2011年7月31日日曜日

とにかく測る


今朝(7月31日)の3時54分ごろ、大きな揺れがきた。とびおきた。3・11、4・11、4・12に次ぐ揺れだった。本棚から写真立てが落下した。2階はカミサンが片づけたばかり。積んでおいた本が数冊崩れ落ちていた。震源は福島県沖。いわき市錦町で震度5弱、平四ツ波、小名浜、三和で4だった。
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きのうの朝、シャプラニール会員の徳島大・森田康彦さんから電話が入った。彼はIターン組で、いわきの泉ヶ丘に家がある。放射線の専門家だ。久之浜で放射線量の測定を継続している。

木曜日、森田さんのサーベイメーターが近くに寝泊まりしているシャプラ職員から届いた。森田さんはそれを持って久之浜の線量調査に行く。バスで来た。その先は? タクシー? 地元の人と落ち合う場所は久之浜一小だ。そこまで車で送る。

一部が福島第一原発から30キロ圏内に入る久之浜は、津波・火災のほかに、放射線量の問題と向き合わざるを得ない。二つの小学校と一つの中学校は閉鎖され、南の平で授業が行われている(今は夏休み)。

「原発震災」からの復興は、経済再生を主とした大人の視点だけでは弱い。子どもの未来、つまり教育と文化にこそ意を注ぐべきではないか。子どもを中心に据えれば、それこそユニバーサルデザインとしての震災復興プランができる――そんな思いがつのる。

6月下旬に、いわき市久之浜・大久支所で森田さんが住民を対象に線量調査報告をした。「小・中学校再開準備プラン」も明示した。地域の再生は学校の再開から始まる。子どもの声の響かないマチは、マチではない、ということだろう。子どものために地域全体で放射線量を測って、高いところは除染する。学校の除染こそが地域再生の第一歩ではないか。

とにかく測る。高ければ除染する。地元の企業の協力を得て“実証作業”を進めるところを校庭から眺めた=写真。玄関の屋根=ベランダ?=の線量を測り、苔や土を除去して再度測る。それを住民が確かめる。一緒に調べ、一緒に対策を考える。この「一緒」を積み上げるしかないのだろう。

2011年7月30日土曜日

原発忌


年4回発行の浜通り俳句協会誌「浜通り」第141号が届いた。<東日本大震災特集号>である。多くの俳人が3・11の体験を記し、句を詠んでいる。招待作品も載る。通常は50ページ前後。それより十二、三ページ多い。渾身の編集だ。

招待の黒田杏子(ももこ)さんの作品に「原発忌福島忌この世のちの世」があった。「原発忌」と「福島忌」。新しい季語だ。

「原爆忌」は夏(ヒロシマ)、秋(ナガサキ)。「原発忌」「福島忌」は3月11日。春(フクシマ)の季語、というわけだ。

同誌所収の黒田さんのエッセーに、選を担当する「日経俳壇」に掲載した句がいくつか紹介されている。「おろかなる人知なりけり原発忌」「広島忌長崎忌そして福島忌」。早くも外野の人がおかしなこと(造語=季語)を詠みだした。

新季語にやりきれない思いがわいてくる。外部から、ヒバク地に住んでいるのだという認識を強いられる。季語の消費ではないか――俳句の門外漢は静かに、しかし気持ちは激しく逆らってみたくなる。

面識のある俳人の震災詠をたどる。森高武さん。「春の海佇(た)ちて迎へし大地震」「津波より逃げ春の海振り向かず」。新舞子海岸あたりでバードウオッチングでもしていたか。西山逢美さん。「大地震(おおない)のあとの月夜のおぼろかな」「三時間並びて得たる春の水」

曲水東北支社長中川ひろしさん(久之浜町末続)は、お住まいが末続駅近く。原発から30キロ圏内だ。一時、東京に避難した。「浜通り」への便りにこう記す。「東側の駅ホームを境に海沿いの四十戸は全滅死者七名が出ました」

同じ久之浜町を拠点にした俳句会に「木奴実(このみ)」がある。林さんという人が便りに書いている。「今回の地震津波により、木奴実句会というものが消えざるを得ません。残念ですが一応の員数を保つことが出来ません」。いわき民報の文化欄でお付き合いのあった句会だ。久之浜の惨状=写真=と、長い歴史を刻んだ「木奴実会」に黙祷と合掌。

2011年7月29日金曜日

北欧スペシャル


BSプレミアムで「北欧スペシャル」が始まった。折しも、ノルウェーで爆弾・銃乱射連続テロ事件が起きた。

日本の新聞・テレビは3・11以後、「原発震災」をトップで扱ってきた。そうしたなかでテロ事件がトップニュースになった。中国の新幹線事故もトップだった。それほどの衝撃性・異常性があったということだろう。

2年前に同級生の病気見舞いを兼ねて仲間数人で北欧三国を旅行した。「北欧スペシャル」は、いわば旅の思い出をよみがえらせる魔法の杖。「原発震災」の渦中にいる人間にとっては、ノルウェーの痛ましい事件を承知しながらも、しばし現実を忘れさせてくれる爽快な番組だ。

<ぐるっと北欧5000キロ>(7月26日前編、27日後編)はノルウェーの北極圏にある港町からスカンディナビア半島の西海岸を巡り、バルト海に入ってフィンランドの港町に至る船旅を伝える。日本の若い女優が旅の案内人を務めた。

氷河が大地を削り、そのあとに海水が入って深く長い入り江=フィヨルド=ができた。その地形と凍らない海がバイキングを生んだ。ノルウェーの第二の都市ベルゲン、世界最長のソグネフィヨルドが映し出される。2年前、その町に立ち、その最奥部、世界自然遺産のネーロイフィヨルドを巡った。フィヨルドの圧倒的な存在感がよみがえる。

バイキングの船は美しい。手漕ぎボートが登場した。若い女優がオール(櫂)をこぐ。軽い。速い。不意に、スウェーデンのストックホルムにある「ヴァーサ号博物館」を思い出す。

1628年、処女航海に出ようとした軍艦ヴァーサ号が港を出ないうちに突風を受けて沈没した。ガイドさん(日本人)の説明では、大砲などを備え付けすぎてバランスが欠けていたために、横風一発でグラリとなった。1956年、海洋考古学者が発見し、1961年に引き揚げられた。今やストックホルムでも人気の観光スポットだという。

全長62メートル。船尾には彫刻が施されている=写真。軍艦にしては過剰な装飾だ。その過剰性がまた、尋常ではない船のイメージをかきたてる。テレビを見ながら、そんなことを思い出した。

きのう(7月28日)の夜は<スウェーデン鉄道の旅>を見た。「自然享受権」(人々は所有者の許可なく森や野原、島などに入ってキノコ狩りや草木の実採取ができる、ただし「私有地につき立ち入り禁止」の表示のある場所や個人住宅の庭などはダメ)を楽しむ人々がいる。就学前の幼児の自然教育「ムッレ運動」も紹介されていた。

これからの日本のあり方を考えるとき、「小さくとも心豊かな国」の北欧のイメージが湧く。

2011年7月28日木曜日

震災モノ


知人を訪ねて豊間・薄磯・高久と回ったのは、先の日曜日(7月24日)。

豊間と薄磯は、防波堤沿いの道を通った。豊間では、防波堤が破壊されたあとに土嚢がびっしりと並べられていた。大地震で地盤が沈下したために砂浜が消え、すぐそばまで波が押し寄せていた=写真。海がしければ波しぶきが防波堤を超えるのではないか――そんな心配がよぎるが、今は、人は住んでいない。薄磯もそうだ。無人の荒れ野と化した。

豊間から内陸の高久に疎開した友人の甥っこのことを思いだす。新舞子浜の防風林と水田をはさんで海と向かい合っている集落、それが高久。その一角に友人の家がある。高久は、津波の被害は免れた。友人の家の書庫を利用して、甥っこが酒の小売店を開いた。看板は出していない。

豊間の集落で酒の小売店を経営していたのが、3・11でダメになった。建物はかろうじて残っているが、住める状態ではない。震災で残った酒類を回収し、書庫を仮店舗にして商売を再開した。焼酎でも買おうかと、友人の家の仮店舗を訪ねた。

友人は留守だったが、店主はいた。何年ぶりかの再会だ。「焼酎を」というと、「<震災モノ>です」と、芋焼酎の四合瓶を見せる。一升瓶はないようだ。そこへカミサンが「缶ビールを」と、自分の方に話を引き寄せる。焼酎はあきらめた。

3,000円相当の缶ビールを買ったら、先の焼酎をおまけにどうぞという。ありがたく<震災モノ>をちょうだいする。大災害に生き残った逸品だ、そう簡単には飲むわけにいかない。しばらく部屋に飾っておくことにした。

2011年7月27日水曜日

合同懇親会


日曜日(7月24日)の夕方、近所の料理屋で隣接する3行政区の歴代区長さんらが参加して、合同懇親会が開かれた。

「中神谷(なかかべや)」を頭に冠する行政区は西・北・南の三つ。兼業農家の多い西を中心に、元は一つの行政区だった。当時の世帯数は千数百。いわきでも屈指の大所帯だった。12年前に中神谷西、同北、同南の三つの行政区に分かれた。

現役の区長さんが懇親会開催に尽力した。いきなり副区長になって2年目。私も隅っこに連なった。15人ほどで乾杯したが、分かっている人は半数ほど。ずっと「会社人間」だったから、「社会人間」になるための修業をしなくてはならない。懇親会もその場の一つだ。

少しノドをしめらしたあと、自己紹介を兼ねて先輩方から順にあいさつが始まった。分区前後のいきさつがよくわかった。人が動いて事がなる、である。

「傍観者」を旨とする職業を卒業した今は、「当事者」として暮らしの現場に入り込まなくてはならないと思っているのだが、なかなか“職業病”が治らない。「意識改革を」と自分に言い聞かせている。

懇親会の場では60歳を過ぎても若輩だ。さいわい両隣は元同僚と旧知の元高校校長氏。物故同僚のこと、放射線量のこと、西区で展開されている「万本桜」のことなど、話があっちに飛び、こっちに飛びしながらも、いろいろ情報を手に入れることができた。

わが南区の区長さんからは、前に市役所に陳情した、市営住宅跡地(小学校の校庭ほどの広さがある)の草刈りが完了したことを告げられた。翌朝の散歩時に確かめる=写真。市民の声に行政がこたえる。行政と住民の協働を進めるには、なによりもこうした“響きあい”が大事になる。

夕方、散歩をすると、あるところまで一緒になる近所の人がいる。西区の元区長さんだった。懇親会の席上、初めて言葉を交わした。前よりは少し地域に溶け込めるかな、という思いを抱いた飲み会だった。

2011年7月26日火曜日

薄磯で人に会う


3・11の大津波でいわき市の沿岸部は甚大な被害を受けた。特に、灯台のある塩屋埼の南に湾曲する豊間と、北の薄磯はじゅうたん爆撃に遭ったようだ。

豊間に仕事場のある旧知の大工さんを訪ねたら、留守だった(彼は間一髪、津波から逃れた)。その足で灯台のふもとを巡り、薄磯に出た。海に面した防波堤のそばにポツンと1軒、1階部分の壁は抜けながらもしっかり立っている家がある=写真。もちろん住める状態ではないが、柱は一本も折れていない。カミサンの知人が家の中にいた。

前は、その家から海側にせり出した建物があった。1階は車庫、2階は喫茶店。ママさんはパッチワークをやる。カミサンからよく「古裂れ」を調達していた。しばらく二人で話している。そのうち、たがいの夫も話の輪に加わった。

大津波が押し寄せてきた当時の様子を生々しく語ってくれた。ママさんたちは近くの小学校へ逃げて無事だった。私たち内陸部の人間はテレビが伝える岩手や宮城の映像で承知しているが、薄磯でも津波によって家が押し流されるときに土煙りが舞い上がった。

防波堤で津波の来るのを眺めていた住民はそのままさらわれた。いったんは孫をおぶって逃げた人は、孫が「寒い、寒い」というので、はおるものを取りに戻ったところを孫とともに津波にのまれた。自分たちも、義理の弟夫婦など身内を6人いっぺんに失ったという。

今は内郷の雇用促進住宅に仮入居している。被災当初、原発事故もあって東京に避難した。3カ月間は気が張っていたせいか、なんということなく過ぎた。が、そのあと感情的な波が激しくなった。親族で争い事が起きかねない事態にもなった。「これではダメだ」と思った。

前に進んでいかないといけない。「腹が立つので、この家でパッチワークの個展をやろうかと思っている」。その意気である。負けない・へこたれない・あきらめない――「3ない」精神でいくしかないのだ。そのとき、津波に流されずに残った家は、自分たちの再生のシンボルになる。いや、シンボルにしなくてはならない。

2011年7月25日月曜日

真夜中のセミ


またまた生きものたちの話――。「今年はセミが鳴かないねぇ」。そんな話を聞く。

6月末にニイニイゼミがささやきはじめ、次いで朝晩ヒグラシが、日中アブラゼミとミンミンゼミが歌い、8月中旬にはツクツクボウシが鳴きだす。いわきではだいたいこんな順序でセミが出現する。確かに今年はニイニイゼミの初鳴きが遅れた。ほかのセミの鳴き声も少ししか聞かない。

ヒグラシは7月17日の宵、「なこそ復興ライブ」が開かれた高蔵寺で今年初めて、鳴き声を聞いた。その夜、日付が替わるころ、窓を開け放して寝床で本を読んでいたら、ニイニイゼミが飛び込んできた=写真

おととい(7月23日)、常磐へ行った帰り、内郷の白水阿弥陀堂を訪ね、池を一周する遊歩道を巡った。アブラゼミが鳴いていた。今年初めて聞く「ジリジリジリ……」だ。

鳥はどうか。夏井川のヨシ原で盛んに鳴いていたオオヨシキリが急に静かになった。きのう早朝、散歩に出たら、2、3羽が「ゲギョッ」とか「ギギッ」とか短くつぶやいているだけ。あらかたは南へ去ったのだろう。ホトトギスと老鶯が時折、さえずっている。これも間もなく静かになるはずだ。

ツバメは巣立って、集団でねぐら入りするようになったのではないか。夏井川河口付近のヨシ原、ないし横川でつながる支流・仁井田川のどこかにねぐらがあるらしい。見たい、見たいと思ってから、もう3年目になる。

散歩で気づいたことがもう一つ。河川敷のサイクリングロードにミミズの死骸が散乱していた。久しぶりにミミズの大量死を見た。

(さっき=午前3時51分、福島県沖を震源とする長い地震があった。双葉郡楢葉町で震度5弱、いわき市は三和町で4、平四ツ波で3だった。はねおきた)

2011年7月24日日曜日

災害ボランティア


いわきで震災復旧支援活動を展開しているNGOのシャプラニールが7月、2回に分けて2泊3日の災害ボランティアツアーを実施した。2回目最終日のきのう(7月23日)、参加者と昼食を共にした。

ツアーの概要はこうだ。初日、東京から高速バスでいわき入りし、被災地を視察する。2日目、いわき市災害救援ボランティアセンター経由で現地に出向き、作業をする。3日目も作業に汗を流し、午後遅く、高速バスで帰る。

2回目は、いわき湯本IC午後3時過ぎの高速バスで帰京する段取りになっていて、午後1時に湯本駅前の「おかめ」=写真=でワンコイン(500円)定食を食べるという。「一緒に昼食、どうですか」と声がかかった。

東京からやって来たスタッフ・ボランティアは15人。これに現地駐在スタッフと私ら夫婦が加わったために、座敷はぎゅうぎゅう詰めの状態。慣れない正座をして、もごもご食べながら話をした。

「おかめ」の斜め向かいに「みゆきの湯」がある。ボランティアは温泉につかってさっぱりした顔に。生ビールをグイッとやる人もいた。

と、そのとき――。ボランティアのケータイが一斉に鳴りだした。「緊急地震速報」というやつだ。何秒かたって、きた。ゆったり、グラグラ。震源は宮城県沖。岩手の遠野で震度5強、いわきは2だった。東北は毎日、揺れている。ボランティアにとってこれ以上リアルな体験はないだろう。

食事のあと、ボランティアは駅前の和菓子店「久つみ」でしばし買い物を楽しみ、同じ湯本地内にあるシャプラの現地事務所に移動してツアーの感想を語り合った。

初日、豊間と薄磯の津波被災地を視察した。私の旧知の大工さんから震災当時の話を聞いたという。「津波が壁になって襲ってきた」。そんな言葉に息を呑んだことだろう。

2日目は久之浜で被災家屋の片付け作業をし、最終日は泉の雇用促進住宅で被災者と一緒に草刈りをした。

おもしろいボランティア作業だ。初めて草刈り機をいじったという。「農村景観は草を刈ることで維持されている。原発事故の影響で人がいなくなったところ、例えば川内村は景観が荒れている。草ぼうぼうだよ」。食事をしながらそんなことを話した。

「現地の生の声を聴けた」「被災者と交流しながら草刈りができた。これが一番よかった」「マスメディアでは報じられていないことを知ることができた」「現地の人から『ありがとう』と言われた」……。得難い経験になったようだ。

2011年7月23日土曜日

ビッグイシュー日本版


わが家の向かいの家で寝泊まりしているシャプラニール(NGO)のスタッフが「ビッグイシュー日本版」第171号(7月15日発売)を届けてくれた。特集「いま、フクシマ」で奮闘中のNPO ・NGOの一つとしてシャプラニールが紹介されている。スタッフ本人がいわきの事務所で取材を受けた。

「ビッグイシュー」を手にするのは初めて。表紙に<ホームレスの仕事をつくり自立を応援する><300円のうち、160円が販売者の収入になります>とある。東北では仙台市内の3カ所で売られているだけ。地方都市では売る人間がいない。それでいい――そういう売り方を旨とした雑誌なのだろう。

特集では、シャプラや「ハートネットふくしま」など5団体の活動を取り上げている。前段に、避難所ルポと郡山市に移転した富岡町役場のこと、川内、飯舘村長のインタビュー記事が載る。手がけたのはいわき勤務の経験がある女性記者だ。新聞社(県紙)を辞めてフリーになったのだ。

シャプラの記事の次ページに雨宮処凛さんの連載エッセー「世界の当事者になる」が載る=写真。114回目は<原発と戦後日本>。社会学者の開沼博さんから聞いた話がつづられている。開沼さんは27歳。いわき市出身で、東大大学院博士課程に在籍している。

開沼さんが書いた、400ページに及ぶ『「フクシマ論」――原子力ムラはなぜ生まれたか』(青土社)を一気に読み終えたところで、雨宮さんの文章を読み直す。

開沼さんに「『日本に原発がどういう経緯で作られ、今に至るのか』という話をうかがったのだが、それはまるで壮大なミステリーなみのストーリー」「何か原発自体が『日本の戦後』の繁栄と矛盾そのものの『生き証人』のようにさえ見えてくるのだ」。

開沼さんには、原発のある浜通りに精神の根っこがある。その若い学者に教えられたのは、次のようなことだ。

「3・11以前の福島は思いのほか『幸福』に満ち、3・11以後も彼らはその日常を守ろうとしている」「福島において、3・11以後も、その根底にあるものは何も変わってはいない。私たちはその現実を理解するための前提を身につけ、フクシマに向き合わなければならない」

前提とは、中央に対する地方の自動的・自発的服従、ということになろうか。それが「原子力ムラ」における「幸福」をもたらした。そのムラは離散状態だが、「幸福」をもたらす青い鳥はまだそのへんにいるらしい。「3・11」をはさんだビフォー(親原発)・アフター(脱原発)は単純ではない。

2011年7月22日金曜日

広野へ


いわきの北、双葉郡の沖で歯科医のダンナさんが釣ったスズキを奥さんが持ってくる――そんな時期になった(ただし、これも去年までの話)。男にはわからない「古裂れ」の世界で、わがカミサンと奥さんが知り合った。

魚を一匹、どんと持ってこられても、三枚におろせない人間には「ありがた迷惑」だ。近所の魚屋さんに持って行った。が、何度も甘えるわけにはいかない。自分でおろさなくては、と台所に立つ。スズキが届くことで、魚のさばき方が少しずつ身についた。「ありがた迷惑」から「ありがたい」に変わった。

その奥さんがきのう(7月21日)、やって来た。家は「大規模半壊」。津波が床下まで襲った。加えて、原発事故の影響から、家族全員が「避難民」になった。すると、空き巣が入った。部屋に足跡が残り、ありとあらゆるものが開いていた。罰当たりめ!

ダンナさんは東京に職を得た。が、いろいろあったらしい。辞表を出して、今は福島市で仕事をしている。単身赴任だ。義父はいわきに戻った。残る女性(奥さんと娘たち)は東京暮らしのまま。三重生活を強いられている。

「暮らしの原点」だった広野町の彼女の家へ、カミサンと同行した。捨てるしかないという古着を10袋ほど回収した。ザ・ピープル(NPO)のルートでリサイクルに回す。

ドライブに出かけて広野の商店街を通ったことがある。のどかな町、といった印象が残る。

国道6号から海側へ下ったところに商店街がある。何軒かは店を開けていたが、おおかたは戸閉めのまま。消防車が止まっていた。消防職員がマンホールのふたを開けて中をのぞいているふうだった。ペシャンコになった古い家。屋根のブルーシート。もうすっかり見慣れた光景だ。

商店街のはずれ、田畑をはさんだ丘の向こうに広野火発の煙突が2本、ニョキッと立っている。それが間近に見える。歯科医院の隣はもう荒地だ。ヒマワリの一種と思われる花が咲いていた=写真。草は伸び放題。道路向かいの自動野菜販売所もクズに覆われていた。人がいなくなるということは、自然が荒れることなのだと、あらためて知る。

「もう太平洋では釣りはできない」とダンナさんは言っているという。今になれば、届いたスズキを相手に悪戦苦闘をした夏がいとおしい。

2011年7月21日木曜日

ネコと地震


「3・11」の本震以来、余震は何回になるのだろう。何百回? いや、千回を超えた? 今も毎日、揺れている。トイレや風呂に入っているとき、眠っているとき、食事をしているとき、車に乗り込んだとき……。

震源が太平洋沖の場合は、(本震がそうだったが)わりと長く揺れる。ほんの数秒のときでも、静かに始まってグラッとくる。内陸の場合は、不意に地の底からドンドンドンと突き上げるようにやってくる。

同じ揺れでも、一発で終わるのがある。地震? いや違う。家の前の道路を車が通る。ときにドスンと音を出して地面が揺れる。「3・11以来、そうなった」とカミサンが言う。アスファルトの下に亀裂か空洞でもできたのだろうか。そのうち家ごと傾くなんてことはないだろうが、気になる振動だ。

あるところでネコの話になった。「3・11」のとき、部屋で丸まっていたネコのそばに棚から鉢が落ちてきた。以来、ちょっと大きな地震が来ると、ネコは外へ飛び出してしばらく戻ってこない。「セロ弾きのゴーシュ」に登場するネコを思い出す。ペットだって地震は怖いのだ。

そのネコに比べたら、わが家にいる3匹のうち、ターキッシュアンゴラの雑種らしい雌ネコ「サクラ」は落ち着いたものだ。火がついたように走り回るようなことはしない。鳴くわけでもない。じっとしている。少し大きな揺れがくると、なぜか天井を見上げる=写真。決まってそういうしぐさをする。

毛皮をまとったネコたちはこのところ、猛暑にげんなりしている。「サクラ」は日中、この木製品の上にいるか、玄関のコンクリートのたたきに身を投げ出しているかしている。地震がくる。無言で天井を見上げる。また、寝る。

地震か、車による揺れか。人間は判断がつかずにしょっちゅうヒヤリとする。振動には過敏になっている。しかし、ネコはどうだ。逃げるネコと逃げないネコと。地震の受け止め方はネコそれぞれ。いや、「サクラ」はネコの自覚がないのかもしれない。

2011年7月20日水曜日

高蔵寺ライブ


「なこそ復興ライブ」が日曜日(7月17日)の夜、いわき市高倉町の高蔵寺本堂で開かれた。沖縄の歌手古謝美佐子さんが出演した。「なこそ復興プロジェクト」が主催した。

「勿来地区災害ボランティアセンター」の運営に参加したスタッフ有志が、センター閉所後、被災地域の復興と地域住民への物資・情報の提供など、継続した支援を展開するため、「復興プロジェクト」を結成した。6月から活動している。

プロジェクトは①復興計画=各種イベントの企画実施②地域支援=津波被害地区住民への専門家の紹介③生活対応=生活弱者や避難者への物資・情報提供④風評被害対策=専門機関と連携した放射線測定・公表とネットワークを生かした定期的な販売――の四つのクループからなる。復興ライブは①のグループが企画した。

災害ボラセン以来のつながりである、NGOのシャプラニールのスタッフがチケットを持って来た。「買ってください」ということだ。晩酌を我慢して出かけた。

本土復帰前の1970年師走、親友と3週間にわたって沖縄本島を旅して回った。半分は行き当たりばったりの“民泊”頼み(カネがなくなったので)。コザ市(現沖縄市)から那覇市へ移動した晩、「コザ騒動」がおきた。以来、沖縄人の親切と心の痛み・怒りがわが胸底に残響するようになった。

沖縄音楽は西洋音階でいう「レ・ラ」抜き。三線で哀切に、陽気に、独特のメロディーが演奏される。ニイニイゼミが鳴き、ヒグラシが遠く聞こえるなか、古謝さんは沖縄民謡のほかに、アイルランド民謡「ポメロイの山々」などもウチナーグチ(沖縄口)で歌った。

基地の島・オキナワの歌声が、原発震災の地・フクシマの人間の耳にひとときのやすらぎを与えた。沖縄の人たちは震災直後、「東北が大変なことになっている!」と、わがことのように深く悲しんだという。その話を聞いただけでも、沖縄の心がわかる。40年以上も前の親切がよみがえる。

「勿来地区災害ボランティアセンター」の舘敬代表が引き続き、「なこそ復興プロジェクト」の代表を務めている。ライブが終わって人が帰るころ=写真、高蔵寺の木村住職と顔を合わせた。2人で話しているところに舘代表がやって来て、手を差し出した。

私が勿来で仕事をしていた30代の3年間、ともに勿来JCで活動した間柄だ。平から来てくれてありがとう、という意味の握手だったろう。私のできる“支援”とはそんなものだ。

2011年7月19日火曜日

「小原庄助さん」をする


震災復興支援のため、いわきに駐在しているシャプラニール(NGO)のスタッフの一人が日曜日(7月17日)に休みをとった。前夜、わが家に来て「あした、夏井川渓谷の無量庵へ行きますか」というので、「(そうか、行きたいのだ)行くよ」。一緒に行くことにする。酒を飲みながら軽く打ち合わせをした。

運転手は彼、出発は早朝5時。私は彼の車のナビ役。カミサンは途中、コンビニに寄って食料を調達する係。

しばらく平野部を走ったあと、急坂を上って夏井川渓谷に入る。道端に点々と生えるヤマユリは、予想通り咲きだしていた。アカメガシワが花をつけていた。対岸の谷間に咲いているのはヤマアジサイだろうか。

6時前には無量庵=写真=に着いた。無量庵のある牛小川は、鬱蒼の森のなかにぽっかり開けた小空間。週末だけ現れる私を除けば、7世帯ほどが寄り添うようにして暮らす。近所をぶらつくと、線路向こうの家のおばさんと、ふだんは町に住む息子さんが斜面の畑でジャガイモ掘りをしていた。

じっとしているだけでも汗がにじむ。まずは「朝風呂」に入る。ふだんは晩酌優先、風呂は二の次で、翌朝、ひげそりを兼ねて風呂に入るのが習慣になった。「朝風呂」はだから、いつもの通りのこと。

次は朝食。コンビニで缶ビールも買った。自分の車で来たときにはアルコールなしだが、めったにないチャンス。缶ビールで「朝酒」をやる。

対岸へは水力発電所へのつり橋を渡っていく。ネパールでの駐在経験があるスタッフは鬱蒼の森を巡ってくるという。その間、こちらは「朝寝」を決め込む。こう暑くては寝ているしか能がない。

「小原庄助さん」は朝寝・朝酒・朝湯が大好きで身上(しんしょう)をつぶした。私はつぶす身上がないから、一日くらいは「小原庄助さん」をしても大丈夫。ハンドルキーパー(朝からそんなことを言うのもおかしいが)の彼のおかげでめったにない経験をすることができた。

2011年7月18日月曜日

「怯え」の正体


「3・11」の前、哲学者の内山節さんが著した『怯えの時代』(新潮選書=2009年2月刊)をやっと読み終えて、なんとなく重苦しい気分を引きずっていた。「怯え」とは「大切なものを失うことへの恐怖」であり、「現代の自由は、現実を受け入れる他なかった喪失の先に現われてくる自由でしかない」のだという。

そのことを、内山さんは妻の死から書きおこす。いわき市の最後の収入役氏とは、内山さんの著作を語り合う間柄だった。彼が購読している週刊誌の巻頭グラビアで群馬県上野村の自宅の庭に奥さんの墓があるのを知った。自分の著作で初めてパートナーの存在と死を明かしたのだと思った。

「今日の人々は、巨大な悪がしのびよってきているような感覚に怯えている気がする。自分の生活や労働がこわれていくのではないかという怯えがあり、社会全体にも次々に混乱要因が現われてくるのではないかという不安がある。なぜそれが怯えなのかといえば、悪の正体がつかみえないからである」

経済の発展は善としてとらえられてきたが、悪の正体かもしれない。科学の発展もまた善だが、そこにこそ悪の核心があるのかもしれない――21世紀には、少なくともそんなことを考えなければならなくなったと、内山さんは言う(善か悪かはともかく、高度経済成長と核家族化が始まったとき、現代人の存在の危機が始まったと私は考える)。

サブプライムローンの破綻がリーマンショックを生み、世界同時不況をもたらした。原発も「3・11」で巨大システムにひそむ危険性をあっけなく露呈した。『怯えの時代』で、内山さんは原発の問題にも触れていたのである。

「新潮45」8月号の新聞広告で、特集「原発に炙り出された『日本』」に内山さんが寄稿しているのを知る。早速、買って読んだ。企業システム、経済システム、金融システム、電力システム……。「システムが主人になり、人間がその『奴隷』になるような時代は終わりにしたい」

そして、「これからの課題は、社会の仕組みを少しずつ自然と人間の等身大のあり方へと戻すことであり、システムが権力として支配する時代を終焉させることである。あるいはそこに向けた構想力の開放である」としめくくる。

原発に最も近いいわき市久之浜町で、若者たちの「北いわき再生発展プロジェクトチーム」が<ガレキに花を咲かせましょう>という活動を展開している=写真。シャプラニールのスタッフの現地報告で知った。これを、私は「構想力の開放」のひとつとみたい、という気持ちに駆られる。

2011年7月17日日曜日

生きものたち


連日の真夏日。毛皮をまとったネコは朝から涼しいところを探して体を横たえる。日本は夏、マニラ並みの“熱帯”になる。ネコと同じように、昼は休んで暑さをやり過ごし、少し熱気のおさまった夜に働く、というのがほんとうはいいのだろう。

この夏に遭遇した生きものたちの話を少し――。

酷暑にはほど遠い、梅雨入り前の6月下旬。夕方4時前にはまだ散歩に出かける余裕があった。今はとてもじゃないが、その時間帯に外を歩くような無謀なことはしない。住宅街の細道はそれぞれ、ブロック塀などで道と庭とが仕切られている。草木園とでも呼ぶべき広い庭がある。低いブロック塀の上に金網が張られてある。

そのブロック塀に沿ってチョロチョロ動く生きものがいた。生きものはすぐブロック塀を駆け上がり、塀の上でハーハーしている。カナチョロだった。住宅街とはいえ、少し草木の茂るスペースがあればカナチョロくらいはすみつく。ナメクジ、ダンゴムシ、クモ……。庭はえさの宝庫だ。わが家の庭にもたぶんいるだろう。

夜、茶の間の電灯のひもに若いオニグモがとりついた=写真。ひもと笠の縁を利用してクモの巣を張るつもりなのだろう。わが家は昼も、夜も戸を開けたまま。夜は、庭から虫が飛んで火ならぬ灯に入る。それを待って狩るのだ。オニグモは、朝には巣をたたむ。

夏井川渓谷ではもっと大きな生きものに出合った。「ピックイー、ピックイー」。無量庵のすぐ上空をサシバが旋回していた。やっと写真に収めることができた。

耳鳴りのような「ジージー」はニイニイゼミの鳴き声。無量庵の庭で聞き、平地の中神谷の通りでも聞いた。やがてヒグラシが鳴きだす。夏井川渓谷ではヤマユリの花が強烈なかおりをまき散らしているかもしれない。きょう(7月18日)は日曜日。それをこれから確かめに行く。

2011年7月16日土曜日

季刊地域


7月上旬、農文協東北支部のOさんからわが家に電話がかかってきた。会社(古巣)に電話したら辞めたと聞いたので、104番でチェックしたという。古巣で電話番号を教えてくれなかったのだろうか。

四半世紀前のことだ。昭和62(1987)年暮れに『日本の食生活全集⑦聞き書福島の食事』が出た。わがふるさとの常葉町(現田村市常葉町)が<阿武隈山地の食>の舞台として取り上げられた。<石城海岸の食>も入っている。常葉町のだれかの紹介で、OさんがPRにわがいわきの職場へやって来た。

以後、農文協がらみの出版資料が送られてきたり、電話があったりしたが、いつかそれも途絶えた。そこへ今度の電話である。受話器を取った瞬間に口をついて出たのが、「しばらくですね」だった。

「季刊地域」2011年夏号が出た。大震災・原発災害に立ち向かう農山漁村の底力を見よ――という観点で、特集「東北(ふるさと)はあきらめない!」を組んだ。ついては……。「ブログでよければ紹介しますよ」。後日、東京の編集部から夏号が送られてきた=写真

「季刊地域」の前身は「増刊現代農業」。定期購読をしていたわけではないが、たまに興味を引く特集があると、本の出前をする本屋さん(角忠)に注文して買うようにしていた。

今、手元には1999年5月号「自給ルネッサンス」、2000年5月号「定年帰農パート2」、2002年5月号「新ガーデンライフのすすめ」、2003年11月号「団塊の帰農」、2005年8月号「若者はなぜ農山村に向かうのか」がある。「自然と人間を結ぶ」(農村文化運動)も4冊ある。哲学者内山節さんの講演録や文章が載っている。

2001年5月号「地域から変わる日本 地元学とは何か」もあるはずだが、どこかにまぎれこんでいて見当たらない。いや、週末に家庭菜園を楽しむ夏井川渓谷の無量庵にあるのだ、きっと。

さて、「季刊地域」2011年夏号である。特集は①原発災害に立ち向かう②大災害を生き抜いて③むらとまち、地域と世界を結び直す――。①では「までい」の村・福島県飯舘村に焦点を当てる。②では宮城、岩手のハマ、ヤマの人たちの底力を伝える。③では地域からの脱原発・自然エネルギー革命への動きを紹介する。

桜井勝延南相馬市長が「南相馬を原発克服の世界的拠点に」と語り、菅野典雄飯舘村長が「早期帰村希望プラン」を語っている。二人とも酪農家出身。「季刊地域」の読者だという。「自然と人間の交通」(内山節さん)が濃密な地域での生産のあり方、生活のあり方は、おのずと決まってくる。身近な風土に合ったローカルなものを深く耕す以外にないのだ。

農林水産業、およびそれに関連する加工業の世界では、自然を畏(おそ)れ、敬い、活(い)かしながら、生産と生活を営んできた。これからもそうするしかない。

ただ一つ、ビフォー・アフターがあるとすれば、原発から太陽を中心とした自然エネルギーへ、である。黒岩裕治さんが神奈川県知事に当選したのも、保坂展人さんが世田谷区長に当選したのも、このビフォー・アフターの流れを受けたものだ。2人のインタビュー記事も載る。

いわきの人間である私は、すぐ北にある福島第一原発を横目で見ながら、このビフォー・アフターの流れを深く胸に刻む。そういう地域の住民の素朴な願いを、「季刊地域」2011年夏号は幅広く、目配りよく紹介している。

「食とエネルギーの地方分散型セーフティネット構想で列島改造を――大規模集中型のTPPや原発は時代遅れだ」。山田正彦前農林水産大臣の提言は示唆に富む。岩手県の住田町長が震災4日後、地域産材の「気仙杉」を生かして木造仮設住宅100棟の建設を決断し、1カ月余で完成させたという話には目を見張った。アマチュア政府と違うスピード感だ。

肉牛問題が急浮上した今、あらためてこんなことを思う。食糧と防人の供給地であるみちのくは「負けない・へこたれない・あきらめない」の「3ない精神」が必要だと。「季刊地域」2011年夏号に目を通して得た、これは自分自身へのはげましでもある。

2011年7月15日金曜日

豊間の「舌状浅瀬」


おととい(7月13日)のNHK「ニュースウオッチ9」を見た。いわき市平豊間地区の津波の特徴について、ボランティアで津波被害調査を手がけた静岡大客員教授大和田清隆さんの見解をもとに、いわき駐在の記者がレポートした=写真

一言でいえば、豊間のハマの特殊な海底地形が津波被害を大きくした。東北大災害制御研究センターの解析によって、「舌状に張り出した浅瀬で津波が集まり、大きくなった」ことが裏付けられた。

大和田さんはいわき市常磐湯本町の出身。市民参加のまちづくりを支援する都市計画プランナーで、ふるさと・いわき市のまちづくり計画にも協力している。

「東日本大震災」では、勿来地区のまちづくり団体「勿来ひと・まち未来会議」のコーディネーター役だったこともあって、勿来地区災害ボランティアセンターの立ち上げ準備段階から支援・協力を続けた。大和田さんとは旧知の間柄だ。その時点で、私ら夫婦が関係しているシャプラニールとも協力関係が生まれた。

大和田さんは防災のまちづくりにも携わっている。勿来災害ボラセンの運営に協力する一方、本人のネットワークを駆使して建築士に呼びかけ、いわき沿岸部の津波被害調査を続けた。

勿来災害ボラセンが始動した4月9日以降、浜松市の建築士などが続々といわき入りし、現地を調べてデータを大和田さんに届ける、といった場面に何度か遭遇した。その蓄積と分析、比較検討から、大和田さんは豊間海岸が特に大きな被害に遭っていることに気づく。

大和田さんは、早稲田大、千葉大大学院で地学を専攻した。都市計画コンサルタントの仕事を続ける一方、東大大学院で都市計画の博士号を取得した。地学的思考が「舌状浅瀬」の存在を導き出したに違いない。津波防災対策に新しい課題・視点が加わったというべきだろう。

「ニュースウオッチ9」での放送は、大和田さんからのメールで直前に知った。大和田さんは現在、いわきの北端・久之浜地区で住民による復興計画の支援を続けている。シャプラニール会員の歯学博士森田康彦さん(徳島大)が久之浜地区の放射線量調査を手がけたのも、勿来以来のつながりからだろう。人脈は金脈より深く、強く、尊い。

2011年7月14日木曜日

臥龍松


およそ1カ月前、旧浄土宗奥州総本山の專称寺を訪ねた。名刹は「東日本大震災」で大きなダメージを受けた。本堂は「危険」、庫裡は「要注意」の“診断”がなされた。ふもとの「惣門」も傾いた。「惣門」は、応急処置が施された。

專称寺は平の郊外、山崎の小高い丘の中腹にある。夏井川がその丘にさえぎられて大きく左にカーブしながら東流する。境内からは夏井川の河口がある新舞子浜の防風林も遠望できる。右岸には山崎の里が広がり、左岸には中神谷の市街が展開する。左岸の堤防が私の散歩コースでもある。

ひょんなことから專称寺の管理人を知った。いや、正確には次男の同級生が管理人になったのを知った、というべきか。詳しい経緯はわからない。が、脱サラをして浄土門に入り、寺を管理しながら坊さんになるための勉強をしている。

彼が、いわき地域学會のHPで6月10日のわがブログを読み、コメントを寄せたらしいことは、HPを管理している若い仲間から聞いていた。そのあと、私と同い年の知人が遊びに来て、まったく別ルートで若い管理人の話をした。「ぜひ会ってみよう」ということになった。その時点ではまだ、彼が次男の同級生であることを知らない。

7月10日の日曜日、知人の娘さんから苗字を聞いて初めて、次男の同級生が管理人になっていたことを知る。翌々日の火曜日午後、つまりおととい、知人と連絡を取って專称寺を訪ねた。管理人のW君が庫裡の掃除をしていた。

彼は今年1月に得度した。2月から專称寺の管理人をしている。9月に坊さんになるための試験があるという。合格すれば、しばらく修行に出なくてはならない。

「3・11」で受けた專称寺の“症状”を事細かに語ってくれた。本堂は柱が傾いている。文化庁が調査した。復旧・復元には10年くらいの年数と十数億円という費用がかかる。その工事のために車道を拡幅しなくてはならない。境内の庭にある「臥龍松」=写真=も、どうやら撤去しなければならないようだ。難工事である。

6月10日のブログの訂正になるが、本堂の屋根の鬼瓦は「3・11」に落ちたのではない。それ以前の台風で壊れたと、彼が教えてくれた。ま、片方の鬼瓦がないために駆けつけて專称寺の惨状を知り、さらに管理人となったW君に再会したのだから、“誤読”もプラスに作用した、と考えよう。

横倒しになった歴代住職の墓は全部、旧に復している。それを見てほっとした。できることは檀家の協力もあって復旧しつつある。草刈りもそうだという。

地割れと、地盤のゆらぎに伴う傾き。厳しい住環境に身を置きながら、新しい自分づくりを始めた若者の述懐。今は人が恋しいのかもしれない。語って語り続けて、あっという間に2時間が過ぎた。

カネには縁遠い世界だが、ココロのつながり、ヒトの縁は本人次第でいくらでも広げることができる。掃除が第一の修行という心根にさわやかなものを感じながら、再訪を約して寺をあとにした。

2011年7月13日水曜日

転がる擬宝珠


わが住まいのある平中神谷から小川の夏井川渓谷へ行くには、山裾を巡る「小川江筋」(農業用水路)とつかず離れずの道を利用する。大部分は水田の中を走る。

いわき養護学校を過ぎ、交差点を右折して丘の向こうの平商業高校へと坂を超えるあたりに、旧專称寺末の大運寺がある。磐城三十三観音第21番札所「日吉観音堂」もある。地名で言えば、平大室(おおむろ)。

大室を走る道路は段差や陥没、亀裂が目立つ。センターラインをまたいで車を走らせると、間もなく左カーブの坂道になる。右側の丘の上に寺がある。いつからか左側の側溝に転がっている石のかたまりが気になりだした。日曜日(7月10日)早朝5時過ぎ、車を止めて確かめた。石灯籠の擬宝珠だった=写真

側溝の反対側、大運寺の入り口に石灯籠の笠や火袋、中台、竿などが転がっていた。「3・11」か「4・11」ないし「4・12」かに倒壊したのだろう。そのとき、てっぺんの擬宝珠が坂道を転がり出して側溝にひっかかったのだ。大きな石灯籠である。

写真を撮っていたら、競輪選手かと見まがういでたちの男性がロードバイクに乗ってやって来た。急に自転車を止めて話しかけてくる。旧知の、そして夏井川堤防でときどき出会うページデザイナー氏ではないか。「このごろ、堤防で会わないから、病気でもしたのかと」「いや、6時半ごろになると、もう暑くて、暑くて。寝坊すると歩く気にならないんだ」

彼は毎朝5時には、自宅(平窪)を飛び出して夏井川河口まで自慢のロードバイクをこぐ。大室で彼とすれ違ってわかった。コースはこうに違いない。平窪~中塩(平商業高校前)~大室~鎌田(夏井川堤防)~河口。帰りはその逆ルート。堤防で会うのは彼の帰路だ。

おととい(7月11日)朝5時半すぎ、夏井川堤防に出ると、彼がやって来た。河口へと向かうところだ。コースを聞くと、前日の大室での遭遇から推測したコースと同じだった。往復24キロ。それを約1時間でこなす。太めの彼にはいい“修行”ではないか。

ロードバイクを買った以上は眠らせておくわけにはいかない。「高い買い物をして」と奥方になじられる。意地でもバイクを漕いでいるうちに河口への往復が習慣化したようだ。

2011年7月12日火曜日

短い梅雨だった


きのう(7月11日)の続き。「カラ梅雨気味」「真夏日」「地震」うんぬんの話を夜明けにアップしたら、午前中に東北地方は南部も北部も梅雨が明けた。その発表がある前、朝9時10分ごろには4カ月目の洗礼なのか、直下型地震がきた。たまたま車に乗り込んだとき、車がはねた。震源に近いいわき市三和町で震度4だった。

東北南部が北部と同時に梅雨入りしたのは6月21日。次の日は「夏至」である。平年より9日遅かった。随分遅い梅雨入りだった。で、今度は梅雨明けだ。平年より14日早い。

東北南部の梅雨の期間は、平年値で40日前後。それが、今年はほぼ半分の21日、3週間程度だ。きのうは「カラ梅雨気味」と書いたが、今年、東北南部に梅雨はなかったのではないか、という思いを禁じ得ない。それさえマクロにみると、単なる変動の一部でしかないのだろうが。

やはり「3・11」が影響しているのだろう。今年はさっぱり「季節のセンサー」がはたらかない。草の花が咲いている、木の花が咲いている。それだけ。5月のウツギも、6月のアヤメも、ホタルブクロも、オカトラノオも、目にとめたものの、じっくり向き合う気持ちにはなれなかった。

それが、夏井川渓谷の無量庵の庭でネジバナ=写真=を見たときに変わった。やっとカメラを向ける気になった。ほんとうはとっくに梅雨が明けていたと思われる10日、日曜日のことだったが。そうなると、ネムノキの花にも、クチナシの花にも目がいく。ノウゼンカズラの花も咲きだした。

2011年7月11日月曜日

真夏日の地震


今年のいわき地方はカラ梅雨気味。わが家の温度計では真夏日続きだ。が、いわきの公式気温は相変わらず、旧小名浜測候所の観測データによる。観測の連続性から言って当然だろうが、昔から違和感があった。

「ヤマ・マチ・ハマ」とあるいわきのうち、「ヤマ・マチ」は「真夏日」なのに、それが大部分を占めているのに、「ハマ」の「夏日」がいわきの気温になってしまっている。いわきの場合は「ハマ」のほかにもう1カ所、内陸部の「マチ」の公式データが必要だ――という思いを、この数日、またまた抱いている。

きのう(7月10日)、早朝5時に夏井川渓谷の無量庵へ出かけた。先日、庭の草を刈ってもらった。朝めし前に刈り草を片づけようというわけだ。

この日も朝から快晴だ。6時半前には庭をきれいにした。汗を洗い流すために風呂に入り、朝食をとり、朝寝をした。9時過ぎに無量庵の前を通過する2番列車の音で目が覚めた。部屋の寒暖計をみると、もう30度を超えている。部屋に吹き込んでくる風にも涼・熱がある。川風は涼しげでいいが、野風は熱気をはらんでいる。それが入り乱れてやってくる。

どこかもっと涼めるところはないものか。庭のシダレザクラの下に大きな影ができている。樹下へ「ゆりいす」を持ち出して本を読んでみることにした=写真

家から緑陰の庭に居場所が変わっただけで、風の中身は変わらない。涼しい川風がさっと来たかと思うと、道路の方から熱風が吹いてくる。足元からも熱気がたちのぼってくる。草いきれがときどき鼻をつく。

そこでしばらく本を読んでいたら、山がゴゴゴゴゴゴと小さな音を出して揺れ始めた。体には感じない。が、地震であることはわかる。そのうちだんだん地の底を打つようなドドドドドドという大きな音に代わった。無量庵を振り返ると、全体が小さく振動している。朝寝を決めていたカミサンが廊下に出てきた。びっくりして目を覚ましたのだ。

3月9日にやはり無量庵で、ガラス戸がカタカタ揺れ始めたかと思うと、やがてドンドンドンと大きく横に揺れる地震に見舞われた。時間の長い地震だった。「3・11」の前兆だった。

その連想がはたらいたようだ。きょう7月11日で4カ月目。1カ月目の4月11日と、翌12日にいわき地方は直下型地震に襲われた(ともに震度6弱)。その前の4月7日深夜には、宮城県沖を震源とする最大震度6強の地震が起きた。2カ月目、3カ月目は無事に過ぎたが、4カ月目は……。

日曜日。街の時間ではなく、山里の時間にひたって気分を転換しよう、つかの間の安息に身をゆだねよう、とした瞬間の地響き。放射線と地震にもまれながら日常を営むためには、心臓が一つでは足りない。二つか三つは欲しい。

2011年7月10日日曜日

恩師のはがき


知人からの連絡を受けて、知人の同級生である大学の先生(今は名誉教授で横浜住)にいわきの雑誌「うえいぶ」44号を送った。名誉教授はたまたまわが学生時代の国語の先生。私たちが入学する、先生が磐城高校からやって来る。同時期に福島高専(当時は平高専)の空気を吸ったのだった。いちおう教え子になる。

礼状が届いた。はがき2枚とは先生らしい。「ふるさとの惨状に胸つぶれる思いでおります中、なつかしい旧友と若き友のコンビから……」という書き出しで、「うえいぶ」についての感想が、あふれるほどの思いでつづられていた。

吉野せい賞の受賞作品「融解」をはじめ、磐高時代の教え子・小野一雄さんの文章、同じく磐高に奉職したときの最初の教え子・佐藤武弘さんの少年時のノートにも言及している。きちんと「うえいぶ」を読んでくれたことが、まずはうれしかった。むろん、それには恩師としての“教育的配慮”もあったのだろうが。

そして、次は先生の仕事の話。はがきには、文芸誌「新潮」の7月号だか8月号に「新発見庄野潤三の長編」が載ることになっており、その解説を書かされた、とあった。

7月号を買ったら、郡山出身の作家古川日出男が福島の被災地を駆けめぐった“事実小説”とでもいうべき「馬たちよ、それでも光は無垢で」が載っていた。

原発をはさんで、北から見た浜通りと、南のいわきからみた浜通りについての、内なる言葉がつづられている。それは「伝達」を意図したものではない。作家としてのライブ感覚とでもいうべき「表現」だ。それはそれで「原発震災」に対する記録文学のひとつとして評価できる。

新聞に広告が載った日、ヤマニ書房本店へ「新潮」8月号=写真=を買いに行ったら、「きょう1部入ったのですが……」、もう売れてなかった。こんなことは平では珍しい。先生の同級生か教え子でも買いに来たのだろう。いわき駅前のラトブ店に問い合わせたら、まだあるというので、かけつける。

「初公開 庄野潤三『逸見(ヘミ)小学校』――文壇デビュー前に書かれた幻の戦争小説!」。これが、先生が解説を書いた作品である。作品を読む前に、先生の解題を読む。それこそ47年前の先生の印象と同じく、ダンディーな人らしい文章だと思った。

「軍隊と言えば奇人・変人・豪傑がつきものだが、この作品での随一は何と言っても佐藤伝兵衛で、……その間のハラハラ、ドキドキぶりは圧巻である」「八木少尉も一種の奇人なのであるが、……これを『奇人』として切り捨てるのはダイヤモンドをドブに捨てるようなものであろう」というくだりなどは、よく漬かったキムチのように味わい深い。

2011年7月9日土曜日

タクシーより「ひたち」が安い


先日夜、JR湯本駅前のすし屋で「ブッドレア会」の総会・懇親会が開かれた。いわき市内各地から50人余が参加した。「3・11」以後、顔を合わせるのは初めて、という人がほとんどだ。それぞれに無事を喜び合い、被災状況などを語り合った。

いわき駅=写真=から湯本へと電車に乗って出かけた。常磐線を利用するのは1年ぶりだろうか。4月、6月と東京へ行ったが、それは高速バスを使ってのこと。内郷、湯本と2駅だけの乗車だが、多少は“旅”の感覚にひたれるところがいい。電車にはめったに乗らないからだろう。

車内広告はと見ると、「この夏は東北で涼もう」といった内容の、JRの中吊りポスターがあった。網棚付近に並ぶはずの窓上ポスターは、ケースががら空きだった。「3・11」の後遺症だろうか。

常磐線は今も久ノ浜―亘理間で運転ができないでいる。双葉郡では事故の遭った原発の近くを通る。このため、内陸部への線路移設も検討されているという。常磐線は、今度の「原発震災」で最も大きな打撃を受けた。

さて、夜9時前には懇親会が終わった。湯本駅から自宅のある内郷へタクシーで帰るという知人と一緒に駅へ行き、ダイヤを見たら、いわき行きの普通電車は10時近く、その前、「スーパーひたち」が9時過ぎに止まる。

知人から特急で帰ることを勧められた。自動券売機の買い方を教えられる。湯本駅前からいわき駅前までだと、タクシーで3,000円以上かかるのが、「スーパーひたち」なら特急券・乗車券込みで1,000円にも満たない。タクシー代わりに特急を利用するという手があった。これは“発見”だ。

いわき駅から自宅まではおよそ1,500円。湯本駅から自宅までタクシーを飛ばすとなると、5,000円以上かかるだろう。それが、半分以下に抑えられたのだ。すっかり得をした気分になって、9時半には帰還した。

2011年7月8日金曜日

濡羽色


カラスについて聞いたばかりの話を二つ。

「カラスって頭がいいんだね」。カミサンが感心したように言う。神棚に供えたごはんや残飯を庭におくと、鳥が来てついばむ。そばには水盤がある。ある日、冷凍したご飯をおいたら、カラスがそれをくわえて水盤に入れた。水で早く解凍しようというわけだ。言われて、カーテンの陰からカラスを見る。少しずつご飯をつついていた。なるほど、頭がいい。

その日の夜、酒の席で――。夕方、ねぐら入りする前のカラスが群集する。そこは住宅団地にあるビルの上。ところが、「3.11」以来、カラスが集まって“会議”をするのをやめた。つまり、姿を消したのだという。

なぜ? あれこれ推測してみる。ねぐらはおそらく、湯の岳(いわき市常磐)。カラスは日中、街や浜に出かけてえさをあさる。浜は津波でガレキと化した。カラスにはいいえさ場になった? いや、ねぐらの山が地震でおかしくなった? 湯の岳断層が動いた。それで、危険を察知してねぐらを変えた?

鳥に関してはっきりしていることは、あの日、ハクチョウが一斉に夏井川から姿を消したことだ。留鳥のカラスが同じように、いわきから姿を消すなんてことはあり得ない。ねぐらを変えたか、ねぐら入りの前に一休みする場を変えたか。ねぐらを変えたのだろう。

そのカラスだが、5月中旬、磐越東線のJR川前駅へと架かる橋の上から、水面をかすめるように飛ぶところをパチリとやった=写真

橋の上流、夏井川の右岸にカツラの巨樹がある。橋の上から新緑を写真に収めようとしたら、パッと飛び立つカラスが目に入った。デジカメのモニター画面で拡大すると、黒い羽が一部、青みがかっていた。いわゆる「濡羽色」である。きれいなものだった。

(けさ=7月8日=3時35分、ゴンゴンゴンと突き上げるような地震。目を覚ます。体感で震度4。テレビで確認したら、やはりそうだった。震源は福島県沖だが、直下に近い感じ。そのまま起きて、このブログを書いた)

2011年7月7日木曜日

表土はぎ


きのう(7月6日)早朝、夏井川渓谷の無量庵で菜園の表土はぎをした。5時半にわが家を出ようとすると、カミサンが珍しく早起きしてきて、「私も行く」となった。

10日ほど前、三春ネギの種子がネギ坊主からのぞきだしたので、ネギ坊主をあらかた回収した。わが家の縁側で陰干しをし、ネギ坊主から種子をふるい落としたあと、金網ボールに入れて水に浸し、砂とごみ、浮いた未熟な種子を取り除いて、一晩外に干した。翌朝にはすっかり種子が乾いている。それを小瓶に詰めて冷蔵庫にしまった。

ネギは、葉よりネギ坊主に放射性物質が残留しやすいという。種子を採ったあとのネギ坊主の残がいはごみ袋に入れた。水に浸して流れ出たごみと未熟な種子もごみ袋に詰めた。種子は流水でよく撹拌しながら洗った。われわれには、とにかく水で洗い流すしか方法がない。下流の人たちには、だから「ごめんなさい」というほかないのだが。

種子の回収・洗浄・保存が、おととい、完了した。次は表土はぎだ――となって、きのう朝、表土はぎを敢行した。朝めし前にはわが家に戻る。そんな段取りで。

早朝6時、無量庵に着く。太陽はすでに高く昇っている。畑でスコップを使い始めると、たちまち汗がふきだす。予定より30分オーバーして、7時半前、スペースにしてやっと4畳半分くらいの表土はぎを終えた。カミサンはこの間、無量庵のなかを掃除し、冬ものを片づけた。部屋はすっかり夏座敷に衣替えした。

採種用に残しておいた三春ネギを引っこぬき(ネギ坊主はカットしたからない)、スコップで薄く土をはいでは一輪車に放り込む=写真

表土の保管場所は畑のそばのヤブ。そこだと、だれも足を踏み入れない。夜陰に乗じて河原に捨てるようなまねはしたくない。敷地内から出た“困りもの”は敷地内で始末するしかないのだ、ということを教わったばかりだ。

でも、スコップをグサッと入れ始めたら、たちまち胸の中でつぶやきが始まった。<ここは、はじめササヤブだった、それを開墾して石を取り、山砂を入れ、堆肥を入れて、生ごみを埋め、そうやって十年以上、土の様子を観察しながら野菜を育ててきた。コンチクショウ、コンチクショウ。もったいない、もったいない>

表土のはぎとりをしなければならないところが残っている。日曜日にでも、朝飯前に出かけるか。これはしかし、東電の、国の「犯罪」を代行しているだけではないか――そう思うと、ますます「コンンチクショウ」と「もったいない」になるのだった。

2011年7月6日水曜日

高速バス


散歩コースのなかに高速バスの駐車場がある。JRバス関東と、東武バスセントラル。早朝6時ごろだと、バスは11台。時刻表を見ると、もう4時前には駐車場を出発しているバスがある。

ある日、バスの横腹に「がんばっぺいわき」のステッカーが張られてあるのに気づいた=写真。さりげない支援である。「日本は強い国」などといったACジャパンの広告よりはずっといい。

と、書きだしたのはいいが、どうもきのう(7月5日)の話を引きずっているらしい。きょうも地域の片隅のことです。

震災に遭って、一見、大丈夫そうな家が、内部までチェックしてもらったら、当初、外から見た限りの「半壊」から「全壊」に変わった。解体するしかない。先日、関東圏から小名浜の実家に一時帰宅した先輩に会ったら、そのための手続きをしたという。地盤が緩んで家が傾いている。寝泊まりはできるが、それは非常時だからにすぎない。

もともとが藤原川下流の氾濫原、砂地だ。人間と河川のたたかいが続き、川を制御する堤防ができる一方で、砂地を利用した農業が発達した。少なくとも昭和40年代までは農業地帯だった。今はまるで新興住宅地。病院まである。

瓦屋根の“グシ”が壊れて、ブルーシートをかけたままの家が至る所にある。同じ関東圏に住み、いわきの山里に実家がある知人は、雨漏りを修繕しなければならなくなった。結構な費用がかかるという。

家族の問題もあちこちから聞かれるようになってきた。孫も含めた三世代同居の家では、食べ物にバリアができた。ジイバアはジイバアだけで食べて――。小さい子どもを抱える若い親は、自分の両親といえども、食べ物を峻別する。食べ物は本来、家族をつなぐ精神的な滋養のはずだが、今は逆に作用している。「原発震災」がそうさせたのだ。

東電は庶民の精神的・経済的な分断・亀裂・破壊をもたらした。これはもう“犯罪行為”と言ってもいい。そんな心境になりつつある。

それを国策として推進してきた自民党、そして今度の「松本なにがし、菅なにがし」と言いたくなるような民主党の体たらく、モラルハザード。これも、“なにもしない、なにもできない罪”で摘発されるべきではないのか、と思う。

2011年7月5日火曜日

インドハマユウ


近所の駐車場の一角に花壇がある。インドハマユウらしき花が咲いている=写真。あるじはどうしたのだろう。やはり、避難したままなのか。

駐車場の花壇は歩道に接してある。早朝散歩の折、駐車場の持ち主である奥の家の奥さんが、花壇に出てよく草むしりをしていた。

中神谷に引っ越してきたばかりのころ(もう30年以上前だろうか)、知人が「元上司だから」と紹介してくれた。家に飲みに行ったこともある。以後は、お互い子育てに追われて行き来することはなかったが。

「3・11」以後、花壇は、手入れされた様子はない。インドハマユウの花は咲くと、枯れて汚れた色になる。咲いたばかりの花と、枯れた花と。奥さんがいれば、枯れた花はそのつど摘みとっていたのではないかと思うのだが……。マツヨイグサ系の雑草も生い茂っている。

奥さんの実家がある山形の方へ夫婦で疎開していると聞いたのは、だいぶ前。奥さんが手入れをしていた花壇の荒れようを見ると、やはりそうなのかと思う。

同じ通りの、ちょっと手前。2カ月に一回、地域の有志が集まって飲み会をしていたスナックがある。「3・11」以後、店を閉めた。きのう(7月4日)夕方、店の前を通ったら、止まり木といすはそのままに、ほかのスペースを座敷にでもするような改装工事が行われていた。靴を脱いで上がる居酒屋になるのだろうか。

地域には医院が二つあった。今は先に開院した医院ががんばっているだけ。あとに開院した医院の経営者は、たぶん子どもが小さいのだろう、「3・11」以後に閉院した。

前にも書いたが、出ていく人がいれば、入って来る人がいる。空き家が埋まり、アパートの空き室が埋まり、空いている部屋もリニューアルされる――。地域の片隅を見ているだけでも人が動いているのがわかる。

仮設住宅などに入居した避難民にNGOのシャプラニールが調理セットを配る活動を展開している。会員のカミサンが店をやりながら、近所に仮住まいを求めた人たちと接触するようになった。以来、クチコミで新しい人と人とのつながりができつつある。いや、静かに増殖しているといってもいい。

きのう一日だけでも、前からのネットワークの中で近所のミシンがわが家から久之浜へ行き、小名浜からわが家に他県からの支援物資である食器が届いた。これを必要としている人がいる。

2011年7月4日月曜日

参考書


3月15日午後に総勢8人、2台の車でいわき市を脱出し、おおよその行き先を頭におきながら国道49号、6号と車を走らせ、夜更けになって白河市の奥の西郷村へたどり着いた。9日後の23日に帰宅するまで、実質8日間、国立那須甲子青少年自然の家で「原発難民」生活を体験した。

少しの衣類とともにバッグに詰め込んだ本が2冊。伊東達也著『原発問題に迫る』(2002年刊)と、寺内大吉著『法然讃歌』(中公新書、2000年刊)だった。

伊東さんはいわき市議、福島県議を務めた共産党員だ。新聞記者と市議として向き合い、飲み会を企画する友人の計らいでときどき酒を飲みながら議論をしてきた。こちらは「無思想の思想」の持ち主。主義主張は異なるが、人格的には私が今まで出会った人間としては最上・最良の人物だ。

そんなこともあって、伊東さんは自費出版をすると本を届けてくれる。必ずしもいい読者ではない。『原発問題に迫る』もはっきり言って、“積ん読”状態だった。

が、今回は3月6日に平・高久公民館でいわきフォーラム‘90が主催し、佐藤栄佐久前知事の講演が行われたばかりだった。それで、講演の中身「ベクトルを変える、うつくしまふくしまと五つの共生」を咀嚼するために、『原発問題に迫る』を座右に置いた。『法然讃歌』も、今年が法然大遠忌800年というので読み始めたばかりだった。

避難先で二つの本を熟読した。なかでも、『原発問題に迫る』は何度も読み返した。原発の、原発立地自治体の問題、あるいは東電、国、県の安全に対するいい加減な対応が理解できた。原発に関する最初の参考書になった。

きのう(7月3日)午後、わが行政区の中神谷南区で伊東さんを講師に、「放射能と原発」の学習会が開かれた=写真。ここは話を聴かないと――。専門家は風のように来て、話して、風のように去るが、伊藤さんは同じいわき市の住民だ。困難を生きる同じ市民の目線で分かりやすく現実を話してくれた。

質疑応答も時間をオーバーして続けられた。住民はそれこそ必死の思いで質問する。細かい話はともかく、恐れや不安をかかえながら暮らすしかない、いわきには住めないと考えた人がいるとしても、知らない土地で暮らすことのリスク、家族が離散するリスク、仕事が得られるかどうかのリスクなどがある――といった話は、現実的で、納得できた。

2011年7月3日日曜日

また来てね


アマサギは夏鳥。写真に撮りたい――そう思いながら、そして水の張られた田んぼに舞い降りたところを見ながら、まったくこの30年以上、パシャリとやることができなかった。遠すぎて、撮ったとしても“けし粒”でしかない。肉眼で目撃するだけにとどめるしかなかったのだ。

先日、夏井川渓谷へ向かう道すがら、平中平窪の道路っぱたの水田にアマサギがいるのを見た。帰りもいたら写真に撮ろう――。同じところにいたので、車をあぜ道に入れて、車内からパシャリとやった=写真。やっと至近距離から撮れた。「3・11」以後のちょっとした喜びのひとつではある。

きのう(7月2日)の夕方、小6と小4の「孫」をあずかった。女の子だ。夕食はレトルトのカレー。それだけではかわいそうだから、近所のスーパーへ出かけて、好きなものを買わせることにした。途中、息子の家へ寄って孫の顔を見た。上の子(4歳)が買い物についてきた。

「3・11」前はときどき、あずかった孫を連れて街へ行ったり、買い物をしたりしながら、時間をみて親の元へ送り届けたものだが、今は「低気密」の住宅に来ることはない。月に一回くらいは、理由をつけて孫の顔を見に行く。

4歳の孫が小6の「孫」に手を引かれてスーパーに入る。とたんに、走り出してスキップを踏んだ。好きな食べものを買わせる。といっても一つだけ。精算したあとはジュースと、ガチャガチャがあるコーナーへ。これが一番困るのだが、<きょうは許す>という心境になる。

別棟でキャットフードも買った。孫は、ここでも前におねだりして消防車を手に入れたおもちゃコーナーに駆けつける。小6の「孫」がついてきた。私が孫にいう。「見るだけ」。小6の「孫」が言った。「まさバアは甘いねえ。たかジイは……」「ビシッというよ」とは言ったものの、カネがないだけ。

孫を送り届けて帰ろうとしたら、カミサンと2人の「孫」が家に入ってしまった。仕方ない。小一時間ほど中に入って孫の相手をする。さて帰ろうとなったとき、4歳の孫が言った。「また来てね」。アマサギの次にやって来た、ちょっとした喜びのひとつである。

2011年7月2日土曜日

サマータイム


きのう(7月1日)、東電、東北電の管内で「電力制限令」が発動された。言うまでもないが、東日本大震災と、それに伴う原発事故を受けての措置だ。大規模工場・商業施設・オフィスビルは、最大電力を昨夏より15%削減するよう求められている。それに合わせて「サマータイム」を導入した企業もある。

「サマータイム」はかつて、進駐軍が統治していた昭和23(1948)~26年に実施された。定着はしなかった。日本の文化には合わない制度なのかもしれない。が、今度はどうも企業文化として定着しそうな気配がする。

おととし(2009年)の秋、数人の同級生と北欧を旅した。そのとき、「サマータイム」を、デジタルカメラの「日本時間」を通して実感した。出・退勤時間が緩やかな「フレックスタイム」の実態も知った。

ヨーロッパの「サマータイム」は、3月最終日曜日の真夜中から10月最終日曜日の真夜中までの7カ月間。この間、1時間だけ時間が早まる。そのうえでの、「フレックスタイム」に関するメモにこうあった。ノルウェー・ベルゲン。――朝の7~8時に出勤し、午後3~4時台には帰宅する。家族と食事をしたあとは、遊んで楽しむ。

「サマータイム」の午後4時といえば、本来なら3時だ。その時間、ベルゲンの港町=写真=には家族連れと思われる親子が歩いていた。帰宅する人もさっさか、さっさか歩いていた。観光客と違って、とにかく歩くのが早い。「1年に400日は雨が降る」といわれる土地柄、長靴を履いている人も多かった。

要は、帰宅したあと何をするかだ。アルコールだけに沈潜しても意味がない。「遊んで楽しむ」には、勉強、ボランティア、家族サービスなども入っていた。

2011年7月1日金曜日

当事者意識


いわき市の行政区、あるいは町内会、自治会の役員は「3・11」以来、震災の復旧・復興のほかに、「原発事故」による放射能汚染の影響にも心を砕いているのではないか。

わが中神谷南区(平)でも、区内の放射線量をチェックする動きが始まった。私自身が知人から線量計を借りて、区内の散歩コースの線量を測った。近所の子供会連絡協議会長が平六小から線量計を借りたというので、私の測ったデータを渡したら、さらに区内にある県営住宅児童公園の線量をきめ細かく測った。そのデータが区に提供された。

児童公園だから滑り台がある。砂場がある。周りに樹木(ケヤキ)も配置されている。その木の根元がちょっと高い。葉っぱにセシウムが付着している。雨が降ると、幹を通して雨とともに流れ落ちる。それで、根元の数値が高くなるのだろう。

データ提供を受けて、区の緊急役員会が日曜日(6月26日)夜、県営住宅集会所で開かれた。目安としてもらうべく、データをコピーして区内各班に回覧することになった。

前日(6月25日)の夕方、市久之浜・大久支所で徳島大の森田康彦さんが線量調査結果を報告した=写真。森田さんは、私も関係しているNGOの「シャプラニール」会員。報告会の前にデータを見せて意見を聴いた。その結果を、役員会に報告したうえでの判断だ。

県営住宅を管理する県いわき建設事務所にも、緊急役員会の翌日、データを提供して樹木の剪定など善処方を要望した。区長さんと二人で出かけた。

現役のときには、取材するだけの第三者、いや傍観者だった。その習性をいかに修正するか。つまり、当事者意識をどう持つか。傍観者意識では、区内約330世帯の安全・安心は守れない――そのことを自分に言い聞かせる毎日である。