2009年3月31日火曜日

地域デビュー


年度末である。土曜日(3月28日)は夏井川渓谷(いわき市小川町)で行政区の総会が開かれ、日曜日にはわが家にとんぼ帰りをして平・中神谷(なかかべや)南区=写真=の総会に出席した。

「一線を退いたら区(地域)のために働いてほしい」。近所に住む区の役員さんが言うのを、現役のころは聞き流していた。しかし、会社を辞めて1年余、様子見をしていた役員さんから再度、声がかかった。「総会の議長をやってほしい」という。断る理由がないので引き受けた。

中神谷南区は県営住宅を主に、よそから移り住んだ個人住宅など350戸前後で構成されている行政区で、10年前に中神谷区から分離・独立して誕生した。どこでも同じだが、団地に住む若い世代は地域への帰属意識が薄い。住宅を建てて根っこを生やした人はともかく、アパートには隣組に加わらない人もいるという。かじ取り役はなかなか大変だ。

総会は県営住宅の集会所で開かれた。隣組の班長を中心に40~50人は集まったようだ。知っているのはほんの何人かだけ。カミサンまかせから初めて、議事進行役として「地域デビュー」を果たした、というところだろうか。

「役員活動費」について質問があった。例えば、区長には年4万5,000円、副区長には2万5,000円が活動費として支給される。役員会だ、地区の体育祭だ、正月の鳥小屋行事だなどと、拘束される日数と労力を思えばこの程度の活動費では済まないくらいだが、人によっては随分もらっているように映るらしい。

現実を見ないで数字だけを追った質問に「あなたも役員をやってみたら」と、役員が気色ばむ場面があった。が、ほとんどの人は、区の役員はボランティアに等しいことを理解している。予定の議案すべてを拍手多数で可決することができた。

初めて区の規約を読んだ。第4条に「本会は市と密接なる連携のもとに区民の親睦を図り、共同の福祉・教育文化・衛生・保全の充実につとめ、民主的な明るい住みよい区の建設を目的とする」とあった。毎日の暮らしを営むうえでの、地域の「憲章」だ。ここから、そしてこれから地域と向き合う場面が増えていく。

当たり前のことながら、地域にはさまざまな人が住んでいる。課題もいろいろとある。区の役員はそれらを総合的に調整・解決する重い任務を背負う。お飾りでは務まらないことを学んだ。

2009年3月30日月曜日

葉ワサビ


夏井川渓谷(いわき市小川町上小川)の小集落、牛小川は戸数10戸で隣組と行政区を構成している。年度末の土曜日(3月28日)夜、区長さんの家で恒例の総会が開かれた。

1年間の経過と集会所建設案などの課題が報告されたあと、懇親会に入った。またとない情報交換の場である。

集落の守り神である「春日様(春日神社)」のお祭りはアカヤシオ(岩ツツジ)の花が満開の日曜日に行われる。今年は4月12日に決まった。去年より1週間ほど早い。

牛小川で栽培されている「三春ネギ」について聞いてみた。外へ働きに出ている男どもばかりのせいか、ネギ苗の管理・追肥時期については明確な答えはなかった。代わりに「川前のO建設が品種改良をした三春ネギの苗を売っている」「ネギにはネギ専用の肥料がある」ことが分かった。

キノコ(ハルシメジ)の情報も手に入れた。私の自宅(いわき市平中神谷)の斜め前に元診療所がある。そこの梅の木の下にハルシメジが出るのだという。去年秋はテングタケが出た。ハルシメジが出るとは知らなかった。要チェックだ。

この夜の「主菜」はなんといっても葉ワサビのおひたし。Tさんが持参した。秘密の場所に植えたら増えた。牛小川ならではの、春のごちそうだ。ツンと鼻に抜ける辛みがたまらない。

それで思い出した。わが埴生の宿の無量庵でも庭木の下に葉ワサビを植えて増やそうとしたことがある。たちまち盗掘された。Tさんと見守ってきた別の場所のワサビもすぐなくなった。

懇親会がはねたあと、Tさんから生の葉ワサビをもらった=写真。湯がいて食べるのだが、1、2日は秘密の場所を想像しながら花を眺めていたい。それだけで体がきれいになるような錯覚に陥る。

2009年3月29日日曜日

このサクラ、何サクラ?


ときどき散歩コースを変える。自宅から国道6号を渡り、夏井川の堤防へ出てグルッと一回りする道順は同じだが、たまに気分転換を兼ねて近道をしたり、足を延ばしたりする。

ハクチョウが姿を消した上流、平塩の夏井川へは気分的に足が遠のくようになった。街への行き帰り、車で通り過ぎるだけ。代わって、チョウゲンボウのいる国道6号バイパス終点、夏井川橋から下流、浄化センター方面へは、残留コハクチョウがいるのと、土手の菜の花が満開になりつつあることもあって、ちょくちょく足を延ばす。

先週の金曜日(3月27日)、夕方4時50分。夏井川橋に近づくと、チョウゲンボウが1羽、橋の下から飛び出して対岸のヤナギの木に止まった。と思う間もなく、「キキキキー」と鳴きながら、もう1羽の背中に乗って羽ばたいている。交尾だ。初めて見るチョウゲンボウの結婚である。やがて橋の裏側を崖に見立てて子育てを始めるのだろう。

一方の近道コース。住宅が密集している一角に寺がある。本堂の前に墓地が広がっている。生者がうごめく世界に死者が眠る静謐なエアポケット、だ。先週、墓地に立ち寄ったら、赤いつぼみをいっぱいつけた木があった。サクラらしい。開花したものも数輪。

何というサクラだろう。葉は開いていない。花もソメイヨシノより小さく赤みが強い。早咲きのサクラで知られるのはヒガンザクラ、それにカワヅザクラ。幹はまだ細い。丈も低い。植えられて何年もたっていないのではないか。

いずれにせよ、一度南からの暖かい風になでられると一気に満開になる――それほどつぼみが赤く膨らんでいる。そばの地蔵サンとよくマッチしてほほえましいくらい=写真。自分なりに心安らげるスポットとして、「お気に入り」に追加し、地蔵サンとサクラの四季を追いかけてみようか、などと思った。

近所に住む市役所OB氏にも近道コースでばったり出会った。ハクモクレンも一気にコートを抜きそうだったのが、寒の戻りでそのまま抜けずにいる。そんな庭木も寄り道して分かった。きょう(3月29日)の夕方見たら、きっとコートを抜いで花を開いていることだろう。

2009年3月28日土曜日

美術館のチラシ


いわき市立美術館協議会の会議がおととい(3月26日)、美術館で開かれた=写真はその資料。委員の1人として、平成20年度の事業経過と21年度の事業計画の説明を受けた。で、新年度前半3つの企画展のPRを兼ねながら、協議会で要望したことを紹介したい。

①4月11日~5月17日=「開館25周年 世界へのアプローチ――子どももおとなも見てみよう」展。いわき市在住の吉田重信のほか、アントニー・ゴームリー(英)、インゴ・ギュンター(米)、リチャード・ロング(英)、宮島達男、ジュゼッペ・ペノーネ(伊)が参加する。

②5月26日~7月5日=「没後50年 北大路魯山人」展。魯山人は陶芸家・書家・画家・篆刻家・漆芸家・料理人・美食家。西日本のコレクションを紹介する。

③7月18日~8月30日=「開館25周年 エカテリーナ2世の四大ディナーセット――ヨーロッパ磁器に見る宮廷晩餐会」展。エルミタージュ美術館コレクションから、18世紀にその基礎を築いたロシア女帝エカテリーナ2世の晩餐を彩った豪華なヨーロッパ磁器テーブルセットを紹介する。

以下略――。事務局との質疑応答のあと、要望として展覧会案内チラシの地図と作品キャプションの字について一考を求めた。

先日、郡山市立美術館へ行ったとき、道に迷った。展覧会の案内チラシに載っている地図を見たが、字が小さくて分からない。全く別の場所を30分ほどさまよった。帰宅後、虫眼鏡で地図を見ると、左折すべきところを右折してしまったことが分かった。虫眼鏡で見ないと分からないのでは、役に立たないのと同じではないか、と腹立たしくなったものだ。

そんな経験をしたばかりなので、地図や作品キャプションの文字については、作り手ではなく読み手の視点、すなわちユニバーサルデザインでやってほしいと注文をつけた。少なくとも郡山市立美術館より早く、と。できるかな。

2009年3月27日金曜日

「親知らず」を抜くの?


なんとなくうずいていた奥歯が、物を噛むと痛い。歯茎も腫れている。土曜日(3月21日)の朝、街へ出たついでに歯科医院へ駈け込んで、一番早い空き時間を予約した。その日の夕方には治療が始まった。長いつきあいの大先生はいなかった。

右上一番奥の「親知らず」が、土台がなくなってぐらぐらしているという。「炎症がおさまったら抜きましょう。それが済んだら別の虫歯も治療しましょう」と若先生がいう。ついにきたか。渡されたチェックシート=写真=を眺めて少し憂鬱な気分になった。

2回目に行ったら、大先生が担当だった。「親知らず」を抜くしかない症状であることに変わりはない。が、「抜くのはいつでもできる」。いつものペースになってきた。

年齢とともに歯も弱くなる。できれば抜歯しないで残したい――大先生が考えても、無理なものは無理、そういう歯が出てくるのはしかたがないことだ。が、何年か前、「90歳になっても8割は自前の歯でいられますよ」とおだてられた。そういうことだけはしっかり覚えている。その幻想を生きたいのに、現実は厳しい。

虫歯になって治療し、金属を詰めた歯が何本かある。それで治まらなくなった、口にも老いの波が寄せてきた、という実感――。「親知らず」は乳歯に代わって生えてくる永久歯のうちでも、特に遅く生える。成人後に生え始める例が多いという。40年ほどは食べ物のすりつぶし役を担ってきた。

抜かれると分かると、まだ生きて私とつながっている「親知らず」がいとおしい。最後の仕事をさせなくては、とはしかしいかない。噛めば痛みが頭にまで突き抜ける。

抜歯したあとの歯茎は、食事はどうなるのだろう。抜いたままでいいのか、義歯を入れるのか。虫歯の治療とは全く異なる未知の領域への暗欝が続く。しょっちゅう歯医者へ通っているカミサンからみたら、ばかばかしい悩みには違いないが。

2009年3月26日木曜日

「冬眠ギター」を引っ張り出す


孫が間もなく2歳になる。日曜日の夕方、親とやって来て少し遊んでいく。よく意味は分からないのだが、発する音声が複雑になってきた。「ナナナ」が翌週には「バナナ」になり、「エンチャ」が「デンチャ(シャ)」になる。夕日に向かって歩いている人間と違って、上り坂にあるいのちとはそういうものなのだろう。

見るもの、触るもの何でもおもちゃになる。ならば、これはどうだ。ケースだけは立派なギター=写真=を2階の「開かずの間」から引っ張り出した。息子たちが家を出てから、使わない部屋が物置に変わった。そこで長い間、冬眠していたのだ。

ギター歴だけは古い。中学1年のとき、近所に独立したばかりの若い大工さんが引っ越してきた。ギターが趣味で、ときどき歌謡曲をつまびいていた。面白がって見ていると、小林旭の「赤い夕日の渡り鳥」を教えてくれた。それが始まり。

阿武隈の山の中から平市(現いわき市)の学校へやって来たあとも、就職して結婚したあとも、ギターはそばにあった。子どもが生まれて小学校に入ったあとも、子どもたちを相手にギターをかき鳴らしていた。が、そのあとはパタリと縁が切れた。

やがて家へ遊びに来た若者に、酔った勢いでギターをくれてやった。それでおしまい――のつもりだったのが、50歳になるかならないかのころ、またジャラーンとやりたくなった。少し値の張るギターを買った。それも一時の高熱だったらしい。ギターはまたまたケースの中で冬眠生活に入った。

還暦も過ぎてギターをやるとなれば、ラストチャンスだ。孫に、こんなおもちゃもあるぞ、というところをみせてやりたい。20日ほど前、ギターをジャラーンとやったら興味を示した。指で弦をなぞると音が出ることを学習した。弦の張りを調整するナットもまねして動かそうとする。何年か先、ギターが欲しいと言って来たら、あげようか――。

さて、そこでだ。弦をかき鳴らす右指の爪を伸ばすか否か。家庭菜園を始めてからは、爪はこまめに切る。土いじりをしていると、どうしても爪と皮膚の間が黒くなる。ギターのために爪を伸ばせば、いよいよ爪の土が取りにくくなる。いちいち楊枝で土をほじくり出さなくても済むようにしたい、となれば、フィンガーピックを買うしかない。

どうしたものか。2ミリほどに伸びた爪を眺めては、逡巡する日が続きそうだ。

2009年3月25日水曜日

カラスの巣づくり始まる?


ハクチョウが北へ帰るのと前後して、留鳥たちの動きが活発になってきた。

夏井川の河原で雄のキジが縄張りを宣言するようになり、同じ空間のあちこちでウグイスがさえずるようになった。岸辺に群れていたカルガモもいつの間にかつがいで行動している。留鳥たちはやがて巣づくり・産卵・抱卵・子育てと、最も忙しい時期に入っていくのだろう。

岸辺を営巣の地に選ぶのは、しかしキジやウグイスだけではない。カラスもそうだ。木々が芽吹くかどうかという早い時期からヤナギの高木に巣をかけ、抱卵する。それを去年まで何回か目撃してきた。

夕方、近所を歩いていると、目の前の柿の木からカラスが飛び立った。枝をくわえていた。今年も巣づくりが始まったのだ。

ところが、「ハテ」と思った。どこかで拾った枝をくわえて、たまたま柿の木に止まったのでなければ、柿の木の枝をくわえ折ったのだ。「くわえ折り」が事実だとしたら、くちばしはついばんだり、つついたりするだけのものではない。「道具」にも使っている。そういう行動を取っても不思議ではない。カラスはいつも何か気になることをしてくれる。

わが散歩コースのカラスは早朝、夏井川の岸辺近くにある電線や木に止まって、残留コハクチョウの餌づけをしているMさんが現れるのを待つ。Mさんがまく屑米とパン屑のおこぼれを頂戴する=写真。「ゴンベが種まきゃ……」と同じで、目ざとさは天下一品。人間をよく観察しているから、それで「くわえ折り」を学習したか。

カラスはハシボソ・ハシブト入り乱れて、労せず腹を満たすと三々五々、思い思いの場所で過ごす。早朝の時間以外は群れかたまっているのをあまり見たことがない。代わりに、自分より体の大きいトビに付きまとい、前になり脇になりして進路を遮る、などという光景はしょっちゅうだ。同じタカの仲間のチョウゲンボウやノスリにもちょっかいを出す。

トビたちはなぜ反撃しないのか。カラスと争って翼でもけがしたら一巻の終わり、ということを知っているのだろう。カラスは頭がよすぎてイヤミなところもある、などと人間に引き寄せて考えてしまう。

そのカラスも子育てとなれば必死だ。雨の日も風の日もじっと卵を抱いて過ごす。下からは尾羽の先端くらいしか見えないが、なかなか感動的だ。

きのう(3月24日)朝、近所で今年最初のツバメを見た。旧小名浜測候所の記録では、ツバメ初見の平年値は4月11日。随分早い到着だ。今年は夏鳥もカラスやカルガモなどの留鳥と同じく、早々と子育てに入ることになりそうだ。

2009年3月24日火曜日

火災旋風


大分・湯布院の高原で野焼きが行われた。野焼き参加者のうち4人が焼死し、2人が重軽傷を負った。「火災旋風」に巻き込まれたとみられる――。テレビの検証番組で「火災旋風」を知り、急に52年前の大火事の記憶がよみがえった。

小学2年生になったばかりの4月中旬のこと。阿武隈高地にある田村郡常葉町(現田村市常葉町)で、町のあらかたが焼ける大火事が発生した。すぐ消えると思っていたのが、そうではない。家で夕ご飯を食べようとしていた矢先、東西に延びる通りで人声がする。その声がだんだん慌ただしく、大きくなる。

外へ出て驚いた。西空が真っ赤に染まっている。乾燥注意報が出ているなか、火の粉が北西の強風にあおられて屋根すれすれに飛んで来る。そうこうしているうちに紅蓮の炎が立ち昇り、かやぶき屋根のあちこちから火の手が上がる。町はたちまちのうちに火の海にのまれた。住民は着の身着のままで避難した――。

天を焼くように肥大する炎。何丁ものマシンガンから放たれたような火の粉。あれが「火災旋風」一歩手前の「火災合流」だったのかと、半世紀がたってようやく分かった。

「火災旋風」は炎の竜巻だ。広範な都市火災や山火事の際に炎を伴う旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす、非常に危険な現象だという。高温のガスや炎を吸いこむと呼吸器が損傷される。それによって窒息死に至る。気管支がやけどして水ぶくれを起こし、呼吸ができなくなるのだ――昔、火災の際の焼死例としてドクターに聞いたことがある。

熱せられて上昇気流が発生し、そこに周りの空気が入り込み、ますます炎が大きく高くなる。天が焼ける――のけぞる高さにまで炎が駆けのぼるのを見たのはそのときが初めて、というよりこの50年余の間でもそれっきりだ。

いわきに住む同級生と忘年会をしたときや、去年開かれた還暦同級会の席で何人かに「大火事のとき」を聞いてみた。私は町並みのすぐ裏にある山のふもとの畑に逃げたので、町並みが炎に包まれる様子も、わが家が燃え落ちる様子も目にしている。ほかの同級生も近くに逃げたと思っていたら、そうではなかった。

炎に追われるように、東へ東へと逃げた同級生がいる。歩いて。被災を避けるために営業所の車庫から移動した路線バスに拾われて。西と東にある別の小学校の児童は町の中心が赤く燃え上がるのを見続けていた、という。

隣家の親類のおばさんが焼死した。死者はおばさん1人だった。ほかに数人が重軽傷を負った。翌朝、見たものは焼け野原となった町並み=『常葉町史』の口絵=と、わが家と思われる周辺に横たわっていた家畜の死骸、焼けてひん曲がった10円玉など。

10代後半に原民喜の「夏の花」を読んだとき、被爆直後の広島の超現実的な風景と、大火事後の光景が重なった。そんなもろもろを思い出させる「火災旋風」の検証番組だった。

2009年3月23日月曜日

花はアブラチャンだった


去年は分からなかった花の名前がある。アブラチャン。

夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)で春一番に花を咲かせる木はマンサクだ。いや、アセビの花が早いかもしれない。アブラチャンだってそう。と思いながら、きのう(3月22日)、小雨がぱらつく渓谷の道路を、対岸の森の中の小道を、コウモリ傘をさして歩いた。

「定点観測」を続けているアセビはまだ一部が開花しているだけだった。アブラチャンの花も咲き始めたばかり=写真。マンサクは満開。やはり、渓谷の樹木の一番花はマンサクだった。

去年の4月中旬、随分早く芽吹く若木が目に留まった。芽吹いたと思ったのは、実は花だった。花は黄色く小さい。サンシュユに似ている。が、サンシュユは外来種。急斜面に外来種が生えるものなのか。しかし、どう考えてもサンシュユ以外の樹木が思い浮かばない。だからといって、サンシュユとは断定できない――そんな歯切れの悪い文章になった。

以来、折にふれて黄色く小さい花が咲く木を調べてきた。アブラチャン、ではないか。そう分かったのはしばらくたってから。

2月から3月にかけて、ハナミズキのようにぷっくり膨らんだ小さなアブラチャンの花芽を観察し、マンサクの木も同時に仰ぎ見ながら開花の有無をチェックしてきた。3月第3週の16日にはその気配もなかったのが、第4週の22日には一気に花が開いた。去年に比べるとだいぶ早い。

わが埴生の宿の無量庵でも梅とジンチョウゲ、スイセンが満開になった。ヒヨドリに葉を食べられた白菜も花芽をつけ始めた。それが10株以上はある。

白菜の菜の花摘みは最初の1、2回こそ楽しい。が、やがてとめどがなくなり、おひたし浸けの日々が続いて、だんだん箸が引くようになる。そうなると、わが家へやって来る客人の出番だ。春の味だ、高級食材だなどと言って、無理にでも引き取ってもらう。アブラチャンの花が満開になるころ、菜の花摘みが始まるか。

2009年3月22日日曜日

ハクチョウ、北へ帰る


平塩~中神谷の夏井川で越冬していたハクチョウがほぼ姿を消した。きのう(3月21日)の朝は、中神谷字調練場の砂州に2羽(左の翼をけがして飛べない「左助」と「左吉」)、塩の中州に3羽(うち1羽は右の翼をけがして飛べない「左七」=写真右)がいるだけだった。

「左七」以外の2羽は幼鳥だ。去年残留した「さくら」ではない。「さくら」は飛べるようになっていたから、ほかの仲間と一緒に北へ向かったらしい。

ここ1週間ほどで、潮が引くようにハクチョウの数が減った。まだコハク・オオハクの幼鳥15羽が残っていた春分の日(3月20日)の早朝、夏井川の堤防でハクチョウのえさやりを終えて帰宅途中のMさんと話をした。Mさんは会えば、必ず軽トラを止めて「ハクチョウ情報」を教えてくれる。

「だいぶ減った。えさをやると『左七』と『さくら』は寄って来て食べるが、ほかの幼鳥はあまり食べようとしない。今夜あたりアブナイなぁ」

「アブナイなぁ」とはMさん流の表現で、「飛び去っていなくなるなぁ」という意味だ。飛来組に対するえさやりもこれで終わりか、といったニュアンスが含まれていた。実際、次の日には、残留組の3羽のほかは2羽の幼鳥を残して姿を消した。毎日接しているから分かるのだろう。

今シーズンは秋の10月16日に第一陣が飛来した。平中平窪の夏井川では鳥インフルエンザ対策としてえさやりを中止し、転落防止を兼ねてネットを張った。このネットが裏目に出てハクチョウが1羽首つり状態になったと聞いた。あとで目の細かいネットに張り替えられたのはそのためだろう。

Mさんは「いのちがけ」でえさやりを続けた。小川町三島の「夏井川第三の越冬地」でも近所の人がえさやりを続けたらしい。

残留コハクチョウ4羽のうち、飛べるようになった「さくら」は仲間がやって来ると間もなくそちらの集団に吸収された。残留歴が一番浅い「左七」も川をさかのぼって集団に合流した。「左助」「左吉」も一度は集団に顔をみせたが、すぐまた調練場へ戻った。

北帰行完了を確認して、平窪では白鳥を守る会がテント小屋などを片付けたという。残留コハクチョウがいる限り、Mさんに休みはない。

残留組が一カ所にまとまっていると、えさやりは一回で済むのだが――これがMさんの気持ちでもある。が、「左助」たちには「左助」たちの動きがある。なかでも、最古参で放浪癖のある「左助」にMさんは手を焼いてきた。人間の思い通りにいかないから、よけいに「左助」たちがかわいいのだ。

2009年3月21日土曜日

昼間の酔っぱらい運転


事故の瞬間を見ていないので「取材」したことを書く。春分の日のきのう(3月20日)、カミサンの実家の前で物損事故が発生した。運転していた男が逮捕された。昼間だが、かなり酒が入っていたらしい。酔っぱらい運転だ。いい年をした男だ。

あとで分かったことだが、車でたばこを買いに来た。自分の家へ戻るためにバックしながら脇道(私道)へ入ろうとしたら、角にある車庫の側壁に突っ込んだ=写真。ものすごい音がした。「何事?」とカミサンたちが表へ飛び出した。交通事故だと知った。が、そのあとまた同じ車が事故を起こした。

脇道の奥にアパートがある。車が出て来た。事故車が道をふさいでいる。事故車の運転手がアクセルを踏んで前進した。いや、飛び出した。道を突っ切るようにして実家のそばにある郵便ポストに激突した。また事故車が通りをふさいだ。車は尻と頭がへこみ、タイヤも1つパンクしていた。エアバッグが作動したために運転手は無事だった。

義弟たちが運転手を外に出し、脇道の奥へ車を押して移動した。やがて警察の事故処理車が来た。「歩いてみてください」「呼気中のアルコール濃度を調べますよ」となったのだろう。事故を起こした運転手は間もなくお縄にかかった。

カミサンの実家は寺町の近くにある。家の前の通りは、春分の日と秋分の日には普段の何倍もの量の車が行き交う。当然、歩行者も多い。私たちも墓参を兼ねてカミサンの実家へ来た。それを済ませて、私が街へ出かけたあとの事故だった。

バックして事故、前進して事故――。たまたま人も車もその場には居合わせなかった。偶然の空白ができた。

最初の事故のとき、カミサンと、線香をあげに来た親類の人間が家から飛び出して、郵便ポストのそばで様子をうかがっていた。そのままいたらはねられるどころではない。はさまってオオゴトになっていたかもしれない。

酔っぱらい運転や暴走行為が危険なのはこういうところだ。本人の自損にとどまらない。他人にまでいらぬ不幸の種をまく。私も含めてだが、自動車の便利さと人間を含む生き物や建造物その他に対する殺傷力・破壊力、それらを人間はどのくらい自覚しているか。あらためて利器が凶器になる怖さを実感した。

2009年3月20日金曜日

人間の啓蟄


おととい(3月18日)、きのうと南風が吹いて高気圧に覆われ、気温が上昇した。早朝の散歩はダウンジャケットのままだったが、夕方はジャンパーに切り替えた。それでも歩き終えるころには汗ばんできた。まるで春本番だ。

午後4時。夏井川の堤防を行き来する人が急に増えた=写真。いつものように犬を連れて、独りで、夫婦で散歩するお年寄りがいる。ジョギングをする若い女性や、カーディガンを腰に巻いて颯爽と歩いて行く主婦がいる。この人も、あの人も……。初めて見る顔が少なくない。

暖かい陽気に誘われて堤防へ出てみれば、西方、阿武隈の山並みは黄砂に霞んでいる。なにか体内で煙霞に溶け込みたいような衝動が生まれる。巣ごもりを終えて歩かなくてはならない、そんな気持ちのたかぶりが。「人間の啓蟄」である。

土手のツクシが一斉に長くなり、自然繁殖をしたアブラナ科の植物も花茎を立て始めた。摘み草をする人がいる。堤防の植物は昔と違って、有害物質を含んだ大水に何度も沈んでいる。私は30歳のころに一、二度、子どもを連れて摘み草をしたが、それを知ってやめた。

一冬を平塩~中神谷の夏井川で過ごしたコハクチョウも、いわき語でいう「ささらほさら(まばら)」の状態になった。中洲にいるのは50羽程度。ここ何日かで4分の1に減った。河川敷のサイクリングロードへ下りた直後に、2羽のコハクチョウが下流から飛来した。カメラを向けるが間に合わない。このへんがまだまだダメなところだ。

自分にブツブツ言いながら歩き出すと、向こうからどこかで見たことのある顔が自転車でやって来た。「もしや」が「ほんと」になる。阿武隈の山国で中学校の3年間を一緒に過ごした同級生ではないか。近所に住んでいる。このブログも読んでくれている。で、カメラをぶら下げて初めて夏井川を見に来たのだという。

彼もまた「人間の啓蟄」作用を受けてうごめき出した1人だった。

いわきには同級生が8、9人いる。有志で毎年、忘年会をしているが、去年は日程が調整できずに流れた。女性だけで四倉の「蟹洗温泉」へ行ったそうだ。つつましいものである。花見をやろうと約束して別れる。

夜になってニュースを見たら、福島の最高気温は25.1度の夏日、小名浜は17.3度。平はそんなものじゃない、20度を超えていたはずだ――朝晩、毎日堤防の空気に触れている体が反応した。

2009年3月19日木曜日

隣人を送る


隣組で葬式ができた。班長なのでカミサンが連絡に回り、一緒に寺=写真=の檀信徒会館で営まれた通夜と葬儀・告別式に臨席した。

故人は学校の先生で、40代前半で教壇で発症し、右半身が不随になった。私たち家族が引っ越して隣人になったのはその2年後。ざっと30年前のことだ。奥さんは退院したご主人を車に乗せて、働きながらリハビリへ通った。その間、子どもたちの面倒をみたのは昵懇にしている同じ隣組の人だった。

リハビリを始めてしばらくたってから、ご主人が1人で散歩をするようになった。右半身は不自由なままだ。が、そろりそろりと始めた歩みは日を重ね、月を重ね、年を重ねて随分と達者になった。幸い、再発もなく30年余が過ぎた。

で、いつからか朝、昼、午後と歩く回数が増えた。すごいことだ。言葉も体も不自由だったが、歩き続けているうちに足取りがしっかりして、ほほえみが生まれるようになった。想像を超える、遠いところまで足を延ばすこともあったらしい。葬式に参列していた知人に教えられて分かった。

家にいる時間の長い、地域の奥さんたちはそっとご主人を見守った。通りがかった車が、ご主人が横断するのを待ったり、ご本人が疲れて歩道に座り込んでいると、通りすがりの人たちが心配したり……。それでも手を差し伸べると拒む頑固さがあった。その一徹さで不自由に耐え、不自由を受け入れ、リハビリを重ねてほほえむことができたのではないか。

昔からの街道沿いながら、ニューカマーがポツン、ポツンとやって来て根を生やしたような新旧混在の町。ふだんは没交渉だが、どこかでお互いに気をかけながら暮らしている、そんな雰囲気がある地域だ。

告別式の遺族・親族代表あいさつのなかに、地域の人たちが長い間故人を見守ってくれたことに対する感謝の言葉があった。一面ではその通り。しかし、それ以上に故人の頑張りを地域の人たちが分かっていた。それで「見守る」という協力ができた。故人を見送る言葉は一様に「よく頑張った」だった。

2009年3月18日水曜日

キクザキイチゲ咲く


梅前線は早かった。桜前線も早そうだという。ところが、カタクリ前線はさほどはでない。

いわき市の平地では例年、高校の合格発表が行われる3月中~下旬にカタクリが開花する。それが、だんだん西に連なる阿武隈高地へ移り、いわきのはずれの山里では4月初旬以降になってようやくつぼみが頭を垂れる

毎年、カタクリの花を観察している平地の里山がある。杉山に変わってから、かなりの年数がたつ。生育環境はすこぶる悪い。それでも、カタクリは春先になると葉を出し、必死に光合成を続けて花を咲かせる。訪れる時期の違いもあるが、花数は年によって異なる。しかし、10年、20年という単位で言えば株数は減った。

その里山を先週、訪ねた。杉の落ち葉が堆積している。数カ所からカタクリの葉が出ていたが、花は確認できなかった。早過ぎたのだろう。きのう(3月18日)朝、別の場所を見に行ったら、短い花茎の先端にピンク色のつぼみを付けたものが1つ、2つ、という程度ながら確認できた。ここも遅い。

カタクリは、暖冬にも厳冬にも影響されずにマイペースで葉を出し、花を咲かせるものなのか。ほかのスプリング・エフェメラル(早春植物)はどうなのか。夏井川渓谷(いわき市小川町)の集落近く、夏は木陰になる小流れの草地を見たら、キクザキイチゲが1輪咲いていた=写真。これはいくぶん早い感じがする。

夏井川渓谷はV字谷。岩盤が露出しているくらいだから土壌層は薄い。イワウチワや岩ツツジ(アカヤシオ)など、「イワ」のつく草木はあるが、土壌深く根を張るカタクリは見たことがない。それに代わるスプリング・エフェメラルがキクザキイチゲや、最近新種と確認されたハルトラノオの仲間のアブクマトラノオだ。

スプリング・エフェメラルは、光が林床に踊っているうちに光合成をし、栄養をたくわえて開花し、頭上の落葉樹が葉を開いたころには早くも活動を終えて眠りに就く。春の喜びとはかなさを感じさせる、楚々とした花の一群に酔う日は近い。

2009年3月17日火曜日

初めて軽トラを運転


街中の公園のそばに住まいがあって、晩秋になるとケヤキの落ち葉を片付ける知人がいる。公園をきれいに保つための奉仕作業だ。たまたまそこへ出くわしたときに、ごみとして出すのだと聞いた。もったいない。焼却されるなら山へ返したい。乗用車のトランクと後部座席に落ち葉の入ったごみ袋を積めるだけ積んで夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ運んだ。

カミサンの実家の庭にケヤキの大木がある。秋に降る落ち葉の量がすごい。前に大きな袋に入った落ち葉を乗用車で運んだが、とても追いつかない。この冬も大きな袋に何袋もたまった。義弟が「軽トラで運んだら」という。農家ではないが、商売で軽トラも使う。

2月中旬に見たテレビで倉本聰さんが共演者の国分太一クンに語っていた。白樺の木は1本に7万5,000枚の葉をまとう。そこに命が宿る。そこから命のつながりが始まる。ケヤキだって同じだろう。いや、もっと多いかもしれない。

きのう(3月16日)朝、カミサンの実家の落ち葉を積んで初めて軽トラを運転した=写真。マニュアルからオートマに替えてしばらくたつ。運転席が狭い、ハンドルが硬い――マニュアルの軽トラに最初は戸惑ったが、体は結構覚えているものだ。10分もたてば足と手がちゃんと連動するようになった。

さて、運ぶだけならコトは簡単。運んだ以上は落ち葉を堆肥枠に入れなくてはならない。大きな袋で10袋以上はある。

それに、去年の夏、無量庵の庭の刈り草を回収した畜産農家から、先週、生の牛フンが届いたばかり。こちらは刈り草を提供する、代わりに牛フンをください――そういうリサイクルの約束で始めた物々交換だ。それも堆肥枠に投入して発酵させる必要がある。

庭の落ち葉と牛フンと、落ち葉と一緒に持ってきた米糠とを、サンドイッチにする。発酵を促す内城B菌もまいて散水する。きょうはこれまでと、シートをかぶせたころには午後1時に近かった。フォークで牛フンを刺してネコに積む、この作業が結構こたえたようで、左手の握力はほとんどなくなっていた。

ほんとうはもっと早い時期にしておかなくてはならない作業だが、農の営みがまだ体にしみこんでいないのだろう。いつも出遅れる。畑仕事もそうだ。平地ではすでに春まき野菜の畝づくりが始まった。夏井川渓谷でも畑に人が現れる時節を迎えた。

2009年3月16日月曜日

タコを刺し身に


いわき市久之浜町は近海魚の宝庫。そこからゆでダコが届いた。刺し身にして食べたらやわらかい。いわきのタコは久之浜に限る。ほかの浜の人に怒られるかもしれないが、そう思った。で、きのう(3月15日)、またまたタコが届いた。

2、3年前までは生のカツオやスズキが届くと、近くの魚屋さんか料理店へ持ち込んでさばいてもらっていた。とてもじゃないが、3枚におろすウデがない。それでいいのか、団塊男よ――と自分をなじる自分がいた。

ある夏の日、双葉郡広野町に住むカミサンの知り合いから「夫が沖で釣った」という旬のスズキを丸ごと1匹もらった。これ以上、魚屋さんに迷惑をかけるわけにはいかない。やってみるか。自分でさばくことにした。魚屋さんで見てきたカツオの包丁さばきを思い浮かべる。そこが始まり。スズキも基本は同じだろう。

鱗をとったあと、素手で魚を押さえてさばきにかかる。これがよくなかった。あとで分かったのだが、プロは軍手をして魚を押さえる。素手ではツルッとしていてつかみにくい。硬いヒレでけがをすることもある。悪戦苦闘は3枚におろしたあとも続いた。柳葉包丁がない。皮をそぐのにも、身を切るのにも手こずった。

後日、柳葉包丁を購入した。それで朝市で生タコを買い、ゆでずに刺し身にしてしまったこともある。

先週、再び広野町から切り落とした頭付きのスズキが届いた。片身は刺し身用におろしてある。鱗も取ってある。皮はそがずにあぶって氷水で冷やしてから刺し身にし、骨付きの片身は出刃で切って塩焼きにした。頭とヒレはアラ汁にした。淡白でうまかった。

そのあとすぐの、久之浜のタコだ。コラーゲンたっぷりの大きな頭と小さなタコが2匹。頭4分の1と小さなタコ1匹を柳葉包丁でそぎ切りにして皿に並べた=写真。切り方は自己流。それでも、やわらかくてうまかった。

歯の悪いカミサンはほとんど箸をつけない。いくらなんでも1人で一皿を平らげるのは容易ではない。しばらくは「うまいけど苦しい」が続きそうだ。

2009年3月15日日曜日

本居式「通りゃんせ」


小島美子さんの『日本童謡音楽史』を読んでびっくりしたことがある。わらべ歌の「通りゃんせ」、あれは本居長世が編曲したものだという。音楽教育などに携わっている人には先刻承知の事実なのだろうか。

江戸時代後期のわらべ歌は、おおむね明治時代までは同じ形で歌い継がれてきた。その中期以降、新しい種類のわらべ歌がこれに加わり、大正6(1917)、7年ごろからわらべ歌の新旧交代が目立つようになる――。つまり、古いわらべ歌が新しいわらべ歌に駆逐される現象が起きた、と小島さんはいう。

大正9(1920)年、野口雨情の「葱坊主」で童謡の作曲を始めた本居長世は、翌10年には江戸時代から続くわらべ歌「通りゃんせ」を編曲する。

「通りゃんせ」をこまかく検討した小島さんは、ある事実に気づく。今、各地で歌われている「通りゃんせ」は、例外なく本居式「通りゃんせ」で、本居が編曲する以前の素朴な形の「通りゃんせ」ではない。

そこから小島さんは、古い形の「通りゃんせ」は本来の伝承の形では伝わらずに滅びてしまった、それに代わって童謡の形の本居式「通りゃんせ」がわらべ歌の仲間入りをした、と推測する。

言い換えれば、本居編曲の「通りゃんせ」が元歌を追い払ってしまった、あるいは本居がよい編曲をしなければ滅んでしまったかもしれない「通りゃんせ」を、本居が新しい形で再生させたということかもしれない――それが小島さんの解釈だ。

♪通りゃんせ 通りゃんせ/ここはどこの 細道じゃ/天神さまの細道じゃ/ちょっと通して 下しゃんせ/御用のないもの 通しゃせぬ/この子の七つの お祝いに/お札を納めに まいります/行きはよいよい 帰りはこわい/こわいながらも/通りゃんせ 通りゃんせ=写真は平北白土の三島八幡神社。看板に「学問の神 菅原神社」とあった。

「こわい=疲れた/怖い」などといった歌詞にまつわる謎解きはともかく、われわれの親が歌い、われわれが歌い、今も放送などで流される「通りゃんせ」が大正時代に編曲、いや“作曲”されたといってもいいものだったとは。事実は小説より奇なり、というしかない。

2009年3月14日土曜日

昔、渡し船で専称寺へ


夏井川が平塩を過ぎて、ここから平中神谷分という所にかつて渡し船があった。春には対岸、平山崎字梅福山にある旧浄土宗名越派総本山の専称寺を訪ねる観梅客の足として、新聞・テレビが必ず取り上げた。いわば、春先の平の風物詩である。その渡し船が姿を消したのは昭和56年3月末。ちょうど30年前のことだ。

そのころ、渡し船を利用して家族で専称寺へ梅を見に行った記憶がある。両岸にワイヤが張られていた。船はワイヤと鎖で結ばれていた。中神谷側の堤外(高水敷)に渡し守の家があって、頼むとワイヤをつかんで船を対岸へ進めてくれる。帰りは大声を出して呼ぶと家から出て来て、船を寄せてくれる。料金は1人当たり大人50円、子ども30円だった。

渡し船は観梅客のためにあったわけではない。同じ対岸の平山崎字矢ノ目に、専称寺より古い名越派の故本山・如来寺がある。中神谷にはこの専称寺と如来寺の檀家になっている家がある。田畑を持っている人もいる。渡し船はそのための農道であり、参道だった。ついでに専称寺が梅林として知られるようになってから、観梅客を運ぶようになった。

渡し船は中神谷区が管轄していた。車社会になって利用者が激減したこと、区から頼まれて戦後の昭和23年から渡し守を続けてきたSさんが年を取って体がしんどくなったこと、などが渡し船廃止の理由だった。

「川の参道」がなくなった今は、中神谷から専称寺へは上流・平鎌田の国道6号平大橋か、下流・平下神谷の6号バイパス夏井川橋を利用するしかない。先日、自転車で平大橋経由で専称寺を訪ねた。境域の梅は、ふもとは散り始め、中腹は満開に向かいつつある、といったところだった。歴代住職の眠る墓域から眼下に夏井川が見えた=写真。そこに参道=渡し船があった。

如来寺および専称寺の開山からだとすれば、渡し船の歴史は数百年に及ぶ。そこは割り引いて考えるにしても、「ここに参道=渡し船があった、渡し守の家があった」と思うと、ただの川の流れではなくなってくる。川の物語がやせ細っている今こそ、こうした足元の歴史を市民の想像力のなかに蘇らせたいものだ。

2009年3月13日金曜日

月夜のハクチョウ北帰行


ゆうべ(3月12日夜)11時近く、わが家の上空をハクチョウが鳴きながら通り過ぎた。慌てて戸を開けたが、既に姿はなかった。十六夜の月が南天近くで煌々と輝いていた。月明かりを頼りに北へ飛び立ったのだろうか。

同じ日の夕方。翼をけがして飛べない「左助」と「左吉」がいる夏井川(平中神谷字調練場)へ寄ったら、12羽ほどのコハク・オオハク混成組が盛んに声を出しながら首を上げ下げしていた。「左助」も「左吉」も珍しく「コー、コー」と鳴いて応じている。今までにない掛け合いだ。

飛び立つために気持ちを1つにしているのだろうか。砂州のはずれを迂回するようにしながら接近し、しばらく様子を見ていると、いよいよ首の上下動と鳴き声が早くなる。と次の瞬間、一斉に水をけり、羽ばたきを始めて、しぶきを散らしながら飛び立った=写真

混成組が飛び立つと、「左助」と「左吉」は急に鳴きやんだ。こちらが逆にへこむくらいの沈黙ぶりだ。掛け合いはエールの交換、別れのセレモニーだったか。実際はそうではなくとも、2羽の様子を見ているとそんな思いにとらわれる。

さて、いわき市夏井川白鳥を守る会のHPをのぞいたら、平中平窪では2月末に100羽ほどいたハクチョウが3月に入るとすぐ19羽に減った。えさをもらえないこともあって早々と北へ旅立ったのだろう、という。

その時点で4キロ上流の小川町三島には70羽、6キロ下流の平中神谷には200羽ほどが羽を休めていた。小川も中神谷もえさをくれる人がいるから、のんびりしたものだ。とはいえ、北へ旅立つためのカウントダウンが始まった。

どういうわけか私には、ハクチョウは夜間、満月のころに北を目指して飛んで行く、といったイメージがある。実際、夜も飛ぶ。となれば、月明かりが最大になる満月のときほど飛びやすい夜はない。

で、十六夜の月が輝く深夜、コーコーと鳴きながらわが家の上空を通過した。夏井川河口のヨシ原をねぐらにしている一団の北帰行かと、少し感傷的な気分になった。

2009年3月12日木曜日

岩城街道・阿久津村


日曜日(3月8日)、郡山市立美術館へ行ったついでに、美術館の北隣に位置する阿久津町をドライブした=写真。美術館はカミサンの運転手として、阿久津町は「曲がりネギ」の産地なので「三春ネギ」を調べている自分の勉強のために。阿久津は阿武隈川の右岸にある。江戸時代は岩城街道の重要な中継地点だった。

岩城街道は、磐城平を中心としたハマと阿武隈高地を経由して中通りを結ぶ経済・文化の道。県教委が昭和60(1985)年に発刊した『歴史の道 岩城街道』には、最初の概観部分に次のような興味深い記述がみられる。

①田村郡の東部と西部では文化流入の経路・態様が異なる②東部の旧小野郷は磐城文化圏③阿武隈川右岸は左岸とは趣の異なる文化がみられる④いわき名物「じゃんがら念仏踊り」の北辺は小野町・羽出庭――など。臨済宗の教えも磐城から小野郷に入った。

佐藤孝徳編著『専称寺史』の史料「古書眼鏡」によれば、江戸時代、今の田村市・田村郡には浄土宗名越派総本山・専称寺(平山崎)の末寺が6寺あった。名越派は間違いなく磐城方面から教線を拡大した。そのつながりを示すエピソードを2つ。

・白水阿弥陀堂の文化が田村東部にも及んでいる=旧専称寺末、小野町の赤沼・無量寺に安置されている阿弥陀三尊は白水阿弥陀堂の三尊と酷似している(『歴史の道 岩城街道』)
・三春町の紫雲寺も旧浄土宗名越派=しかし、専称寺のトップ争いが原因で小野町の専光寺、三春の紫雲寺、郡山の善導寺、高岸寺は一時、専称寺末ではなかった(『専称寺史』)

で、「三春ネギ」である。阿武隈川右岸は大昔から岸に沿う南北のつながりが深かった。阿久津町も北の西田町も、東の三春町とは入り組みながら接している。昔は同じ田村郡、同じつながりの丘陵地だ。「阿久津曲がりネギ」と「三春ネギ」を別個のものと考える方がおかしい。阿久津町の空気を吸って、それを実感した。

ヒト・モノが往来するなかで「阿久津曲がりネギ」も岩城街道を東進した。名前は通りのいい「三春ネギ」に替わったが、中継地点の小野町を経由して川前・小川(夏井川渓谷の牛小川)へたどり着いた。本ルートの方も小野町に隣接する三和町までは届いた――。阿久津町を巡って、そんな「ネギの道」を想定することも可能だと思った。

仮説が証明されるかどうか。今度は川前と三和あたりで、折に触れてネギの話を聞いてみようと思う。

2009年3月11日水曜日

平空襲は「臨機目標」?


3月9日はどういうわけか落ち着かない気分で過ごした。何かしなくてはならないことがあるような、ないような……。で、ときどき考えるのだが、とうとう分からずじまい。翌10日のきのう早朝、目が覚めると同時に思い出した。「きょうは最初の平空襲の日だ」

『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』(小山仁示訳/東方出版)と復刻版の『日本の空襲―1 北海道・東北』(日本の空襲編集委員会編/三省堂)=写真=を図書館から借りて来て読んだ。空襲の経緯や被害状況を確かめるために、これまでにも何度かパラパラやってきた“教科書“だ。

64年前の昭和20(1945)年3月9日夜、米軍のマリアナ基地を飛び立ったB29爆撃機325機は、日が替わった真夜中の10日午前零時過ぎから東京の市街地に焼夷弾の雨を降らせた。いわゆる「東京大空襲」である。その同じ時間帯にB29が1機、鹿島灘方面から平市街地上空に侵入し、100発の焼夷弾を投下した。

東京大空襲はこの年の3月中旬、日本の4大都市(東京・名古屋・大阪・神戸)に加えられた5回の夜間低高度焼夷弾攻撃の最初のものだった。死者・行方不明者は約10万人といわれる。同じ日、平では西部地区の紺屋町・古鍛冶町・研町・長橋町・材木町などで294軒が火の海に飲まれ、16人が死亡、8人が負傷した。

平ではこのあと敗戦間近の7月26日朝、B29爆撃機1機が投下した1発の爆弾で平第一国民学校(現平一小)の校舎が倒壊し、校長・教師の3人が死亡、60人が負傷する。さらに7月28日深夜、北から侵入して来たB29爆撃機3機が大量の焼夷弾を投下し、平駅前から南の田町・三町目・南町・堂根町など約6ヘクタールが焼き尽くされる。

平はなぜ空襲を受けたのか。というより、なぜ平が狙われたのか、がよく分からない。3月10日の攻撃目標は東京市街地、7月28日の目標は青森市街地である。機体の不調、飛行条件、搭乗員の過失などで指示された目標を攻撃できない場合、臨機に目標を定めて投弾することがある。「ターゲット・オブ・オポチュニティ」(臨機目標)という。これか。

3月10日は、325機のうち「臨機目標」に切り替えたのが5機。そのうちの1機が平上空に現れ、焼夷弾を捨ててUターンをしたのではないだろうか。7月28日に出撃したのは65機。うち3機が「臨機目標」に切り替えている。これが青森からの、あるいは途中からの帰路、平に焼夷弾を捨てたのだとしか思えない。

裏を返せば、パイロットが操縦ミスを犯した、焼夷弾が余った、だからレーダーに映った下の街(平)に、排泄物でも垂れ流すように焼夷弾を落とした。理由は機体が重いと基地まで帰れないから――そんなエゴイスティックなものではなかったか。だとしたら、なおさらたまらない。というわけできのうは一日、重苦しい気分で過ごした。

開戦、空襲、玉砕、敗戦……。「その日」だけの一過性の思いであれ、「その日」に思いを致してあれこれ考える。その1つが「なぜ、平に焼夷弾が」だが、これは自分にねじを巻くためにも欠かせない作業だ。

2009年3月10日火曜日

郡山市立美術館はどこに?


郡山市立美術館へは何度か行っている。いわきからだと国道49号が主なルートになる。帰りは昔の「岩城街道」(現国道349号)を利用することが多い。日曜日(3月8日)に夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵から田村郡小野町へと川に沿って駆けのぼり、「岩城街道」へ出て美術館を目指した。

「岩城街道」はその昔、磐城平藩の城下町と郡山・須賀川・二本松・本宮、さらに奥の会津とを、小野・三春を中継ぎにして結んでいた。今の道路でいえば、国道49号(いわき市内)~国道349号(小野町・田村市)~県道(三春町・阿武隈川の渡しのある郡山市阿久津)だ。

郡山市の近く、三春町のはずれで国道288号へ出た。郡山市と太平洋側の双葉郡双葉町を結ぶ、阿武隈高地越えの重要幹線である。15歳までこの街道に面する田村市常葉町の町内で暮らした。郡山市へ出かけるときは船引駅から磐越東線を利用したが、バスで直行することもあった。少しは土地勘がある。それがマイナスに作用した。

阿武隈川を越さない、右に折れる――阿武隈川が見えると、橋のたもとの交差点を右折した。国道49号からの“残像”がそうさせたらしい。そのうえ、郡山駅の北の方からまっすぐ美術館へ向かって伸びている道路がある。その道路は駅北だから国道288号の北にあるはず――と思い込んでいた。

国道288号と阿武隈川に仕切られた富久山町、西田町界隈をグルグル巡っても、それらしい場所には出ない。30分ほど迷走を続けていると、早く美術館へ行って「布ものがたり」展を見たいカミサンが、「誰かに道を聞いてよ」と声を荒げた。暑くもないのに汗がにじんでくる。散歩している人に聞いたら、一瞬、気の毒そうな表情をした。ずっと先(南)の方だという。

三春から国道288号に入ったのだから、ほんとうは阿武隈川の手前を左折すべきだった。蒸気機関車(C58)を展示している「かんのや本店」前で左折してもいい。が、それはあとで分かったこと。「田村郡方面からの客には美術館は冷たい、『布ものがたり』展のチラシの地図も不親切だ」などとブツブツ言っているうちに、ようやく美術館に着いた=写真

「布ものがたり」展のチラシに載っている地図は字が極めて小さい。運転中、何度かカミサンに地図を見てくれるよう頼んだが、目がいいはずの彼女も字が小さくて読めないという。確かにそうだ。帰宅後、虫眼鏡で国道288号と磐越東線の小さな文字を発見した。肉眼でチェックできていれば、迷走することはなかったのに。

「布ものがたり」展などは特に年を重ねた人が見に行く。カミサンも勉強になったと喜んだ。が、地図が頼りの非郡山熟年市民には、このチラシは役に立たない。若い視力でコトを運ぶのではなく、団塊の世代以上の「花眼」にも思いを致すやさしさがほしい、どこの博物館(の学芸員)にも――老婆心と老爺心がそう言っていた。

2009年3月9日月曜日

渓谷の「夏井川をきれいにしよう!!」作戦


春先に夏井川渓谷の「缶トリー」作戦を展開する団体がある。「川前発 夏井川をきれいにしてみま専科」。今年で4回目の活動がきのう(3月8日)昼前、実施された。

しばらくぶりに夏井川渓谷(いわき市小川町上小川)のわが埴生の宿・無量庵に泊まり、翌日曜日の8日朝、2番列車でやって来るカミサンを江田駅まで迎えに行った。列車は9時過ぎに着く。渓谷の「春」を探すために、8時過ぎには無量庵を出て3カ所で道草を食った。

山側、線路ののり面でカンゾウが芽生えていた。地温が上がったのだろう。谷側、岸辺にあるヤブツバキが満開だった。道路沿い、定点観測をしているマンサクはまだ目覚めるところまではいっていなかった。雪と雨と曇天とで先週とそう気温は変わらなかったのだろう。無量庵の対岸、花を1輪つけたマンサクもあとで見たら1輪のままだった。

江田駅からの帰り、そろいのジャンパーに身を包んだ人たちが「籠場の滝」の手前の谷で空き缶類を拾っていた=写真。転落の危険と隣り合わせの「夏井川をきれいにしよう!!パート4」作戦である。すれ違った軽トラの運転手は旧知の市職員氏。彼も含めた川前の住民有志による「きれいにしてみま専科」の活動だと、了解した。8時半にスタートしたようだ。

週末を牛小川で過ごすようになって十数年がたつ。「きれいにしてみま専科」の活動が始まった4、5年前から、夏井川渓谷の道路は目立って空き缶類が少なくなった。ポイ捨ては後を絶たない。が、日常的に車で行き来しながらそれを拾う「きれいにしてみま専科」の人がいる――そんな話も聞いた。

論より実践。私ができるのは森に入って「アキカンタケ」を採ること。同時に、夏井川渓谷をはさんで上流と下流の住民に渓谷の現状を発信すること――それくらいはしないといけないなぁと、「きれいにしてみま専科」の活動に刺激されながら考えるのだが、どこまで実行できているやら。

2009年3月8日日曜日

小名浜ベイブリッジ


小名浜港で「東港地区多目的国際ターミナル」整備事業が進められている。港内に人工島をつくり、外貿貨物(石炭など)需要の増大と船舶の大型化に対応して取り扱い能力を向上させる、というのが目的だ。総額305億円と6年をかけて平成25(2013)年度に完成する。

この一大プロジェクトの動脈が陸地と人工島を結ぶ臨港道路=写真。延長1,805メートルのうち中心となる橋の構造が、3月6日に開かれた技術検討委員会で「エクストラドーズド橋」に決まったという。今月末までに国交省が最終決定をする。

先月、平の生涯学習プラザでいわき市主催の「景観セミナー」が開かれた。いわき市立美術館の佐々木吉春副館長が「文化と景観」、国交省東北地方整備局小名浜港湾事務所の加藤雅啓所長が「小名浜港の新たなみなとづくり」と題して話した。平の人間には港は遠い。平の人間として初めて、平で小名浜港の話を聞いた。貴重な体験だった。

セミナーでは景観面からみた人工島の橋の検討経過と方向性が紹介された。まず、海面からの橋の高さは、陸地からの最大勾配5%(100メートル行って5メートル上がる)として25メートルが限界とされた。巡視船は橋の下を通航できるが、大型客船「飛鳥Ⅱ」は通航できない。

次に、橋の種類として「鋼床版箱桁橋」「ラーメン箱桁橋」「エクストラドーズド橋」の3案が比較検討された。(蛇足ながら、「ラーメン」はれっきとしたドイツ語。構造形式の1つで、高速道路をまたぐ生活橋がだいたいラーメン橋だとか。両側から将棋盤の脚のようにニョキッと突き出てがっちり橋桁を支えている)

コストはもちろんだが、小名浜港の新たなランドマークとしての眺望も計算に入れなくてはならない。その結果、技術検討委員会は主塔と斜材で主桁を支える外ケーブル構造の「エクストラドーズド橋」を選んだ。

ここからは個人的な感想。横浜ベイブリッジのような吊り橋ではない。が、斜張橋に似て主塔から張り出された斜材が線による三角形、低い山形をつくりだす。景観としては味わいがある。いわば「小名浜ベイブリッジ」。

日の出や日の入りばかりか、夜間にライトアップされれば、それも格好の被写体になる。橋から眺める阿武隈の山並みや工場の夜景もいいかもしれない。橋自体が新しい風景になり、橋もまた新しい視点場を提供するのだ。

それこそ「小名浜ベイブリッジ」を目当てに観光客がやって来る、というふうになれば儲けもの。「小名浜ベイブリッジ」を観光資源に磨き上げられるかどうかは、地元の人の知恵と汗次第だろう。

2009年3月7日土曜日

石森山にも春が


いわき駅前の総合図書館で本を借りた帰り、思い立って平市街地の裏山(石森山)に足を伸ばした。

雪が降り、雨になって、上がった。さあ晴れるかと思ったら、また雨。春先の天気は落ち着かない。すると、森が湿ったからエノキタケが出ているかもしれない――頭の奥でだれかがささやく。雨が続くと石森山が恋しくなるのだ。

わが家からだと、草野小の絹谷分校前を通って林道絹谷石森線に入る。平の街からは、平商業高校、石森ニュータウンを経由してつづら折りの坂道を上りきったあと、林道絹谷石森線に入って絹谷集落へ下る。この林道に接続する石森山の遊歩道が、このところのわがフィールドだ。

林道絹谷石森線をはさむようにして10コース、全長11キロメートルの遊歩道が縦横に張り巡らされている。十数年前には休日と平日の昼休みを利用して年に100回近く、この遊歩道を巡り歩いたものだ。市街地のそばにある里山だからそれができた。どこに何があるかは今もだいたい頭に入っている。

フリーになった一昨年(2007年)暮れから再び、週末の夏井川渓谷行とは別に、月に1、2回は石森山の遊歩道を巡る。キノコは冬も夏も、春も秋も発生する。石森山は1年を通して菌類を観察するには格好の場所だ。観察会も定期的に開かれているらしい。

で、今回もまた絹谷に一番近い「せせらぎの道」を歩いた。行く手を遮っていた山桜の倒木が脇に片付けられていた。切断された幹にウスヒラタケがびっしり生えていた、と言っても盛りを過ぎてとろけていたが。2月に入ったときに気づいていたら……、いい写真が撮れたことだろう。

森の中ほどに行くと道が分かれる。右に「マンサクの道」、左に「さえずりの道」。そのまま「せせらぎの道」を行く。<ユリワサビが咲いているかも>。注意して見ると、白く小さい十字の花=写真=が咲いていた。

秋や冬にはいくら同じ道を歩いてもユリワサビの花を思い出すことはない。春になると即座に記憶が覚醒されて、ユリワサビの花が咲いていた情景が思い浮かぶ。キノコも、鳥もそうだ。かつて出合った時期が巡ってくると、「ここでシロハラと遭遇した」「あそこでタマゴタケを見た」と鮮明なイメージがよみがえる。

よくよく回りを見渡したら、キブシの花穂が淡黄色に染まり始めていた。ではと、覚醒した記憶を手がかりに「マンサクの道」へ分け入る。道の名前の通り、頭上でマンサクの花が咲き誇っていた。石森山にも春が到着したようである。

2009年3月6日金曜日

映画「おくりびと」


「別冊太陽『生誕100年記念金子みすゞ』」によれば、金子みすゞの娘・上村ふさえさんは自分が結婚して子どもを産むまで、母親は「私を置いて死んでいった」「母は私には愛情がなかった」と恨みに近い気持ちを抱いていた。

結婚して子どもができる。子どもと一緒に死のうと思ったときもある。そのとき、「ああそうだ、母は死んでしまったが、私は自殺してはいけない」と、ふさえさんは思いとどまった。母が自分を残したから、「いのち」を子どもに伝えることができた、というふうに考えが変わった。

母親が詩集を残そうが、幼いときの自分の言葉を採録した「南京玉」を残そうが、ふさえさんには母の愛を物語るものではなかった。かえって「南京玉」の最後にある言葉、<このごろ房枝われと遊ばず>に母親としての愛の欠如を感じていたほどだ。

アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」を、平テアトルで見た=写真(パンフレット)。連日のようにテレビで取り上げられているから、大雑把な筋立ては分かっている(ようなものだ)。が、やはり百聞は一見にしかず。

見れば自分なりの発見がある。いや、誰もが自分なりになにかを発見する。それが可能な普遍性がこの映画にはある。アメリカでも評価された大きな理由だろう。

私の場合は最後の最後、失踪した父親が亡くなり、遺体を引き取りに行ったときの主人公・小林大悟の心の葛藤が、みすゞの娘・ふさえさんの心の葛藤と重なった。ふさえさんにとっては、母親は失踪したのと同じだった。

ふさえさんは結婚し、子どもができて母親の愛を理解し始める。大悟は父親の指に握られていた河原の石ころ=幼いときに父親と交換した「石文(いしぶみ)」を見て、父親の愛を知る。父親に捨てられたのではなかったのだ、と。

たとえが適切かどうか。納棺師というダンサーが踊る(納棺までの儀式を執り行う)。それを遺族という観客が見る。踊りのテーマは死、ただしいつかは誰もが向かう彼岸への旅立ち。火葬場の職員(笹野高史)を、私はJR職員と勘違いした。たぶんそれには理由がある。「旅のお手伝い」をする、そのユーモアまぶしの1つに違いないのだ。

残された子どもは、親の自殺や失踪といった現象には反応しても、親の心の葛藤にまでは踏み込めない。そこに齟齬が生じる。子どもを愛していない親がどこにあろうか、みんな愛しているのだ――という意味で、家族愛がテーマの映画なのだと理解した。

2009年3月5日木曜日

事務局長氏はMBAだった


現組織の前身を立ち上げたのがいわき市出身の朋友。で、今も夫婦で「特定非営利活動法人シャプラニール=市民による海外協力の会」にかかわりを持っている。10年ほど前、イベント支援を兼ねて本部の事務局長氏がいわき市へやって来た。東北行脚のあと、いわきへ立ち寄ったこともある。

事務局長氏はシャプラニールを再生させたあと、請われて大学教授に転身した。新設の東北公益文科大学(山形県酒田市)で学部の4年、院ができると2年の計6年間、教壇に立った。専門は公益論、NPO経営論など。この2年間は非常勤講師としてのんびりと過ごし、通勤の合間にローカル線の旅を楽しんだ――と、今年の年賀状にあった。

その事務局長(正確には元)氏から先日、電話があった。常磐線の鈍行列車で北上している。今夜はいわき湯本温泉に泊まり、翌日、磐越東・西線経由で会津を巡ったあと浅草へ戻る。ついては会えないだろうか――というものだった。2泊3日の旅らしい。

事務局長氏を紹介するシャプラニールのかつての広報誌にこうあった。「JALのエグゼクティブクラスにすわっているようなおやじだが、アバンギャルド」。損保会社に勤めたあと、アメリカに留学し、経営学修士、いわゆるMBAの資格を取った(これはネットで調べて分かった)。キャリアが買われてシャプラニールに入ったのだろう。

その「エグゼクティブ」がローカル線大好きという。人は見た目では分からない。グローバルな視点を持っているからこそ、ローカルな、スローな旅が心にしみるのか。いや、たぶん「おやじ」の内側にある少年性、これこそが「アバンギャルド」の熱源に違いない。

年賀状には、鈍行列車に揺られながら車窓に移る景色を楽しみ、何か社会の役に立てないものかと考えた、そろそろ行動に移さねば――ともあった。またまた転身を図るプランを練り上げたらしい。

常磐に着いた頃合いを見計らって事務局長氏の泊まる温泉旅館を夫婦で訪ねた。近況報告を含めて1時間余りよもやま話をした。

事務局長氏は夏井川渓谷の無量庵にも立ち寄ったことがある。磐越東線の車窓からはっきり見える=写真。「江田駅から2、3分のところ。風景がパッと開けるから見てください。ただし、磐越東線は本数が少ない。一番列車は早過ぎて無理なら、二番列車(いわき駅発8時43分)しかない。乗り遅れると午後までないですよ」と念を押して別れる。

自由時間の楽しみ方は人それぞれだ。とはいえ、おおかたは日常の些事にまぎれて楽しみ度が薄くなる。その証拠に、この冬は無量庵泊まりの回数が減った。まずはこれを増やす。そのうえで、多少はアバンギャルドな、非日常的な時間を生きる――などと、事務局長氏から刺激を受けて勝手に考えた。

2009年3月4日水曜日

30年前の惨事


おととい(3月2日)、歩いてはあまり渡らない国道6号の横断歩道を利用して夏井川の堤防へ出た。信号機に取り付けてある押しボタンを押そうとしたら、付属物の取り付けバンドに花束が2つ差し込まれてある=写真。前はなかったから、最近、誰かが置いたのだ。この辺りで昔、交通死亡事故があったか。

散歩を終えて「旧国道」のわが家へ帰り、カミサンに事故の有無を聞く。平中神谷に引っ越して来たばかりのころ、「国道」で大きな事故があったという。日中はよそで仕事をしていたから地域の事情にはうとい。どんな事故だったか、新聞の縮刷版で確かめた。その事故だとしたら「むごい」、のひとことに尽きる。

一家6人の乗った乗用車に、対向車線からセンターラインをオーバーして普通トラックが突っ込んで来た。乗用車を運転していた妻と助手席の夫が車内に閉じ込められ、救出されたが死亡した。後部座席にいた4人の子どもも重軽傷を負った。30年前の2月下旬のことだった。

中学校へ入学する次女の制服を注文し、ついでに買い物をして帰る途中、不運にも注意散漫な運転手のミスに巻き込まれた。13~5歳の子どもたちは一瞬にして両親を失った。時間の歩みは誰にでも平等だが、その同じ時間に子どもたちは両親非在の日々を送らねばならなかった。

寂しさと悲しさとで押しつぶれそうになることがあったろう。他人が想像もできないほどの葛藤もあったろう。今も心理的な影響が残っているかもしれない。そんな30年の来し方を思うと、胸が痛くなる。

「神谷の国道」は平の市街地を抜けた先にある。片側2車線の直線道路だ。見通しがいい。それがかえって重大事故を招きやすい。歩行者がはねられて死亡し、車同士がぶつかって死亡する――そんな悲劇が何度も起きている。地元の住民だけをみても大字単位で輪禍の犠牲になった家を調べたら、神谷地区はいわき市内でワーストワンになるのではないか。

30年前の事故がなければ、親はもう70歳前後だ。孫の中学校入学を楽しみに待つような年代だ。せめてここで大きな事故があったことを忘れないようにしよう。そんな思いがわいてくる。あとでまた横断歩道を渡ったとき、胸のなかで手を合わせた。白いカスミソウを添えた黄色いチューリップは父への、同じく赤いガーベラは母への手向けであったか。

2009年3月3日火曜日

春は自転車に乗って


前に書いたが、マンションを引き払う知人からもろもろの小物をいただいた。自転車もありますよ、という。朝晩、散歩を日課にしているので、その延長でペダルをこぐのもいいか――と、もらい受けた。買い物かごが前に付いている、いわゆる「ママチャリ」だ。

自転車に乗るのはいつ以来だろう。小学校に入るとすぐ三角乗りを覚えた。小学校高学年のときには、同級生とつるんで隣町まで汽車を見に行った。上京すると新聞配達に自転車を利用した。それ以来だから40年ぶりか。

歩いては、夏井川の河口へ行く気にならない。自転車の力を借りてなら行ける。堤防上の道路と河川敷のサイクリングロードを使って、新舞子海岸までペダルをこいだ=写真

耳が冷たい。寒気に突っ込んでいくのだから当然だ。代わりに、車では確かめにくい鳥の鳴き声が耳に入る。水鳥がいっぱい水面に浮かんでいる。鈴を振ったような声はコガモ。ウグイスのさえずりが3カ所から聞こえる。珍しや、キジの雌が水面すれすれに対岸へ飛んで行く。もう少し暖かくなれば、春は馬車ではなく自転車に乗って、となるか。

アスファルト舗装だから足元は申し分ない。軽くペダルをこぐだけでウオーカーを追い越せる。下り斜面は自転車におまかせ。こういうところは楽でいい。ところが、上り斜面になるとすぐ地面に足をつけてしまう。

時間の経過とともに膝のあたりの筋肉が痛くなってきた。逆風になると、思ったように前へ進まない。楽しさ半分、きつさ半分。無理にも坂の上までこぎ上がった若いころの筋力がない。感覚も昔とは違うようだ。

車の迷惑になってはいけない。河口へ二度、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」へ一度、自転車を走らせて痛感した。同じ堤防上の道をよく車で行き来する。中高年、特に女性の自転車を追い抜くタイミングが難しい。自転車がフラフラしていないことを確かめてから、素早くすり抜ける。私の自転車もフラフラしていないだろうか、と気になる。

若い女性の自転車に追い抜かれる。ひよっこのような中学生にも追い抜かれる。高校生は逆風でもどんどん前へ進んで行く。朝晩、散歩をしているからと言って、足の筋力が付くわけではないのだ。「自転車力」を鍛えるには「ママチャリ」に乗り慣れる以外にない。また、そうしないとフラフラ走行は改善されない。

少年の体力は無理だが、少年の好奇心をエンジンにしてペダルをこごう。そうすれば少しは筋力が付くだろう、ジョギング並みに心肺機能が高まるだろう――。自転車を乗り始めてから期待感ばかりが膨らんでいく。

2009年3月2日月曜日

「弥生来にけり」


日曜日と月の替わりが重なった。弥生、3月。2月のカレンダーを破いて3月を迎えるとき、ほぼ条件反射的に上田敏の訳詩集『海潮音』を手にする。「弥生ついたち初つばめ……」で始まるダヌンチオの「燕の歌」にこうある。<弥生来にけり、如月(きさらぎ)は/風もろともに、けふ去りぬ>。その通りだと思った。

きのう(3月1日)早朝、平から夏井川渓谷(いわき市小川町上小川字牛小川)の無量庵へ車を走らせた。金曜日に積もった雪は、渓谷の道路にも、南向きの斜面にもなかった。無量庵の対岸、水力発電所のある北向き斜面にはだら雪=写真=が残っている程度だ。金曜日の雪は如月(2月)とともに去った。

この冷え込みに、「木守りの滝」ではしぶき氷が復活したかと期待したが、体感気温と現実の気温には落差がある。しぶき氷もまた如月とともに去った。

代わりにやって来たものがある。マガモだ。北帰行が始まったのだろう。真冬には姿を見せたことのない渓谷に、1羽のオスを含む7羽が羽を休めていた。渡りの途中の一服だ。例年、春に何回か目撃する。その第一陣である。

花はどうか。マンサクの花がたった1輪だが、咲いているのを確認した。銀ねず色のネコヤナギの花も蕊を伸ばして赤黄色に染まり始めた。谷のアセビはつぼみが白くなりかかっていた。無量庵の庭のアセビの花は数を増した。この調子でいくと、次の日曜日(3月8日)には谷のマンサクとアセビが開花した、とはっきり言えるだろう。

無量庵の畑ではオオイヌノフグリとナズナの花が咲き、庭ではヨモギとフキノトウが葉を広げ始めている。栽培種のアジサイも葉芽が緑色を増して開きかけてきた。まだ梅は満開になってはいないが、夏井川渓谷にも春は急ぎ足で近づいている。それを実感するような「弥生来にけり」である。

2009年3月1日日曜日

いわきの春の雪


厳寒期を過ぎると、低気圧が本州の南岸を通過するようになる――そう教わったが、今は早い時期から南岸低気圧がやって来る。いわきが雪に見舞われるのはそんなとき。いちだんと春が近づいた証拠だ。が、ノーマルタイヤが当たり前のいわきではたちまちスリップ事故が多発し、交通がマヒする。

金曜日(2月27日)は昼前から雨がみぞれになり、夕方からボタ雪になった。雨なら夕方の散歩は取りやめるが、いわきでは雪はめったにない天からの贈り物。こうもり傘をさして夏井川の堤防を歩いた。

対岸の小高い丘にある専称寺の本堂・庫裏・鍾楼堂の屋根が既に雪で白くなっている。と、大きく蛇行するふもとの夏井川からハクチョウが何羽か飛び立ち、私の目の前を通過して行った。偶然、専称寺をバックにして飛ぶハクチョウを写真に撮ることができた=写真。あとで確認したらオオハクチョウの幼鳥だった。

池波正太郎の『鬼平犯科帳』に「本門寺暮雪」がある。それにならって「専称寺春雪」の写真が撮れるかもしれない――私のレベルならこんなもの、という写真を撮ったあとに、ハクチョウが現れた。

翌2月28日は雨上がりならぬ雪上がり。放射冷却現象が起きて湿ったボタ雪が凍りつき、車のフロントガラスが白くザラメ状になっていた。家の屋根もうっすらと雪をかぶっていた。

それを見て、金子みすゞの言葉を思い出した。雪は雪でしかないのに、この半年、みすゞの童謡詩と向き合ってきたせいか、「上の雪、さむかろな」とか「下の雪、おもかろな」なんて言葉が舌頭を転がる。みすゞの作品(「積った雪」)を知ったばかりに、雪は雪ではなくなった。

早朝散歩に出ると、ところどころで靴が路面に張りつくような感覚があった。濡れた路面が凍っている。ボタ雪にはこれがある。傾斜のあるアスファルト、上面も下面も寒気に襲われる橋、水たまりができる歩道橋の階段も凍ると危ない。

太陽が地面を温め、乾かすまでは車を運転しないことにした。阿武隈の山中で全天候型のタイヤを過信し、4ダブを滑らせて側溝にはまった経験がある。しかも今はノーマルだ。日陰が怖い。今朝(3月1日)はこれから夏井川渓谷の無量庵へ出かける。たぶん昨日一日で道路の雪は消えたことだろう。