2009年1月31日土曜日

伊達な宝物


仙台市博物館=写真=の目玉展示物は伊達家寄贈の文化財だ。仙台市は伊達正宗が立藩した仙台藩62万石の城下町。その殿様が代々受け継いできた文化財を保管・展示・研究するため、昭和36(1961)年、仙台城の三の丸跡地に博物館が開館した。

仙台藩の表高は62万石といっても、実高は100万石を超えていた。台所事情が悪いはずはない。展示の史料・文物に圧倒された。正宗が愛用したというきらびやかな具足(甲冑・鎧・兜)がある。胴にポシェットが付いているのを、案内ボランティアと思われる女性に教えられた。ちり紙と血止めの薬草を入れていたという。

ついでに、「なんで『ちり紙』なのかというと、紙を漉くときに『ちり』(かす)が出ます。それを捨てずに洟をかむ紙を漉いたんです。それで『ちり紙』といいます」。

仙台藩62万石、磐城平藩10万石(最初の鳥居家の時代)。その実力差を感じさせられるような施設の質量だった。

宮城県美術館も大きかった。いわき市美術館の比ではない。開催中の「ライオネル・ファイニンガー展 光の絵画」を見、常設展と西隣に併設されている佐藤忠良記念館をのぞいた。3つを丹念に見たら1時間では足りない。最後は疲れて早足になった。

ライオネル・ファイニンガー(1871―1956年)はドイツ系移民の子としてニューヨークで生まれた。渡欧し、新聞に諷刺画(カリカチュア)を描いて人気を博した。パリでキュビスムに出合い、光に満ちた半抽象的な絵画を描くようになる。

プリズムを通したような、分光された家と空、澄んだ色づかい。誰かもこんな絵を描いていたな――。スペインにいるいわき出身の画家阿部幸洋がとっさに思い浮かんだ。行きつくところまで行くと画家は「光の絵画」を描くようになるらしい。

さて、せんだいメディアテークも含めて仙台の市立博物館、県立美術館の3施設を視察しながら思ったのは、いわき市美術館の狭隘さと、宙に浮いたいわき市の総合博物館構想だ。

「ハコもの」としての博物館建設はおそらく財政的な問題があって無理だろう。とすれば、総合博物館的な機能をどう持たせるか。美術館増築と併せて検討すべきではないか、と考える人もいる。そのへんが議論の出発点になるのだろうと、あらためて思った。

2009年1月30日金曜日

磐越・東北道を行く


きのう(1月29日)の続き。いわき―仙台間をマイクロバスで往復した。常磐・磐越・東北道を利用して片道ざっと2時間強。自分で車を運転すれば景色を見るゆとりはない。が、今回は運転手付き。列車でもバスでもそうだが、運転しないとき、私は車窓に映る風景にくぎ付けになる。

車内で眠ったり、本を読んだり、おしゃべりしたりはしない。風景を見ないともったいないではないか。いつもそう思うのだ。

最初はマイクロバスの中央にいた。が、どうも写真を撮るには都合が悪い。サービスエリアで一休みしたあと、マイクロバスの最前列に移った。運転手と同じ視線で風景を見ることができる。

郡山までの磐越道では、いわきとわがふるさと(田村市)の山々が現れては消えた。水石山、矢大臣山。田村に入って高柴山、雲をかぶった大滝根山、別名「田村冨士」の片曽根山、移ケ岳。サービスエリアでは、ワシが翼を広げたような鎌倉岳が見えた。郡山市へ近づくと安達太良山の巨塊が迫ってきた。

東北道は阿武隈川流域の平地と山地の境目あたりを走る。阿武隈川は見えない。安達太良山がやはりすごい塊となって西に見える。雪をかぶっている。東に見える北阿武隈の稜線は結構ギザギザしている。私の住む南阿武隈のなだらかな稜線とは随分印象が違う。

行きは晴れ。帰りも晴れだったが、「福島飯坂―福島西 ユキスリップ注意」の表示が出た。近づくと晴れているのにそこだけ雪雲が低く漂っている=写真。運転手が渋い顔になった。が、幸いみぞれが窓をたたくだけで福島を通り抜けることができた。

磐越道は久しぶりの利用だった。上下がともに2車線になっていた。対面通行ではない。安心感がまるで違う。

となると、また別の感慨が生まれる。頭の中の地図には仙台までつながった常磐道が見える。そうなれば、今度のような旅は簡単にできる。娘が仙台にいる人間は常磐道の早い全通を望んでいる。春に娘が仙台に移り住む友人もそうに違いない。

2009年1月29日木曜日

仙台の博物館視察


いわき市立美術館協議会の一員として、おととい(1月27日)、仙台市の3つの施設を視察した。「仙台市博物館」「宮城県美術館」、そして「せんだいメディアテーク」。「せんだいメディアテーク」の建物に、「なんだこりゃ」とのけぞりそうになった。そのことを報告したい。

「せんだいメディアテーク」は道路の中央がケヤキ並木の定禅寺通りにある=写真。街のど真ん中だ。地下2階地上7階建て。見た目はガラス張りの「方舟(はこぶね)」。いわき市の「アクアマリンふくしま」を連想した。

中に入って、奇抜な構造になっていることを知る。「方舟」ではなく、「橋」。各階を貫く「円柱」が何本かある。その円柱が橋脚の役割を担っているのか、各階が橋のように鋼管で支えられているイメージが浮かんだ。「円柱」の中にエレベーターが設置されている。らせん階段を併設した「円柱」もある。

美術・映像文化の活動拠点である。同時に、だれもがさまざまなメディアを通じて自由に情報のやりとりをし、使いこなす手伝いをする公共施設でもある。スタジオやギャラリーで表現空間・活動空間を提供し、図書館やライブラリーで最新の知識や情報を提供する――というつくりに、「さすがは仙台」と感じ入った。同時に、この建物と図書館に「いわき人のゆるさ」を実感した。

南面がガラス張りだから陽光が差し込んで明るい。そして、暑い。夏はひからびてしまいそうだと思ったら、さすがにそのへんは計算している。夏は上部の窓を開けて熱を逃がすシステムになっているらしい。にしても、これは建築家のエコよりエゴが強く出ている建物だと感じた。

「円柱」を使い、7階から順に下りて市民図書館をのぞいた。その瞬間、「屁もこけないな」と思った。静寂。みんな息をつめて本や新聞と向きあっている。それに比べたら、いわき駅前の「ラトブ」にある総合図書館はにぎやかだ。

仙台は、都市の力、というか民度はやはり東北一。いわきに住んでいると、いわきが都市の尺度になる。寒じめホウレンソウになれない「ゆるさ」がそれだ。しかし、それはいたしかたないことなのだ――などと開き直って帰って来た。

2009年1月28日水曜日

倒木の上をリスが


午前中はカチンカチンの凍土。ぶらぶらあたりを散歩するしかない。冬の週末、夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵へ行ったら、いつもそうである。

そこで、対岸(右岸)の遊歩道(東北電力の水力発電所のための導水路巡視路)を歩く。いつもUターンする遊歩道の奥にたどりつくと、やっと尾根から朝日が顔を出した。朝の9時すぎだ。同じころ、無量庵の菜園にも日が差す。が、その時間帯であっても畑に立つには早い。土の中は凍ったまままだ。

いったん無量庵へ戻ったあと、思い立って「ミニ背戸峨廊(セドガロ)」の「山辺沢(やまべざわ))をさかのぼることにした。無量庵の下流にある「籠場の滝」の先、夏井川渓谷の左岸、磐越東線を越えて沢が続く。夏井川の支流だ。前に探索して、ごみに汚されていない水環境に清冽なものを感じた

午前10時をとうにすぎた時間である。線路を越えたら、昔の「木馬道(きんまみち)」に何年か前の倒木が何本もそのまま残っていた=写真。おおかたは赤松だ。針葉樹は殺菌力が強い。それで倒木を分解する菌類の力が作用するまで時間がかかるのだろうか、などと考えながら、対岸へ渡るのに鉄骨で足場が組まれているところまで行った。

この「鉄骨橋」を渡りながら写真を撮り、「今日はここまで」と引き返す。横に尾根を2つ越えれば「背戸峨廊」だが、整備されたそちらは入渓すれば一周4時間がかりのコース。こちらは「木馬道」が放棄された結果、草木が繁茂して道が消え、すぐ行き止まりになる。

ほんとうはミソサザイのさえずりを聴きたくて入ったのだが、それは後日にしよう。というわけで沢の道を戻ると、倒木の上を小動物が渡って消えた。リスだ。久しぶりに夏井川渓谷で四つ足の小動物を目撃した。山辺沢に踏み込んだかいがあった、というものだ。

2009年1月27日火曜日

梅の花が咲いた


いわき市平東部の旧神谷村(現いわき市平塩・中神谷など)は、かつては平の町の郊外(農村)、今はそのベッドタウンだ。夏井川の堤防沿いに広がる畑もだいぶ宅地に代わり、一部を除いて堤防まで家が密集するようになった。

そんな家の1軒に植えられてある梅が開花した=写真。日だまりになっている庭のはずれ、堤防との接点にちょこんと立つ若い梅の木だ。きのう(1月26日)早朝、散歩の途中で梅の白い花が目に止まった。満開の一歩手前といったところか。

そういえば数日前、平・八幡小路と旧城跡を結ぶ高麗橋(通称・幽霊橋)の下の国道399号を通ったら、崖に植えられてある梅の木が2、3分咲き程度に花をまとっていた。ここは、午前中は日だまりになる。夏井川流域の国道399号沿いでは最も早く開花する梅の木として知られる。

にしても、まだ1月下旬だ。随分早い。小名浜測候所が行っていた生物季節観測によれば、いわき(小名浜)の梅の開花の平年値は2月18日。去年は2月15日、おととしは2月8日に開花が確認された。半月以上、いや1カ月近く早い開花だ。

ちなみに、「開花」の定義は「花が数輪以上に開いた最初の日」、「満開」は「約80%以上の花が咲きそろった最初の日」だそうだ。

この陽気に夏井川渓谷の「木守の滝」のしぶき氷も解けてしぼんだ。オンザロックにする天然氷も、寒い日が続かないと調達が難しい。                       
 
梅の花が咲いたからといって喜んでばかりはいられない。天然氷が手に入らないからではなく、最近は自然現象について「こんなに遅くまで」とか、「こんなに早くから」とかと首をかしげさせられることが多くなったからだ。

2009年1月26日月曜日

力士・玉乃島


大相撲初場所は朝晴龍の優勝で終わった。この力士の精神力はすごい。それで相手を圧倒し、白星を重ねてさらに自信を取り戻した場所だったように思う。ハラハラドキドキしながら横綱対決を見た。

横綱とは別に、毎場所気になる力士がいる。「福島県出身」の玉乃島=写真(NHKテレビから)=だ。東の前頭15枚目といえば、あとにいるのは豊真将だけ。負け越せば十両陥落だ。それが、終わってみれば11勝4敗。あっぱれな成績だ。

番付上位ではなかなか勝ち続けることが難しくなった。が、下位になると強い。というより、この力士の不思議なところだが、勝ち始めると勝ち続け、負け始めると負け続ける。それを業界用語では「ツラ(連)相撲」というらしい。その通りになった。

玉乃島は今や「ベテラン」と言われる存在。だからこそ、大事に、大事に相撲を取ってほしいと思う。なぜかというと、メイのダンナのいとこだからだ。父親は福島県西白河郡泉崎村出身の元ボクサー。そして、義理のオジが元大関清国。東京生まれだが、父親の関係で「福島県出身」になっている。兄も力士だったが、体を壊してやめた。

メイの結婚披露宴に、角界入りしたばかりの兄弟が出席した。大学相撲をやっていたから、デビューは幕下付け出しだった。兄の方が十両へ昇進するかどうかというときだったと思う。会場へ入るときに一緒になった。体の大きさと、鬢付け油の独特のにおいが今も記憶に残っている。

メイのダンナは、大相撲が始まるといとこの応援で熱くなる。当たり前のことだ。それが知らず知らずのうちに伝染して、「玉乃島、勝て!」となる。今場所は大勝ちしたから単純にうれしい。が、来場所も大勝ちしてほしいと思っても、そうなる保証はない。そこが「ツラ相撲」をとる力士の切ないところだ。

2009年1月25日日曜日

草野比佐男「くらしの花實」


昨年10月、いわき総合図書館に草野比佐男さん(1927~2005年)の遺族から草野さんの著作二十数冊が寄贈された。草野さんはいわき市の山あい、三和町に住み、農林業を営みながら創作活動を続けてきた作家だ。歌集5冊、詩集4冊、小説集2冊のほか、評論集5冊、エッセー集1冊がある。

寄贈された著作の中に、草野さんが日本農業新聞に毎日連載した「くらしの花實」の自家製本(コピー)=写真=6冊がある。朝日新聞でいえば、大岡信さんの「折々のうた」だ。

「折々のうた」は昭和54(1979)年に始まり、平成19(2007)年に終了した。途中、2年なり1年なり休載しながらも、27年間で連載回数は6,762回に達した。「くらしの花實」は草野さんの死をもって終わるまで9年間続き、2,869回で<完>となった。

大岡さんの博識ぶりはつとに有名だが、草野さんの渉猟ぶりもそれに負けず劣らずすごい。第1回は永田耕一郎という人の俳句「気の遠くなるまで生きて耕して」。短詩型文学を主に、縦横無尽に書物をあさり、すくいとって解釈を加え、最後は「わが眼鏡捜しておれば夫もまた捜しておりぬ」(礒貝美子)の短歌で終わった。

「短評」の舞台が日本農業新聞であり、自身農民であるために、草野さんは農業短歌・俳句・詩を多く取り上げた。でも、大須賀乙字や井上靖、俵万智のほかに、寒川猫持、詩人の辻征夫の作品にまで目を通している。その渉猟ぶりにうなった。ものすごい勉強家だったのだ。それに比べたら私の読書などまだまだ甘い。

2,864回目に「お断り」が載った。「選者の草野比佐男さんが亡くなりましたが、今月中は遺稿を掲載します」。平成17(2005)年9月22日没。その日に私の母親もあの世へ旅立った。

乾浩著『斗満の河 関寛斎伝』


今は水戸に住んでいる知人のN君から、昨秋、電話がかかってきた。話したのは二十数年ぶりか。歴史小説作家の乾浩さんという人と知り合いで、乾さんがいわきとも関係する『斗満の河 関寛斎伝』(新人物往来社刊)=写真=を上梓した。ついては、いわきの人々に本を紹介してくれないか、ということだった。

関寛斎(1830~1912年)は「最後の蘭医」と言われた医師である。今の千葉県で生まれ、佐倉・順天堂で蘭医学を学び、長崎に遊学したあと、徳島・阿波藩の藩医となり、戊辰戦争では官軍の「奥羽出張病院頭取」(野戦病院長)として従軍した。

官軍は上野での戦いのあと、奥羽越列藩同盟の討伐戦に入り、奥羽出張病院も平潟から平へと移動した。寛斎は敵味方の別なく傷ついた兵士の治療をしたほか、地元の漢方医に西洋医学の速成教育を施して治療を手伝わせ、いわき地域における医療近代化のさきがけになった、という。

いわき総合図書館でチェックしたら、『斗満の河 関寛斎伝』があった。が、ずっと「貸し出し中」である。これではいつまでたっても埒が明かない。師走に予約を入れて待つこと2週間、やっと新年になって小説を読むことができた。戊申戦争140年ということで、いわきでも関寛斎に関心が集まっているのだろう。

乾さんは関寛斎の晩年により強く光を当てた。本の帯に「明治35年、73歳で北海道開拓を志した関寛斎。30数年におよぶ医師としての地位・名誉を投げ捨て、北辺の地・斗満の開拓に命を懸けたその苛烈な生きざまを描く書き下ろし歴史長編」とある。斗満は「トマム」。東方やや南に雌阿寒岳を望む、現在の陸別町・斗満がそれだ。

寛斎は貧困にあえぐ人たちを見過ごせなかった。食料を与えるために斗満開拓に情熱を傾けた。しかし、彼が掲げた理想的農業、牧畜村落の建設も、息子との農場経営をめぐる考えの相違から挫折し、結局は夢と終わった。(「あとがき」から)

この夢見る力、高い志、思想を現実化する強靭さ……。団塊の世代は「楽隠居」を決め込む前になにかやることがある、そんな思いを抱かせる本だ。ついでながら、関寛斎については司馬遼太郎が『胡蝶の夢』のなかで取り上げ、徳冨蘆花が『みみずのたはこと』のなかで書いている。

さらにもう1つ。いわきから北海道開拓に入って挫折した人物に詩人猪狩満直(1898~1938年)がいる。満直の入植地は雌阿寒岳南方の舌辛(現釧路市阿寒町)。舌辛と斗満とは直線距離にしてざっと50キロ、というところか。寛斎と満直とでは時代がずれるが、同じ北海道の大自然を相手によく戦い、よく負けた。

2009年1月23日金曜日

煙突から立ち昇る白い煙


朝晩散歩をしている、夏井川下流の堤防から3つの煙突が見える。2つは堤防のそばの工場、1つは左岸の山側にある清掃センター。いつも白い煙(水蒸気?)がモクモクと立ち昇っている。

雨が上がったきのう(1月22日)朝、堤防をとことこ歩いていて、清掃センターの煙が2つに分かれて立ち昇っているのが見えた。直感だが、風はない、でも空気は冷えている、上昇気流ができないから寒気に抑えられて左右に煙が分かれるのだ――そう思った。

風のない冬の朝、野焼きの煙が水平に漂っているときがある。それと同じではないのか。寒気と重力に、煙といえども支配される。水蒸気も同じように支配される。実際はそうではないかもしれないが、私にはそんなイメージが浮かぶ。

写真を――と思ったが、堤防からは電線が邪魔になって撮れない。電線のないところまで行ったら、煙は1つになっていた。あとで再度撮りに行ったが、やはりただの煙でしかなかった=写真

清掃センターの煙は、年末・年始には消えた。操業を休んだのだから当然だが、煙を吐かない煙突はなぜか寂しく感じられた。煙が復活して、今年もいわきの社会が動き出したことを実感した。

堤防そばの工場についても、煙を眺めながら勝手にあれこれ想像する。今日は週末だから休んだか、生産調整をして一部操業を中止したか、などと。

去年は2つの煙突から煙が立ち昇っていた。きのう、煙を立ち昇らせていたのは1基だけだった。あらゆる業種が世界同時不況の影響を受けているという。この工場もそれと無縁ではないだろう。

今朝は雨。散歩は中止したが、あとで街へ行くとき、車を走らせながら煙の有無を見てみようと思う。なんとなく気にかかるのだ。

2009年1月22日木曜日

ガン・カモ類調査


日本野鳥の会いわき支部が1月11日、「ガン・カモ観察会」を実施した。その4日後(1月15日)、カウント数が新聞に載った。数字を見た感想を少し述べたい。

カモ類は5,650羽。去年より964羽増えた。ハクチョウ類700羽。去年より608羽減った。参考調査のカワウは153羽。去年より一気に120羽増えた。

大挙してやって来るハクチョウやカモ類は、年によって変動がある。1,000羽前後の増減は、私はそんなに気にしない。暖冬なので、北海道の湖などがまだ結氷していないのだろう。「えさやり自粛」のせいかと見る向きもある。が、それよりも南下する必要がないから、ハクチョウ類は北の方にとどまっている。そっちの方が、理由としては大きいのではないか。

第一、ハクチョウ類が「今年はえさをもらえないんだってよ」などと言って、どこかにとどまったり、別の場所に移ったりするだろうか。来たいところに来るのだ。家に支配される人間とは違って、ハクチョウたちはすみかを選択する。

さて、高級官僚は「天下り」をしたあと、「渡り(鳥)」になる、という話は置いといて、ウである=写真(泳いでいるのはオオバン)。

ウにはウミウとカワウがある。単純に、川の上流に飛来するのはカワウ、海や川の下流にいるのはウミウ――と分けているのだが、素人には区別がつかない。しかも、人の気配を感じるとすぐ飛び立つ。ますます区別しにくい。

数年前までは、いわきの夏井川でウの姿を見ることはまれだった。野鳥の研究者も「いわきにいるのはウミウ」という判断だった。が、夏井川を毎日見ていると、その常識が通用しない、という思いが強くなってきた。毎年、ウの数が増えているのだ。カワウではないのか。野鳥の会の「参考調査」で溜飲が下がった。やはり、カワウだったのだ。

河口で一休みしていたウたちはウミウだろう。ハクチョウやカモたちが休んでいる辺りにいるのはカワウだろう。漠然と分けながらも、早く識別力をつけなくては、と気をもむこのごろだ。

2009年1月21日水曜日

勿来八景の話


旧知のいわき市勿来支所長氏から電話が入った。江戸時代に磐城平藩を治めていた内藤家の「殿様」の俳句について教えてくれ、という。教えるほどの知識はない。が、休日は学際集団(いわき地域学會)のなかで江戸時代末期の俳諧を調べてきた。

支所長氏がいう元禄時代の俳諧については、研究している先輩がいる。その先輩の手ほどきで、出羽の国に生まれ、磐城平の山崎村にある専称寺で長年修行し、やがて江戸へ出て宗匠になった幕末の俳僧一具庵一具(1781~1853年)と向き合ってきた。今に続くライフワークでもある。

支所長氏は「一字だけ分からないものがある」と、松尾芭蕉のパトロンだった内藤露沾にからむ勿来の俳句を持ち出した。昨秋、公民館の副館長氏から、「殿様」が中国の「瀟湘八景」をまねて呼んだ「大高(窪田)八景」、今流にいえば「勿来八景」について問い合わせの電話が入った。その延長線上での話である。

きのう(1月20日)午前、いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」内にある総合図書館の4、5階を行ったり来たりしながら、元の資料である天理図書館綿屋文庫の『露沾俳諧集 上』(原本の写真版)を開き=写真、その一字と一句の読み・解釈を考えた。崩し字は、私は読めない。が、推測はできる。

  大嶋夜雨
香を焼(た?)く簾の聲も水鶏(くひな)哉 昨非

支所長氏の質問は下の句の「水鶏」の「鶏」についてだった。「何と読むのか」。最初は「鶏」が「鶴」に見えた。「水鶴」という当て字は、しかしどの図鑑・辞典にもない。句の構成からいって「水鶏(くいな)」以外にはあり得ない。その確証を得るために、先輩のもとへ駆けつけたら、一発でけりがついた。「水鶏」でいいという。

ちなみに「勿来八景」は大嶋夜雨のほか、大高朝霞・関田晩鍾・湯嶽晴雪・平潟帰帆・小浜夕照・佐糠落雁・中田秋月である。

昨秋、勿来図書館で「勿来八景写真展」が開かれた。引き続き、勿来支所であさって(1月23日)まで同展が開かれている。その新聞記事を読んでがっかりした。内藤露沾が「俳諧大名」だって!                                   
 
父親の風虎は確かに「俳諧大名」だったが、露沾はついに大名にはなれなかった。新聞に再び間違いが載るようになって、血圧が上がった。

2009年1月20日火曜日

霜柱を踏む


1月18日の日曜日は、用事があって夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵で過ごすことができなかった。師走と正月は、そんなことがたびたびある。勤めていたころからそうだ。忘・新年会やイベントが土・日に入る。浮世の義理は欠かせない。

で、きのう(1月19日)の月曜日、「一日遅いオレの日曜日」と渓谷へ車を走らせた。雨上がり、冬型の気圧配置(西高東低)になって風がビュービュー吹き始めるころ、無量庵へ着いた。

畑の表土は凍っている。生ごみを埋めるだけだが、日が差して凍土が緩むまでは森を歩くなり、こたつに入って本を読むなりして過ごすしかない。無量庵の対岸の森へ入った。

「木守の滝」が凍っていないか、エノキタケが出ていないか、どこからか吹き飛ばされて来た小枝にキクラゲが着いていないか。なにかしらの「発見」と「実益」を兼ねて、歩く。結果はゼロでもいい。それを確認することで記録が蓄積される。

岸辺の林内に水力発電所の導水路があって、遊歩道を兼ねた巡視路が続いている。林は落葉樹が多い。冬は空が広がり、放射冷却がきつくなる。巡視路を行くと、ザクッザクッと地面が音を出して沈んだ。霜柱が立っていた。落ち葉に覆われたところはさほどでもない。土だけのところが部分的に盛り上がっている=写真

暖冬とはいえ、寒さがピークを迎えつつある。夏井川に注ぐ沢の、「木守の滝」のしぶき氷も成長を始めた。本流、「籠場の滝」の岩盤も少しだが、しぶき氷が張りついてうっすら白くなりかけている。

去年(2008年)の記録を見ると、1月末にはグンと冷え込んで「木守の滝」のしぶき氷がてっぺんまでつながった。「籠場の滝」の岩盤も全体がしぶき氷をまとっていた。その姿に近づこうとしている。

アスファルトに覆われたマチの道路は、厳寒期も夏の暑い盛りものぺっとしたまま。路面がぬれていればうっすらと氷が張るくらいだ。すっかり忘れていた霜柱の感触が、氷の冷たさが、夏井川渓谷の森へ分け入ってよみがえる。冬はこうなんだ――。

週末、家庭菜園に立つとはいえ、土のある暮らしからは程遠くなった。子どものころは土のある暮らしそのものだった。雑木林で遊び、刈り田で遊び、校庭で遊んだ。せめて今はときどき、腐葉土の堆積した森の小道を巡って、いろいろと足で考える。

2009年1月19日月曜日

ワイエスの死


今年初め(1月4日)にアメリカの画家アンドリュー・ワイエスのテレビ番組=写真=を見たばかりだと思ったら、おととい(1月17日)の全国紙で彼が16日にこの世を去ったことを知った。享年91。

きのう(1月18日)の福島民報に載った共同通信の記事によれば、生涯をペンシルベニア州やメーン州の田園地帯で過ごし、田園風景などを題材に水彩やテンペラ画を描いた。足の不自由な女性が広い畑を家に向かってはう姿を描いた1948年の「クリスティーナの世界」は有名――と報じている。私の記憶では、畑ではなく丘の家に続く斜面だったはずだが。

福島県立美術館はワイエスをコレクションの柱の1つにしている。1月4日のテレビ番組でもそのコレクションが紹介されていた。14年前に開かれたワイエス展を見に行った。今年3月中旬から再びワイエス展が開かれる予定だという。むろん、見に行くつもり。

ワイエスの画集は、日本では「カーナー農場」から始まって「クリスティーナの世界」「ヘルガ」が発刊され、4冊目に「アメリカン・ヴィジョン ワイエス芸術の3代」が出た。私は、4冊目は持っていない。

子育て真っ最中でカネはない。でも、欲しい。若いころ、思い切って3冊まで買い続けた。私には、ワイエスの自然観が哲学者内山節さんのいう「自然と人間の交通」論と通底しているように思われた。アメリカにも同じような考え・感覚を持っている人間がいる、というのは発見だった。

アメリカにはH・D・ソロー以来の自然志向が根強くある。詩人のロバート・フロストもそう、ゲーリー・スナイダーもそう。ワイエスもその系譜に位置づけられるだろう。テレビ番組で、孫娘に質問を受けたワイエスは「午後はすべて自分の時間で、ひとりで野原を歩き回りました」と答えている。ソローと同じではないか。

アメリカは、大統領が民主主義をうんぬんする割には若くて過激なところがある。すぐ鉄拳制裁にいく。それを脇におくわけにはいかない。が、ソロー以来の伝統もまた息づいている。そこで時々、アメリカの「ネイチャーライティング」の世界に分け入る。

と、ここまで書いてきて、唐突ながら1月19日はいわき市生まれの「文学界」新人賞受賞作家河林満さんの命日であることを思い出した。

河林さんに進呈したいわき地域学會出版図書『鮫川流域紀行』が小説の参考になったことを知ったときはうれしかった。この1年、折にふれて河林さんのことが胸中をよぎった。遅ればせながら、銀河の旅を続けている河林さんにきょう(1月19日)の午後5時38分、献杯をするつもり。むろん、ワイエスにも。

2009年1月18日日曜日

「いわきネギ」出荷最盛期


わが家のあるいわき市平中神谷地区は夏井川下流の氾濫原。上流から運ばれて来た砂が広く厚く堆積している。で、堤防に近い畑ではネギが栽培されている。ネギは水はけのよいところでないと育たない。砂地が適地なのだ。

朝晩、やや遠くまで散歩する。夏井川の堤防へ近づくと、ツンとネギの匂い(硫化アリル=アリシン)のするときがある。畑からネギを引っこ抜いたばかりだったり、皮むき中だったりすると、硫化アリルが一帯に滞留しているのだ。晩秋から真冬にかけてが「いわきネギ」の収穫=出荷時期。匂いも含めてネギの収穫・出荷作業はいわきの冬の風物詩だ。

出荷するだけの量を栽培している農家は、機械を使ってネギの皮をむく。堤防を歩いていると、ビニールハウスの方から「ヒューッ」と音がする。ハウスの中央にすきまがあって、青く大きなネットが外に出ている=写真。空気を利用してむいた皮をそこへ飛ばすのだ。むいた皮は畑に返される。

「いわきネギ」は太くて長い。皮をむくとテカテカして稠密だ。テカテカとハリには、「三春ネギ」は太刀打ちできない。が、甘さや軟らかさでは「三春ネギ」に軍配が上がる。秋は自分で栽培している「三春ネギ」を収穫し、「三春ネギ」の葉が枯れる冬は「いわきネギ」を買って食べる。

前にネギ栽培の専門家に取材したが、今の「いわきネギ」は昔の「いわきネギ」とは違う。病気に強く、風折れしない。そして、消費者が好むテカテカとハリがある。とにかくみっしりしている。すきやきの鍋に入れても形が崩れない。だから、味噌汁は「三春ネギ」、鍋物は「いわきネギ」と食べ分けをする。

いわき地方では、北から仁井田川、夏井川、鮫川の下流域がネギの産地として知られている。ネギはいわきを代表する農産物の1つだ。 
                      
私は、今の「いわきネギ」より昔の「いわきネギ」、もっと言えば「白土ネギ」とか「川中子ネギ」を食べたい、というよりそのネギに「会いたい」という思いがある。種が消えたらおしまいだから(白土ネギは種が消えた)。

2009年1月17日土曜日

古紙類「持ち去り厳禁」


「古紙類【持ち去り厳禁】」。コーティングされたA4判の紙がある=写真

「これらの古紙類(新聞紙、段ボール、雑誌類、紙パック、紙箱・紙袋・包装紙)は、私たち地区民が行政区の財産として『いわき市古紙回収事業協同組合』へ売却・引き渡しのため出したもので、放置したものではありません。/『いわき市古紙回収事業協同組合』以外の方は持ち去らないでください。」

いわき市の古紙類回収は毎月1回。その日のきのう(1月16日)朝、回収をまかされている「協同組合」の人と、そうではない「持ち去り」組のトラブルが起きて、地元の行政区が「持ち去り厳禁」の紙を出した理由が分かった。

「持ち去り」組は「NPO法人◎●」である。「通行の妨げになる(つまり放置されている)から撤去してます」。それが「NPO法人」の言い分だ。「協同組合」の人が、まあ、これも言いすぎだとは思うが、「ドロボー」と大声でいう。それで驚いて「なにごと」と外へ出た。埒があかないから、地区の保健委員に来てもらった。その場でだれかが市役所に電話した。で、どちらに問題があるのかが分かった。

「NPO法人」にしては言葉が荒い。「NPO法人の『社員』」だという若い優男と優女が「てめえ、この野郎」などと「協同組合」の人に言っているのを聞くと、わけが飲み込めないこちらもカチンとくる。おまけにデジカメで写真まで撮る。これを一般的には「脅し」という。

市役所に電話して「持ち去り」が分かってからは、中立を保っていた住民の目つきが「NPO法人」に厳しくなった。間もなく「NPO法人」の2人は「リサイクル資源」を積んだトラックで去った。「国に許可をもらった」という「NPO法人」だが、トラブルを起こすようではお里が知れる。

「カイシャ」ではなく、「シャカイ(地域)」のなかで仕事を始めて分かったトラブルである。そういうことはときどきあるという。行政区の区長や保健委員は、地域が無事であるためにふだんから目配り・気配りを重ねているのだ。

2009年1月16日金曜日

社会保険事務局から電話


おととい(1月14日)、家で仕事をしていたら、カミサンが電話の子機を持って来た。「福島社会保険事務局だって」。若い女性が「先日、厚生年金支給の手続きをされましたね」と言う。「したけど、何か」

ここから面白くなった。地元の平社会保険事務所ではノーチェックだったが、会社に入る前の記録があるという。あって当然だ。めんどくさいからほうっておいたが、21歳のとき、大阪万博の駐車場で3カ月ほどアルバイトをした。そのとき、厚生年金保険料の個人負担分を天引きされていた。

電話の向こうで、記録とこちらの記憶があっているかどうか、探りを入れているのが分かる。最初は20歳前後の建築作業員のときのことしか思い浮かばない。「霞が関ビルとか京王プラザホテルとかの高層ビル建築現場で働いたけど。ん、駐車場? あっ、大阪万博だ」

大阪万博は昭和45(1970)年3月14日に開幕した。終幕は半年後の9月13日。そこの駐車場でアルバイトをした。おじが東京で駐車場を経営する会社に勤めていて、近所の下宿で2カ月以上もくすぶっていた私に大阪行きを勧めたのだった。

そのころのことを思い出すと気持ちが高ぶる。時代のキーワードはロックアウト・投石・機動隊・催涙ガス・カルチェラタン……。個人的には東京漂流・「現代詩手帖」への投稿・パスポートを持った沖縄渡航、そして就職のための断髪。その折り返し点あたりにエキスポ(万博)と大阪生活があった。

記録と記憶が重なったことを確認して、電話の女性は「年金の記録に加えます」。願ってもないことだ。私の場合は、なんとなくもやもやしていたものが行政当局のチェックですっきりした。

団塊の世代はあのころ、そんなアルバイトを普通にしていたのではないか。3カ月ほどだったが、40年前の記録が残っていて年金に加算される――青空に浮かぶ綿雲=写真=のような、ほっかりした気分になった。

2009年1月15日木曜日

コクチョウ舞い戻る


毎日見に行くので、夏井川のコハクチョウについてはどうしても書く機会が多くなる。毎朝、コハクチョウにえさをやるMさんとも、堤防で会えば言葉を交わす。

きのう(1月14日)の朝、えさをやり終えて軽トラで帰って来るMさんと堤防の上で会った。Mさんは車を止めて「きのう(1月13日)の朝、(夏井川)河口にコクチョウが2羽来ていた」、助手席の奥さんも「体の大きさが違うの。1羽は子どもかな」という。

コクチョウについてはこちらが一日早く見ている。「おととい(1月12日)の夕方、ここに来たんですよ。昨日の朝見たらいないから、どこへ行ったのかなと思ってたんですが、河口へ移動したんですね」

「鮫川に半月ほどいて大騒ぎになったらしいが、それが飛んで来たのかな」とMさん。「そうですか。ところで、『左助』はどうですか」。「左助」はけがをして残留している最古参のコハクチョウだ。Mさんが苦笑しながら「あいつは夜、川を下ったり上ったりしてんだ。今朝(1月14日)は(河口から)戻って来た」。「夜遊びが過ぎますよね」「あははは」

「左助」は、今冬はまだ仲間が飛来したいわき市平塩(対岸でいえば平山崎)地内=写真=までさかのぼって行かない。残留2番手の「左吉」もサケやな場の下流、平中神谷字調練場にとどまっている。そこと河口との間を「左助」が行き来しているのだ。

Mさんとコクチョウの情報を交換したその日夕方、街から堤防経由で帰って来ると、12日に目撃した同じ場所につがいのコクチョウが舞い戻っていた。

たまたま下校途中の中学生が2人堤防にいた。カミサンの顔を見ると「○×のおばさん」という。「コクチョウがいるよ」と指をさすと、初めて「えっ、ほんとだ」。おしゃべりに夢中で川の中にいる黒く大きな鳥は目に入らなかったらしい。

Mさんの話だが、前日と同じ数のコハクチョウがいても「左助」と「左吉」がいないときがある。こちらは堤防から眺めるだけだから、「左助」も「左吉」もいると思い込んでいる。それと同じで、興味・関心がないとそこにコクチョウがいても見えないのだ。    
 
今朝(1月15日)はどこを探してもコクチョウの姿がない。このつがいのコクチョウも「左助」と同じで、放浪癖があるようだ。

2009年1月14日水曜日

湯川隆彫刻展


湯川隆彫刻展がいわき市小名浜の「ギヤラリーアイ」で1月26日まで開かれている。私も関係しているいわき地域学會の美術賞受賞記念個展である。初日10日のオープニングパーティーに顔を出した。

湯川さんは47歳。いわきに居を構えたあとイタリアへ留学し、近年はコロンビアに長期滞在をして制作したり、アメリカや韓国で作品を発表したりと、国内外で仕事を展開している。

案内状に、いわき市立美術館の佐々木吉晴副館長が「国外での活動は『めざましい』を通り越して『凄まじい』の一語に尽きる」と評している。会うと、どこそこから帰って来た、どこそこへ行く、という話になる。制作の場が世界にある、いわきでは珍しい存在だ。

何年か前、朋友の絵描きの個展会場で知り合った。私よりは一回り以上若い。だから「テラコッタと木を組み合わせた人体表現に取り組んでいるこの数年」(佐々木副館長)の彼の作品しか知らない。その作品に、妙に引かれる。

がさついた心が彼の作品の前に立つと、少し湿り気を帯びる。乾いた細胞の内部がうるおってきて、敬虔な気持ちになる。「癒される」という言葉はできれば使いたくない。が、それに近い状態になるのだ。カミサンは作品(もちろん、ごくごく小さいもの)を孫の「守護神」にしたい、なんてことを言う。

舟越桂さんの木彫作品はテレビと活字媒体でしか知らない。それを承知でいえば、湯川さんの木とテラコッタの作品は、舟越さんと「親」を同じにする「兄」と「弟」のような関係ではないのか。そんなふうに思ったりする。

清楚な女性像のなかに、「夜警2009」=写真=と題された男性像がある。私がすぐ連想するのは「夜警国家」=「小さな政府」だ。その反対概念は「福祉国家」=「大きな政府」。現実政治への、湯川さんなりの異議申し立てなのか、などと考えたりする。湯川さんは結構、非日本的な大きな概念を作品にしのび込ませる。

2009年1月13日火曜日

夏井川にコクチョウ飛来


きのう(1月12日)の午後3時からまり、いわき駅前の「ラトブ」へ向かって車を走らせていたら、西から黒雲が膨らみ広がり、阿武隈の山々を覆いながら迫って来た。街に入ったら急にポツッポツッと車をたたき始めた。雨、というよりみぞれだ。

吹雪の写真が撮れるかもしれない――「ラトブ」の地下駐車場に車を止めて、デジカメを手にいわき総合図書館(4~5階)に入った。郷土資料のある5階北側の窓からいわき駅をはさんでお城山の崖が見える。それをバックにみぞれが雪に変わってふぶいていた。

まず資料のコピーをしてから、とそっちを優先させたのがいけなかった。5階にはコピー室が2つある。4階にも1つある。いずれも先客がいた。仕方ない、本を借りるか。借りる本は決まっている。本を借り、コピーをし終わってみたら、あれっ、日が差しているではないか。「にわか雪」だったのだ。

太陽に照らされながら帰途に就き、街を過ぎて夏井川の堤防へ出た。「にわか雪」をもたらした黒雲のカーテンが激しく揺れて海の方へ去って行くところだった。コハクチョウが休んでいる平・塩地内を過ぎると、黒い水鳥が2羽、夏井川の中ほどにいた。コクチョウである。

朝、散歩したときには、コクチョウはいなかった。そのあとに飛来したのだ、いや雪をもたらした黒雲から産み落とされたのだ。となれば面白いのだが、お隣の茨城県水戸市にある繁殖地・千波湖からやって来たのだろう。

おととしも11月にコクチョウが1羽、飛来した。しばらく塩~中神谷の夏井川に逗留したあと、どこかへ飛んで行った。

今度の2羽はつがいかもしれない。人間を恐れない。私が岸辺に立つと近づいて来た。私は、えさはやらない。と、長い首を水中に突っ込み、護岸ブロックに付着したノロのようなものを食べ始めた=写真。コクチョウは掃除屋か。

というわけで、目の前でじっくりコクチョウを観察することができた。吹雪の代わりに、コクチョウの写真が撮れた。結果オーライである。(コクチョウは今朝=1月13日=7時には、もうどこにも姿がなかった)

2009年1月12日月曜日

いわきの前方後円墳


いわき古代史研究会の講演会が1月10日、ティーワンビルのいわき市生涯学習プラザで開かれた。福島大准教授の菊地芳朗さんが「いわき市玉山古墳とその時代」と題して話した=写真

いわき市四倉町の「里山」に眠る玉山古墳は、東北でも有数の「前方後円墳」(前方が西、後円が東)である。昭和55(1980)年、福島県指定史跡に登録された。この時点では、大きさが108~118メートル、築造年代が5世紀前半と推定された。

平成16(2004)年から4年間、測量と計11カ所のトレンチ(試掘坑=溝)調査が行われた。菊地さんは専門家として「調査指導」を担当した。その結果分かったことを、自分の見解も踏まえながら紹介した。

まず、試掘調査で判明したこととして、菊地さんは①規模=墳長112~113メートル、後円部直径60メートル、前方部前端幅40メートル以上、前方部長約55メートル②後円部が大きく、前方部が特に大きく広がる形状になる③築造年代は出土土器から古墳時代前期後半でも末に近い時期、暦年代で4世紀中~後期にさかのぼる、という。

北側がかなり削られている。現在の地形からは想像できないが、もともとは「そんじょそこらにある古墳(前方後円墳)ではない」(菊地さん)。思った以上に大きいのだ。東北地方で3~4位、東日本でも50位前後の規模だという。

詳細な成果はさておき、特に私が心引かれたのは埋葬された人物像と場所だ。玉山古墳は仁井田川の左岸にある。墳丘からは太平洋(仁井田川河口)が見える。川・海、つまり水上(海上)交通権を掌握していたいわき地域の首長の墓ではないか――というのが菊地さんの見解だ。

仁井田川の西隣、夏井川でもそうだが、古代の港は河口から内陸部にある浜堤(ひんてい=砂丘)と交差する場所に築かれた。菊地さんは仁井田川河口付近に港(津)が存在し、被葬者がこれを大きな権力基盤とした、とみる。いわきは海のほかに、阿武隈高地を越える東西幹線道路の出発・ゴール地点、海岸部を南北に貫く街道の要所、つまり陸上交通・海上交通の結節点である――というのは現代も同じ。

あの世へ行っても、自分が支配していた世界、最も輝いていた場所と時間を見続けていたい――そんな心情が海の見える丘に「前方後円墳」をつくらせたのだろうという話に、大いにロマンをかきたてられた。その人物がいつかは解明されるに違いない。

平面的・空間的な「浅いいわき」はそれなりに知っているつもりだが、時間軸を加えた4次元の「深いいわき」となると、まったくお手上げ。ディープないわきを学ぶまたとない機会となった。

2009年1月11日日曜日

生のネギは風邪薬


1月8日の全国紙に、福岡市動物園のチンパンジーが今冬から風邪予防のために毎朝ネギを食べている、という記事が載った。翌9日には、民放が午後6時台のニュース番組でその食事風景を紹介した=写真

風邪を早めに治す民間療法に、刻んだ生ネギに削りぶしと味噌を加えてまぶし、熱い湯を注いで飲むものがある。味噌汁ではなく、醤油汁にする家もあるようだ。引きはじめに飲んで寝ると不思議や不思議、汗が出て風邪の症状が消えている。ネギに含まれている臭気のモト、硫化アリルがウイルスを撃退して体を軽快にするらしい。

東京の多摩動物公園でチンパンジーにこれを取り入れたら効果があった。で、福岡市動物園でも右ならえをした。<ならばチンパンジーに右ならえするか>となって、「味噌まぶし生ネギ」のお湯をすすり、風邪を治していたのを思い出した。

常置薬に頼り過ぎる時期が長かったのかもしれない。年末に風邪を引いて、よくなったと思ったらまたぶり返して、ぐずぐずした状態が3週間近く続いている。一晩で風邪の症状を治したカミサンは「酒の消毒が逆効果なのではないか」となじる。

きのう(1月10日)の朝、ご飯と一緒に、お湯なしで「味噌まぶし生ネギ」を食べた。と、胸やけはしたものの、昼過ぎには鼻のグズグズも、のどのゼーゼーも治まった。効果てきめんだ。

午後は2カ所、人の集まる所へ行く必要があった。マスクで通したが、割と普通に過ごすことができた。夜7時前には帰って、再び「味噌まぶし生ネギ」をつまみながら、焼酎で体を消毒した。なんだかのども、鼻も元にもどりつつあるような感じだ。やはりネギはいい。

初冬にテレビのローカルニュース番組で、畑へ取材に行った記者が「阿久津曲がりネギ」を生でかじり、「甘い」とうなっていたのを覚えている。今度はチンパンジー並みに、生の「阿久津曲がりネギ」をかじってみるとしようか。

2009年1月10日土曜日

自前の白菜を漬ける


白菜漬けが底をついた。夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ車を走らせて、菜園から白菜を何玉か取って来なくてはならない。太平洋側が雪になりそう――というので、きのう(1月9日)の昼、雨模様(雨はまだ降っていない、念のため)のうちに車を走らせた。

師走に入ると、結球を始めた白菜に鉢巻きをした。少しずつ寒気が強まってきたらしく、外側の葉が凍って先端からチリチリになり始めた。結球しそこなった小玉は、もう黄色い「葉ボタン」だ。ウデが悪いから大玉はない。中玉を4つ、カマで切り取った=写真

鉢巻きなしの白菜は10玉余。これ全部がヒヨドリのえさになる。例年、1月前半くらいまではヒヨドリの来襲はない。が、後半に入ると必ず来る。すると早い。たちまち「葉ボタン」が消える。

毎年のことながら、わが菜園の白菜が育って結球するまでは、朝市に並んだ白菜や頂きものを漬けて食べる。暮れのクリスマスイブのころ、初めて自前の白菜を収穫して漬け、新年と同時に自前の白菜漬けを食べ始めた。2日に2家族がわが家へ合流した。1人が、リップサービスかもしれないが、白菜漬けを「おいしい」と言ってくれた。

そうなると俄然、やる気がわく。「豚もおだてりゃ木に登る」だが、自分でつくった白菜を自分で漬ける、というところに、「生存」と結びついた「安心」を感じるのだ。

底をついたとはいえ、古い白菜漬けにキムチの素をまぶしたものがタッパーに入って残っている。甥っ子から広島菜の漬物も届いた。新しい白菜漬けが食べられるまで、軽く1週間はしのげる。

夕方になると雨が強くなった。毎週金曜日に卵を届けてくれる川内村のバクさんは、「うちに電話したら、川内は雪だって」と言って、そそくさと帰って行った。きょうはこれから、自前の白菜を八つ割りにして干す。夜か、明日(1月11日)の朝には漬ける。それでまた安心する。

2009年1月9日金曜日

冬の「川前のカツラ」


いわき市のJR磐越東線川前駅から見ると、広場の先、夏井川に架かる橋の上流左側にその巨樹がある。橋の向こう側、県道小野四倉線からは対岸の水辺にその巨樹が見える。「川前のカツラ」だ。

去年の4月末近く、新緑が見事だというので見に行った。圧倒された。実測データがないらしいから、なんともいえないが、とにかく大きい。一発でいわき市の天然記念物になるくらいのシロモノだ。いや、「国指定」級といってもいいかもしれない。

川前は夏井川渓谷の上流。カツラのある付近は「V字谷」が緩んで少し開けた「U字谷」になっている。その岸辺に根を生やして何百年になるだろう。同じ川前の丘陵地に国指定天然記念物の「沢尻の大ヒノキ(サワラ)」がある。推定樹齢800年の、日本一のサワラだという。それに匹敵するくらいの存在感だ。

先日、田村郡小野町へ行った帰りに「川前のカツラ」を見た=写真。冬は落葉して裸になっている。株立ちの本数は分からない。が、とにかく幹が密集して空に伸びている。枝も川面へ、天へ、横へと、四方八方に広がっている。それでバランスを取っている。不思議と安定しているのだ。

裸のカツラはごつごつとして厳しい。落葉樹は、冬はどんな木もよろいだけになる。厳しいのは当然だ。そして、やさしい。巨樹の放つ生命力とでもいうのか、見るだけで雑念が消える。元気になる。

カツラの紅葉もいいらしいが、去年の秋は見逃した。今年は四季を通じて「川前のカツラ」を見るとしようか。夏井川渓谷の無量庵からは車で十数分の距離。それに、月々のガス代を払いにカツラのある川前の集落までよく出かけているのだから。

2009年1月8日木曜日

七草粥もどき


きのう(1月7日)は「七草」。昼に「七草粥もどき」を食べた。風邪をぶり返したらしく、少々だるい。わが家でこたつに入って過ごした。「もどき」とはいえ、食欲がなえた身には粥はありがたい。

今年の「七草粥」は青物が3つ。摘んでおいたフキノトウとミズゼリと、買いおきの大根の葉と。まさにあり合わせの「七草粥もどき」である。

元日、夏井川渓谷の無量庵へ出かけ、庭のフキノトウを摘んだ。どういうわけか1カ所だけフキの群生しているところがある。毎年、師走になるとフキノトウ=写真=が頭を出す。それを年末・年始のいずれかに摘んでみじんにし、元日の雑煮に散らしたり、「七草粥」や味噌汁に加えたりする。

ミズゼリも無量庵の近くの小流れに生えている。カミサンがお椀1杯分ほどを摘んだ。

カミサンは去年あたりから小流れの管理を買って出るようになった。雑草を引き抜いたりごみを取ったりしているが、雑草の繁殖力の方が勝っている。

小流れは1年中涸れることがない。前にクレソンを放したら繁茂した。が、水かさがないから丈高くは育たない。水上の葉は寒風にさらされ、赤茶けている。

さて、「七草粥」は邪気を払い、万病を除くという。風邪もまた邪気・病気の1つ。粥をすすったから治るだろうと思ったら、今度は午後遅くにカミサンがおかしくなった。風邪薬を飲んだら眠くなった、という。

日が暮れると、起き出して「近くのスーパーへ買い物に行こう」となった。台所仕事は免除願いたい、ということである。異論はない。帰って、カミサンの風邪が早く治るようにと念じながら、砂肝の空揚げなどを肴に晩酌を始めた。風邪を引いてもアルコール消毒は欠かせない、というのがさもしいところだが。

2009年1月7日水曜日

三春ネギ苗に寒冷紗のドーム


夏井川渓谷(いわき市)にあるわが埴生の宿の「無量庵」は、冬本番を迎えて朝の室温が氷点下5度前後まで下がるようになった。わきにある菜園の土も、厳寒期には厚さが10センチ近く凍りつく。午前中はスコップも鍬も歯が立たない。そこに三春ネギとサヤエンドウの苗床がある。苗はかじかみながら春を待っている。

年が明けてやっと、もみ殻を入手した。すぐサヤエンドウの苗床にまいた。風除けのササを差してやらなかったから、罪滅ぼしのようなものだ。少しでも凍土が緩めばいい。西風が吹けばもみ殻は飛ばされる。そのときはまた何か手を考えるとしよう。

三春ネギの苗床には、師走のうちに寒冷紗をかけた。知り合いの店から半円柱のパイプが不用品として出た。それを運び込んだのがある。苗床にぴたっとはまる。パイプに寒冷紗をかけると、立派なドームができた=写真。まず、落ち葉が苗床に積もるのを防ぐことができる。飛んで来る虫も遮断できる。

苗床のほかには白菜の畝が2列、自家採種用に残した三春ネギの畝が少し。そして、仮植えした郡山産の阿久津曲がりネギが何本かある。このネギが冬をどう越すのか、観察するのだ。少しは三春ネギの栽培技術を磨くヒントになるかもしれない、という思いからだが、その前に食べてしまいそうな予感がする。

というわけで、今年も少しずつだが三春ネギのルーツ調べを続けるつもり。スーパーをのぞいて珍しいネギがあれば買って味を確かめる。よその町へ出かけたときにもスーパーへ入る。

元日、いわき駅からちょっと離れた大手スーパーで「初買い」をした。鍋用のネギはと探して、カミサンが「下仁田ネギ」を指さした。「『下ネタネギ』がある」。びっくりして「下ニタ!」と言ってやった。

カミサンは笑ってごまかしたが、暮らしというのは案外、こんなものの連続かもしれない。1人では間違うことがある。惑い、悩み、苦しむことがある。それらをカバーし合って年を重ねてきた、とだけは言えるか。

2009年1月6日火曜日

「牡丹幻想」と「大根むき花」


那波多目(なばため)功一(1933~)という日本画家がいる。ひたちなか市(旧那珂湊市)出身だ。寡聞にして知らなかったが、茨城県天心記念五浦美術館で1月18日まで開かれている画業60年の回顧展を見て、心が揺り動かされた。

53歳ごろまでサラリーマン・企業家として暮らしながらも、こつこつと絵の制作を続けてきた。高校2年生で再興院展に入選するなど、早くから才能を発揮したが、高校卒業と同時に実業の世界に身を投じた。まずは生活の基盤を固め、絵も描き続けることを決めたのだ。この決断がすごい。

若いころのスケッチを見た。確かに才能に恵まれた人だったことが分かる。それを抑えて、とにかくメシを食うために働いた。日々の暮らしのなかで時間を絞り出しながら、絵を描き続けた。それから背水の陣を敷いて20年余。自在の境地に入ったかと感じた。

回顧展のタイトルは「牡丹幻想――花のいのちに魅せられて」。那波多目功一は「牡丹の画家」だった。写実的だが幻想的、生命感とはかなさと、きめ細やかなタッチと静謐さと……。牡丹に限らない。四季の花々を描いた作品に、同じような印象を受けた。私には「発見」だった。

企画展に連動して、館内で1月3、4日に新春イベントの1つ「大根むき花」実演が行われた。これがよく分からないで見たから、かえって面白かった。水戸市無形民俗文化財「大根むき花保存会」のメンバーが、包丁一本で大根から精妙な牡丹や菊、アヤメなど=写真=の花を造形する。「かつらむき3年、花8年」だそうだ。

画家のウデといい、大根むき花保存会のワザといい、人間は可能性の宝庫だ。そのことを感じ取れただけでも見に行ったかいがあった、というものだ。

2009年1月5日月曜日

「深酒は良くありません」


イタリアで「磐城蘭土紀行」を見ているカミサンの同級生から、新年を祝う手紙が届いた。そもそもこのブログを始めたのは、前に紙媒体で連載していた「アカヤシオの谷から」がインターネットで読めなくなって寂しい――という手紙を、イタリアからもらったのがきっかけだった。

今年初めて、パソコンで年賀状をつくった。さあ、準備OK――それがいけなかったか。年末に風邪を引いた。それでも、夜になると酒でのどを消毒したくなる。

不思議とキノコ同好会の集まりとか、家に人が来るときには症状が後退する。それでまた飲む。いっこうに風邪が治らない。のどの痛みが治まったと思ったら、今度は鼻水だ。やっときのう(1月4日)、症状がおさまった。

年が改まって最初の日曜日。朝早く夏井川渓谷の無量庵へ出かけ、午後は夏井川の上流、小野町へラーメンを食べに行った。葉を落とした渓谷の尾根筋が、ヒラメの縁側のようになっている=写真。その風景がなぜか好きだ。

ラーメンを食べたあと、町内の和菓子屋へ寄った。わが実家の隣から嫁いだ同級生が切り盛りしている。去年、カミサンが買い物をした。車の中から店内をのぞいて「もしかして」と思いながらも、そのままにした。あとで実家の兄に聞いたら、同級生だった。

カミサンと顔を出した。先客がいた。こちらの顔を見た瞬間、「えっ、えっ」と驚いた表情を見せ、先客が帰ってからようやく同級生の顔になった。

カミサンを交えてしばらく話した。ほかの同級生の消息も知った。去年2月に開かれた還暦同級会には、別の寄り合いがあって彼女は欠席した。5年前の同級会はこちらが欠席した。会うのは10年ぶりか。

誰もが笑顔の裏側に悲しみを宿して生きている――還暦同級会のときもそうだったが、今度もそう感じた。

そんな晩には、やはり酒を飲まずにはいられない。イタリアからの手紙には「深酒は良くありません」とあった。ふだんは「浅酒」だから大丈夫です――そう書いてやろう。

2009年1月4日日曜日

「サンシャインいわき」を実感


テレビの気象情報を見ていて、ふとこんなフレーズが思い浮かんだ。「いわき市は『冬のしのぎやすさ日本一のマチ』」――なにを今さら? その通りだが、あらためて「サンシャインいわき」を実感したのだった。

いわき市は冬、晴れの日が多い。「西高東低」の冬型の気圧配置になると、日本海側は大雪に見舞われる。奥羽山地と阿武隈高地に遮られた太平洋側のいわき市は、雪とは無縁の青空になる=写真

でも、寒い。「カラッ風」が体を切り刻む。「散歩病」ではないから、そんな朝には散歩をとりやめる。「ゴー、ゴー」という音を聞きながら、ふとんに入ったままでいる。

8歳=昭和31年=のときに西風が吹き荒れ、町(阿武隈高地の常葉町)が大火事になって以来、この「もがり笛」には還暦になった今も耐えられない。耳をふさぎたくなるほど気持ちが落ち着かないのだ。

それはさておき、いわき市ほど冬に日光の恩恵を受けている地域は、ほかにないのではないか。雪国から嫁いで来た女性は、冬に洗濯物が干せることに感動する。その話は去年の3月にも書いた。

北日本のみならず、西日本の九州が雪のときだって、東北と関東の境にあるいわき市は、雪とは無縁だ。本州の東のどんづまりである。雪をもたらす「天空の川」は2つ山を越えるうちにエネルギーを使い果たして、「カラ元気」=「カラッ風」になる。テレビの気象予報に出る日本列島を俯瞰しながら、そんなたとえが浮かんだ。

いわきは南北に長い日本列島の中間点、しかも本州ではほぼ最東部に位置する。この「地の利」が雪とはあまり縁のない文化と精神を培ってきたのだろう。

2009年1月3日土曜日

謝礼のもち米が「お供え」に


昨秋、いわき市の飯野八幡宮八十八膳献穀会の会報「結(ゆい)」に地ネギの話を書いた。後日、神撰田で採れたもち米を頂戴した。

もち米の入ったタッパーに紙が張ってあった。<自然農法による「ほたる米」>。夏にホタルが舞う水田で栽培したもち米、という意味だろうか。もらったのはいいが、どうしたものか。年末になってひらめいた。「おふかし」ではなく、「お供え」にするのだ。

カミサンの実家は米屋である。暮れには頼まれてもちをつくる。その手伝いに行った。商売でもちをつくるのだから、使うもち米の量ははんぱではない。前年に続き、蒸籠(せいろう)を3段に重ねて蒸すまきの火の番を担当した。燃料のまきは廃材、伐採木。くべやすい長さに切ってあった。

義弟に言わせると、火力が強く一定していたので、蒸す時間が短縮され、思ったより早く仕事が終わった。男はたき火が好きだから、火の番は苦にならない。それが役に立ったのだ。

「ほたる米」はあらかじめ届けておいた。「お供え」になって、暮れの29日、わが家の床の間に飾られた=写真。ただのもち米ではない。献穀会が神撰田で初夏に「お田植え祭」を執り行い、秋に「抜き穂祭」を挙行した。その間、心を込めて育てたもち米を、今度は私も加わって「お供え」にした。そんな<物語>が詰まった、特別なもち米だ。

こうした<物語>はたぶん、どこにでも転がっている。転がってはいるが、たいていは気づかないか、気づいても「ま、いいか」でやり過ごして忘れてしまう。人と会い、自然と触れ合うことだ。働きかけなければ<物語>は生まれない。

胸の引き出しにしまってある<物語>は、多ければ多いほどいい。心を豊かにしてくれる。「お供え」を見ながら、そんなことを思った。

2009年1月2日金曜日

初日の出を拝む


2009年の最初の日は未明に元朝参りをしたあと一眠りし、いつもの時間に起きて散歩へ出た。国道6号常磐バイパス終点部に夏井川橋がある。そこから初日の出=写真=を拝んだ。

堤防から夏井川橋に接続する階段に20人近くが陣取り、初日の出を待っていた。去年も同じように橋の上から初日の出を拝んだ。が、人は数えるほどしかいなかった。今年は散歩で顔を合わせる人も子どもを連れていた。何組かは車でやって来たが、どこか近所の老夫婦といった風情。盛んにケータイで写真を撮っていた。

初日の出を拝むと、決まって出羽で生まれ、磐城山崎(いわき市平山崎)の浄土宗名越派総本山・専称寺で修行を積んだ俳僧一具庵一具(1781~1853年)の発句を思い出す。専称寺は散歩コースの対岸、小高い丘の上にある。

いつもかう拝まれたまへ初日の出
元日も生飯(きめし)くひに来る雀かな

人間が初日の出に手を合わせるのは、旧年のけがれをリセットしてまっさらな1年を始めたい、という願望が作用するからに違いない。時間が循環するからこそ日常の中に非日常を発見して再出発を図る。「今年こそは」がかなわないことと知りながらも、祈らずにはいられない。そんな人間の隣ではスズメが元日にも日常を生きている。この落差が面白い。

散歩しながら目にしたことだが、朝日が昇ると堤防に出て拝むお年寄りがいた。特別に信仰心が篤かったわけではあるまい。日の出の荘厳さにうたれ、誰に強制されることもなく自然に手を合わせる。今日も無事に過ごせますように――その姿から、素朴な自然への畏怖と感謝を感じ取ったものだった。

理屈をこねれば、一日一日が「初日の出」とともに始まる。胸の前に手を持ってこなくとも、胸の内で手を合わせれば「初日の出」を拝んだことになる。要は自然と共にあることを念じられるかどうか、だ――などと思いを巡らせるのも、日の出とともに散歩を続けているからだろうか。

2009年1月1日木曜日

除夜の鐘を聞きながら元朝参り


わが家から歩いておよそ5分、田んぼに囲まれた小山に立鉾鹿島神社が鎮座する。そこからさらに5分、田んぼから小高い丘の中へ続く石段の参道を進むと出羽神社に着く。去年は独立して初めて迎えた新年である。恃(たの)むのは自分だけ。「元朝参り」をして1年の無事を祈ろう――「NHK紅白歌合戦」が終わったあと、初めて両社を詣でた。

どちらにも氏子に知り合いがいる。お神酒をいただきながら、よもやま話に花が咲いた。あまり長時間に及んだために、カミサンが様子を見に来た。酔っぱらって用水路にでも倒れ込んでいるのではないかと、心配になったのだという。

夏井川から見れば立鉾鹿島神社も、出羽神社も左岸に立地する。右岸・山崎の高台には浄土宗の古刹・専称寺がある。江戸時代には浄土宗名越派の総本山だった。この鐘楼堂の修理が完了した15年前、初めて「除夜の鐘」が一般に開放された。その年、鐘を撞きに行った。わが家にいても除夜の鐘は聞こえるが、撞けばまた別な感慨が生まれる。

専称寺の境内の上にはオリオン。隣にはオリオンのベテルギウスを起点に、シリウス、プロキオンを結んだ正三角形「冬の大三角」。東斜面に立つ鐘楼堂の上には北斗七星がまばたいていた。去年はその鐘の音を聞きながら元朝参りをしたのだった。

紅白歌合戦では、前半と後半の間にアイルランドの歌手エンヤが生中継で歌った。これはなにがなんでも見逃せない。元朝参りは番組が終わってから、と決めていた。

が、5日前に風邪を引いてのどをやられた。きのう(12月31日)も日中は寝ていた。それで、正月飾りはカミサンが全部やった。「二日酔いで寝てるか、風邪を引いて寝てるかのどちらかだもの。今年はタイミングよく風邪を引いたものだわ。元朝参りどころじゃないでしょ」と痛いところをつかれても気にしない。

紅白歌合戦が終わったあと、専称寺と、平の市街地近く(旧神谷村西端)にある弘源寺の「除夜の鐘」を聞きながら、去年とは逆に出羽神社=写真、立鉾鹿島神社の順で詣でた。オリオンと「冬の大三角」が真上にあった。厳しい世の中である。願い事はいっぱいあるが、お賽銭の額に合わせて今年も1年の無事だけを祈った。