2009年6月30日火曜日

アカウミガメ、哀れ


日曜日(6月28日)の午後、わが家で昼寝をしていると、いわき地域学會の若い仲間から電話がかってきた。「沼ノ内の『賽の河原』にアカウミガメの死骸がある。ニュースになりますか」「なる」。おっとり刀で駆けつけた。

「賽の河原」は崖海岸にある海食洞だ。その崖が薄磯の砂浜と沼ノ内の漁港とを分ける。分けるが、洞窟(トンネル)でつながっている。位置的には砂浜と崖が交互に連続する、いわきの海岸線の中間あたりだろうか。

別の仲間の話では、何人かで海岸の地形と植物の勉強会をしていた。漁港の突堤と崖の間には、小さな砂浜がある。砂浜の半分は崖を守るように、波消しブロックとそれを支える大きな砕石が覆っている。アカウミガメの死骸はその砕石の上にあった。

死後1週間はたっているだろう、という。生気はとうに消えて肉が黒ずんでいる=写真。腐臭があたり一面に漂っている。それで、若い仲間も死骸に気づいたのかもしれない。地元の人の話では、50~60年前まではそこらあたりにアカウミガメが上陸して産卵した。その遺伝子が「賽の河原」のそばの小さな砂浜へ導いたか。

きのう(6月29日)の夕方、再び若い仲間から電話がかかってきた。「アクアマリンの職員の話では、メスではなくてオスです。ネットで調べると、ウミガメの死骸があちこちに漂着してるようです」。メスとオスとでは解釈が異なってくる。

メスであれば――。衰弱して狭い砂浜から上陸したのはいいが、産卵場所を見つけられずに砕石の上で息絶えた? オスであれば――。漁網に引っかかって水死し、大しけの日に波消しブロックを越えて打ち上げられた?

崖は、上部が照葉樹の緑で覆われている。タブノキの赤い若芽がやけに目立つ。トベラも生えている。

むき出しになった岩は、いわき地方でいう堆積岩の「カチグリ」ではないか。「カチグリ」は風化するとボロボロこぼれる。落下した岩のかけらもある。絶えず崩落が起きているようだ。「賽の河原」の入り口には落石防止の“屋根”があった。

アクウミガメは素人目にも、砂浜を“墓地”にしてねんごろにとむらうしかないのだと分かる。いわゆる廃棄処分だ。哀れなことだが、そうしないことには腐臭はおさまらない。

2009年6月29日月曜日

来る魚は拒まず


近所の奥さんがスズキを2匹持って来た。おすそ分けだという。このごろは見よう見まねで三枚におろすことを覚えた。出刃庖丁と柳葉包丁を持ち出して、いっときスズキを相手に“格闘”した。

一昨年あたりまでは、丸ごともらっても困惑するだけ。行きつけの魚屋さんに走って三枚におろしてもらい、ついでに刺し身にしてもらうのが常だった。前にも書いたが、ときどき、広野町の知人が三枚におろしたスズキを持って来る。忙しいときは内臓だけ取って、「あとは自分でおろしてね」という場合もある。それで、少しずつおろし方を覚えていった。

いわき市漁協のホームページをのぞいて「スズキのおろし方」をつぶさにチェックする。うろこの取り方から始まって、えら、内臓、頭の切り方を頭にたたきこみ、尾に切り込みを入れたあとの身のそぎ方、皮のはがし方、刺し身の仕方をメモにして台所の棚に置く。

メモをのぞきながら、手順に従って作業を進める。以前は素手で作業をしたために、魚がすべって背びれが指に刺さり、血を流したこともある。軍手をはめてスズキを押さえていれば、まずその心配はない。

肝心なのは、中骨に身が付かないようきれいに包丁をおろすことだ。が、素人の悲しさ、これが難しい。骨が見えないほど身が残ってしまう。仕方ない、こちらはぶつ切りにしてアラ汁にする。皮も吸い物にする。スズキやカナガシラ、ヒラメといった白身の魚のアラ汁は、味がさっぱりしていて上品だ。このごろはそれですっかり“白身党”に転向した。

牛や豚の肉は食べやすいように仕分けされて売っている。調味料も豊富だ。買って来て焼くだけ、煮るだけと、至って簡単。魚はそうはいかない。切り身、刺し身だけでなく、丸ごと売っている。丸ごとにはなかなか手が出ない。そのへんの違いが消費量の差になっているのだろう。スズキをさばきながら、水産振興の難しさを思った。

さて、最後の「おつくり」(刺し身)というやつ。柳葉包丁で身を切ってゆく。右からか、左からか。素人はいつも迷う。ホームページに倣って右端から切ってゆき、それを皿に盛り付ける=写真。下手は下手なりに飾れるようになると、舌も喜ぶ。スズキはこれからが旬。「来る魚は拒まず」の精神で待つとしよう。

2009年6月28日日曜日

空き小瓶がドッと


再び青梅ジャムをつくり、空き小瓶がないのでホーロー鍋に入れたままにしておいた。それをこの欄に書いた日の夕方、早速、カミサンの同級生が空き小瓶を持ってやって来た。目を丸くするほどの数だ。

いくらなんでもすべての小瓶に入れるほどの量はない。木のスプーンで少しずつすくって入れること十数分、同じ大きさの小瓶が8個ほど青梅ジャムで埋まった。ときどきジャムがこぼれて小瓶に付く。この始末が容易でない。後で知ったが、ジャム用のホーロー漏斗があるそうだ。あれば楽でいい。が、待てよ。

種取り器具は必要だが、ホーロー漏斗まで用意しておこうとは思わない。来年、梅が採れるかどうか分からないからだ。青梅を買ってつくるほどのことではない。買うくらいなら青梅ジャムそのものを買った方が安上がりだ。趣味のジャムづくりは高くつく。いや、趣味だから経済性はどこかへ吹っ飛んでいる。菜園も、そば打ちも同じだろう。

さて、空き小瓶はほかにも使い道がある。小瓶を譲り受ける代わりに青梅ジャムを半分進呈した。

小瓶はまず三春ネギの種入れに再利用する。ネギ坊主を乾かして黒い種を取り出し、ゴミをより分け、乾燥剤と一緒に小瓶に入れて秋まで冷蔵庫で保管する。ネギの種は高温・多湿に弱い。冷蔵庫を利用するようになってから、種を駄目にすることがなくなった。それでも小瓶は1個あれば十分=写真は空き小瓶に囲まれた青梅ジャムと三春ネギの種(右端)。

6月24日に牛小川(夏井川渓谷)の無量庵へ出かけたら、玄関の戸に三春ネギの種の入った袋がぶら下がっていた。近所のKさんが届けてくれたのだ。これもあとで小瓶に入れて冷蔵庫で保管しようと思う。空き小瓶のおかげで今年の青梅ジャムづくりと三春ネギの採種作業は完了した、ということになる。

2009年6月27日土曜日

暴走する車


先月(5月)下旬のことだ。いつものように早朝散歩へ出かけた。夏井川の堤防へ出るには国道6号を横断しなければならない。そこで足が震えるような事態に遭遇した。

青信号になったので、横断歩道=写真=を渡り始めた。早朝だから車はほとんどない。上りの追い越し車線に1台止まっているだけ。いつものように下り線を過ぎて上り線にさしかかったら、走行車線を、クラクションを鳴らして疾走して来る車が視界に入った。

こちらは青信号、向こうは赤信号。当然、車は止まるだろうと思っているから、歩みを止めない。それでもクラクションは鳴り続ける。おかしいな。停止車両の陰から顔を出したとたんに、車が目の前を猛スピードで通過して行った。

何だ、バカタレ! 暴走車に向かって叫んでも聞こえない。何のためのクラクションか。「オラオラ、どけ!」。逆立ちした警告、危険運転に腹が立った。

横断歩道を渡り終えてから、急に足が震えだす。心臓も早鐘を打った。クラクションを変だと思わずにいつものように歩いていたら、20メートルも30メートルもはね飛ばされていたかもしれない。そう考えると、震えがきたのだ。

先日、常磐道のいわき勿来インターチェンジ出口付近で工事をしていた作業員がトラックにはねられ、4人が死亡し、2人がけがをした。1人の住所が、新婚時代に住んでいたところだったので、よけい痛ましさが募った。人ごとではない、とも思った。

歩行者は車を信用するな――。これが鉄則だ。交差点で信号待ちをしていても車が突っ込んで来る。赤信号であっても車が侵入して来る。事故のはずみで歩道に乗り上げることもある。横断歩道では2、3歩下がって信号を待つくらいの警戒心がないと。暴走車両に遭遇して以来、それを心がけるようにしている。

2009年6月26日金曜日

森のアオガエル


6月23日の夜、牛小川(夏井川渓谷)のKさんからわが家に電話がかかってきた。「家の前の畑に小さなカエデがある。その葉っぱにモリアオガエルが卵を産んだようだ。下に水たまりがあるわけではない。容器に水を入れて卵塊の下に置いた」。翌日、朝ごはんをすませて牛小川へ直行した。

Kさんの家を訪ねると、奥さんが畑に案内してくれた。畑の下は水田。畑の一角に高さ30センチほどのカエデの幼樹があり、葉を茂らせている。そのてっぺんに白い泡のかたまりが見えた=写真。23日は異常な暑さになった。卵が熱でやられないよう、日よけに草をかぶせておいたという。

見た限りでは、モリアオガエルの卵塊ではない。モリアオガエルは木の上にソフトボール大の卵塊を産みつける。こちらの卵塊は平板だ。しかし、泡のなかに点々とある“白ゴマ”のような卵はモリアオガエルに似る。シュレーゲルアオガエルの卵か。

モリアオガエルの卵塊は川内村の平伏沼をはじめ、いわき市内の何カ所か、いずれも川内村に通じる国道399号沿いの池や湿地で見ている。水たまりがあって、周囲に木々が茂っていれば、モリアオガエルは卵塊を産みつける。平伏沼が特別なのではない。阿武隈高地にはそんな産卵場所が無数にある――そう推測している。

シュレーゲルアオガエルは水田や森林に棲むという。つまり、モリアオガエルと同じ森のカエルだ。アオガエルというくらいだから、両者はよく似る。繁殖期になると水田や湿地の地面・草むらなどに卵塊を産みつける。モリアオガエルが樹上派なのに対して、シュレちゃんは地上派だ。そこが違う。カエデの葉むらも彼らには地上のうちに入るのか。

シュレーゲルアオガエルの卵塊を見たことがないので断定はできない。が、シュレーゲルアオガエルの可能性が高いのではないだろうか。だとしたら、近くの森からやって来たシュレちゃんが、畑の下の水田にたどり着く前に、早まってコト(交接)に及んだ、ということになる。カエデの葉の下に水の入った容器を置いたのは大正解だ。

2009年6月25日木曜日

地区図書館へ


いわき総合図書館が6月15~26日まで休館している。年に一度、蔵書の点検・整理、施設改修をする特別整理期間だ。21日の日曜日を過ぎたあたりから、この休館がこたえるようになった。

野口雨情記念湯本温泉童謡館で20日、サトウハチロー(下)について話した。7月のテーマも決めた。新しく調べを始めなくては――サトウハチローから別の童謡詩人に意識を切り替えたものの、「知の森」は門を閉ざしている。どんな資料があるか、現物を手にとりたいのにとれないもどかしさが募った。

いちばん近い地区図書館は? 四倉である。さきおととい(6月22日)、四倉図書館=写真=へ車を走らせた。四倉公民館の敷地を利用した平屋の建物だ。初めて訪れた。総合図書館で借りた本のうち何冊かを返し、四倉図書館にある童謡関連本を3冊借りた。

それでも足りない。街に用事があったついでに、同じ日、内郷図書館を訪ねた。内郷図書館は内郷公民館が入っている建物の1階にある。昨年、同じように総合図書館が長い休館に入ったとき、内郷図書館を利用した。ここでも童謡関連本を2冊借りた。

図書資料の有無はインターネットで調べられる。いながらにしてリクエストもできる。しかし、どうしても図書館へ足を運ばないことには落ち着かない。そういう情報の取り方を学び、実践してきた。アナログである。アナログのよさは一覧性、そして、周辺にある関連資料にも目を向けやすいこと。そこから思いもよらない発見・発想が生まれたりする。

いわきの地区図書館は四倉、内郷のほか、小名浜、勿来、常磐にある。植田公民館と一緒の建物に入居している勿来図書館は、昔、会社の支局兼宿舎が近くだったこともあってよく利用した。地区図書館は、いずれも規模は小さい。が、総合図書館を軸に便利な貸出システムが構築された。

いわきの自慢をするとき、こういう。「カツオの刺し身とじゃんがら念仏踊り、そして図書館」。総合図書館がいわき駅前再開発ビル「ラトブ」に開館した平成19(2007)年秋以降、図書館を付け加えた。四倉、内郷と地区図書館を利用して、あらためてそのことを実感した。

2009年6月24日水曜日

なんだ、この暑さは


なんだ、この暑さは――。気象情報でそうなることは分かっていたが、あまりにも唐突な暑さではないか。梅雨入り後、ぐずぐずした天気が続いた。梅雨だから当然。それがきのう(6月23日)、急に真夏の日差しになる。梅雨前線が通過して西風が吹き、海風が入りにくくなったためだという。

朝9時すぎ、かかりつけの診療所へ行った。診療所を出たのはほぼ30分後。この30分差でいきなり熱い空気に包まれた。こんなに急激に空気の熱が変わるのか。帰宅したあとは窓という窓を全開する。それでも暑い。バザーで買った卓上温度計の針が30度超を指している。半袖の上着をぬいで、半袖のシャツだけになった。ついでにズボンもと思ったが、それはやめた。

一気に大地の湿りが蒸発する。ブロック塀も輻射熱を発するようになる。そんなイメージが頭をよぎる。夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ出かけて草刈りでもしようか。それをしたらこの暑さだ、間違いなく熱中症にかかっているだろう。どこかの国の人間のように日中は家で静かにしているのが一番だ。                    
でも、午後に行かなくてはならないところがあり、夕方にも用事ができて出かけた。夕方の行き先は新舞子海岸だ。車の窓を全開して海岸道路に出ると、急に空気がひんやりしてきた。半袖シャツから冷気が入り込み、背中の汗を冷やす。たちまち寒いくらいになる。

新舞子海岸からの帰りは夏井川の右岸堤防を利用した。今にも夕日が水石山の右のはずれに沈もうとしていた=写真。暑い一日を象徴するようなまっかっかの火のかたまりだった。それで思い出した。6月24日は美空ひばりの命日だ。「舌頭に港町十三番地ひばり逝く」。そんな字余りのバレ句を、亡くなったときに酔って口にしたこともあった。

2009年6月23日火曜日

ぞうさん


2歳の男の子が来ると、いろんな遊びをする。ブロック積み、三輪車乗り、食器洗い、電球の点滅……。ギターケースを指さして開けるように催促することもある。ギターを弾いてほしいのではない。ギターケースにしまっておいたピックを取り出して、ギターの共鳴板の穴に入れるのだ。

共鳴板の中からピックを取り出すには、ギターを掲げてゆすらなくてはならない。すぐ穴から出てくるときもあれば、なかなか出てこないときもある。大人が困惑するのが面白いらしい。

ギターを手にしたついでにジャラーンとやる。と、長く伸びた右手指の爪を見てはがしにかかる。<おいおい、キミのために爪を伸ばしたんだよ、はがれないよ>とささやいても通じない。それにもすぐ飽きる。

すぐ次の遊びを見つける。まだろくに言葉も話せない幼児には、見るもの、聞くものすべてが遊びの対象だ。「アンパンマン」も大好きだ。紙に書いてやると「アンピャンマン」と反応する。

BGMの代わりにまど・みちお詩、團伊久磨昨曲の「ぞうさん」を弾いたら、あれあれ、言葉にはなっていないがハミングするではないか。母親に聞けば、保育園で聞いているらしい。よし、ちゃんと「ぞうさん」を弾いてやるか。

いわき総合図書館から楽譜入りの本を借りて来たのがある=写真。ついでに、まど・みちおの本も。今年100歳になった、生きた童謡史のような存在。2歳の男の子のおかげで、まど・みちおを調べてみようという気持ちがわいてきた。やなせたかしも。

2009年6月22日月曜日

“晴耕雨筆”


きのう(6月21日)は朝から雨。起きるとすぐ、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵へ出かけた。畑仕事はできない。が、雨の日には雨の日の過ごし方がある。晴耕雨読ならぬ“晴耕雨筆”だ。カミサンもパッチワークだかなんだか分からないが、四角い生地を並べてあれこれ組み合わせを考えている。こっちは、それには興味がない。

5月から神谷公民館の「基本のえんぴつ画」教室に通っている。月2回の開催で、これまでに線の引き方、線の組み合わせ方、影と光の出し方などを習った。野菜や果物、犬のスケッチ画を模写したり、実際に野菜を持ち寄ってスケッチをしたりもした。よく見て描かなくては――分かってはいるのだが、どうしてもうまくいかない。

教室の日以外はスケッチを忘れている。これではいけない。意識してスケッチブックを開くようにしないと。雨が降っているのをさいわいに、無量庵の庭に咲いているホタルブクロを摘んで一輪挿しに入れ=写真、花をスケッチした。

一時間以上も雨粒のついたホタルブクロを見続け、鉛筆を走らせていると、頭が重くなってくる。画家はそれに耐えて描き続けるのか、大変だな、と思う。ホタルブクロの茎にガガイモのつるが絡まっている。それも描き込む。にしても、相変わらず線が雑だ。描く、描く、描いて描き続けるしかないのだと、自分に言い聞かせてスケッチブックを閉じた。

匿名さんが寄せてくれたコメントが頭をよぎる。ある幼稚園の基本目標だという。「よく見る、よく聞く、よく考える」。ほんとにその通りだ。しっかり学ぶためにそれを実践する、という点では幼児も、アラ還も関係ない。

6月21日は「夏至」で「父の日」だった。帰宅すると、夕方4時ごろ孫の親が直接、7時半ごろには疑似孫の親から宅配便でアルコールが届いた。届いた酒は飾っておいて、買い置きの「田苑」をチビリチビリやった。土曜日、知人が持って来てくれた「田苑」もある。それも封を切った。アルコールが回ると、スケッチのことはどこかへ飛んで行った。

2009年6月21日日曜日

青梅ジャム


前に青梅を収穫した話を書いた。夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵に2本の「高田梅」の木がある。その木から青梅をもぎったら、およそ10キロあった。今までにない大豊作だった。

まずは青梅ジャムだ。次に、梅サワー。そして、最後は梅酒を――そうもくろんだものの、思い通りにはいかない。青梅ジャム作りは最初だから集中して取り組んだ。

世に流通している作り方に従って、①青梅を洗い、一晩水につけてアクを抜く②翌日、ざるにあけてヘタを取る③すぐ、琺瑯(ほうろう)鍋で皮にひびが入るまでゆでる④そのあと、5~10時間ほど水につけて酸味を抜き、種を取る⑤残った果肉を琺瑯鍋に入れ、中火でコトコト煮ながら、ころあいを見計らって砂糖を何回かに分けて加える、と出来上がり。

作り始めると2日間は、青梅中心になる。初日の夜、水につける。2日目、早朝に梅をゆで、夕方には種を取って煮る(種取り専用の器具がある。面白いように種と果肉が分離する)。次の日に残りの作業をやろう、などという怠け心は通用しない。そうして作ったら、まずまずの味になった=写真

作った本人は、しかしもう食べる気がしない。種を取る過程で手の指が白くなり、なめて味を確かめ、鍋の熱にさらされているから、もういいやという心境だ。カミサンが小瓶に分けて知り合いに配ったら、お礼のはがきが来た。

「本当においしくて、実は夫には言ってません。自分だけで毎朝いただいております」。こういう意地悪なはがきが好きなものだから、あとに続く「来年もよろしくお願いします」という文面を読むと、〈よし、今年のうちにもう一回作っちゃえ〉と張り切ってしまう。

10日ほどたって、また作った。が、今度は小瓶がない。「空き瓶をたくさん持参します」という言葉を信じて、青梅ジャムを琺瑯鍋に入れたままにしている。すぐ梅サワーとか、梅酒を作ればよかったのだが、野暮用ができてほったらかしにした。半分は傷み始めていた。で、まだしっかりしている梅をより分けてジャムを作ったというわけだ。小瓶よ早く来い、である。

2009年6月20日土曜日

ツバメの子


いわき市植田町のギャラリー「わづくりや」で、竹細工の「大平良章作品展」が開かれている。6月28日まで。

おととい(6月18日)、大平さんご本人が案内状をカミサンに持って来た。私が「アッシー君」にならないと見に行けない。“自由業“とはいえ、いろいろ予定が立て込んでいる。土曜日は駄目、日曜日は夏井川渓谷、翌週のこの日とあの日は駄目――で、きのう午後、出かけた。

繊細な竹細工にあらためてうなった。プロとしての修業を積んできた人だ。ところが案内状に、竹細工に魅せられて二十数年、その可能性を求め、仕事の合間に創り続けた作品、という意味の文章があった。「仕事の合間」というのは「稼ぎの合間」だろう。

その合間こそ、ほんとうは大平さんの生の実感がしみわたる世界なのだ。「おれの作品を見てくれ」。つぶやきではなく、叫びの世界があってもいいのではないか。そんなことを感じて帰路に就いたら、カミサンがいつものように「ついで」をいう。

小名浜の「ギャラリーアイ」で「山野辺孝陶展」が開かれている。22日まで。そこへ車を走らせた。オーナーと初めて親しく言葉を交わした。ぐい飲みを買った。カミサンも小皿を買った。

帰ろうとしたら、入り口の床に段ボールが敷かれているのが目に入った。入るときにはまったく気がつかなかった。頭上の壁にツバメの巣がある。ツバメのひなのフンが落ちてくる。床が汚れる。それを段ボールでカバーしているわけだ。

ツバメの敵はカラスだという。去年はそれでヒナが死んだ。そんなことをオーナーから聞いているうちに親鳥がえさを運んで来た。親は一瞬のホバリング、ヒナも一瞬の口あけ。それが済むとヒナは体をすぼめて静かになる。なんだ、この以心伝心は。写真は、親鳥が来た瞬間にヒナが立って顔をのぞかせたところだ。3羽の顔が見える。

5分に一回は親鳥がえさを運んで来るという。待つか。ちらりと思ったが、やめた。狙って撮るタイプではない。遭遇したものを撮る。そのレベルでいいのだと自分に言い聞かせた。

2009年6月19日金曜日

『放浪記』は現代の書


このところ、林芙美子の『放浪記』や読本を反復して読んでいる=写真。野口雨情記念湯本温泉童謡館でサトウハチローについておしゃべりするために、関連する本を読んでいることを先に書いた。ハチローの弟子の菊田一夫の評伝などで、菊田一夫が19歳のころから林芙美子と交流していることを知った。

で、『放浪記』を手に取ったら、これが面白い。小林多喜二の『蟹工船』とはまた違ったかたちで、さすらいのどん底暮らしを描く。街を、男を放浪しながらも、しかし文学への希望を失わない。現代の書、青春の書だ。

草野心平・サトウハチロー・小野十三郎・野村吉哉……。心平らが創刊した同人雑誌「銅鑼」でつながる詩人たちだ。それだけではない。ともに明治36(1903)年生まれ。彼らは20歳のときに関東大震災を経験する。

林芙美子もその年、20歳。詩を書いていて、のちに野村吉哉と同棲する。この野村吉哉が大変な人間だった。ドメスティックバイオレンスに突っ走る。詩人の松永伍一にいわせれば、サディストでヒステリーの持ち主だ。

『放浪記』にはそのころ書いた詩が挿入されている。これに強く引かれた。『放浪記』はそもそも、芙美子が書いていた「詩日記」が原型だという。

<さあ男とも別れだ泣かないぞ!/しっかりしっかり旗を振ってくれ/貧乏な女王様のお帰りだ>(野村吉哉の前の同棲相手、新劇俳優と別れて)

<矢でも鉄砲でも飛んでこい/胸くその悪い男や女の前に/芙美子さんの腸(はらわた)を見せてやりたい>

<冨士山よ!/お前に頭をさげない女がここにひとり立っている/お前を嘲笑している女がここにいる>

開高健流にいえば、崖っぷちに立たされながらも破れかぶれ、開き直って野原を行くような明るさ。冨士山に挑みかかる姿勢がなんとも小気味いい。冨士に引かれる男ども、たとえば北斎の絵、心平の詩と芙美子の詩を比較すると、いろいろ違いが見えてくるのではないか。決して古くないのだ。

菊田一夫の戯曲「放浪記」は、森光子主演で昭和36(1961)年10月に初演された。最近、上演2,000回を達成した。森光子に7月1日、国民栄誉賞が授与される。

いろいろ資料を読み込む過程で、林芙美子をよく知る菊田一夫だからこそ作り得た作品だということが分かった。林芙美子の『放浪記』に仮託した、「詩人菊田一夫」の青春の記でもあるのだという。超ロングランのわけがそこにありそうだ。

サトウハチローに関して、林芙美子は死ぬ直前の女流文学者座談会で極貧時代を振り返り、こんなことを言っている。「講談社の原稿売り込みの常連にサトウハチローさんがいたわ。……なつかしいわ」。ハチローともつながっていたのだ。

2009年6月18日木曜日

アオサギを撮る


朝6時すぎ。空はうっすらと雲に覆われている。梅雨に入って太陽を拝む時間が減った。長袖でないと寒いくらい。こんな日には気持ちまで湿めり気を帯びる。

きのう(6月17日)のことである。なにか面白いものはないか。夏井川(いわき市平中神谷)の堤防上から川を見ると、流れの中ほど、半分埋まった流木にアオサギが止まっていた。木に“変身”して魚を狙っているのだろう。よし、写真に撮ろう。

岸辺にはヨシが生えている。接近するにはいいブラインドだが、撮影するには邪魔になる。近寄ってカメラを持ち上げ、パシャッ、パシャッとやったら、気配を察知して飛び去った。デジカメのモニター画面を見ると、下流にある橋しか写っていない。見事に失敗した。

アオサギは警戒心が強い。人の姿を見るとすぐ飛び立つ。せいぜい上空を通過するときくらいしかシャッターチャンスがない。デジスコで撮る本格派と違って、視野に入ったらすぐ撮るだけの“遊撃隊”には、それしかない。

橋の写真にがっかりして堤防の上に戻ったら、ちょうどいい具合に別のアオサギが現れた。えさ場へ向かっているのか、真上を通過する。すぐカメラを向けて3回シャッターを押した。今までで一番の至近距離からアオサギを撮ることができた=写真。アオサギは体長約90センチ。飛んでいるときには首が「乙」字になる。真下からもその形がよく分かった。

夏井川渓谷(いわき市小川町)にもときどきアオサギが現れる。急斜面に生える赤松やモミの木に止まって一休みしているときがある。「鶴だ!」。人によっては目を輝かせる。大型の鳥であること、日本の美意識の集大成ともいうべき「花札」に「松に鶴」があることから、松に鳥とくれば鶴となるのだろう。

カメラは鳥が飛んでいるときの、一瞬の姿を切り取る。肉眼では分からない翼の開き具合、一枚一枚の羽根の形、脚の位置……。鳥の絵を描くとしたら、そうした生態写真が欠かせない。前に、体の大きいハクチョウの飛翔写真を見て精密な翼の動きに驚いたことがある。アオサギの翼のラインも美しい。

2009年6月17日水曜日

やせ細る夏井川


ウスヒラタケが大きくなってるだろうな。そう考えたら、自制がきかなくなった。きのう(6月16日)の午後遅く、夏井川渓谷(いわき市小川町)へ車を飛ばした。無量庵に着くと、やはり三春ネギをちょんぎるネキリムシが気になる。いた。2匹をブチッとやってから森へ入った。

日曜日にウスヒラタケの発生を確認した場所へ直行する。ちょうど採りごろになっていた。まず、一呼吸おいて写真を撮る。それから「白こぶ病」にかかっていないかどうか、傘の裏を見ながら採る。小さなレジ袋が半分埋まるくらいは収穫した。「白こぶ病」も10個くらいはあった。「白こぶ病」のウスヒラはそのまま置いてきた。

雨模様の午後4時前。緑のドームの底は少しばかり薄暗い。イノシシが現れたらどうしよう。遭遇を避けるために、口笛を吹いたり、声を出したりして歩く。日曜日早朝、湯気が立ってるようなフンを見て以来、臆病風が吹き始めた。ナイフのような牙で体をぐさっとやられたらたまらない。

日曜日のフンは乾いて、色もあせていた。ほかにフンは見当たらなかった。毎日現れるわけではないのだろう。行動半径が広いから、現れるとしても何日かあとか。

話は変わる。最近、夏井川渓谷の早瀬の音が小さくなった。無量庵の目の前に水力発電用の取水堰がある。ふだんは堰から水がオーバーフローをしている。それがおさまった=写真。発電のための取水と「我田引水」が理由だろう。渓谷の夏井川は、渇水期の冬場以上にやせ細っている。川が川でなくなっている。

「渓谷に沿って汽車が通うようになってからは、ハイカーも増えた代りに、伐木やその他で昔の景観は幾分そこなわれてきた。それに数ヶ所に発電所が出来たため、水流はまるで弱くなって味気ないものになってしまった」。草野心平が「背戸峨廊(セドガロ)の秋」で嘆いた状態になった。

しかし、それでもカワガラスがもぐり、オシドリのつがいが羽を休め、上空をカワウが飛んで行く。人間の営みを反映しながらも、夏井川渓谷の川は、森は常に発見と驚きに満ちている。ホンモノが発する情報の質量は無限大だ。

2009年6月16日火曜日

猫にマタタビ


夏井川渓谷(いわき市小川町)を縫う県道小野・四倉線は、すっかり青葉に包まれた。磐越東線の上小川トンネルに接続する磐城高崎踏切を渡って地獄坂を上りきった先、ロックシェッドをくぐるあたりから緑のトンネルが続く。空も、渓流も“すだれ”を通して見るようだ。

杉の木を青葉のマントが覆っていた。半分、あるいは全部白い葉がある。つる性植物のマタタビだ。猫に与えると、ゴロゴロのどを鳴らして恍惚感にひたる。その反応が面白くて、この時期、夏井川渓谷から葉を摘んで飼い猫に与えてやる。

その葉を、カミサンが私のいないときに猫に与えた。いかにもネコ科の動物だ。ゴロニャン、ゴロニャンと反応したそうだ。ただし、雄猫の「レン」がそうで、雌猫の「さくら」はそうでもなかった。

不妊手術を受けてぶくぶく太った「さくら」はキャットフードしか口にしない。しかも、食べたものをそこら中に吐く。そんな猫がマタタビに夢中になるはずがない。いや、マタタビにおかしくなるのは雄で、雌はすぐ醒めるのか。

帰宅すると、茶の間の畳の上にマタタビの葉があった。しおれかけていた。それで媚薬(匂い)の効果が薄れたか、猫たちは葉を踏みつけても見向きもしない。残りの葉は花瓶に生けてあった。

と、今度は「レン」が花瓶の葉をむしゃむしゃ食べ始めた=写真。初めて見る光景だ。猫の食生活がキャットフード一辺倒になってなにかが狂い出し、匂いだけではあきたらずに、より強い刺激を求めてマタタビの葉を食べるようになった? いや、ストレスがたまっていたので精神安定剤の代わりに“服用”した? 人間と同じで、若い雄猫の行動にはびっくりさせられることが多い。

2009年6月15日月曜日

イノシシの置き土産


土曜日(6月13日)、夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵に泊まった。2週連続の週末泊は久しぶりだ。行ったらすぐ、三春ネギの溝に巣くっているネキリムシをさがして始末し、翌日曜日にはキヌサヤエンドウを摘み、キュウリ苗のひげがうまくテープに絡むよう誘引する――そういうもくろみで出かけた。

「飲み過ぎないように」。カミサンからきつい達しがあった。2番目の孫がこの世に生まれ出るかもしれない日だというのに、無量庵へ泊まりに行くのかと、目が詰問調になっている。

半分は仕事を兼ねている。6月20日の午後に野口雨情記念湯本温泉童謡館でおしゃべりをするための資料の読み込みをしなくてはならない。無量庵の方がはかどる。それを言い訳にしたところもある。

日曜日は早朝4時半に起きた。朝茶をのんで頭を目覚めさせたあと、菜園に出て予定の作業をする。と、すぐ電話が鳴った。「4時半ごろ、生まれたって」。なにか不思議な時間の一致だ。

急いで作業を済ませ、前の晩の残りで早い朝食をとっていると、孫の親から電話がかかってきた。「病院へ来るのはゆっくりでいい」。予定の行動には「森巡り」も入っていた。では、そうするか。一番列車が通過する前に森に入った。

この時期の目当てはただ一つ、ウスヒラタケの発生を確認すること。土曜日の早朝、平地の石森山でウスヒラタケを収穫した。それで、間違いなく夏井川渓谷でも発生しているはず、と踏んだのだ。あるとすれば、岸に近い場所の、あの倒木――狙いを定めて直行すると、あった。あした(6月16日)あたりが採りごろのウスヒラタケが群生していた。

「写真で採(撮)る」だけにして、やぶこぎを続ける。ちょっとした斜面を上ると、黒々と輝くイノシシのフンに出合った=写真。黒い碁石を軟らかくして何個も重ねたような感じ。人間に歩きやすいところはけものにも歩きやすいところだった。知らず知らずに“けもの道”を進んでいたのだ。

林床には半分朽ちかけた落ち葉が堆積している。その落ち葉のじゅうたんに点々とへこみができていた。イノシシの足跡だ。食事を終えたあと、フンをひり出し、悠然とねぐらへ戻るイノシシの姿が想像された。

イノシシはさっきまでここにいた。早朝6時過ぎ。今、ここにいる哺乳類はイノシシと交代するように現れた人間ひとり――。どうでもいいことを考えたら急に人恋しくなり、急いで自宅へ戻った。

2009年6月14日日曜日

梅雨の楽しみ


うすぼんやりした空模様に脳のスイッチが入った。記憶の底で動き出すものがある。えーと、えーと……。河口ではない。里山だ。晴れてはいない。湿度が高く、どんよりしている、梅雨のある日。ピントが絞られてくる。梅雨キノコ! 早朝散歩の途中でウスヒラタケの映像が浮かび上がった。

家に着くとすぐ、石森山へ車を走らせた。この山の遊歩道に入るのは2カ月半ぶり。いつもの場所に車を止め、いつものペースで遊歩道を歩く。せせらぎを眺め、草むらをのぞきながら、ゆっくりと。

石森山で一番空中湿度が高い、すり鉢の底のような小道にチップが敷き詰められている。このチップから強毒のニガクリタケが大発生していた。去年もそうだった。ヒトヨタケの仲間と思われる灰色のキノコ、柄がナラタケに似た黄褐色のキノコもある。中央は乾いて白くなっている。猛毒のコレラタケだ。

道端の倒木にシャツのボタンほどの白いキノコが生えていた。目を凝らす。生まれたての小さなウスヒラタケ。幸先がいい。いよいよゆっくり歩く。奥の、湿度の高い場所に、やはりウスヒラタケがあった=写真。採りごろだ。別の遊歩道にも入る。こちらは、行けども行けどもチップのニガクリタケばかり。

よし、帰ろう。朝飯前のキノコ採取は、ぐずぐずせずに素早く切り上げるのがコツ。きびすを返しながらも目は休まない。行きと帰りとでは視点が異なるので、隠れて見えなかったものが見えることがある。やはり、あった。一段と成長したウスヒラタケがせせらぎの倒木に生えていた。

記憶に促されて山に入ったら、ちょうど一食分くらいのウスヒラタケを手に入れることができた。早速、バター炒めにして食べた。これが、どんよりした梅雨の日の楽しみでもある。

2009年6月13日土曜日

ハナショウブ無残


いわき市平北白土の塩脩一さん宅を訪ねた。庭の前に塩さんが丹精したハナショウブ田が広がる。「今年は、葉が“薬害”に遭って7割方は駄目」。娘さんから聞いていたので、心配しながら出かけた。

ハナショウブ田を見た。あれあれ。言われていた通りである。花は、咲いていることは咲いているが、いわき語でいう「ささらほさら」=写真。咲いていない株が圧倒的に多い。

塩さんは80代半ば。稲の転作を兼ねて、ハナショウブの栽培を始めてからかなりの年数がたつ。

ここ何年か、毎年、ハナショウブを見に行って塩さんと話をする。何を隠そう、塩さんは私のネギ栽培の師匠だ。そのネギ栽培のプロ、野菜やハナショウブ栽培のベテランが、大きな異変に遭遇した。

秋に除草剤をまくのだが、そのとき、ハナショウブ田の水加減かなにかが悪くて株にダメージを与えたらしい。かなりの葉が黄ばんでいた。塩さんほどのベテランでさえ失敗するときがある。去年も少しそういう兆候があった、という。どうしたことか。

水稲であれ、野菜や花であれ、栽培に失敗したら、その反省を生かすのは翌年以降になる。算数のテスト中に計算の間違いが分かって答えを書きなおす、というわけにはいかないのだ。

「来年は、葉っぱが回復しますかね」。塩さんは慎重だ。花が復活するのは「再来年かな」。

塩さんこだわりのキュウリとトマトを買い(直売をやっている)、納屋に巣をつくったツバメの「三角関係」の話を聞いて、家路を急いだ。

2009年6月12日金曜日

路上の死物学


時々、動物が路上で死んでいる。街の幹線道路では犬や猫、特に猫の死骸が多い。郊外ではタヌキが目立つ。堤防の上では毛虫。夏井川渓谷(いわき市小川町)でも、タヌキ、テン、ヤマカガシなどの死骸を目にしてきた。いずれも車にはねられたり、ひかれたりしたのだ。

鳥も無事ではいられない。スズメ、コジュケイ、フクロウ、ムクドリ……。翼を持っているからさっとよけられるはずなのに、と思っても、車のフロントガラスなどにぶつかって昇天する。昔に比べて車のスピードが上がっているのだろう。それだけ現代人はせわしなくなっているわけだ。

先日は、夏井川下流の堤防上でツバメの死骸に遭遇した=写真。堤防の上を行き来する車はそう多くない。スピードもそんなに出せない。果敢に、スピーディーに「ツバメ返し」をする空の特急便も、ときには目測を誤って車にぶつかり、命を落とすのか。

これからはトンボだ。夏井川渓谷では今週に入って、急にミヤマカワトンボの死骸が目につくようになった。ミヤマカワトンボは翅と胴が赤褐色、腹が金緑色をしている。美しい。このトンボが、翅を風にそよがせて路上に横たわっている。夏になると、今度はオニヤンマが車にぶつかってくる。

まだ生きているミヤマカワトンボがいた。タイヤの下敷きになるくらいなら飾っておきたい――。翅をつまんで助手席に置いたのはよかったが、車から降りてしばらくしたら姿がない。脳しんとうでも起こしていたのがなおって、開いていた窓から飛び去ったのだろう。写真を撮り損ねたのが残念。

PHP新書に川口敏著『死物学の観察ノート』がある。この本を読んで以来、夏場はいつも「死物学」なる言葉を思い出す。

2009年6月11日木曜日

ネギ坊主を天日干し


青梅を収穫した日に、三春ネギのネギ坊主も刈り取った。ネギ坊主は小さな花の集合体で、全体が球状になっている。だから「ネギ坊主」。「ネギぼんこ」という人もいる。小花が咲いて実がなり、熟すると裂けて黒い種子が見えるようになる。それが採種のサインだ。

刈り取ったネギ坊主は新聞紙を敷いて天日に干す。乾いたら、そのまま手でしごいたり、たたいたりして種子を落とす。次に、ごみと種子をより分ける。と、口でいうのは簡単だが、このより分けが意外と難しい。いくらやっても小さなごみや砂が残るのだ。意地が焼けて種子ごと放り投げたくなる。

ネギ栽培の「師匠」から教わったのは、水につけること、だ。ボウルに金ザルを重ね、ごみと一緒に種子を入れて水を注ぐと、比重の重い砂はボウルの底に沈み、比重の軽いごみや中身のない種子は表面に浮く。それを流して金ザルの水を切れば種子だけになる。濡れた種子は新聞紙に広げて一晩置くと、すっかり乾いている。

あとはさらさらした種子を集めて小瓶に入れ、秋の種まき時期まで冷蔵庫で保管する。春に種をまくいわきの平地のネギと違って、田村地方から流入した夏井川渓谷(いわき市小川町)の三春ネギは秋まきだ。

その「ネギ坊主」を月曜日に干し始めた=写真=ら、太陽が雲に隠れてしまった。揚げ句に、昨日(6月10日)は東北南部が梅雨入りをした。今朝、4時前に目覚めたら、雨音がする。慌てて縁側からネギ坊主を部屋に引っ込めた。たちまちネギ特有のにおい(アリシン)が部屋に充満した。

ネギ坊主は完全には乾ききっていない。が、ぐずぐずしてはいられない。今日はしごいて種子を取り出し、手順に従ってごみをより分け、乾かして小瓶に入れ、乾燥材も添えて冷蔵庫に眠らせるとしよう。

2009年6月10日水曜日

『シベリヤ抑留記』


いわきで職を得たころ、アマチュア画家の広沢栄太郎さんと知り合った。国鉄職員だった。先日、民話を語る「いわきの姉さん」の話を書いたが、その叔父さんだ。先の戦争で、現役兵としては昭和11年、応召兵としては同16年、朝鮮羅南にある部隊に入隊し、同20年8月の敗戦と同時にソ連に抑留された。

昭和23年に復員するとすぐ2カ月をかけて、2年半余の強制収容所生活を50枚の画文集にまとめた。「シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録」である。収容所(ロシア語で「ラーゲリ」)では鉛筆で小さなザラ紙に数百枚をかきためた。それを、帰国集結地ナホトカの手前で焼き捨てた。没収されるのが分かっていたからだった。

なんとか世に出したい。当時、いわきの先端的なギャラリーだった「草野美術ホール」のおやじらと諮って自費出版の裏方を務めた。36年前のことだ。以来、詩人の石原吉郎、画家の香月泰男とともに、「シベリア抑留」の言葉がよぎると広沢さんを思い出す。

きのう(6月9日)の夜、いわき市文化センターで開かれた「いわきフォーラム90」の第309回ミニミニリレー講演会もそうだった。「聴き語りシベリヤ抑留」の予告を知り、広沢さんの本を携えて駆けつけた(といっても、自分の本の整理が悪くてどこにあるか分からない。しかたなくて、いわき総合図書館から借りた)。

今年85歳になる体験者3人と、亡くなった1人の奥さんの計4人が当時の様子を語った。過酷な労働と粗末な食事、仲間の衰弱死、望郷……。広沢さんの画文集に描かれていた世界=写真=を、生の言葉で、淡々と、ときに嗚咽を抑えながら伝える。広沢さんの本が初めて私のなかで立体化された、という思いがした。

と同時に、詩人の友人が亡くなる前、強制収容所の取調官に対して発した最後の言葉もよみがえった。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」。「あなた」とは取調官のみならず、ソ連のスターリニズムそのものでもあったろう。

4人の話はいずれこの欄で紹介しなければ、と思う。とりあえず、きょうは広沢栄太郎というアマチュア画家がいて、『シベリヤ抑留記 ある捕虜の記録』をかつて出版したということをお知らせするにとどめたい。極限状況の話を受け止めるには、こちらの脳細胞が軽すぎる。一語一語を反芻するのがやっとだからだ。

2009年6月9日火曜日

梅が大豊作


夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵の畑に、高田梅の木が2本ある。一昨年、立ったままで実を摘めるようにと、思い切って枝を剪定した。去年の収穫はそれでゼロに近かった。今年は2年分というわけではないだろうが、生(な)りに生った。水平に伸びていた枝が実の重みで地面につきそうになっている。

子どものころからカリッとした梅漬けを食べてきた。私にとっての「おふくろの味」だ。実家へ帰った折、母につくり方を聞き、亡くなったあとは義姉にも聞いてつくってはみたのだが、満足のいく出来栄えにはならない。梅は会津の高田梅だという。アンズのように実が大きい。

梅漬けには青梅を使う。実家では近くの店から買う。私も梅漬けをつくるときには、梅酒用に売られている青梅をスーパーから買い求める。ならば、梅の木を育てれば買わずに済むではないか――欲を出して、身内に造園業者がいる知り合いに話したら、苗木をプレゼントしてくれた。10年ほど前のことである。

苗木は少しずつ成長して、今では根元が一升瓶くらいの太さになった。1本は台風にもまれて傾いた。それでも元気に根を張っている。傾いた幹の負担を軽くする意味もあって、一昨年の晩秋、天に向かって伸びている枝を2本ともバッサバッサやったのだった。

さて、夏井川渓谷は虫のワンダーランド。梅が実を形成し始めると、どこからともなく虫がやって来て傷(食痕)ができる。傷のついた梅は漬けて干しても、そこだけ突っ張ったようになる。軟らかくならない。農薬を散布すれば別だが、自然に任せていては無傷ではいられないのだ。

できるだけ傷が小さく、そばかすの少ない青梅を漬けたら、一度はカビが生えてしまった。管理が悪かったのだ。以来、梅漬けはあきらめて、梅酒か青梅ジャムをつくることにしている。

その量だが――。これまでは収穫してもせいぜい2~3キロ止まり。今年はしかし、爆発的な生りようだ。やや大きめのレジ袋に摘み、小さなレジ袋に小分けしようとしたら、分解時期に入っていたのか袋が裂けた。ついにはごみ袋も引っ張り出して摘んだら、計10キロ超はあった=写真(ネギ坊主は種採り用の三春ネギ)。

青梅ジャムに梅サワー、梅酒。まずはジャムだ。きのう(6月8日)夕方、平の「鮮場」へ砂糖を買いに行ったら、旧知の記者氏とレジが一緒になった。

「ハチミツ?」と聞くと「梅ジュースをつくる」のだという。彼は第二の人生を最後の赴任地いわきで送ることにした。鮫川流域に家を買った。畑仕事も、釣りもする。梅は2キロ収穫した。「私は10キロ」というと、「来年は負けないでつくるぞ」。ご同輩とは、こういう人を言うのだろう。

2009年6月8日月曜日

墓場のへりの桑の実を


散歩コースの一角に寺がある。本堂の前には墓が密集している。周囲を住宅が囲んでいるので、横道に入らなければそれとは分からない。西側の境界に沿って木が植えられている。なかに1本、桑の木がある。

その実が赤く色づき始めた。黒く熟した実もある=写真。熟果を口に入れる。甘い。「山の畑の(私には、墓場のへりの、となるが)、桑の実を、小籠につんだは、まぼろしか。」。三木露風の童謡「赤とんぼ」を思い出す。

子どもではないから、パクパク口にするようなマネはしない。一日おきに一粒、恵んでもらうような感覚で摘む。人がいれば素通りする。やはり人前では抵抗がある。で、夕方は近寄らない。早朝だけの寄り道。

夏井川渓谷(いわき市小川町)の無量庵の近くにも、やや高木になった桑の木がある。実がなってもあらかたは手が届かない。脚立を持ち出すほどでもないから、そのままにしておく。おととい(6月6日)見たら、実はなかった。

平市街地の裏山とも言うべき石森山はどうか。丹念に探せば桑の実はおろか、キイチゴ(モミジイチゴ)にも出合えるだろう。30代には縦横に張り巡らされた遊歩道をよく歩いたから、現地に行けば「ここでアケビを、あそこでヤマボウシの実を、ウラベニホテイシメジを、桑の実を」と、採った場所が思い浮かぶ。

それもこれも少年時代の記憶が黄金に輝いているからだ。桑の実を口いっぱいほおばると、唇が、舌が「ぶんず色」(黒みがかった紫紺色=ヤマブドウ色)になった。大人はそれで子どもたちが山遊びをしてきたことを知る。この年になって「ぶんず色」になるほど食べてみたい、という欲望を抑えきれない。ワラシにかえりつつあるのか。

2009年6月7日日曜日

“草刈り隊”出動


春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動最終日のきょう、6月7日は「清掃デー」。夏井川渓谷(いわき市小川町)でも早朝6時、各戸から人が出て県道沿いのごみ拾いを実施した。私も前夜、無量庵に泊まってごみ拾いに参加した。

前にもこの欄で書いたが、ごみは本当に少なくなった。捨てる人間が減ったこともあるが、それ以上に拾う人が増えたのだ。川前町の市民団体「川前発 夏井川をきれいにしてみま専科」が3月初旬、谷まで下ってごみ拾いをした。それもあって、われわれが拾ったごみは1人当たり不燃、可燃それぞれ1袋にも満たなかった。

参加した9人のうち、4人は草刈りに精を出した。昔、旅館だったとかいう空き家があって、朽ち果てる寸前だったのが解体され、更地になった。更地になれば草が生える。放置しておけないので“草刈り隊”が出動した=写真

あばらやのころ、無量庵へやって来る若い連中は心霊スポットではないか、などと面白がっていたが、地元の人間にとっては誰かが入り込んで火をあましたりしないか、という心配があった。解体されてそれがなくなると、今度はボサ(ヤブ)化する心配が出てきた。

不在地主なので、誰かが管理を頼まれているのだろう。が、どうしても十分とは言い難い。行楽客が「景勝の地なのに草ぼうぼうにしている」などとまゆをひそめることもありうる。それは地元の住民にとって耐えがたいことだ。で、地元の環境維持のために自主的に草刈りをすることにした、というわけだ。

さて、常磐で用事があるため、午前10時には無量庵を離れて街に下った。江田では消防団員がポンプ車を繰り出して防火水槽の点検をしていた。高崎踏切付近では交通安全協会の関係者がごみ拾いをしていた。小川の一筋町に入ると、同じく子ども会の一行がごみ袋を持って道を歩いていた。

いわきではこの3日間、延べ20万人以上が出て公園を、道路を、側溝を、家の周りをきれいにしたはずである。いわきの誇る市民活動の一つである。

2009年6月6日土曜日

いわきキノコ同好会報


いわきキノコ同好会の会報第14号が出た。毎回寄稿していた白瀬露石さんの名前がない。元教員仲間の天野和風(和雄)さんが白瀬さんを偲ぶ句を寄せている。

野馬追の緋(ひ)の母衣(ほろ)眩(まぶ)し騎馬の列
大西日浴び若武者の戻りたる
山鯨(やまくじら)捌(さば)き鉈(なた)の刃毀(こぼ)したる

白瀬さんは相馬出身。相馬の野馬追を一緒に観覧したのだろうか。山鯨はいうまでもなく、イノシシのこと。白瀬さんは銃猟もした。天野さんも参加したイノシシ狩りのあとの光景か。

同じ相馬出身の故斎藤孝さんの遺稿集『石森山の菌類』から、「はじめに」「アラゲキクラゲ」「サンコタケ」「ハタケシメジ」が再録された。斎藤さんが撮影した写真の一部も「キノコギャラリー」として紹介されている。これが素晴らしい。斎藤さんが特に力を入れていた変形菌と冬虫夏草14種が、ボケやブレもなくシャープにとらえられている=写真

変形菌はクダホコリ、ムシホコリ、マンジュウホコリ、ガマグチホコリ、タマツノホコリ、フンホコリ、冬虫夏草はハチタケ、ハナサナギタケ、アリタケ、コガネムシタンポタケ、スズメガタケ、カメムシタケ、ヤンマタケ、オサムシタケ。

スズメガタケとヤンマタケは撮影経験があるが、ほかは未見の種類ばかりだ。斎藤さんの「キノコ目」には脱帽するしかない。もっともっと長生きしてほしかった。

会報にはこのほか、「平成20年度のキノコ中毒」「市内で発生した『ヒラタケ白こぶ病』」「観察会記録」などが載っている。私も「磐城蘭土紀行」に書いたキノコ関連記事のうち3本を再掲した。いずれ総合図書館の郷土資料に加わると思うので、興味のある方はそちらへどうぞ。

2009年6月5日金曜日

街中朗読会


いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の6階企画展示ホールで6月2日、街中朗読会が開かれた。いわき絵本と朗読の会が主催した。「宇野千代を読む」「母を詩(うた)う」「郷愁」の3部構成で、ちょうど知人が出演する時間帯に会場へ入ることができた。

このところずっと大正・昭和初期の童謡関連本を読んでいる。月に1回、野口雨情記念湯本温泉童謡館でおしゃべりをすることになり、金子みすゞ、西條八十、サトウハチローと、調べたことを報告している。「母を詩う」にサトウハチローの「お母さんのうた」が入っていた。同時代の作家宇野千代にも興味がある。知人の誘いもあって「ラトブ」へ足を運んだのだった。

宇野千代は今でいう「飛んでる女」だ。瀬戸内寂聴著『わたしの宇野千代』に収録されている対談「天衣無縫な愛情過多」の一部(と思われるもの)を、知人が千代、もう1人が寂聴になりきって朗読した=写真。 突っ込む方も、答える方も率直すぎるくらい率直だ。

瀬戸内 先生のちょっと好きな人はたくさんいらっしゃいますけど、いちばんお好きだったのはどなたですか。やっぱり北原……。
宇野 やっぱり尾崎士郎です。尾崎士郎にはとても心を惹かれましたね。

といったくだりから始まって、男が縮こまってしまいそうな本音のトークが続く。

宇野 なよなよしているようでね、およそなよなよの反対なんですね。だから、かわいい女ではなくて、にくらしい女。男から見るとね。男の膝にすがって「あたしを捨てないで」なんてよよと泣いたりすれば……。
瀬戸内 さぞかわいかろう。
宇野 かわいいでしょうけれども、そんなこと、アハハハ、一度もしたことがない。

ここまでくるとかえって小気味がよい。サトウハチローを調べていて、弟子の菊田一夫にたどり着き、林芙美子が脳裏にちらつき始めたら、宇野千代もわきから視界に入ってきた。

「大正の青春」といったテーマで、男性のみならず林芙美子、宇野千代、壷井栄、佐多稲子、平林たい子らを調べたら、なにか見えてくるかもしれない、という気持ちになってきた。

2009年6月4日木曜日

コメントに感謝


ときどき当欄にコメントをいただく。5月後半は「雨の日曜日、フリマへ」に始まり、「天使の風鈴」「基本のえんぴつ画」「低断熱・低気密」「チョウゲンボウの停空飛翔」「ぞそっぺぇ」「長靴をはいた犬」について、匿名さんやセキさんからコメントが届いた。うれしいことだ。それ以前のコメントにも感謝します。

はがきでコメントめいたことを寄せてくれるカミサンの幼なじみのNさん、ブログ「しんぼっちの徒然日記」で時折、当欄のことを取り上げてくれる「しんぼっち」(新米のお坊さん)にも感謝したい。

さて、セキさんからは新たな知識を得た。「ぞそっぺぇ」といういわき語について、地元のお医者さんだった故草野二郎さんの『いわき市小川町地方の方言』に、同義の「ごそっぺぇ」が載っている、というのだ。つまり、「ぞそっぺぇ」=「ごそっぺぇ」。

耳には「ぞそ」が「ごそ」に聞こえて、両方が混同されるようになった、ということは容易に想像できる。

実は「ぞそっぺぇ」の意味を調べる過程で、草野さんの本にも、いわき市教育委員会の調査報告書『いわきの方言』にも当たっている。「ぞそっぺぇ」では載っていなかった。「ごそっぺぇ」ではどうだ、とはならないところがキッツァシの限界。

さっそく、草野さんの本と市教委の本で確かめた。納得。市教委の本には「ごそっぺぇ」の意味として①気まずい②口の中に入れた時に、まろやかでなく、粗い感じがすること、とあり、同義の方言として「ごそっぱい」「そそっぱい」「ぞそっぺぇ」が例示されていた。

草野さんの本の「ごそっぺぇ」は、『いわきの方言』の②の文章と全く同じ。『いわきの方言』が、草野さんの本を参考にしたのだろう。

セキさんはキノコにも関心を持っている。お礼といってはなんだが、5月31日に夏井川渓谷で撮った最新のキノコの写真を冒頭に掲げた。調べがついてないので名前は分からない。

野鳥の写真をほめてくれる匿名さんにも手の内を明かしておこう。いわゆる「デジスコ」のような超望遠写真ははなからあきらめている。今年の春に新しいデジカメ(ニコンD300)を買った。D70ではどうも飽き足らなくなったのだ。それを首からぶら下げて、朝晩、散歩へ出かける。車で外出するときも助手席に置いておく。

この間は夕方の散歩で親子連れと道行きが一緒になった。私が少し先に行ってヨシ原でさえずっているオオヨシキリを撮ったところ、男の子が女の子にささやいているのが聞こえた。「ほら、怪しくねえべ」。女の子は盗撮マニアだと警戒したのかもしれない。思わず「怪しくないよ」と笑って言ってやりました。

カメラは女の子の敵ではない。が、女の子が敵のように思う使い方をするヤツがいる。許せないですね。

要は、いつでも対応できるようにカメラのレンズを最長200ミリにして飛び交う野鳥と向き合っている、遊撃戦です。「豚もおだてりゃ木に登る」で、もっといい写真が撮れるようがんばります。

2009年6月3日水曜日

いわき民話を聴く


先日、特定非営利活動法人「シニア人財倶楽部」の通常総会が開かれた。代表の藁谷道弘さんに一本釣りをされたこともあって、初めて出席した。総会後、やはり会員でもあるいわき民話の会長広沢和子さんが民話の語りを披露した=写真

広沢さんは、私が20歳のころから世話になっている「いわきの姉さん」だ。会社を定年で退職したあと、地元・好間町の地域振興協議会に加わり、地域活動を続けている。「好間の民話」を収集・記録するグループの一員になったのが縁で「語り部」となり、いわき民話の会を立ち上げた。

語り部歴はおよそ8年という。「いわきの民話をいわきの言葉で」がモットーだ。その通りに真正いわき語で「出べそかかあ」「食わず女房」、好間川を舞台にした「蛇岸淵(じゃがんぷち)」などを披露した。

広沢さんはいわき生まれのいわき育ち。地金がしっかりしているから、いざとなったら「いわき語」は自由自在だ。登場人物が乗り移ったような迫真性、民話の語り部というよりは一人芝居の役者のような演技力。「いわき語」の躍動感、力強さが小気味よかった。民話を自分のものとするために随分努力をしたのだろう。

「お天道(てんと)様とお月様と雷(らい)様」には笑った。湯本温泉の旅館に泊まった3人が翌日出発する。お天道様とお月様は早く出発した(「月日がたつのは早い」から)、これに対して雷様は夕方に出発した(「夕立ち」だから)。一種のダジャレ(地口)である。

土地に根を生やしているからこそ醸成される、したたかな庶民のユーモア感覚。これなどは、根なし草のように頼りない現代人が忘れているもののひとつだろう。たわいもない話なのに心のしみがきれいさっぱり洗い流された感じだった。

2009年6月2日火曜日

イタチハギのj黒い花穂


ヤナギ、ニセアカシア(ハリエンジュ)を主体に、少々のオニグルミとアカメガシワ。私が朝晩散歩する夏井川の河川敷の樹木だ。ほとんどが岸辺に集中している。

なかに、黒っぽい円錐形の花を付け始めた低木がある。イタチハギ(クロバナエンジュ)だ。人間の頭でいえば、髪の毛をまとめて突っ立てたパンクヘア。全体は暗紫色だが、それを構成する小花柄の先っちょは黄色い。

葉だけをまとっていたときには、ニセアカシアと同じマメ科の木、ハギかと思ったが、パンクな花を見て俄然、興味がわいた。ハギの花とは似ても似つかない。黒っぽい花序が目につくようになって、河川敷のあちこちに生えていることも分かった。

下流の河川敷だけではない。上流の夏井川渓谷でも咲いていた=写真。数年前、道路沿いのガケで防災工事が行われた。表面の凹凸に合わせて鉄筋コンクリート枠を設けたあと、緑化のための種子吹きつけ工事が施された。その種子の一種がイタチハギだった。

北アメリカ原産の落葉低木。種子が安く手に入る、早く発芽する、というのが今も使用されている理由だろう。土木工学的にはそれでいいかもしれないが、生態学的には問題がある。県立自然公園内にわざわざ外来種を持ち込み、その地域の生態系を撹乱するとはなにごとか――そんな批判は出なかったのか。

砂防用や護岸用にイタチハギの種子が使用されてきた結果、下流の岸辺にもイタチハギが広がった。土木行政が広範囲にわたって環境破壊を行っている、という思いを抑えきれない。種子吹きつけ工事には、金がかかってもその土地の植物を利用すべきだろう。

2009年6月1日月曜日

一絃琴コンサート


双葉郡川内村在住の志賀敏広さんの個展「花」がきのう(5月31日)、終了した。会期中のイベントとして土曜日(30日)の夕方、個展会場のいわき市平、アートスペース・エリコーナで一絃琴コンサートが開かれた。

志賀さんと親交のある清虚洞一絃琴宗家四代・峯岸一水さんが、解説を交えながら演奏した=写真。一絃琴は、もともとが精神修養のための楽器だ。「ひとつひとつの音の先を聴いて心平らかにすることが大切」という。

志賀さんに頼まれていわきの窓口役となり、案内状に整理券を同封して郵送し、手渡しで誘ったら、およそ110人が来場した。「一絃琴を聴いたことのある人は?」の問いに、手を挙げたのは4人だけだった。

エリコーナには展示スペースのほかに音楽用の小ホールがある。街の騒音が遮断された静謐な空間に玄妙な一絃琴の音色が響いた。ひとつひとつの音の先を聴くために、誰もが真剣に耳を傾けていた――後ろから見ていてそれがよく分かった。

「一絃琴は人に聴かせるものではなく、自分の心のために演奏するもの」とはいえ、聴く人の心にも深くしみるものがあったに違いない。「素晴らしかった」という声を何人かから聞いた。

峯岸さんの解説が面白かった。川内村で合宿した際、鳥の鳴き声を練習していたら、鳥がやって来た。一絃琴と鳥が和したのだ。

演奏した曲目のなかに「泊仙操(はくせんそう)」がある。峯岸さんの高祖父・徳弘太橆(たいむ)が作詞・作曲した。そのなかの一節(春の曲)。「春は梢に百鳥のさへづる声ののどかなり」。心平らかに自然に溶け込んで演奏すると、鳥も心平らかになってやって来るのだろう。そこに一絃琴の本質がある。新たな発見だった。