の病に倒れ、7年余の闘病生活の末に他界して7年。久しぶりに松田作品と対面した。

闘病中の10年前、いわき市立美術館で彼の企画展が開かれた。今度の展覧会はそれ以来の本格的な回顧展となった。ギャラリー界隈では、松田さんの教えを受けた地元作家11人による「M―11」展が開かれている。こちらは11日まで。奇しくも師弟の作品が同時期に響き合うかたちになった。偶然の一致だという。

松田松雄さんは昭和12(1937)年、岩手県陸前高田市に生まれた。海をはさんで宮城県気仙沼市と向かい合うリアス式海岸の半島のまちだ。気仙沼市の高校へ通い、水産会社に入って、工場のあるいわき市小名浜へやって来た。30歳を目前にして脱サラをし、画家としていわき市で生きた。

私が松田さんと出会ったのは昭和46(1971)年、今はない草野美術ホールで彼が個展を開いたときだろうか。綿入れ袢纏に長靴姿、やや大声の岩手訛り。私より一回り年長ながら「○×さん」とていねいに相手に接する謙虚さ、きめ細かい心配り、絵にかける情熱に引きつけられた。以後はしばらく草野美術ホールで、喫茶店で毎日のように会って話した。

回顧展には初期の作品から病に倒れる前の作品まで数十点が展示された。彼の作品は良くも悪くも彼の内面を反映している。悲しみ、喜び、混乱……。変貌し続ける作品にはすべて(おそらく)「風景○×」「風景(○×)」のタイトルが入っている。「風景」とは彼の内面の風景のことでもあった。

今度あらためて感じたことがある。雪原を、マントをすっぽりかぶって歩く人々を描いた初期の作品の完成度の高さだ。松田松雄はこれに尽きる。以前、「未完であることによって生成転移を続ける作品群」と評したことがあるが、今ははっきりと「完成された世界からの脱出=生成転移」だったと分かる。

「私にとって表現が変わるというのは、危険をはらんだ最高のドラマと云える。/そして私は、彼岸への道に踏み出す予感に震える」。病に倒れる5年ほど前の、昭和63(1988)年6月に書かれた彼の文章である。今を壊して未来を描く悲しさに、私も恐れを抱いた。

2008年11月7日金曜日

重装備の散歩


上着を1枚多くはおり、手袋をする。マスクをした女性もいる。10月下旬になると急に目立ち始めた、早朝散歩の人のいでたち。私も重ね着をし、手袋をはめて出かける。

小春日の夜は放射冷却が進んで、明け方、グッと冷え込む。西高東低の気圧配置になると、閼伽井岳おろしがもろに夏井川の堤防を駆け抜ける。「重装備」をしないと散歩がきつくなった。これからもっときつくなる。

11月に入ってすぐ、ジョウビタキの雄に遭遇した。白く大きなコハクチョウは「冬の使者」として分かりやすく、写真にも撮りやすい。でも、ほんとうに秋の深まりを実感するのは、体の小さなジョウビタキやツグミの姿を見たときだ。いよいよ冬を迎えるのか――健気にも中国やサハリンから渡って来た小さな冬鳥のジョウビタキに、毎年そんな感慨を抱く。

街路樹も、庭木もまだ葉をまとっている。が、若いユリノキやカキ、ウメ、夏井川の対岸のニワウルシは、早くも裸になった。ソメイヨシノの幼樹も葉を落とした。ヒイラギは逆に今が開花時期。白い小さな花をつけている。

サケのやな場上流、平・塩の夏井川に毎朝、コハクチョウが飛来する。11月5日は35羽前後、6日は70羽ほどと、日を追ってにぎやかになりそうな気配だ。ついつい塩の近くまで足を延ばすから、携帯電話内蔵の万歩計の数字も3,000歩前後から5,000前後へと大きくなる。

カワウかウミウかは定かではないが、ウが何羽も国道6号バイパスの夏井川橋を越えて上流へやって来る。やな場のすぐ上を漁場にしていることが多い。やな場を越えたサケが力を使い果たしてへとへとになっている=写真。もっと上流、平市街地の東端・鎌田でも、人道橋からサケが浅瀬をさかのぼっていくのが見える。

さすがのウも、サケを丸のみにはできまい。が、毎日漁をしてもしきれないほど魚がいるのだろう。水深が浅いから潜水姿がよく見える。いつか写真に撮りたいと思っても、わがウデでは無理。眺めるだけにしておく。

やな場には息絶えたサケが何匹も打ち上げられていた。寒気が強まると、ますますコハクチョウの数が増える。ヨシ原の奥、やぶの中で「グゥッ、グゥッ」と鳴いているのはキジに違いない。地鳴きはまるで野太く濁った鶏の「コッコー」だ。モズの高鳴きだけではない、これも晩秋の野の音。深まりゆく秋のスケッチである。

2008年11月6日木曜日

猫の「チャー」も老いたか


わが家には猫が3匹いる。全部、息子が拾って来て、自分のところでは飼えないからと、母親にあずけたものだ。父親である私は、人間を相手にするだけで精いっぱい。とても犬猫に目を向ける余裕はない。いや、余裕があったとしても、好きでも嫌いでもないから積極的に飼うつもりはない。

それが、いつも息子と母親の「動物愛気質」のなかで犬猫が同居するようになる。息子も結婚して、自分の家で拾って来た猫を飼っている。子どもができたからには、2匹も3匹も飼えない。わが家の同居猫が増えるたびに、父親である私は母親の甘さをなじる。

3匹の猫はたまたま生き残っているだけにすぎない。息子が小学生のころから数えれば、何匹の猫を飼ったか。既に交通事故で5、6匹は死んだ。いや、息子が拾って来てわれら夫婦が育てた雑種の柴犬が長寿を保って室内で死んだ以外は、猫の老衰死を見たことがない。いつも車にはねられ、かろうじて体形は保っている、そんな死ばかりだ。

犬猫のほかに、子どもが幼いときにはウサギ・鶏・金魚を飼った。ウサギには逃げられ、鶏は犬にかみ殺され、金魚は水槽の汚れが原因で1年もたたないうちに死んだ。

さて、猫。「長男」は「チャー」。息子が東京で暮らしていたころ、ミャーミャー鳴いているのを拾い、わが家へ連れ帰った。8、9年になるだろうか。「二男」は「レン」。平の里山に捨てられていた。「長女」の「サクラ」も同じ。「チャー」以外は避妊手術をした。

「チャー」は大人になると徘徊を覚えた。家に戻るのは腹が減ったときだけ。それが、ここ数年のならわしだった。が、この数日はどうしたのだろう。「赤ちゃん返り」をしたようにミャーミャー鳴いて、カミサンにまとわりついて離れない。えさを食べても家の中にとどまっている。どころか、こたつの中に入り込んで出てこない。

去年あたりまでは近所の猫どもの上に君臨して、縄張り内をへめぐっていたらしい。傷をつけて帰って来ることもあったが、それでも目には猛禽類と同じ光があった。それが今は雄としての精悍さを失っている=写真。ボスの座を奪われて、「わが家」に引きこもらざるを得なかった、という雰囲気だ。いよいよ老境に入ったのか。

「チャー」はこれからどう行動するのか。再びさすらいの旅に出るのか、日だまりの中でまどろむだけになるのか、じっくり見させてもらうとしよう。

2008年11月5日水曜日

ハチの巣がもぬけの殻に


いちだんと空気が冷たくなってきた。

きのう(11月4日)の早朝は晴れて風もない。「西高東低」の冬型の気圧配置になって西風が吹き荒れるのは北の方か、などと思っていたら、10時ごろからうなり始めた。

ビュービュー鳴る風の音を聞きながら、家で仕事をする。外で仕事をする人は体がかじかんだことだろう。午後も、夕方も、夜も風が吹いて、玄関の戸が時折、ガタッ(ピシッ)と鳴った。

軒下のアシナガバチの巣も、秋冷にさらされて一変した。1カ月前には巣が見えないほど群がっていたハチたち=写真=が、2、3日前には数えるほどしかいない。急に姿が消えて、きのうの朝は1羽だけがどこからか飛んで来て、すぐ去った。

週末を過ごす夏井川渓谷の無量庵の軒下にできた、バレーボール大のキイロスズメバチの巣も、文化の日の3日に見ると出入りするハチの姿はなかった。空き巣になったらしい。

ソフトボール大のときに営巣が分かった初夏から静かに「同居」し、月遅れ盆に息子たちが「合宿」したときにも手を出さないよう注意をした。一度刺されて救命救急センターのお世話になったカミサンも、用心して近づかなかった。おかげでスズメバチを刺激せずに済んだ、というわけだ。

小さなアシナガバチの巣はともかく、スズメバチの巣はいずれ軒下から切り離して「家宝」にするつもり。50年以上も前だが、阿武隈高地の山奥、母方の祖母の家の神棚に巨大なスズメバチの巣が飾ってあったのを覚えている。自分の体の小ささを差し引いても直径50センチくらいはあったのではないか。                     
陶芸の世界でいう「練り込み」、それは陶芸家がスズメバチの巣から学んだ技法に違いない。後先をいえば、ハチが先に開拓した技法なのだから。見事な「練り込み」の模様を、形を、その記憶を、今度はよちよち歩きの孫に伝えたい、という思いがある。

2008年11月4日火曜日

紅葉見物のマイカーが次々と


この連休(11月1~3日)はやっと最終日の3日、昼間だけ夏井川渓谷(小川町上小川字牛小川)の無量庵で過ごした。前日までの小春日とは打って変わって曇天の一日、畑に生ごみを埋め、白菜の虫を捕ったあと、対岸の森を巡った。

カエデの紅葉にはまだ早いが、ツツジやヤマザクラを中心に紅・黄・茶と、夏井川渓谷は錦繍を縫い上げつつある。「文化の日」とはいえ月曜日、それでも朝からマイカーがひっきりなしに渓谷へとやって来る。さぞかし土・日曜日は紅葉目当ての行楽客でにぎわったことだろう。

無量庵の隣の杉林が伐採され、古い建物が解体されて更地になった。それで、隠れていた景色がほぼ半世紀ぶりに復活した――という話を、小欄で再三書いている。今回も書く。

ドライバーは轄然と開けた空間に自然と吸い寄せられるらしい。車を止めて更地に足を踏み入れる。更地のへりから谷底を見てさらに驚く=対岸からの写真。早瀬が岩盤を襲い、白く泡立ちながら駆け下り、薄緑色のグラデーションを広げて、次の岩盤をぬらしに行く。

紅葉のライトアップが行われた、上流・川前町の夏井川渓谷とはまた違ったビューポイントの出現。対岸の斜面に露出した岩場とそこに生える赤松、周囲の紅葉と、谷底の早瀬と。天然の造形美は見飽きることがない、という。熱心に水彩スケッチをしている女性もいた。それだけの魅力は確かにある。

更地の一角に地権者のSさんが窓のあるコンテナハウスを設置した。3日には地元の生産者から委託された蜂蜜や塩漬けのフキを売っていた。この連休が「直売所」のプレオープンだったらしい。業者が入ってハウスに電線をつなぐ工事をしていたから、正式オープンは少し先になるのだろう。常時、水がくめるように裏山から沢水も引いた。

16日の日曜日には、更地からの景色を生かした「紅葉ウオーキングフェスタ」が開かれる。ウオーキング参加者はすでに決まったようだが、イベントそのものは行楽客にも開放される。                                            
わが無量庵の庭でもカミサンがイベント(ザ・ピープルの古着バザー)を計画している。フェスタと連動して牛小川のにぎわいに貢献できれば、と願ってのことだ。フェスタのギャラリーを兼ねた無量庵の客とバザーのスタッフは結構な数になるらしい。

2008年11月3日月曜日

ミノウスバの産卵


小春日の午後、庭へ出ると離れの一角で虫が飛び交っていた。ミツバチか。いや、違う。今の時期、ホトトギスの花は咲き残っていても、木に花はない。ハチではないとすると、ミノウスバ? そう、3センチほどのミノウスバの成虫が盛んに飛び交い、生け垣のマサキの枝に卵を産みつけていたのだ=写真

秋の産卵に始まるミノウスバの生活史はこうらしい。

卵のまま冬を越し、マサキの新芽が膨らみ始める春の終わりごろに孵化する。幼虫は最初、かたまりになって新芽を食べているが、体が大きくなるにつれて散開し、さらに激しく新芽を食害する。5月中旬を過ぎるころには老熟してマサキを離れ、石の裏などにまゆをつくって蛹化する。夏をそのまま過ごしたあと、晩秋に羽化して成虫になり、再び産卵が始まる。

在宅ワークに切り替えて初めて分かったミノウスバの産卵行動だ。

例年はゴールデンウイークのころ、生け垣のマサキの新芽が食い荒らされて初めてミノウスバの孵化に気づく。というより、生け垣を見て回って食害が始まったことを知る。散開前なら枝を切るだけで済むが、木全体に散らばったら手に負えない。少しでも若葉が残ればいい方だ。今年は2~3本が裸になった。庭のニシキギも丸裸にされたことがある。

ミノウスバの産卵状況が分かったので、始末は簡単だ。成虫がいなくなったらマサキの枝を眺め、卵が付着している部分を切り落す。手の届かない所だけ少し残してやる。

それにしても、どこからこんなに虫が湧いてくるのだろう。生け垣の下の石や瓦、陶器片がさなぎの寝床になったのか。いくつになっても、次々と分からないことが起きる。

2008年11月2日日曜日

白菜を漬ける


秋が深まるにつれて糠漬けのつかりが遅くなってきた。そろそろ白菜漬けに切り替えなくてはならないようだ。とはいっても、スーパーの白菜は4分の1玉で98円、1玉400円では高くて手が出ない。

平沼ノ内の土曜朝市(11月1日)で聞くと、「売れてしまったので、今、畑へ取りに行ったところ」という。ややしばらく待っていたら、あぜ道を軽トラがやって来た。直線距離にして四、五百メートル先の林の陰に畑があるらしい。

小さな朝市だから売れる数は決まっている。ところが、11月の声を聞いた途端、寒さが厳しく感じられるようになったらしい。「鍋物に」と白菜が売れてなくなった。で、ダンナさんが白菜補充に畑へ軽トラを走らせた、というわけだ。

持ち帰ったのは白菜3玉、キャベツ2玉。まさに取りたて、手に取ると朝露がこぼれた。白菜はスーパーで売っているのよりはやや小ぶりだ。「1玉?うーんと、150円」「よし、3玉全部」

そこへ「100円にして」「いくらなんでも、無理」「ま、いいか。1つちょうだい、時間がないの」と割り込む主婦がいた。支払い済みで手にしていた1玉を譲る。ダンナさんがすまなさそうに言った、「5分待ってくれっけ、また行って取って来るから」「いいですよ」

帰宅して1玉を八つ割りにし、縁側で干す=写真。午後には取り込み、桶に漬け込んだ。

桶は逆さにして離れにしまっておいた。逆さにしておけば乾燥してたがが緩んでも、重力の関係で桶をしっかり押さえていられる。水を張って半年ぶりの出番に備える。最初の2時間くらいは下のほうから水がしみ出ていたが、たががしっかりはまっていたおかげで間もなく水漏れが止まった。

うまみには昆布を、風味には朝市で買ったユズの皮と、夏井川渓谷の畑で育てた激辛トウガラシを使った。激辛トウガラシは殺菌用でもある。そもそも白菜の漬物用に栽培したのだが、辛さがハンパではない。底に激辛1本と、1本を刻んでばらけた種を散らした。辛み成分が白菜に乗り移ったら、ちょっと困るが。

毎年のことだが、春に糠漬けを、秋に白菜漬けを始めたときにはほっとする。秋に三春ネギの種まきを終えたときもそうだ。次の半年、1年を無事に過ごすための最初の宿題をすませたような感じだろうか。

何日かして水が上がり、軟らかくなると、この秋最初の白菜漬けが食卓に上る。塩をたっぷりやって糠床を半年間休ませる日でもある。

2008年11月1日土曜日

白鳥は悲しからずや


最初は野鳥の会の協力を得て、あぶくま親水公園でハクチョウの餌付けと監視を続けるとしていた福島市だが、「市民の安全を守る」ために全面的にえさやりを中止することにしたという。しかたないことだろう。

こちら、羽をけがして飛べずに残留している3羽のコハクチョウに餌付けをしているいわき市のMさん。飛来したハクチョウはともかく、「残留組を見殺しにはできない」と毎朝、3羽のえさやりに余念がない。

ところが、わが散歩コースの夏井川(平・神谷)で過ごしている残留コハクチョウが、数日前、1羽もいなくなった。上流の平・塩へも1羽、あるいは4羽、5羽が一時的に飛来するだけで、すっかり寂しい川辺になった。

やって来るのは場所と、えさをくれるMさんの記憶がはたらくからか。それが、仲間もMさんもいないとなると、ハクチョウたちの生物的記憶は切断されて自然に戻る、つまり来なくなる。

それとは別に、残留コハクチョウが姿を消したのは初めてだ。もしや、最古参の「左助」に引っぱられて河口へ下ったのではないか。堤防を車で行くと、やはりいた。河口の右岸に3羽。「左吉」と「左七」にとっては未知の空間だ。

散歩コースでウオッチングする楽しみは減ったが、いつでも見に行ける。そう思いつつも、双眼鏡だけはのぞいてみる。と、きのう(10月31日)の朝6時半すぎ、いなくなったはずの場所に2羽のハクチョウがいた。

飛んで来たハクチョウか。違う。羽の折れ具合からして「左吉」と「左七」だ。やはり「左助」とはうまくやっていけないのか、2羽で再び川をさかのぼって来たのだった。

Mさんがヨシ原から現れて「サキチー」と呼びかける。浅瀬を泳いでいた「左吉」と「左七」が振り向くとすぐUターンし、岸辺に歩き始めた。

Mさんの後ろの砂地には、「待ってました」とばかりにカラスが飛んできて羽を休める。えさを待っている、いつもの朝の光景=写真=だ。Mさんはえさやりを終えると5、6メートル離れた水辺で長靴の底を洗った。覚悟を秘めた光景である。