2008年8月31日日曜日

夏井川河口が抜けた


晴れたかと思うと、急に雨が降り出す。すぐやむ。曇る。また降る。このところ、外出するのに傘を持っていったものかどうか、迷う日が続いている。

8月28日夜から朝にかけて、いわき市の山間部は記録的な豪雨に見舞われた。夏井川渓谷の上流、川前では床上・床下浸水、停電が相次いだという。磐越東線の線路も土砂が流れ込んで不通になった。そこまで被害が及ぶのは、そうない。

小名浜測候所のホームページで確かめたら、川前の雨量データは28日50ミリ、29日176ミリ、合わせて226ミリ。しかも1時間に63ミリも降ったとは!(小名浜測候所は10月1日に廃止される。防災上は支障がないというが、生物季節観測には大いに支障がある。ウグイス初鳴、タンポポ開花などの基本的なデータ=公式記録=が、いわきから消えるのだ。誰がそれを引き継ぐのか。腹立たしい限りではある)

29日昼前、平の街の空はカラッと晴れ渡った。仕事で自宅に缶詰めになり、朝の散歩も休んだために夏井川の増水を知らず、従って山間部の集中豪雨にも思いが及ばなかった。夏井川の堤防そばに住む人がわが家へ遊びに来て、初めて増水が分かったのだった。

きのう(30日)、平沼ノ内の土曜朝市へ出かけるついでに、夏井川河口まで足を伸ばした。河口が久しぶりにブン抜けていた=写真。たとえは悪いが古便の滞りが一掃されたように、爽快な気分になった。横川に設けられた「石のダム」も水位が低下して露出していた。河口左岸の砂浜には、残留コハクチョウ最古参の「左助」。いつもと変わらぬ様子でたたずんでいる。

朝市では、平地と山地との天気の違いに話題が集中した。平地の住民ばかりだから、「山の集中豪雨を知らなかった、ニュースで初めて知った」。それほどいわきは広いということだが、近距離でも照り降りが分かれるようになってきたのではないか。そんな印象が最近は強い。

30日は朝8時半から、朝市会場近くのいわき新舞子ハイツグラウンドで消防車や電力の車などが参加して、地震災害復旧訓練が行われた。豪雨被害が遭ったばかりだけに、気を引き締めて訓練が展開されたことだろう。

気がかりなのは夏井川渓谷の無量庵である。早く様子を見に行きたいのだが、29、30日は用事があってダメ。今日(8月31日)も午前中は予定がある。午後には出先から直行しようと思っている。

2008年8月30日土曜日

ミョウガを刈り払う


ここ数日、家にこもったままだ。机にしがみついてキーボードをたたき続ける。人に会わないから気楽かというと、そうではない。タコつぼに入ったように、情報が遮断される。

新聞やテレビのニュースと違って、外へ出ることで生身の体に飛び込んでくる情報がある。茶飲み話や立ち話から知る野菜作りの秘訣だったり、誰かの消息だったりするのだが、日々これらの情報を選択し、咀嚼しながら、人はせわしない時間を生きている。それが、いわゆる世過ぎ身過ぎなのだと、家に缶詰めになったアナログ人間は考える。

昔、仕事で市役所を回っていたころ、人によってはこちらの話に乗ってきて、しばらく議論するようなことがよくあった。そんな相手の1人(OB)と先日、ばったり会った。

私「家で仕事をしてると人に会わないから、世の中のことがさっぱり分からない」。彼「役所も同じ。●○さん(私のこと)が時々来て話していくから、外のことが分かってよかった」。職場にやって来る人は情報という風だったのだ。

その伝でいえば、人に会って話すこと自体、思考のバランスを保つうえで大切な行為になる。それができないとなれば、何かでストレスを緩和しなくてはならない。

庭のミョウガが茂りに茂っている。ヤブカの巣になっているのではないか。ミョウガの子を収穫してしまおう。茎をバッサバッサやったら、すっきりした。ミョウガの子も15個ほど収穫できた。茎は夏井川渓谷の無量庵へ持って行って、三春ネギの溝に敷く。ごみとして出すことはないのだから。

人と同じようにミョウガに会う。私の中では自然もまた大切な情報源である。

2008年8月29日金曜日

十六ササゲ


いわき地方で「十六ササゲ」=写真=といえば、だれもが「じゃんがら念仏踊り」の歌を思い浮かべる。「ナァハァハァー、モォホォホー」ときて「盆でば米の飯、おつけでば茄子汁、十六ささげのよごしはどうだい」と続く。

十六ササゲを、平沼ノ内の土曜朝市で売っていた。歌でおなじみでも、現物にはめったにお目にかかれない。伝統野菜だから自家消費用にはつくられているのだろう。わが家の近所でも1軒だけ、庭の畑で栽培している。自分で種を採っているに違いない。

さやの長さが30センチ前後になる。やわらかい。一束を買った。さやの実が16あるから「十六」だというが、数えたら実の数は22だったり、19だったりする。それだけ多いという意味での「十六」なのだろう。

普通のインゲン同様、素揚げにした。結果は「ん?」である。生の段階ですでにやわらかいうえに、高温の油で加熱したからよけいふにゃふにゃになった。歯ごたえをうんぬんするどころではない。普通のインゲンでさえ素揚げにするとしおれてしまう。普通のインゲンはそれがおいしいのだが、十六ササゲには刺激が強すぎたらしい。

やはり歌にあるごとく、十六ササゲはゴマかエゴマ(ジュウネン)の「よごし」に限るのか。

2008年8月28日木曜日

布カバーを焦がす


昼はご飯を食べたあと、座いすを倒して昼寝をする。20年以上愛用してきた座いすのパイプが根元から折れたので、最近買い換えた。前のいすは背中にぴったり合って体がよくなじんでいた。今度のもなかなかよさそうだ。

ある日、いつものように居間で座いすを倒して昼寝をした。いすにはカバー代わりに布がかけられてある。布だからいすを倒すと垂れる。そばに蚊取り線香があった。

昼寝を終えて、別の部屋に少しいてから戻ると、カミサンが真剣な顔をして布を指さした。布に小さな穴があいている。「なんか焦げ臭いと思ってみたら、蚊取り線香の火に触れて布が焦げてたのよ」という。

わが家にはエアコンがない。網戸もない。昼間は庭からヤブカが入って来る。で、居間にいるときは蚊取り線香が欠かせない。その線香が座いすの陰にある=写真=のを知らなかったのだ。

注意しながらも、カミサンは半分笑いかけて口をつぐんだ。ずっと寝続けていたらダンナの髪の毛が…と悪い想像をはたらかせたのに違いない。

小学校2年のとき、住んでいる町が大火事に遭ってわが家も灰になった。以来、火の始末だけはきちんとする習慣がついた。が、今回は蚊取り線香に気づかなかった。あるかないかの髪の毛だって火事になったら大変だ。蚊取り線香をすぐ目に入るところへ移した。

2008年8月27日水曜日

安藤信正公の銅像


NHKの大河ドラマにやっと磐城平藩主安藤信正が登場し、せりふを発した。公武合体を推進する老中として天璋院(篤姫)と対面し、叱責される。どうもすぐれた幕閣としては描かれていないようだ。

史実とドラマは異なる。といっても、旧磐城平藩の城下町に暮らす人間にはいささか苦い描き方だ。で、8月24日の「篤姫紀行」は平の城下町が舞台。松ケ岡公園の安藤信正公銅像=写真、丹後沢公園、安藤公菩提寺の良善寺、城山の石垣などが紹介されて、少し溜飲を下げた。

銅像は初め、大正11年に建てられた。それが先の戦争で金属供出の憂き目に遭い、台石だけになった。再建されたのは昭和36年。大きく立派な銅像だ。

昭和の制作者は昭和60年に92歳で亡くなった地元の彫刻家本多朝忠さんだ。カミサンがよく訪ねていたので、何度か会って話したことがある。一言でいえば、プロレスや俳句を好む「飄逸の人」。いつも「69歳」のままだった。

実年齢を知ったのは亡くなったとき。『いわき市史』には「明治28年平字八幡小路に生まれる。磐城中学中退後、小倉アカデミー彫塑研究所(東京)にて木彫・彫塑・大理石彫刻を約5年間学び、後に木彫の牧俊高について約3年間修業する」とある。

最初の銅像が建った大正時代後半といえば、山村暮鳥が平の教会に赴任し、「芸術の種子」をまいて去ったあと、暮鳥につらなる種子が続々と芽生え始めたころだ。その一つ、農民たちによる詩誌「播種者」が、銅像が建った同じ年に猪狩満直らの手で発行される。詩風土が多彩に花開いた時期でもあった。

そのころ、地元の詩人たちが集う書店があった。その店主が戦後に建てられた銅像のモデルになった、と聞いたのはいつだったか。「飄逸の人」からじかに聞いておけばよかったのだが、足元の歴史に深い興味がなかったから、質問力も浅く弱かった。

テレビに映し出された信正公の銅像を眺めながら、「飄逸の人」のことがしきりに思い出された。彫刻家にして遊俳、そして当時としては遺物と化した連句を、カミサンの伯父を宗匠にはがきで楽しんでいたことも。

2008年8月26日火曜日

白菜が芽を出した


夏井川渓谷にある無量庵の畑から、苗を買い用済みになったポットに土を詰めてわが家へ持ち帰り、白菜の種をまいたのが8月17日の夕方。3日目の朝には、早くも芽を出して小さな双葉ができた。

朝、目覚めると縁側にあるポットをチェックする。日を追うごとに双葉の数が増えている。1週間後にはさらに双葉が大きくなって、丈も3センチ余に伸びた=写真。双葉の間に本葉をのぞかせているものもある。

渓谷の畑にじかに種をまくと、芽生えた双葉の何割かは虫に食べられたり、ちょん切られたりする。「虫の王国」に畑をつくるのだから、致し方ない。1週間に一度出かけるだけでは、若芽の幸運を祈るしかないのだ。

これが、ポット苗として手元に置いてあると、毎日、変化がチェックできる。随分と芽生えの遅いものがある。かたまって一気に芽生えるものもある。虫の被害は今のところない。いればすぐつまんで排除できる。

「たのしみは朝おきいでて昨日(きのふ)まで無かりし花の咲ける見る時」(橘曙覧)。花ではないが、白菜の若芽が「今日も出た」「双葉が伸びて大きくなった」と、起きぬけにポットを見るのが朝の楽しみになった。

気になるのは、種をまいてからカラッと晴れた日がないことだ。若芽にはたっぷり太陽の恵みを与えてやりたい、と思っても、これだけはどうしようもない。

2008年8月25日月曜日

車の傷


去年の秋、車を買い替えた。がっしりした四輪駆動車は、山道には強いが燃費には弱い。かといって、ハイブリッド車には手が出ない。「最強のエコノミー車はこれ」というディーラーお勧めの車にした。確かに、燃費は四輪駆動車よりはるかにいい。

本でいえば新古書。2000キロしか走っていない“新古車”だ。最初の2、3カ月は大事に大事に乗っていたが、マチだけで用事が済むはずがない。四輪駆動車のときと同様、山野へ分け入るようになったら傷がつき始めた。

四輪駆動車は車体が高く、馬上から手綱を操るような感覚があったが、それが体に残存していたのだろう。道端に寄せたら縁石に触れて嫌な音がした。エコノミー車はかごと同じように車体が低い。その感覚の落差が「ガリガリ」になった。

バックしてブロック塀にこすったこともある。左前部にもこすり跡がある。そこへ応急的に塗装を施した=写真。いかにも「こすりました」と知らせているようなものだ。

で、今度はドアに傷がついた。道路からわが家の庭へは「逆コの字」に2回曲がる。庭へ入るとき、角に植わってある針葉樹の幹で「ガガーッ」とやってしまったのだ。針葉樹は軒下につかえて葉が枯れたため、幹の途中から切ったばかりだった。その切り口でこすったのだから世話はない。

針葉樹がそこにあるイメージが消え、少し広く感じられたせいで小回りが利きすぎたらしい。「なんで根元から切らなかったのか」。1メートルほど残った幹に八つ当たりをしても、ついた傷は消えない。

人間も古傷をいっぱいかかえて大人になっていくのだから、これはこれで車の勲章だ。そう思うことにしても、車の傷はない方がいいに決まっている。

2008年8月24日日曜日

胸の三角波


朝は晴れていたのが、午後になると鉛色の雲が広がり、風も急に吹き始める。道の両側に広がる田んぼの稲穂も、丈高く伸びた空き地の草も、横なぐりの風になぶられている。

昼飯をと、いわき新舞子海岸にあるカレー屋さんへ行ったら、雨粒が窓をたたき始めた。

店の東と南側は展望のきくガラス窓になっていて、シネマスコープのように海が見える。三角波が立って、あちこちで白いウサギが跳びはねていた。沖からやって来る波が、陸から攻め寄せる強風に押し返されて盛り上がり、三角になって、てっぺんの波が白く小さく砕けるのだ=写真。

それを見ているうちに、「胸にぎっしり三角波」というフレーズがのどから舌頭に浮上し、俳人の故安達真弓さんを思い出した。「『胸にぎっしり三角波』。上五の言葉は何だったろう。『冬の朝』だったか、『山茶花の』だったか」。カレーのランチがくるまで記憶をたどってみたが、どうしても思い出せない。

きのう(8月23日)、いわき総合図書館へ行って、彼が所属していた浜通り俳句協会発行の句誌「浜通り」54号(昭和60=1985=年11月号)を開いて、上五が「春一番」だったのを思い出した。

春一番胸にぎっしり三角波

安達さんの第2句集『黄沙』(第1句集は『百霊』)に収録されている。俳句はオヤジ(義父)の「余力学芸」くらいにしか思っていなかった私は、発刊されたばかりの『黄沙』を読んで、「1行の現代詩群」であることにショックを受けた。そのとき、安達さんは古希を過ぎていた。それも驚きだった。

わが敗走いまも桔梗の紺の中
灯台いま全盲の白・ひとさしゆび
朝顔にはなき混沌をもちあるく
曠野まで言葉の毒を薄めにゆく

安達さんの「1行の現代詩」の一部である。「言葉の毒」の連想でいえば、西行に「身に積る言葉の罪も洗はれて心澄みぬるみかさねのたき」がある。通底しているものは同じだろう。                                               
言葉そのものと向き合うためにも、安達さんの孤愁に深く分け入って自在な詩情に染まってみたい――胸にざわざわと三角波が立っている。

2008年8月23日土曜日

「シンテッポウユリ」というらしい


毎年8月中旬になると、道路ののり面にテッポウユリに似た白い花が群れ咲くようになる。昔聞いた話では、タカサゴユリとテッポウユリの雑種(「シンテッポウユリ」というらしい)で、ハイブリッドゆえに繁殖力が旺盛なんだそうな。私はそれを勝手に「タカサゴテッポウユリ」と呼んでいる。

水曜日(8月20日)に国道6号常磐バイパスを通ったら、今春オープンしたばかりのいわき市北部火葬場「いわき清苑」への進入道路のり面に、この花が群れ咲いていた=写真。むろん、そこだけではない。バイパスののり面が、行けども行けども白いユリの花で彩られている。

東北道はむろん、常磐道もそうだ。「タカサゴテッポウユリ」の花盛りに違いない。で、常磐道の「タカサゴテッポウユリ」はどこまで北進したか。何年か前、気になって四倉ICまで車を走らせたことがある。いわき中央ICまではそのユリに席巻されていたが、そこから先はそんなに目立つほどではなかった。今は「タカサゴテッポウユリ」で白く染まっているだろうか。

「タカサゴテッポウユリ」に初めて気づいたのはざっと20年前。平・神谷からフラワーアセンターのある石森山へ向かうと、農免道路の切り通しに出る。こののり面上部が「タカサゴテッポウユリ」で真っ白だった。タカサゴユリは7~9月が花期だが南西日本が産地。テッポウユリは4~6月が花期。地域も時期も異なるので首をひねったものだ。

夏井川渓谷へ向かうのに少しルートを変えて、神谷­―石森山―四倉~小川の広域農道の“天上ハイウエー”を利用した。切り通しの「タカサゴテッポウユリ」は激減していた。代わって二ツ箭山中腹、広域農道ののり面にちらほら「タカサゴテッポウユリ」の花があった。

種子が風で運ばれて分布を広げるから、一度削られたり崩れたりした斜面は「タカサゴテッポウユリ」の格好のベッドになる。そこに木々や在来の草が茂るようになると、いつか数を減らす。こんなサイクルで「タカサゴテッポウユリ」は生きているのだろうか。いずれにしても爆発的な開花は尋常ではない。

2008年8月22日金曜日

啄木の「散歩」と曙覧の「いで歩き」


前に草野心平記念文学館で詩人の中村稔さんが「啄木の魅力」と題して講演した。8月24日まで開かれている開館10周年記念企画展「石川啄木 貧苦と挫折を越えて」の記念講演会だったが、ひとつ引っかかるものがあった。

気弱なる斥候のごとくおそれつつ深夜の街を一人散歩す

中村さんはこの作品を取り上げて、啄木が最初に「散歩」という言葉を使った、「散歩」は明治以降の新しい行為、と解説した。「散歩」という言葉の使用についてはその通りなのだろう。しかし、「散歩」が明治以後の行為、という説明は解せなかった。

そぞろ歩き、漫歩、散策。それは散歩とどう違うのか。例えば幕末の歌人橘曙覧のこんな歌。

たのしみは空暖かにうち晴れし春秋の日出でありく時
たのしみは意(こころ)にかなふ山水のあたりしづかに見てありくとき

「散歩」という言葉こそ使ってはいないが、これは実質的に散歩ではないのか。散歩だとすれば、それはなにも明治になって日本人が覚えた習慣ではない。それとも、もっと深いなにかがあって、中村さんはそれを説明しなかっただけなのだろうか。

ところで、私はブログと散歩は切っても切れない関係にあると思っている。

人は何か見つけたこと、たとえば昨日までなかったところに今日はナツズイセンが咲いている=写真=といった発見の喜び、あるいは新しいこと、変わったことを他人に伝えようとするものだが、頭の中だけで新・珍・奇をひねり出そうとしても無理がある。

ブログを続ければ続けるほど、人は外へ材料を探しに行く。散歩はその最たるものではないか。私の場合もそうだが、ブログとは散歩のことなり、と言ってもいいように思う。

啄木の「散歩」と曙覧の「いで歩き」「見て歩き」に共通するのは日常をありのままに詠む近代性だが、ブログ的感覚でいうと私は啄木より曙覧により引かれる。

2008年8月21日木曜日

蝉のささやきを聞いた


月遅れ盆に、「蝉時雨」ならぬ「蝉豪雨」に耳をふさぎたくなった話を紹介した。そのとき触れなかったが、蝉の「ささやき」も聞いている。至近距離にいたから分かった、不思議な弱音(じゃくおん)だ。

疑問がわいたら、「知の森」いわき総合図書館に分け入る。橋本洽二著『セミの生活史』(誠文堂新光社刊)で、いろんな蝉の歌があることを知った。

誰でも知っている鳴き方、たとえばミンミンゼミ=写真=の「ミーンミンミンミー」、アブラゼミの「ジージリジリジリジリ…」は、便宜的に「本鳴き」と呼んでおく、と著者はいう。その伝で、1、2回鳴くごとに転々と場所を変える「鳴き移り」、恋歌でもある「さそい鳴き」、鳴いていないときにポツンと出す「ひま鳴き」、人間につかっまたときの「悲鳴」などがあるそうだ。

そして、近くに寄らなければ聞こえない弱い音「つぶやき」があるという。ミンミンゼミなら「ワーンワーン」。字に書けば「ワ」音の連想でにぎやかに聞こえそうだが、私の聞いた「ささやき」が著者のいう「つぶやき」と同じなら、小さな小さな音だ。その音は超音波のように透き通っている。

両手の指で6人分ほど生きてきたが、そんな蝉の「つぶやき」に気づいたのは今度が初めてだ。なぜ今まで聞こえなかったのだろう。

たぶん、蝉と言えば「本鳴き」という先入観にとらわれてしまっていたのだ。感受性がよろいを着て歩いていては、なにも見えない、聞こえない。いくつになってもそうだが、少年のように頭をからっぽにして相手と向き合うことだろう。

2008年8月20日水曜日

膨張するサギの集団ねぐら


数羽、あるいは十数羽。曇天を背に現れたかと思うと、急にキリモミ状態になりながら舞い降りる。ヒラヒラ風にあおられながら落下する白い紙のようでもある。川岸のねぐらへ帰って来るサギたちの、ねぐら上空でのぶきっちょな着水(木)態勢だ。

夕方5時過ぎ。下流から、上流から、いや四方八方からサギたちが現れる。ねぐら入りする時間が早くなったのだ。 それはそうだ。                              
日の出・日の入りを目安にする鳥たちの時間と、おおかたが時計に支配される人間たちの時間とでは、本質的な違いがある。かたや絶対的時間、かたや相対的時間。日が短くなるにつれて鳥たちはねぐら入りする時間が早くなるが、人間は暗くなろうと明るいままだろうと、同じ時計の時間でしかねぐら入りができない。

平山崎の夏井川右岸、広い河川敷を背後にもつ水辺の竹林がサギたちのねぐらだ。毎年そこがねぐらかどうかは分からない。が、8月に入って数が増え始め、18日には200羽を超えた=写真。浅瀬にかたまっているのと、竹林に散らばっているのと、どちらも日を追って増えている。

そこに残留コハクチョウが混じっているはずである。横に長いのがコハクチョウ、縦に長いのがダイサギ・チュウサギ・コサギたち。夕方は白一色になるので、区別がつかない。

19日は朝7時近く、いつものように堤防を歩きながら見ると、少し下流の中州にコハクチョウの「左七」と「さくら」が首を丸めて休んでいた。2、3羽を除いてサギたちの姿はなかった。

同じ日の夕方、車にカミサンを乗せて帰宅途中、ねぐらを教えると「白いハンカチが垂れてるか白い果物がなってるみたい」。                             
そのときふと、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」が思い浮かんだ。毎日注文を受けて食料の鳥を捕りに来る「赤ひげの人」、食べやすく押し葉にされたサギやガン…。サギは「地べたにつくかつかないうちに、ぴたっと押へちまふんです」だそうだ。

2008年8月19日火曜日

あす、灯篭流し


いつのもように夏井川左岸の堤防を利用して平の街へ行く。「平神(へいしん)橋」を渡る手前、東日本国際大学の近くを通ると、川にバックホーが入って砂を掻きとっていた=写真。土手の草も刈り払われていた。8月20日夜の灯篭流しの準備に入ったのだ。

夏井川の流灯花火大会は行く夏を惜しむ平の風物詩。宵闇が徐々に濃くなる中、5000個もの灯篭が次々と放たれ、ゆらゆら明かりをともしながら流れ下る。ちょっとした幻想的な光景を味わえる伝統行事だ。大正初期に始まったという。

昔は新盆の仏前に供えられていた果物なども舟に載せて流したらしく、夏井川下流で育った友人は「ミナト(河口のこと)に流れ着いた果物をよく拾った」という。今は環境問題もあるので、川に物を流すことはない。灯篭も途中で回収されるのではなかったか。

それよりなにより水量のないのが心配だ。雨が少ないのと水稲の出穂期で田んぼに水を取られているせいか、夏井川はあちこちで川底をさらしている。灯篭がスムーズに流れるだろうか。バックホーはそのへんも考慮して砂をさらったと思われるが、途中で灯篭が流れなくなるとせっかくの「精霊送り」も台無しだ。

灯篭流しが行われる平鎌田町には延命地蔵尊と俗称「首切り地蔵」がある。首切り地蔵は江戸時代、そこに処刑場があったことに由来する。

川はこの世とあの世を隔てながらも、絶えず流れ続けて過去・現在・未来をつなぐ。お盆に帰って来た霊を「また来年ね」と送り出しつつ、彼岸への明かりを見つめてわが身を顧みるには、鎌田は格好の場所なのかもしれない。

花火は、わが家の2階から眺めるとするか。夜空にパッと花開いて「ドドン」と音が届くのは何秒かあとだが、光と音の時間差もなにか力が抜けていいものである。

2008年8月18日月曜日

県道から列車が見える


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)でまた一つ、昔の景観がよみがえった。県道小野四倉線と磐越東線の間の細長い民有地に植えられた杉苗が切られ、土手から線路際へと続くやぶがきれいに刈り上げられたのだ。

牛小川のわが無量庵の隣に古い家があった。持ち主のAさんがこの春、家を解体し、谷側と山側(道路と線路の間)に植林した杉を伐採した。この結果、隣地は広い空き地になり、ほぼ40年ぶりに人工林のない景観が復活した。

Aさんには、杉林が渓谷の景観を遮り、損なっているという思いがあった。借家人がよそへ移ったのを機に、Aさんは景観の復活へと動く。それを牛小川の住民は喜んだ。杉苗を植えたBさんも、よみがえった景観に心が動いたらしい。

35年近く前、無量庵に接した県道の側溝は素掘りで、夏井川の支流・中川から引いた冷たい水が流れていた。生まれたばかりのわが子の哺乳瓶を、そこで冷やしたこともある。道路向かいのBさんの土地は畑に使われていたかして、土手の草もきれいに刈られていた。行き来する列車もよく見えた。

やがて道路の土手はササに覆われ、線路際までやぶが繁茂するようになった。数年前、土手の上に杉の苗が植えられた。人間の背丈まで育つには育ったが、管理が難しい場所らしく、すぐつる性植物にからまれる。そうした状況のなかでAさんが土手の斜め向かい、谷側の杉林を伐採したのだった。

柿の木が1本だけ残されたほかは、土手のササも、杉苗が植わってあった平地も五分刈りの坊主頭のようにさっぱりと刈り払われた。再び、ほぼ30年ぶりに無量庵の前の県道から行き来する列車が見えるようになった=写真。

私はこの2件の例から、自然景観と環境に対する土地所有者の考え・行動がなにか新しいステージに入ったように感じる。それは思い込みに過ぎないと言われようとも、夏井川渓谷に限ってみれば、住民の実践力はそういう段階に入ったと断言できる。

2008年8月17日日曜日

三春ネギを伏せ込む


「三春ネギ」を「曲がりネギ」にするには、8月に「やとい」という伏せ込みをする。葉鞘を寝かせるように、溝の壁を斜めに切って植え直すのだ。半数近くは細すぎて消滅したか、ネキリムシに葉鞘をちぎられたかしたが、根が残っていればそれも掘り起こして「やとい」の列に加える。むろん、一度葉の消えたネギがどこまで成長するかは分からない。

「やとい」は、地下水が高かったり、作土が少なかったりする土地でネギの白根(葉鞘)部分を長くするために、土地の人が編み出した方法だ。須賀川の「源吾ネギ」、郡山市の「阿久津ネギ」がそうだし、仙台市その他にも「曲がりネギ」がある。

土曜日(8月16日)夕方、無量庵に着いてすぐ「やとい」の作業に取りかかったら、小一時間で済んだ。ほんとうは日曜日の早朝に予定していたのだが、雲行きが怪しい。前線が停滞して雨になりそうなので、予定を早めて動いたのだ。あっけないと言えばあっけない。本数を数えたら80本もない。

ネギのうねが2列空いたので、あとで秋野菜用にうねを作り直すことにする。限られたスペースを使い回す家庭菜園では、いつもこんなものである。ネキリムシの被害さえなければ、消費するネギの半年分くらいはカバーできたはずだが、それも今となっては「狸の皮算用」にすぎない。

案の定、夜になると雨がぱらつき出した。小雨程度なら、日曜日朝には白菜の種まきができる。白菜の種まきを先にやるか、「やとい」を次の週にやるか、8月の初めには決めかねていたが、白菜のうねに石灰をまき、肥料をすき込んでおいたので、どちらを先にやっても構わないのだ。

ゆったりした気持ちで晩酌を始めたとき、ふと白菜の種袋を持って来ていないことに気づいた。忘れないようにと、わざわざ何日も前から自宅茶の間のテーブルに用意しておいたのが、かえって裏目に出た。しかたない、白菜はポット苗にしよう。そのための土をわが家に持ち帰るのだ。

白菜にしろ大根にしろ、いわき地方では月遅れ盆のころに種をまく。今までは下準備がずれこんで種まき時期が遅れ気味だったが、今年は早めに動くことにした――のはいいが、やはりどこか抜けてしまう。ポット苗を定植した方が歩留まりがいい、と考えることにした。

今朝(日曜日)、「やとい」をした三春ネギを見ると、元気な葉がもう立ち上がっている=写真。ネギの生命力にあらためて感心した。

2008年8月16日土曜日

蝉時雨


わが家の庭に柿の木がある。アブラゼミが幹に止まって盛んに鳴いている。合間にミンミンゼミも鳴く。それだけでも結構なにぎやかさだ。

カミサンの実家の庭はわが家の比ではない。ケヤキの大木がある。松やヤブツバキもある。そこに蝉=写真=が集まる。蝉が鳴き交わすとすごい音量になる。にぎやかさを通り越して騒々しいくらいだ。「蝉時雨」などと優雅に構えてはいられない。「蝉豪雨」である。

月遅れ盆にその実家へ日参した。新盆回り以外に用事はないのだが、毎年線香をあげに来る人がいる。カミサンはいわばその接待役だ。

庭に臨む奥の部屋で若いケヤキの木に止まっている蝉を数えた。アブラゼミ・ミンミンゼミ・ツクツクホウシ。部屋から見える幹の前面だけで十匹以上いる。1本の木の半面でそうなのだから、ほかの木の分も加えると何十匹になるだろう。それが一斉に鳴く。耳をふさぎたくなる。昼寝などできるものではない。

朝から油照りになった8月15日、終戦記念日はわが家で過ごした。室温は30度を超えている。扇風機を「強」にしても汗がやまない。合間に『かぼちゃと防空ずきん いわきの戦中・戦後を中心に』(いわき地域学會図書18=1994年刊)をパラパラやる。庭の柿の木で蝉が盛んに鳴いている。

「その晩(注・終戦の日の晩)は奇しくも盂蘭盆の日、夜になると民家に灯りが煌々とともり、灯火管制がうそのよう。家族は皆連れ立って墓参り。線香の煙が一面に立ち込め、先祖に、戦争が終わったことを報告する姿に、『ああ、やっぱり平和はなによりもすばらしい』としみじみ思ったものである」(1926年生まれの女性)

「十二時近く私は味噌汁を煮ていた。じゃが芋と玉葱の実だったと思う。(略=玉音放送に)もうお昼を食べるどころではなく、皆オロオロとなった。/味噌汁は煮上がっているのに火を止めるのを忘れ呆然としていた。(略)ふと我にかえるとカナカナが盛んに啼いている。(略)遠い記憶の中で終戦の一日がカナカナ蝉のこと、味噌汁のことだけが思い出される」(1927年生まれの女性)

「敗戦のその日を語る時、私にとってあざやかによみがえるのは、夏をいろどる夾竹桃であり、タチアオイの花である。自分の庭にはないが、その姿をみると胸がつまり『ああ今年もこの花が』と広島の原爆、長崎の原爆を想い起こす」(1936年生まれの女性)

63年前の8月15日も蝉は激しく鳴いていたことだろう。が、ふと我にかえったら夕方になっていた、ヒグラシが鳴いていた。そんな少女がいた。そして、終戦の花の記憶と夜の明かり。それぞれの人がそれぞれの思いで終戦記念日を過ごしたことだろう。

2008年8月15日金曜日

母性とは笑顔


つくづく「母性とは笑顔」だと思う。散歩の効用の一つは、その笑顔に出会えることだ。

朝、近所を散歩する。同じく散歩をしている人がいる。あいさつを交わす、たいていは。が、それを省略する人がいる。しても不愉快な人がいる。「おはようございます」。無視。そういう人には次からあいさつするのを遠慮する。「おはよう」は、年齢が同じか若いくらいの男性。まるで児童を相手にした学校の先生のようだ。

あいさつ無視には「透明人間だからあいさつができないんだ」と思うことにする。尊大な「おはよう」は三歩進んで忘れる。いやな思いをひきずってはいられない。ばかばかしいではないか。

そこへ、70歳は超えていると思われる女性が歩いて来る。にっこりして「おはようございます」。しわくちゃの顔が笑みをたたえた瞬間の、なんというかわいさ。つい振り向いて見送るようなことがある=写真。女性が本来持っている、人間を慈しむ心(母性)、それが自然と笑顔になってあらわれるのだろう。「顔にしわがある女性ほど笑顔がチャーミングである」という法則が成り立つのではないか。

なんのことはない。この笑顔が、あいさつ無視も尊大なあいさつもどこかへ吹きとばしてくれるのだ。してみると、子育てを終えた女性は万人の母親、と言えないか。

唐突ながら、車を運転する女性で「自分がルール」になってしまうケースが多々ある。例えば、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の駐車場出口は右折禁止だが、左に向かう車がつながっていると平気で右折する車がある。その8、9割は女性だ。これも母性のなせる業?

ま、しかし母性は笑顔――それが女性の生物的な特質なのだと、あらためて思う。

2008年8月14日木曜日

カルガモがいた!


平の寺町にカミサンの実家の墓地がある。昨日(8月13日)の朝、西日本からやって来たおいたちと墓参りに行った。

朝から太陽が照りつけ、気温が急上昇した。前夜に痛飲し、アルコールで脱水気味のところへ汗が噴きだしたから、小一時間も歩くともうヘトヘトだ。何段もない寺の石段が高く感じられたので、わきの坂道を上った。楽しい夜のあとの苦しい朝である。

風があれば少しは気分も違うのだが、べた凪に近い。日傘とはまだ無縁のおいの娘も、首や腕に汗をにじませていた。

二つの寺を回り、先祖と、昵懇にしていた彫刻家などの墓を訪ねて線香を手向け、もと来た道とは別の道を通ってカミサンの実家へ戻った。実家の脇を江筋(農業用水路)が流れている。少しは涼味を感じられるかと、江筋沿いの道を選んだ。

と、カルガモが5羽、流れに逆らいながら泳いでいた=写真。江筋に垂れ下がっている草に飛びつくものがいる。水中に頭を突っ込んでいるものもいる。人の姿を見るとすぐ飛び立つほど警戒心が強い留鳥なのに、なぜか逃げる気配がない。体はみんな大きいが、母親と子どもたちなのだろう。

あとで聞いたら、大雨の日、上流から流されて来たらしい。それがすみついたのだ。どれが親で、どれが子どもか見当がつかないくらいだから、飛び立つ日も近いか。

カルガモ親子に別れて道を進むと、今度はヤマカガシの子どもがボトリと水面に落ちた。必死になって身をくねらせながら泳ぎ続け、江筋の壁面を這い上がろうとするのだが、なかなかうまくいかない。かろうじて水面に垂れ下がっていたアジサイの茎に体を巻きつけて這い上がると、しばらくそこでじっとしていた。かなり体力を消耗したのだろう。

ヘトヘトだった体が、一時、カルガモとヤマカガシにシャンとした。しかし、その興奮も鎮まれば疲れが倍加する。きょうも宴の夜のあとの頭痛の朝になった。

2008年8月13日水曜日

キジの尾羽を拾う


早朝、夏井川の堤防に取り付けられた坂道でキジバトのつがいが草の実をついばみながら歩いていた=写真。近づくと、少し飛んでは一定の距離を保って朝の食事を続ける。それを繰り返す。人が接近してもぎりぎり飛ばずにいられる距離は、3メートルほどか。

キジバトは春から秋までに数回、卵を産み、ひなをかえす。つい先日、造園業者に家の庭木の剪定を頼んだら、松の木にキジバトが営巣しているという。松の木だけ途中で剪定を中止したが、親鳥はその後どうしたか。数日後に見るとキジバトの姿はなかった。

この時期、野鳥は衣替え(換羽)をする。繁殖用の派手な夏羽を脱いで、非繁殖期の地味な冬羽をまとう鳥もいる。それでいろんな鳥の羽が落ちている。そのつど羽を拾って来る。キジの尾羽などは、こんなときでもないと手に入らない。羽だけではない。ダイサギはくちばしが黒色から黄色に変わった。冬羽に切り替わった証拠だ。

夏鳥と冬鳥が交代する準備期間でもある。8月の声を聞いたら、オオヨシキリのさえずりがピタリとやんだ。繁殖活動を終えて南へ帰ったらしい。オオヨシキリはゴールデンウイークに飛来して以来、ヨシ原のヤナギの木に止まって、初夏も、梅雨も、真夏も盛んにさえずり続けた。カッコウは結局、鳴き声を一度聞いただけに終わった。

チョウゲンボウも子育てを終えて散らばったのか、このところずっと姿を見せない。春先から変わらずにさえずっているのは留鳥の老鶯(ろうおう=ウグイス)。ヨシの先っちょで歌っているのはホオジロかと見れば、違っていた。ホオアカのようだった。

残留コハクチョウたちには酷な日本の蒸し暑さだが、それももうすぐ収束する。河原ではオオヨシキリに代わってコオロギの合唱が聞かれるようになった。夏至から2カ月近く、朝はともかく夕暮れが早くなったのを実感する。いわきでは「じゃんがら念仏踊り」のチャンカチャンカが響く月遅れ盆に入った。

2008年8月12日火曜日

アレッポの石鹸


シリアの「アレッポの石鹸」で洗髪するようになってから、だいぶたつ。それまでは液体シャンプーで髪の毛を洗っていた。毎日洗うほど潔癖ではない。何日かおくと頭皮がかゆくなる。それが洗髪の目安。あまりにかゆくて洗髪前にごしごしやると、ふけがこぼれ落ちる。なんとかかゆみとふけを抑えられないものか。

そんなとき、アレッポのオリーブ石鹸に出合った。オリーブオイルとローレル(月桂樹)オイルのほかは、水と苛性ソーダを加えただけで3昼夜釜たきし、ゆっくり時間をかけて熟成させたものだという。添加剤や合成香料は一切入っていない。これが肌に合ったのだろう。オリーブ石鹸を使いだしたら、かゆみが消えた。ふけも出ない。シャンプーを使っていたときと同じくらいの日数で頭を洗っているのに。

先日、頭を刈ってもらった。シャンプーで洗髪された。次の日にはもう頭がかゆくなった。薄くなったわが頭には工業的に生産されるシャンプーその他が合わないらしい。

8月3日にいわき市暮らしの伝承郷でいわき地域学會主催の「いわき学・じゃんがら体験プロジェクト」が開かれた。ちょうど実習の時間に、小名浜港で港づくりを学ぶ外国の「港湾開発・計画研修員」が伝承郷の見学に訪れた。ついでだから「じゃんがら」を見てもらった。

なかにシリアからやって来た研修員がいる。ハワイアンズで開かれた歓迎会で謝辞に立ち、「草野心平のカエルの詩を学校で学んだ」と言ったそうだ。草野心平記念文学館の学芸員によれば、心平の詩はアラビア語には翻訳されていない。英語の翻訳詩だったのだろう。

歓迎事業に動員されたカミサンに伝承郷で彼を紹介されたとき、「心平のカエルの詩」と「アレッポの石鹸」でエールを交換した。後日、まだ研修で日本にいる彼にカミサンが草野心平の本を送ったら、シリア観光省のパンフレット=写真=と、たどたどしい日本語で「もてなしをありがとう あなた(むろんカミサン)のことを忘れません」という直筆の便箋が届いた。

シリアは地中海の東端にある。その古い港湾都市が彼のまち、ラタキヤ。アレッポはそこから北東の内陸部にある。首都のダマスカス、アレッポ、ラタキヤに国際空港があるというから、アレッポもラタキヤも、シリアでは「三都物語」になるくらいの中核都市なのだろう。

「アレッポの石鹸」と「カエルの詩」が全く知らなかった「魅惑のシリア」へ誘う。パンフレットを見れば、確かに魅力的な国ではある。

さて、再び「アレッポの石鹸」である。この石鹸は使ったあとの潤い感がいい。実際、汚れを落としつつも脂肪酸を補うので、洗い上がりの肌になめらかな潤いを残すそうだ。体験者の一人として、ふけ症・禿頭のご仁は一度お試しあれ、と言いたい。

2008年8月11日月曜日

人間とキノコ


田村市常葉町の実家で兄夫婦とキノコの話になった。「今年はキノコがないの」と義姉が言う。キノコを持って来てくれる人が亡くなったのだそうだ。道理で食卓にキノコの姿がない。

いつもその人がキノコを持ってきたらしい。そのつど、お礼をしていたはずである。というのは3年前、おふくろが亡くなって兄弟・親族が集まった日に、たまたま猪苗代湖の南岸に住む人がどさっとシシタケを持ってきた。兄はなにがしかのお金を渡した。その人はシシタケだけの人だと記憶する。亡くなったのは別の人だろう。

年に2回ほどしか帰省しないが、義姉は行くたびにキノコ料理を出してくれる。いのはなご飯(シシタケ)、まめだんごご飯(ツチグリ幼菌)、塩出しした雑キノコの大根おろし、そしてチチタケの料理。

そのチチタケを持ってくる人が亡くなったのだ。ツチグリ幼菌を持ってくる人も、その人だったろうか。義姉の料理のさえもあって、わが一族はキノコ好きになった。それで自然と実家にキノコが集まる(というより届く)ようになった。

常葉の里山を歩く時間はない。一泊した朝、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ戻って菜園のキュウリとミョウガの子を収穫し、ネキリムシにちょんぎられた三春ネギを集め、近くの森を歩いてアイタケとチチタケを採取した=写真。アイタケとチチタケは裂いて炒め、醤油で味を付けた。なにはともあれ料理の下ごしらえである。それをしておけば次の展開が簡単だ。

気が向いたときだけの男の料理はレパートリーが限られる。野菜炒めにするか、うどんのスープにするか、あるいはまったく違った料理にするかはカミサンにまかせるしかない。ありあわせの材料でささっとやれるほど経験は積んでいないのだから。

さて、人が亡くなるということはその人が持っていた技術・知恵・作法・人間関係・その他もろもろの総体がなくなることだ。キノコに限れば発生場所や発生時期・採取法を知っている人が一人この世から消えることであり、その人が持ってくるキノコを楽しみにしている人との交通が遮断されることでもある。

生きているうちに生活技術をどう伝承するか、悩ましい問題ではある。たとえ教えてくれる人がいなくても、趣味であっても、畑仕事をする、料理や漬物をつくる、山菜やキノコを採集する…。そういう興味・関心の広がりが大切になるのではないか。

これまでもそうだったように、これからも人は自然と向き合い、自然の恵みを利用しながら、ウデ(生活技術)を鍛えていく、自然と人間の関係について考えを深めていく。それしかないように思う

2008年8月10日日曜日

霧の桧山高原


月遅れ盆に用事ができたので、一足早く実家へ帰って墓参りをした。ついでに、伸びに伸びたたてがみをばっさりやってもらう。兄夫婦は床屋を営んでいる。

田村市常葉町。阿武隈高地の主峰・大滝根山(1193メートル)の北西麓に広がる、わがふるさとの町の戦略的キーワードは「高原」。「高原」と言えば「さわやかな風」――と連想がはたらくのを見越して、誘客作戦を展開しているらしい。イメージとしては貧弱だが単純、空疎だが明快。確かに「さわやかな風」は、都会にはないものだ。

いわきから川内村へ抜け、大滝根山を越えて常葉町へ入る。今年の夏は蒸し暑いことは蒸し暑いが、なにか梅雨が明けきっていないような印象がある。阿武隈の山頂部がたえず霧をまとっているからだろうか。大滝根山もそうだった。濃霧というほどではないが、遠望がきかない。

山頂部を走る県道富岡大越線を下りかけると、すぐ桧山高原(常葉)への入り口が目に入る。生まれてこのかた、桧山高原をじっくり歩いたことはない。時間はある。思い立って道を右折し、砂利道を奥へ奥へと進む。

しばらく行くと急に立派なアスファルト道路に変わり、やがて起伏に富んだ広い草原が現れた。さらに進む。1カ所すり鉢状になっているところに池があった。池の近くにはトイレと炊飯棟、管理棟。丘にはあずまや=写真。キャンプサイトになっているのだ。子どもたちが3人、池に釣り糸を垂れていた。稜線は霧に隠れて見えない。

かたわらに阿武隈高原中部観光連絡協議会が立てた「桧山高原周辺案内図」の標識がある。それによれば、キャンプサイトは面積が100万平方メートル、つまり100ヘクタールという広大さ。晴れた日には360度のパノラマが展開し、太平洋も望める。そのうえ夏の平均気温はおよそ20度だという。まさに「さわやかな風が吹き渡る桧山高原」だ。

実際にはひんやりした風が霧を走らせていた。半そででは寒いくらいだった。

池の東側には木道が設けられている。小湿地で、春はミズバショウが咲く。ヤマアジサイと名前の分からない花が何輪か咲いていた。北側の森はブナ林。車で乗りつけて、簡単にミズバショウとブナ林が楽しめる場所だとは知らなかった。

天上の草原である。一日たっぷり歩き、休み、飲み食いして過ごしてみたい。夜は満天の星に圧倒されるだろう。木道近くに立っていた案内標識には「桧山高原リフレッシュエリア」とあった。その通りに違いない。

2008年8月9日土曜日

「いわきおどり」を見る


「平七夕まつり」最終日の8月8日は会場のど真ん中、いわき駅前大通りを通行止めにして「いわきおどり」が開かれた。いわき駅前再開発ビル「ラトブ」ができて初めて迎えた、「平七夕まつり」と「いわきおどり」である。

交通規制が始まった午後3時過ぎから、そろいのTシャツを着た高校生が「ラトブ」館内を行き来し、2階のペデストリアンデッキにも同じような若者がたむろするようになった。いわきおどりに参加するのだろう。そのときを今か今かと待っている「静かな興奮」のようなものが、彼らから伝わってきた。

「静かな興奮」が支配する界隈に身を置き、夕方5時過ぎには仕事を切り上げた。「ラトブ」の地下駐車場は「いわきおどり」に合わせて、午後3時から10時まで出入りができない。午後は車をわが家に置いてきたので、酒を飲もうと思えば飲める。家ではなく街で晩酌をするようなものだ。

ちらっとカミサンの釣り上がったまゆが頭に浮かんだが、街で飲むのは久しぶりだ。そちらの誘惑の方が少し勝ったようだ。昼、「一緒にどうだ」と言ったのが効いたのか、5時過ぎにカミサンがやって来た。

「ラトブ」4階、いわき総合図書館のテラスへ向かう。飲む前に「天井桟敷」から「いわきおどり」を見たい。そう思ったのだが、テラスはいつものように5時で閉鎖されていた。こんな日に延長しないとは。しかたない、2階と空中でつながるペデストリアンデッキを「天井桟敷」にするか。そこで待ったが、踊りの集団が巡って来る気配はない。

本町通りまで歩いて行くと、音楽が聞こえてきた。とっくに踊りが始まっていたのだ。なんで「ラトブ」まで来ないの。前は駅前を東西に横断する並木通り・白銀通りの手前まで踊りの輪ができていたのに。

事情を知っていそうな人間をつかまえて聞く。「平七夕まつり」が終わった直後の日に開催していたときは確かにそうだった。七夕まつり最終日に開催するようになってから、いわき駅前まで伸ばさずに手前の「本町通り」でUターンするかたちを取るようになったという。警察の指示に従ったわけだ。

「ラトブ」がオープンしても前例踏襲か。来年、ペデストリアンデッキが完成したら、そこは一種の「お祭り広場」になる。「いわきおどり」が直下まで来れば、盛り上がる。だが、来年も救急車両対策を理由に本町通り止まりなら、そこからペデストリアンデッキまでの空間は気の抜けたビールのようなものになる。「ラトブ」との相乗効果を考えるべきではないか。

ま、それはともかく、「いわきおどり」を始めから終わりまで見たのは、今回が初めてだ。途中、水分補給のための休憩が入ったとき、老若男女が職場の上も下もなく開放感と一体感に浸っているのを見て=写真、こちらもハレの時間と空間に飲み込まれる心地よさを感じた。

2008年8月8日金曜日

夏井川で遊ぶ子ら


朝から油照りになった立秋、8月7日の昼下がり。夏井川の堤防を車で行くと、子どもたちが水着姿で岸辺にいる=写真。見知った人が引率していたから、子どもたちに川遊びを体験させようと計画を立てたのだろう。

「川で遊ぶな」の立て札が散見されるようになったのは、たぶん小・中学校にプールが完備されてから。千に一つ、万に一つの川の事故が、先生や親の気持ちを委縮させ、子どもたちから大切な野性を奪うように作用した。

堰の上流をプール代わりにして泳ぎを覚えた団塊の世代からみると、「川で遊ぶな」の禁札は子ども時代におぼれ、助けられ、水の怖さと命の大切さを学んだ「川学校」の否定に通じる。内心、腹立たしい社会風潮ではあった。そのころにクレーマーが誕生したのだったか。

大人たちも地域の川に背を向けてきた。釣りや河川敷の畑仕事や朝夕の散歩以外で、川を意識して暮らす人間はどのくらいいるだろうか。

そこへ、夏井川と遊ぶ子供たちを見た。小学校低学年の男女十数人がコンクリート護岸に寄りかかり、水中に小魚をすくう網を入れたり、水に触ったりしている。カラ梅雨だったために川の水量が減って、ところどころ川床が見える。川の中に入っても心配はない。が、学校やPTAに気を遣って水に触れる程度の控え目な川遊びにとどめたようだ。

この蒸し暑さに、ときどき中学生や高校生が川の中でジャブジャブやっている。川だから浅瀬だけでなく淵もある。が、中学生以上ともなれば身の危険には自己責任で対処しなくてはならない。そして、それは昔はごく当たり前の光景だった。

小学生の中には、生まれて初めて自分のふるさとを流れる夏井川の水に触れた、という子がいるかもしれない。夏井川がその子の心の中にも流れるかどうかは、これからのかかわり次第だが、この日、川から心に潤いをもらったことだけは確かだろう。もっと子どもたちを川へ!

2008年8月7日木曜日

「じゃんがら」はオフビート


いわき地方に伝わる「じゃんがら念仏踊り」は、今でこそ青年会が中心になって演じる新盆供養の郷土芸能だが、江戸時代には老若男女が「仮装」して「踏舞」するカーニバルだった。

いわきの人間のみならず、「じゃんがら」を知った者は月遅れ盆がきて「チャンカチャンカ」の鉦の音を聞くと、踊りの神様にそそのかされたような気分になる。踊りを見るだけでも血が騒ぐのだから、演じている青年たちはときに恍惚とすることがあるのではないか。

「じゃんがら」の鉦が鳴り出すと、幼い子どもまで体をスイングさせる。「じゃんがら」のリズムには、なにか人の心をゆさぶるものがあるに違いない。それを紐解く言葉を探していたら、音楽関係者が「『じゃんがら』はオフビート」と言っているのを知った。

オフビートを検索したら、こうあった。たとえば、4拍子の曲は1小節に4分音符が4つ入るのが基本で、西洋の音楽は1拍目と3拍目にアクセントがある「強・弱・中強・弱」だ。これに対してジャズは2拍目と4拍目にアクセントがおかれる。つまり「弱・強・弱・中強」。これをオフビート(アフタービート)という。黒人が生まれつき持っているビートだそうだ。

5年前、「じゃんがら」とジャズを融合させた「じゃんがらジャズフエスティバル」がいわき明星大を会場に開かれた。遅まきながらオフビートが「じゃんがら」とジャズを結びつけたのだと納得した。「じゃんがらフェス」をルポした「いわき人(ビット)」4号(平成16年7月=いわき未来づくりセンター刊)も、「じゃんがら」本来の魅力はカーニバル的な踊りの渦にあることを強調していた。

さて、昨日(8月6日)は平七夕まつり初日。会場の一角で恒例の「青年じゃんがら大会」が開かれた。オフビートを体感すべく特設ステージ(大型トラックの荷台)の前へ詰めかけた。ほかに、歩行者天国になった七夕まつり会場の何カ所かで「じゃんがら」が披露された。参加したのは平地区周辺の14団体のみだったが、「じゃんがらフリーク」にはこたえられない一夜になったことだろう。

帰り道、踊りの興奮が立ちのぼるステージから少し離れた細道に目をやると、次の会場へ向かう「じゃんがら」チームの後ろ姿=写真=があった。笹飾りを見ようと集まった人でにぎわう表通りから一歩裏通りへ入ると、歩く人もなく、しんと静まり返っている。青森のねぶたも、秋田の竿灯も、山形の花笠も、仙台の七夕も、裏通りはみんな同じに違いない。

ハレの舞台へケの道を行く。ケの空気に染まって無防備になる。「じゃんがら」道中ではなく、ただの通行人の集団だ。それもカーニバルの日だから、絵になる。

2008年8月6日水曜日

「三春ネギ」関連情報


kobaさんという方から、「三春ネギ」=写真・まだ虫の被害がなかった春先の苗=に関連してコメントをいただいた。欄外にもあるが、「田村郡には昔、岩江村がありその中に阿久津町がありました。その岩江村は昭和30年11月、三春町と郡山市へ編入・合併されました。その郡山市に合併された中に阿久津町があります」。

3月27日に当欄で「三春ネギ」と「阿久津ネギ」の関連性について言及した。それへの情報提供だ。

どこの自治体でもそうだが、今の行政区域は昔とは随分異なる。度重なる合併で地名が変わり、行政区域が変動する。阿久津町についてもきちんと変遷をおさえておかなくてはならない。コメントを受けて、『郡山市史』の現代編と別巻に当たった。

その結果、3月27日に当欄で阿久津は郡山市に吸収合併されるまで「田村郡西田村に属していた」と書いたのは、正確ではなかった。kobaさんも触れているが、その前に岩江村の複雑な離合集散があったのである。

『郡山市史』によれば、田村郡岩江村は明治22(1889)年、白岩・下白岩・横川・安原・阿久津・南小泉・北小泉・芹沢・根木屋・山田・上舞木・下舞木の12村が合併してできた。いわゆる「明治の大合併」による新村誕生だったが、5年後には南・北小泉と芹沢の一部が分村して小泉村をつくる。

この岩江村が、昭和30(1955)年の「昭和の大合併」ではバラバラに分解して地上から姿を消す。kobaさんのコメントにもあるように、白岩・下白岩・阿久津・安原・横川・下舞木の全部および上舞木の一部は郡山市に、山田の全部と上舞木の一部(東北部)は三春町に、残る根木屋と芹沢は同じ年に逢隈村と高野村が合併してできた西田村に分割編入された。

阿久津地区は、行政的には「郡山市阿久津町」で「西田村阿久津」だったことはない。昭和40(1965)年、郡山市の大合併からやや遅れて西田村が郡山市に吸収合併されるより10年早く、郡山市の阿久津だったのだ。

「三春ネギ」と「阿久津ネギ」がイコールかどうかは即断できないが、阿久津は三春と地理的に近く、複雑な歴史的経過を経て現在があることが、あらためて分かった。kobaさんに感謝!

2008年8月5日火曜日

じゃんがら体験プロジェクト


日曜日(8月3日)にいわき市暮らしの伝承郷で、いわき地域学會主催による「いわき学・じゃんがら体験プロジェクト」が開かれた。昨年に続く開催で、学習管理棟で50分の講義を3コマこなしたあと、民家が立ち並ぶ園内のお祭り広場で実技「じゃんがらを一緒に踊ろう」が行われた。

菅波(すぎなみ)青年会が「じゃんがら念仏踊り」を実演し、そのあと青年会員の指導で受講者が手踊りを学んだ。踊りだけ体験したいという人もおり、予定時間の午後1時半になると、お祭り広場には結構な数の人が集まった。

この日は、アジアや南米10カ国から小名浜の港づくりを学びに来た「港湾開発・計画研修員」14人の歓迎事業が実施され、実技と同じ時刻に伝承郷見学が行われた。どうせなら外国の人にもいわきの郷土芸能「じゃんがら」を体験してもらおう、ということになった=写真

「じゃんがら」を体験するという点では、日本人も外国人もない。初めて踊るのだから「右に同じ」である。踊りの輪に加わると、みんなが見よう見まねで手を振り、足を運ぶ。日本人より早くステップをなぞれる研修員もいた。

ちょっとした国際交流になったのではないか。と自負する一方で、外国人も踊ることができる「じゃんがら」のすごさをあらためて実感した。

私は、「じゃんがら念仏踊り」が行われるいわきの文化圏には入らない阿武隈の山の中で生まれ育った。

小学校の高学年のときだったと記憶する。夏休み(今思えば月遅れの盆)に、たまたま祖母と2人で三和町(当時は三和村)の親類を訪ねた。その日の晩、闇のかなたから「チャンカチャンカ…」という鉦の音が響いて来て、子どもたちだけで見に行った。青年会のグループが繰り広げる踊りと演奏に仰天した。

それが新盆の家を回って先祖の霊を供養する「じゃんがら念仏踊り」と知った最初だった。

なぜわが常葉町にはやぐらを囲んで踊る盆踊りはあっても、「じゃんがら」がないのか――。「じゃんがら」ショックに襲われた少年の心は三和村に住むいとこたちがうらやましくてならなかった。

やがていわきに住むようになって、月遅れ盆に「チャンカチャンカ…」が聞こえてくると、もういても立ってもいられなくなる。カミサンも、子どもたちも同様だ。もっとも彼らは生まれたときから鉦の音を聞いて育っているから、「じゃんがら」が体にしみこんでいるという点では、私より幸せだ。

最近「じゃんがらフリーク」になったというカミサンの同級生は、「いわき学・じゃんがら体験プロジェクト」にも参加して「じゃんがら」をたっぷり学習していた。そういう求心力と発信力が「じゃんがら念仏踊り」にはある。言い換えれば、時代を越え、性別・年齢を越えて交響できるなにか(たとえばリズム)が「じゃんがら」にはあるのだ。

2008年8月4日月曜日

「ケツメイシ」の詞の力


疑似孫の両親から「ケツメイシ」のCD『ケツノポリス6』が届いた。全国紙に全面広告が載った数日後、わが家へ酒を飲みに来たとき、何気なく「欲しいなぁ」と言ったらしい。早速、買って来てくれたのだった。

何年か前、車でFMいわきを聞いていたら、「花鳥風月」というタイトルの歌が流れた。若い歌い手なのに「花鳥風月」とは面白い。メロディーも、歌詞もすんなり耳に入ってきた。「ケツメイシ」というヒップホップグループの歌であることを、そのとき初めて知った。

すぐCDを買った。しばらくして『ケツノポリス4』が出たので、それも買った。気に入った。去年(2007年)の秋、会社を辞めた日から『ケツノポリス4』の「ドライブ」を自分の応援歌にして、新しい生活へ踏み出した。

で、今度は『ケツノポリス6』である=写真。CDのテーマは「子ども」だろう。メンバーのだれかが親になったらしく、子どもを慈しみ、母をいとおしく思う気持ちが歌によく表れている。それが、私には孫の成長を応援する歌のように聞こえた。二つの曲に絞る。

まず「オレの道オマエの道」の<道のりは何通りもある/時に心病みそうになる/人生の目的なんて/死んでから問うべき>。とにかく目指す道を進め、さかしらに人生の目的とは何だろう、などと問うな。そんなことは死んでからやればいい。

草野心平の詩「ヤマカガシの腹のなかから仲間に告げるゲリゲの言葉」に出てくる<死んだら死んだで生きてゆくのだ。>と逆の発想ながら、通底するものは同じ。強く明るい生命力を感じ取ることができる。

そして、子どもが生まれてより一層実感する母の慈愛。そのことを歌った「伝承」の、このフレーズ。<あなたを選んで 生まれた/あの日私を 笑顔で迎えた>

吉野弘の詩「I was born」では、少年が「文法上の単純な発見」として父に言う。<正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね>。ところが、「ケツメイシ」の詞は違う。生まれることは選択できない宿命ではなくて、新しい命が母親として「あなた」を選んだ結果なのだと。

吉野弘の詩に漂う人生の寂しさが、ここでは強い生命感に満ちあふれている。母と子の関係に新しい世界を切り開いたのだ。母性とは笑顔。

2008年8月3日日曜日

森の夏キノコ


きょうの日曜日(8月3日)は日中、いわき地域学會の行事がいわき市暮らしの伝承郷である。2回目の「いわき学・じゃんがら体験プロジェクト」だ。裏方の1人なので、日曜日の夏井川渓谷(いわき市小川町)滞在を繰り上げて、きのう土曜日の朝、渓谷にある無量庵へ出かけて菜園の様子を見てきた。

三春ネギはやはり何本か、ネキリムシに食いちぎられていた。ネギの溝を指でほじって10匹近いネキリムシとコガネムシの幼虫をブチっとやった。激辛トウガラシも1株、シンクイムシにやられて葉がしおれていた。芯の中には、既にムシはいなかった。

キュウリを収穫し、葉がしおれたトウガラシの青い実と、ちぎられたネギを回収したあと、対岸の森へ入る。キノコの発生時期になると、どういうわけか「去年の今ごろはあれを採ったな、おととしはこれを採ったな」と、採取キノコの記憶がよみがえる。

お目当ては夏キノコのタマゴタケ。真っ赤な美味菌だ。チチタケや巨大キノコのアカヤマドリも出ているかもしれない。

水力発電所の吊り橋を渡って遊歩道を歩き始めるとすぐ、小さなチチタケが目に入った。程なく傘の径20センチほどのアカヤマドリに遭遇する。点々と距離をおいて発生し始めたチチタケも何個かあった。アイタケもある。ほかの夏キノコも目に付いた。たいがいがイグチ系で、毒ではないが食不適のキノコ。タマゴタケは小さな成菌が2本出ていた。

チチタケ・タマゴタケ・アカヤマドリを採取した=写真。全部料理法が違う。

チチタケは裂いてナスと一緒に油で炒め、醤油で濃く味をつけたあと、水を加えて温め、味を調整してうどんのスープにする。栃木県で有名な「ちだけうどん」が、それでできる。油で炒めるのがポイントで、生を味噌汁に入れてもボソボソしてちっともおいしくない。

タマゴタケは焼いたり炒めたりと応用範囲が広い。が、絶品はすまし汁だろう。キノコ自体がいいダシを出す。鮮やかな色を飛ばさずに目と舌で楽しむ。

アカヤマドリはゆでたあと、傘の裏の管孔をはがす。煮物・炒め物・てんぷら向きだが、若い菌の柄は冷やしてから“刺し身”にする。ほくほくした味と歯ざわりがいい。サトイモに似た食感。

昨夜はあとからタマゴタケも加えた「ちだけうどん」で晩酌を締める。アカヤマドリの刺し身はあした。今日は夕方からプロジェクトの打ち上げが待っている。

2008年8月2日土曜日

再びコハクチョウが飛んだ


間違いない、コハクチョウだ。コハクチョウが旋回している。前も飛んでいるのを目撃したが、あまりにも突然だったので、日がたつにつれて自信がなくなっていた。今度は違う。歩くときも、車を運転するときも、コハクチョウが飛んでいるかもしれない――そう思って夏井川の堤防を行き来しているのだから。

けがをして北へ帰れないコハクチョウ3羽と、この春、飛び立てなかった幼鳥1羽が、夏井川にいる。古い順から「左助」「左吉」「左七」「さくら」だ。

わがままで孤独癖のある「左助」は夏井川河口へ下って行った。横川経由で仁井田浦へ遠征したかと思ったら、また戻って河口にいる。残る3羽も平中神谷あたりで、1羽と2羽に別れたり、合流したりしている。姿が見えないときもある。

8月1日午後5時半ごろ。わが家へ帰るために、車で夏井川の堤防(中神谷)を走っていたら、大きな白い鳥が「コーコー」と鳴きながら飛んで来た。首はまっすぐで、サギのように「乙字」にはなっていない。誰かに確かめるまでもない。「左助」を除く3羽のうちの1羽だ。川の上空を旋回して岸辺林の陰に消えた。7月9日以来の飛行目撃だった。

車で追ったものの、着水したところは分からずじまい。で、帰宅したあと、散歩を兼ねて探索へ出かける。コハクチョウと同様、真っ白なサギの集団がねぐら入り=写真=をしていたのは見えたが、樹木が視界を邪魔してコハクチョウの居場所はつかめなかった。いつも休んでいる調練場の砂州へ寄ると、対岸に「左吉」がいた。「左吉」が飛んだ? まさか。

この日の新聞に、猪苗代町で残留コハクチョウがつがいを形成し、2羽のひなを孵した、という記事が載っていた。いわきでも、いずれそうなるときがくるかもしれない。が、今は1羽がリハビリ飛行に入ったことを喜びたい。「左吉」だって可能性はあるだろう。としたら誰が飛んだのか、ますます分からないのだが。

2008年8月1日金曜日

油圧ショベルがヨシを刈る


わが散歩コースの夏井川は平野部なので、河川敷が広い。それを利用したサイクリングロードがある。流れに沿って蛇行している。アスファルトで固めたコースの幅はざっと3メートルだろうか。夏はヨシやほかの草が丈高く茂るので、緑の壁ができる。

で、少しでも広い空間を確保するために、ソメイヨシノの幼樹が植えられた堤防側の河原は近所の人たちが草刈り機を当てて“散髪”する。ヨシの生えている岸側の河原はヨシが密生しているから、草刈り機のほかに“2輪草刈り機”が活躍する。

先日、サイクリングロードに油圧ショベルがでんと鎮座していた。アームの先端にある道具は四角っぽい。2輪草刈り機の本体を大きくしたようなものだ。これも草刈り機か。次の日に見ると、ヨシの生えている岸側がサイクリングロードと同じくらいの幅で刈り払われていた。

昨日(7月31日)の朝6時半過ぎ、いつものように堤防へ出ると下流の方からエンジン音が聞こえてきた。なんと油圧ショベルがキャタピラを回してサイクリングロードをやって来るではないか。どこへ行くのか。何をするのか。早足で追いかける。

と、サイクリングロードに接続する斜道へ進み、途中から直角に曲がって土手をのぼり出す=写真。堤防のてっぺんに出ると、今度は住宅地へ続く斜道を下って近くの重機レンタル会社に入ってエンジンを止めた。

油圧ショベルに付き添っていた軽トラのおじさんに尋ねる。「これ、草刈り機械ですか」「そう、下の方(六十枚橋下流の河川敷)を刈って帰って来たんだ」

下流へ行けば行くほど民家は遠ざかり、河川敷は広がる。近所の人の手を借りる限界を超えている。それで油圧ショベルの先端に草刈り機を取り付けて、一気に長い距離をやっつけたのだろう。

あとで車を走らせたら、ヨシ原の中を蛇行するサイクリングロードの両側がきれいに刈り払われていた。そこまで維持管理を徹底しないと、サイクリングロードは草に埋もれしまう。

湿潤を特徴とする日本の夏。そして、サイクリニストが現れる前の油圧ショベルの草刈り。初めて目にする夏井川の異風景、奇なる重機の仕事ではあった。