2011年6月30日木曜日

事業懇談会


先週末(6月25日)の午後、いわき市立草野心平記念文学館で「事業懇談会」が開かれた。任期2年で、委員に再任された。粟津則雄館長から委嘱状を受けた。

「3・11」と、それに伴う「原発事故」。いわきは一部、原発から30キロ圏内に入っている。「ホットスポット」がその圏内の山間部に点在し、さらに専門家のデータではいわき市南部でも山間部を中心に、1マイクロシーベルト/時を超えるところがある。

そうしたなかでの、懇談会だ。委員の「自己紹介」と意見が、文学館のこれからの事業の下敷きになってほしい、事業計画が固まった今年度はともかく、来年度以降にその意見を反映してほしい――そう思った。

通り一遍の自己紹介ですむはずがなかった。「3・11」以後の生活の激変、価値観・人生観・世界観の激変、原発事故による仕事と暮らしの激変……。どうしても、それを語らないと、「自己紹介」にならないのだった。

私の隣に座ったのは、川内村教育委員会の教育課長兼公民館長氏だった。旧知の教育長の直接の部下だろう。いわき地域学會が『川内村史』を手がけ、私もその一員として調査と執筆に加わった。そのときの、村役場の担当が今の教育長だ。

モリアオガエルが取り持つ縁である。山をはさんで、草野心平記念文学館(いわき)と草野心平記念館(川内)が向かい合っている。川内村のそれは、去年、天山文庫とその下の阿武隈民芸館=写真=を含めて、記念館として再出発した。

一人ひとりが「3・11」以後の困難を生きている。委員も、事務局の職員も。

なかでも川内村は、役場機能がすでに郡山市に移っている。実体としての川内村は空にして虚ろ、だ。人が避難しているのだから、村としての内実はすでに失われている。公民館長氏もふだんは郡山市に、家族はいわき市にと、二重生活を余儀なくされている。

が、「心」までは避難できない。川内村にとどまっている。村民が、家族がバラバラになりながらも、モリアオガエルの村に「心」は立っている。――そのことを、同じ「阿武隈山人」として痛いほど分かるのだった。早く緊急時避難準備区域が解除されるのを祈るのみである

2011年6月29日水曜日

心の絵地図


ある朝、小名浜・冷泉寺の「しんぼっち」(副住職)から電話が入った。いわき地域学會の幹事の一人である。「3・11」以来、ボランティア活動をしているのは新聞記事その他を通して承知していた。一種の、応援要請だった(私をダシにしたカミサンへの)。

田島伸二さんという国際識字文化センター代表が、事務局長でインド舞踊家の黒川妙子さんと、被災地でボランティア活動を展開している。「午前9時からは楢葉町の人たちのいる××で、午後6時からは広野町の人たちのいる××で」。午後6時からの、小名浜・天地閣での慰問をのぞくことにした。

天地閣のおかみさんのブログによれば、震災からの復旧がなった4月下旬、同じ小名浜の二つの旅亭とともに、広野町の人たちを受け入れた。天地閣には35人が避難している。二次避難だという。

紙芝居とインド舞踊が披露された。「おとなの紙芝居」というお触れが回っていたらしい。が、それは大人も楽しめる、普通の子どもの紙芝居だった。インド舞踊は踊りを単純化すれば、プロレスラーが練習のときに行うヒンズースクワットに還元される、そんな印象をもった。

そのあと、三つの班に分かれて心の「絵地図」づくりが行われた。田島・黒川さんから渡された小さな短冊5枚に、それぞれが思っていることを書き込む。それまで「お客さん」なのか、「スタッフ」なのか分からなかった私ら夫婦も広野の人たちに加わって、絵地図づくりを楽しんだ。

「家に帰りたい」「家族と一緒になりたい」「畑仕事をしたい」……。さまざまな思いが書き込まれた短冊を、大きな白い紙に仕分けしてのり付けし、囲むようにして絵をかいたら、原発の格納容器(逆さまにかかれた)のそばに民家ができた。「脱原発」「早く家に帰りたい」。わがグループは、そこに行きついた=写真

最後は、女性陣がインド舞踊の基本(じゃんがら念仏踊りの基本と同じではないか)を学び、“盆踊り”よろしく踊りの輪をつくって汗を流した。体が笑い、見ている人の心も笑い、喜んだ。

2011年6月28日火曜日

万本桜


「千本桜」ではない。「万本桜」だという。

――私たちは原発事故による「負の遺産」を未来の子どもたちに残してしまうことになった。ものすごい悲しさと悔しさを感じている。なんとかならないものか。春が来て、満開の桜の花を見て、思い立った。20年後、30年後の子どもたちに、山一面の桜を見てもらえるようにしよう。

「3・11」の前、平六小裏山のつづきの山で伐採作業が行われた。風景が一変した。あれあれ「因幡の白うさぎ」になってしまった。

そして、5月8日。その山で「いわき万本桜プロジェクト」最初の植樹が行われた。山の持ち主が“桜山”構想に賛同して土地を提供した。本人も提供者の一人である「ふるさとマルシェ」の団長ブログによれば、山の提供者は6人に増えた。

新聞記事になったので、わが住まいの近くですごいプロジェクトが始まったことは承知していた。6月上旬に、青少年育成市民会議平地区推進協議会神谷支部の役員会が神谷公民館で開かれた。私ら新役員にとっては初の会議の場だ。隣り合わせた同じ新役員さん(支部の事務局長)から、プロジェクトの動きを伝える印刷物をいただき、事業の詳細を知った。

運動の発案者が、冒頭のような「負の遺産」に触れ、桜植樹への思いを述べたあと、こうしめくくっている。「飛行機から見てもわかるくらいたくさんの思いを込めた木を植えたい」「まず近くの山から。一人、一人の記念樹として、一本、一本に参加してくれた人の名前をつけます。最終目標は99000本です」

おととい(6月26日)早朝、夏井川渓谷へ出かける途中、“桜山”を見た=写真。お昼ごろ帰ってきたら、山に人がいっぱいいる。団長ブログで、3回目はすでに6月初旬、団長の山で行われた。同じ山で、おととい、4回目の植樹が実施されたことを知る。

10万本ではなく、「千本桜」を差し引いた?9万9,000本というところがいい。完璧を目指すのではなく、破れ目がある。「美は乱調にあり」。30年後の「桜山」を天国からぜひ見てみたい。

2011年6月27日月曜日

北のトリデ


きのう(6月26日)の朝早く、夏井川渓谷へ出かけた。マメダンゴ(ツチグリの幼菌)を探しているうちに小雨になったため、無量庵で“きどころ寝”をしていたら、「車があったから」と川前の知人がやって来た。1カ月半前の5月5日、「川前の荻の放射線量が高い」と、深刻な表情で教えてくれた人だ。あがりかまちで一時間近く、その後の話をした。

大型連休が終わったあとだったか、偶然、専門家の木村真三さんが国道399号から荻に入って来て線量を調べたら、大変な数値が出たという。すでに、住民は線量計で自分たちの身の回りの数値を調べていた。で、荻と志田名ががぜん、いわきの「ホットスポット」として知られるようになった。

5月6日のブログ「川前・荻の放射線量」にも書いたが、行政組織のこと、行政マンのこと(直接にはいわき市とその職員)、国のこと、県のこと、合併の是非、行政区域の適正規模などに話が及んだ。住民からみると、これ以上ないという非常事態にもかかわらず、行政の対応は相変わらず「隔靴掻痒(かっかそうよう)」なのだという。

「14市町村が合併していわき市になったから、川前の問題はいわきの中の一部の問題でしかなくなった。川前村のままだったら大問題、川内村と同じように行動できたっぺね」。私が言うと、彼はうなずいた。

前の日(6月25日)の午後、いわき市久之浜・大久支所=写真=で久之浜・大久地域づくり協議会の総会が開かれた。そのあとに、NGOの「シャプラニール」会員でもある徳島大の森田康彦さん(歯学博士)による線量調査報告会が開かれた。いわき駐在のシャプラニール職員の連絡を受けて、話を聴きに行った。

そのときの雰囲気も含めて感じたこと、久之浜と川前の危機感の違い、復旧・復興への意識や取り組みの違いなどを、川前の知人に伝えた。

いわき市の久之浜・大久支所はいうならば、すぐ北に横たわる、得体の知れない「怪物」に対峙する最前線、いわきの(いや、本来なら中央政府の)「北のトリデ」だ。40年近くいわき市政をウオッチングしてきた経験からして、ここは「原発震災」に対して最も過酷な業務を強いられている行政センターの一つである。のんびりしていられるわけがないのだ。

森田さんの報告と質疑応答は、合わせて2時間15分に及んだ。「起き上がり小法師」のような旧知の支所長氏が、お礼のあいさつの中で「1時間15分」と間違えたのは、それほど中身が凝縮していて、皆が集中して話を聞いていたからだ。すかさず「2時間」の声が飛ぶほどに、支所と住民の間には熱いものが行き交っている。

2011年6月26日日曜日

ピュア・ヴォイス


NHKの朝ドラを見たあと、流れで「あさイチ」をかけていたら、“特選エンタ”のコーナーにアイルランドの女性グループ4人がVTRゲストとして登場した。ナビゲーターのグッチ三宅がインタビューをした。アイリッシュミュージックを聴いている割には、歌手やコーラスグループの情報にうとい。「ケルティック・ウーマン」というグループだった。

早速、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」内のいわき総合図書館にかけつけ、CDを探す。二つあった=写真。両方を借りる。車のなかで、家でかけ続けている。

アイリッシュミュージックには、とにかく澄んだ歌声を聴かせる「ピュア・ヴォイス」の系譜がある。エンヤがそう。「ソング・フォー・アイルランド」のメアリー・ブラックがそう。ケルティック・ウーマンはそれをグループで聴かせる。

アイルランドは、エンヤを知ってから興味をもった。詩と音楽の島ではないか。そこに、21世紀に入ってから、女性のコーラスグループができた。

デビューアルバムでは、エンヤの「オリノコ・フロウ」をカバーしている。「ダニー・ボーイ」も歌っている。2作目のアルバムでは「虹の彼方に」も、「スカボロー・フェア」も入っている。「私を泣かせてください」がいい。ポップを超えたポップ、それが「ピュア・ヴォイス」と言われるゆえんなのだろう。

エンヤは、上のせがれに教えられた。アイリッシュミュージックのさまざまな女性歌手については、NGOのシャプラニールのスタッフに教えられた。彼女からカセットテープが贈られてきて、ずっと聴いていた時期がある。シンニード・オコナーもそのとき知った。

そのスタッフに(もう結婚して引退している)、この前、東京で開かれたシャプラニールの総会後の懇親会で会った。3人の母親になっていた。カセットテープの話をしたが、反応がない。忘れてしまったか。それはともかく、アイリッシュミュージックにはすんなり入っていけるのが、不思議といえば不思議だ。

2011年6月25日土曜日

マメダンンゴ掘り


一週間に一度は、頭の中身が「街の人間」から「山里の人間」に切り替わる。人間と人間の関係にどっぷりつかっていると、人間と自然の関係が見えなくなる。人間と自然の関係に思いが至らないと思考のバランスが保てない、という怖さがある。「3・11」以後は特にそうだ。

新聞記者は、人間だけを相手にしていて事足れり、と思ったらおしまい。思考のバランスを取るには、住んでいる地域の自然への意識が欠かせない、と思って、この30年間を生きてきた。

哲学者の内山節さんが言う、自然と人間の交通を、自然と自然の交通を、実地に教えてくれるのが、かつては平の里山の石森山であり、今は夏井川渓谷の小集落・牛小川だ。

一年を通してみれば、四季があるから当然なのだが、自然とのかかわりは絶えず異なる。自然は流動している。すみかは変わらずにそこにあるけれども、自然の「流れ」のなかで人間は暮らしているのだ。

春には、栗の実はならない。秋には、ワラビは出ない。常に、今ある自然と向き合うことになる。個別・具体の世界。頭でっかちは、そこでぎゃふんとなる。どんないい文章を書いても、自然への思いやりが欠けているものはノーサンキューだ。

その、牛小川の今は――。水曜日(6月22日)、夏井川渓谷の無量庵でマメダンゴ(ツチグリ幼菌)=写真=掘りをした。青葉が陽光を遮る、苔むした庭の一角。かがみこみ、ふわふわした苔を手で圧(お)す。苔の下の土中に幼菌が形成されていれば、そこだけ硬い感触が手のひらに伝わる。

ン?となったら、指で土の中をまさぐる。コロッと丸い幼菌が姿を現す。小石のときもある。が、たいがいはマメダンゴだ。そうやって、苔に手型を押し続ける。30個くらいはすぐ採れる。

無量庵の庭でマメダンゴが採れるとわかったのは、一昨年(2009年)の梅雨どき。ヒトデのように外皮の裂けたツチグリの成菌を発見してからだ。一般的には、ツチグリは真砂土(まさど)が露出した山道ののり面などに発生する。わが無量庵のように、苔むした庭に出るのは珍しい。

一昨年と昨年は7月に入ってからのマメダンゴ掘りだった。多少大きくなり過ぎていた。大半は食べられなかった。二つに割ると、中が“黒あん”になっている。すでに胞子が形成されていた。今年は中身が“白あん”の未熟なマメダンゴを掘ろう――それで、6月下旬の“手型押し”になった。

サイズはほとんどが小指大。これだと中身は間違いなく“白あん”だ。洗って砂を落とし、念のために二つに割る。白い。みんな白い。

マメダンゴご飯にした。炊き込みだ。残りはみそ汁に。外皮のこりこりとした歯ざわり、“白あん”のぐにゅっとした軟らかさとほのかな甘みが何とも言えない。梅雨どきの、阿武隈高地独特の珍味ではある。

あす(6月26日)の日曜日、もう一回、マメダンゴを掘りに行くことにしよう。

2011年6月24日金曜日

「歩こう会」中止決定


いわき市青少年育成市民会議というのがある。旧市町村ごとに地区推進協議会が組織され、その傘下に支部が設けられている。神谷地域は平地区推進協議会神谷支部という位置づけだ。中神谷南区の副区長をしているので、「充て職」で支部の会計を仰せつかった。実務は事務局の神谷公民館が代行してくれる。

おととい(6月22日)の夜、神谷公民館で支部の総会が開かれた。初めて参加した。支部長さんのあいさつを聞いて、遅まきながら「地域の子どもは地域で育てる」というエンジンをもった組織であることがわかった。支部には事業を進めるために家庭、学校、地域の3部会が設けられている。

大震災と原発事故の影響で年間の事業が縮小された。とりわけ11月に実施してきた「神谷市民歩こう会」については、総会後の地域部会で取り扱いを協議し、中止することが決まった。

地域内の公園から夏井川河口のざわみき公園まで往復8キロ、ごみを拾いながら夏井川堤防を歩こうという、健康増進と自然環境保全を兼ねた事業だ。地区体育協会との共催で、昨年は90人が参加した。

堤防草むらの放射線量の問題からごみ拾いはやるべきでない、実施するならウオーキングだけ。しかし、大津波の来た海へ向かって歩いて行くのはどうか。若い父親、母親から不安な声が上がり、子どもが参加しなければやる意味がないということで、今年は実施を見送ることにした。

席上、私を含む3人がチェックした範囲内での線量結果を話した。具体的な数値はともかく、大雨が降ると水没する夏井川河川敷=写真=の草むらがほかより高い、住宅地では側溝の数値が高めになる、といった情報が共有された。

小学生を抱える地域部会長が学校から線量計を借りてチェックを始めたので、私の手持ちのデータを参考に供することにした。ダブって測る必要はない。連携して事に当たることがまた、「地域の子どもは地域で守る」ことなのだと知る。毎日が、地域を深く知る、そのための勉強でもある。

2011年6月23日木曜日

応援絵はがき


絵はがきで「いわきからありがとう」の発信を――。隣組の回覧を通じて絵はがきセットが各戸に配られた=写真。発行元は市の農政水産課。「いわきの農林水産業を応援しよう! がんばっぺいわきプロジェクト」の一環だ。

<今まで食べてくれたたくさんの米、野菜、魚。皆さんの笑顔が、農家や漁師の喜びでした。3.11この日を境に私たちは想像もし得なかった事態に何度も何度も遭遇しています。こんなときだからこそ、私たちは田畑、森、海を守り続けます。そして、必ず復興します。私たちの未来のために農林水産業を応援しよう>という思いが込もっている。

ミシン目に沿って切り離すと、常磐ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)当時のフラガールの写真と、いわき在住の美術家石井實さん、吉田重信さんの作品の3枚の絵はがきになる。それぞれにメッセージがついている。

【フラガール】昭和40年、炭砿が閉鎖の危機に追い込まれたまち、いわき市。そのピンチをフラガールが救った。フラガールのDNAを受け継ぐ私たちは、誇りを胸に、このまちを必ず復興します。

【石井さん】農産物風評被害打開のため、いわき特産についての絵葉書を作りました。温暖な気候、肥沃な土壌で育ったいわきの野菜を、皆様ぜひ食べていただきたいと思います。生産者共々元気一杯立ち上がろう!いわきの皆さん!!

【吉田さん】いわき市民のガンバル元気とありがとうからつながる未来へのメッセージ「光の鳥」を、皆で世界に飛ばしましょう!!

今度の大震災で心ならずもいわきから北の大地へ移らざるを得なかった知人には、吉田さんの「光の鳥」を飛ばそう。フラガールの写真はがきは学生時代の国語の恩師に出そう。石井さんの野菜は昔の記者仲間に送ろう――あれこれ顔を思い浮かべては思案した。

とにかく、一気に書いて出す。でないと、お蔵入りになる。この種の絵はがきはわが家にかざっておいても意味がないのだ。

2011年6月22日水曜日

夏至


東北地方は南部・北部ともに、きのう(6月21日)、梅雨入りした。「南部・北部」同時は珍しい。関東甲信越までは北陸を除き早々と梅雨入りしたが、東北南部は平年より9日、昨年より7日遅かった。そして、きょうは夏至。

家庭菜園を始めてからの感覚だが、夏至になると体は喜びながらも、心はちょっぴり翳る。

冬至のときの感覚を言えば、わかってもらえるか。冬は、日が短い。寒い。畑仕事はできない。でも、「一陽来復」だ。やがて光が戻ってくる。春になったらこうしよう、ああしようと、胸が躍る。

夏至は光の絶頂期。冬至の逆で「一陰来復」だ。早く夜が明け、遅く日が暮れる。しかも、これからが酷暑の夏本番。暑さに立ち向かっていかなければならない一方で、冬へと坂道を転がっていく。夏至の日にはいつも、その坂道のてっぺんに立ってしまった、という感覚に襲われる。

さて、日本列島のあちこちで夏至に合わせたキャンドルナイトが始まったようだ。今年はとりわけ意義深いものになるだろう。

先日、東京へ出かけた折、東京駅構内で節電を呼びかける「情報板」に遭遇した=写真。東京電力の電力使用状況を三つの数字で知らせている。土曜日(6月18日)の朝8時台で使用率69.4%、使用量2,860万キロワット、ピーク時供給力4,120万キロワット。さすが東京、いとも簡単にこんなデータ表示ができる。

駅は節電中。といっても、いわき駅前の再開発ビル「ラトブ」よりは明るい。

昨夜、小名浜へ出かけた帰り、海岸道路を利用した。信号待ちをしていたら、「ドボン」という波の音が聞こえて、ドキッとした。波の音におびえるようでは困ったものだ。永崎、豊間。津波被害にあった地区である。道路沿いはすっかりガレキが除去されていた。海へと暗闇が広がる中でもそれが分かった。

ごっそり家の欠けた被災地の夜の暗さに比べたら、東京の夜はまだまだ皓々としている。

2011年6月21日火曜日

孫換算


fujiさんへ。

お知らせいただいた「いわき地区放射能調査報告会」(6月19日午後2時から、小名浜市民会館大ホールで開催=写真)へ行ってきました。ぜひ話を聞いて意見を――ということでしたが、意見を開陳できるほどの人間ではありません。二、三感想を述べます。

講師は福島県の汚染地図づくりに奔走している木村真三さん。はったりのない、率直な語り口から、誠実な人柄であることを実感しました。家が喜多方市山都町にあって、親類も多いということは、山都町出身なんですかね。ともかく、市民のために行動する若い学者がいることは心強いかぎりです。

報告会はいわきの現状を再認識するうえでいい機会になりました。山間部の川前・荻、志田名などは数値が高いが、いわきの大半、たとえば平地の平や小名浜などは安心して暮らしていいこと、などです。科学的なデータに基づいて、その範囲を越えないで知見を述べる姿勢に、大変好感をもちました。

畑の天地返しは汚染を土中に拡散するだけなのでやめる。表土を除去すると数値は下がる――という指摘には、素人の生兵法を反省しました。夏井川渓谷のネギ畑で、2畝ばかり表土を除去せずに溝を掘り(幅10センチ、長さ計数メートル)、苗を植えました。それで、溝の表面の数値は低くなったのですが……。

ネギ畑の大半はネギ坊主から種を採るために越冬したままの状態になっているので、こちらは表土を削り取ることにします。ただ、その土をどこに保管するか。土中深く埋めれば地下水を汚染する心配があることを、木村さんが言ってましたね。埋めなくたっていずれそうなりませんか。現実的な対応として、悩ましい問題です。

5月中旬に開かれたいわきフォーラム‘90の原発事故講演会でも、「野菜は水で洗う」となったとき、「その水が下に流れて来て、オレげの田んぼに入り込むんだ」と、下流の住民が汚染水への危惧を指摘していました。稲作を中心にした地域社会は「水社会」でもあります。最後は海へと流れ込む水環境が問題になるのですね。それは分かっているのです。

質疑応答の中で、内部被ばくの影響が現れるのは20~30年たってから、50歳以上は自分で栽培した野菜を食べても大丈夫、という“お墨付き”には大爆笑が起きましたね。50歳以上は、食べないでストレスをためるよりも、食べておおらかに笑いながら暮らす方がよほどいい、という。その通りです。

ただし、こんな話を20代、30代の親の前ではすべきでないでしょう。次世代、次々世代に鈍感な年寄りのエゴでしかありません。彼らには子どもがいます。幼児は、大人の3倍は感受性が強いといわれていますから、祖父母もわが身の短い将来だけでなく、常に「孫換算」(3倍化)をして、先の長い孫の身になって数値を考える癖をつけねばと思った次第です。

以上、とりとめのない感想でした。 

2011年6月20日月曜日

シャプラニール総会


シャプラニール=市民による海外協力の会の総会がおととい(6月18日)午後、東京都新宿区・早稲田奉仕園で開かれた。カミサンが会員になっているので、道案内を兼ねて同行した。私はいちおう、月々1,000円を自動引き落としで寄付するマンスリーサポーターになっている。オブザーバーとして総会を傍聴した。

シャプラは「東日本大震災」直後、初の国内緊急救援活動に乗り出し、茨城県北茨城市をとっかかりに、いわき市に事務所を開設して双葉郡広野町も視野に入れた支援活動を展開している。総会後にその活動報告が行われた=写真

大震災発生から100日の、この日。いわき市久之浜町では久之浜一小体育館で合同供養が、平・薄磯地区では豊間小体育館で合同葬が執り行われた。19日には薄磯の南隣・豊間地区の合同葬が同じ豊間小体育館で執り行われた。区切りの日の、東京での総会と活動報告だった。

シャプラは、3~4月にはおおむね救援物資配布、勿来地区災害ボランティアセンター運営支援、小名浜地区災害ボランティアセンター運営支援に力を入れ、現在は主に避難所から一時提供住宅などに入居が決まった被災者への生活支援プロジェクトを展開している。

鍋・フライパン・まな板・包丁・おたま・フライ返しといった調理器具一式を届ける活動で、そのためのスタッフ2人を地元から雇用した。調理器具も地元企業から調達している。すでに配送を完了したのは530件余。800セットは発注したという。津波で家が流された人、原発事故で双葉郡から追いたてられた人にはありがたい日常雑器の配布だ。

担当の職員たちは、現地の人たちを主役に立てながらも、物心両面で必要な支援と方針の共有をしている。それはシャプラが海外の現場で行っているやり方そのまま。ほんとうに人々の役に立つやり方はどこでも同じ――シャプラの中田豊一代表理事が、総会資料に記した文章の一部である。

シャプラの神髄は「粘り強く人々に寄り添う」だろう。前身の組織も含めて、この40年間、まったく変わらない考え方だ。そこに私は高い点数をつける。

会員は東北の被災地からやって来たというだけで、われら夫婦に温かい言葉をかけてくれた。旧知の会員とも再会した。懇親会では乾杯の発声に合わせ、「がんばれ、いわき」の掛け声が上がった。寄り添う精神の発露である。

懇親会に用意された食べ物は恵比寿「パレット」のスリランカ料理。「パレット」の関係者が紹介された。「実は私もいわき市出身なんです」。歓声がわいた。「どこ?」「平です、杉平(すぎだいら)です」。お城山の出身ではないか。その彼の店の料理を食べて、元気になって東京から戻った。

2011年6月19日日曜日

カッコウ定留


海に近い夏井川の下流にカッコウの鳴き声が響く。早朝と夕方、堤防を散歩しながら耳を澄ませる。鳴かないときもあるが、今年はどうやら定留しているようだ。

鳴き声を聞くこと自体、3年ぶりである。それが定留しているとなると、20年ぶりくらいではないか。それほど私の中では、カッコウ飛来・定留はビッグニュースだ。現役ならば当然、記事にしている。

今年初めて鳴き声を聞いたのが6月4日。以来、6日夕方、14日早朝・夕方、16日夕方、17日夕方と、鳴き声を耳にした。いよいよ夏井川の岸辺林を飛び回っているのがはっきりした。

14日夕方にはホームレス氏と知り合いになった。台車に“家財道具”を積んで夏井川の堤防を歩いていた。健脚である。追いつけない。そこへ後ろから川砂利を積んだダンプカーがやって来た。ちょうどアスファルト路面がへこんでバラスがまかれたところにさしかかっていたため、台車が思うように動かない。手を貸して台車を道端に寄せた。

それが縁で少し話した。どうもよくわからないところがある。「どこへ行くの」「横浜」「どこから来たの」「名古屋から」。名古屋から北上してきたが、いわきから先に行けないのでUターンすることにしたのだろうか。顔は赤銅色に日焼けして、ひげをはやしている。ひげは白いが、還暦前かもしれない。

話しながら橋のたもとに着いた。そのへんで野宿することに決めたらしい。「ここいらに警察は来るかい」「パトカーはときどき巡回してるよ。前に一度、橋の下=写真=で人が一泊したのを見たことがあるなぁ」。そのとき、カッコウの鳴き声が聞こえたのだった。

翌日の夕方、橋のたもとに近づくと、草むらに“家財道具”を置いて、ホームレス氏が“夕寝”をしていた。本当の草枕である。その時間帯、カッコウは沈黙したままだった。

翌々日早朝の散歩で、ホームレス氏と少し話す。私が首から提げているカメラをほめた。「カメラだけはいいんだ、使いこなせないけどね」。横浜には仲間が5人いて、その一人の女性がカメラをやるのだという。「このへんに変な奴はいないけど、注意してね」。そういって別れる。

その日の夕方、ホームレス氏の姿はなかった。カッコウの鳴き声が下流の方から聞こえてきた。南へ、南へと“家財道具”を積んだ台車を引きながら歩いて行く彼の耳にも、カッコウの鳴き声は届いたはずだが、そして自由な精神には人語も、鳥語もしみわたるはずだが、彼と「カッコウが鳴いてるね」「ほんとだ」なんて話をしなかったのがちょっぴり悔やまれた。

2011年6月18日土曜日

わが中神谷南区の線量は?


わが行政区は中神谷南区。区の役員を引き受けてから、区内の様子が少しわかるようになった。朝晩の散歩でも、以前と違って危険個所がないかどうかを念頭におく。見る目が変わった。区内の隅々までとはいかないが、足元を見続けることでようやく地域の一員になれた感じ、といったところだろうか。

側溝のコンクリート蓋が何枚か新しくなった。新しくなる経緯はこうだ。新年度に入るとすぐ区内の「個所検分」が行われる。区民から区の役員に「壊れて危険」「がたがたする」といった情報がもたらされる。区の役員会で話し合ったあと、区長が市の担当課に蓋取り換えの要望書を出す。市が後日、現地調査をして新しい蓋に換える。

以前だったら、風景を眺めるように、単に蓋が新しくなったな、で終わっていた。コンクリート蓋一枚を取り換えるにも個所検分があり、役員会があり、市への要望がある。今だからこそ当事者としての、区の役員の苦労が理解できるようになった。最近もガタガタしていたコンクリート蓋が取り換えられた=写真。

さて、その当事者としてだが、線量計を借りた以上は自分の家だけの計測でよしとしてはいけない。6月9日早朝、散歩に合わせて区内を中心に13カ所の線量を測った。

子どもの通学路である家の前の歩道側溝コンクリート蓋の上0.290マイクロシーベルト/時。夏井川堤防の天端(空中)0.362、橋のガード下0.144、河川敷サイクリングロードの草の上0.641、同(空中)0.274、国道6号歩道橋中央0.300、平六小入り口交差点塀そば0.275、平六小バス停ベンチの上0.349。河川敷の草むらがちょっと高い。

子どもたちがよく遊ぶ県営住宅の児童公園は草むらが0.428、滑り台下の砂場が0.436、東隣の集会所北側草むらの地面が0.454。

わが行政区の一部にすぎないが、ひとまずこんな数値が計測された。

2011年6月17日金曜日

外門の線量


田村市常葉町に住む匿名さんからコメントをいただいた。祖母とオジさんがいわき市川前町川前字外門(ともん)に住んでいるという。

外門に最も近い集落は、夏井川の支流中川で上・下流の関係にある小川町上小川字牛小川、わが無量庵のあるところだ。牛小川の人たちは外門を「田代」と呼ぶ。外門がかつて「田代」と呼ばれていた名残だろう。

6月12日に牛小川を起点、川前町下桶売字荻を終点とする「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)での空間線量の話を書いた。その補足をする。

牛小川から外門までは中川渓谷に沿ってくねくね折れ曲がった急坂が続く。途中に奇岩「天狗の重ね石」がある。中川はここで本をパタリとたたむように曲流する。奇岩は「ゴリラの横顔」そっくりだ。その横顔の目の部分に相当するところが大地震で剥落した=写真。せっかくのいい顔が台無しである。

阿武隈の山里をグルッと巡った日(6月8日)、田代(外門)と牛小川を分かつ「田牛橋」の手前で車外の空間線量を測ったら、0.314マイクロシーベルト/時だった。さらに外門の集落へと駆け上がり、交差点の手前で測ると0.443。私は、まあこんなものだろう、という感想をいだいた。

ときに、人は数値に鈍感になる。心身の衛生のためには、その方がいいときもある。心配だったのはその先、外門の集落を抜けると、林道はスカイラインを縫うように走る。案の定、峠での数値が高かった。そのことを12日に書いたのだった。

ついでだから、常葉町で測った線量も記しましょう。陣場(「アカジャリ」の上)0.256、元坊0.200、七日市場0.191、久保0.179。少なくとも私が測った個所では「ホットスポット」はなかった。以上、補足報告です。

2011年6月16日木曜日

山里の線量を測る⑥


【今泉・小野新町・牛小川】夏井川渓谷(牛小川)の無量庵を発着点に、線量計をもって阿武隈の山里を巡り、田村市常葉町の実家で震災被害を確かめ、ついでに散髪してきた話の最終回。

実家から牛小川までのルートは単純だ。いつものようにJR磐越東線磐城常葉駅のある田村市船引町今泉に出て、磐越東線と夏井川に沿って無量庵に戻るだけ。同じ阿武隈高地の山里だが、アップダウンンはほとんどない。いわきに入れば、ずっとダウンヒル状態だ。

往路は分水嶺の東側、傾斜のきつい山里を巡った。ときには車の窓を閉め、エアコンを切り、汗にまみれながら。帰路は分水嶺の西側、隆起準平原である。なだらかな高原のなかを、車の窓を開けて、乾いた風を受けながら走った。

まず、磐城常葉駅となりの消防詰所前。0.195マイクロシーベルト/時。次に、田村郡小野町字小野新町の小野町文化公園駐車場。0.179。小野町といわき市は峠を下ってからの境界になるが、その手前、右手の空堀を磐越東線が走り、すぐトンネルに入るあたり。小野町夏井字清水地内で0.212。あとは牛小川までノンストップだ。

と思ったが、いわき市に入ってすぐの川前町下桶売字五味沢地内、交差点で線量を測る。0.199。下って、同川前字荷付場、閉鎖中の「山の食。川前屋」付近。0.195。

その中間で一回、車を止めた。川前町川前字宇根尻地内の砂押踏切を越えたあたり、磐越東線の山側斜面にニッコウキスゲが咲いていた=写真。その日は6月8日。牛小川に自生する谷間のニッコウキスゲは、決まって5月末に開花する。ちょうど開花シーズンに遭遇したのだった。

いわきのニッコウキスゲは、どういうわけか大群落にならない。ミニ群落が点在しているだけ。平地の平・大室、中塩などでは杉林が伐採されたときに、ミニ群落が出現する。川前の小白井にもミニ群落がある。夏井川渓谷では、籠場の滝から無量庵の間でぱらぱら咲くのを見るが、それ以外はどうか。

砂押踏切付近のミニ群落とは初めての対面だった。いわば、ニッコウキスゲの「ホットスポット」、いや心がほぐれる「ほっとスポット」だ。それが阿武隈高地に散在している、という図式だろうか。

午後4時過ぎ、牛小川に帰還した。牛小川踏切、0.210。肝心の無量庵の数値は? 線量チェックのドライブに出かける前、天然芝の庭を測ったら、0.401とやや高い数値が出た。雨だれに打たれるデッキ(濡れ縁)は0.329。無量庵の中をチェックする。茶の間0.188、台所0.222、風呂場0.173。晴れて風の強い日に戸を全開したのが影響しているようだ。

三春ネギはどうか。越冬したままの畝の土0.350、耕起したネギ苗の溝の土0.195、三春ネギの土付き余り苗0.231。天地返しをやれば数値が下がることがわかった。

ざっと130キロ、60地点。「南あぶくま」の山里の放射線を測定した結果として、こんなイメージがわく。

「ホットスポット」はもちろん、忌避したい。それを、これからも注意深く探っていかなければならない。きめ細かな観測が必要だ。

一方で、わが菜園のような場合は――。畑の一角にやや深い溝を掘る。生ごみを埋める前に、底に草と表土をけずって入れる。家庭菜園の表面積などはたいしたことがない。今度の「線量チェックドライブ」では、三春ネギが最も気がかりだったが、自分なりに「心配なし」という判断をくだした。

2011年6月15日水曜日

山里の線量を測る⑤


【常葉】今は同じ田村市だが、旧都路村と常葉町は「サカイノクキ」と呼ばれる峠が境だった。どちらも峠へと長い坂が続く。常葉側より都路側の坂道がきつい。中学生になると、自転車で都路の祖母の一軒家へ、母親の実家へ出かけるようになった。「サカイノクキ」から一気に駆け下る、「ダウンヒル」の爽快さは格別だった。

祖母の家は、サカイノクキからすぐの左手山中にあった。母親の実家はもっと下った集落の一角。帰りは「クライムヒル」だからきつい。何度も坂で止まった。峠の手前で息を切らし、切り通しに体をあずけて動けない人もいた。それほど長い坂が続く。

その峠が常葉の“防護壁”になったのだろうか。常葉町内の東の郊外、石蒔田で0.262マイクロシーベルト/時と、線量の数値が都路に比べてぐっと低くなった。わが実家(上町)の台所0.092、理髪店内0.110、裏の庭の土0.386、0.264。知り合いからもらって、食べるかどうか思案中だったという茎立ち菜は0.094。少しも問題がない。

そのあと、町内5カ所7地点で線量をチェックした。七日市場には青田が広がっていた。川内で、都路で、常葉の一部・山根で乾いた田んぼを見てきた人間には、水が張られ、稲苗が整然と植えられた田んぼは、キラキラと輝いてみえた=写真。奥にそびえるのは鎌倉岳だ。

実家の裏山、舘公園にも足を向けた。天守閣をかたどった展望台は、土台部分がかなり痛めつけられたようだ。南側のがけには地割れも起きている。東隣の広場で0.406。これが常葉で測った最高値だった。

線量を測った以上はデータを残しておかなくては――。母親の実家と常葉のデータをメモにして兄に渡した。原発事故と放射線量について考える材料にしてもらえるとありがたい、そんな気持ちからだ。とにもかくにも、ふるさととその近辺のデータがつかめたのは収穫だ。兄や散髪に来た近所の人たちもデータに見入っていた。

さて、実家の地震の爪痕は? 壁が崩れたという2階を見る。白壁に似せたベニヤ板が張られていた。きれいなものだ。同じように壁が崩れた被災者にはお勧めの応急措置だ。

2011年6月14日火曜日

山里の線量を測る④


【都路】上川内は平伏沼への道が分かれるあたり。県道富岡小野線の道端でモニタリングカーが空間線量を測定していた。川内の集落を抜け、田村市都路町へと国道399号を西に向かう。やはり、モニタリングカーと思われる白い車と出合う。あとはなにやら工事を始める人間の姿を目撃しただけで、人影はない。

「かわうちの湯/いわなの郷」への道路は封鎖されている。「危険 立ち入り禁止」。赤字の立て看がものものしい。そちらは警戒区域の20キロ圏内なのだろう。線量の高い、いわき市川前町・荻の「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)を通ってきたときほどの怖さはないが、少し緊張感が増す。

間もなく都路町古道の集落に入り、やや北を通る国道288号に出る。国道288号は福島第一原発のある双葉町と中通りの郡山市を、ほぼ直線で結ぶ阿武隈越えの「ろっ骨道路」だ。そのまましばらく西進する。古道から岩井沢に入ったところで、線量計を外に出して線量をチェックした。稲作が中止になった田んぼは、むろん乾いたまま。

と、茶色い生きものが車の脇を通りすぎた。犬だろうか。バックミラーで確かめたら、ノウサギだった。夜行性のノウサギが真っ昼間、堂々とえさを探している。このあたりにも人影はない。都路も上川内同様、寂しい自然に戻りつつあるのだろう。最高値は0.862マイクロシーベルト/時。

それから何キロか行って、母親の実家のある岩井沢の西戸に入る。

福島交通の路線バス「常葉経由古道線」の「西戸」バス停は、昔からの雑貨屋「渡辺商店」の真ん前にある。小さいころ、常葉町から母親の実家に遊びに行くと、渡辺商店の前でバスを降りた。建物は新しくなったが、店とバス停の組み合わせは変わらない。

いとこたちと遊んでも、泊まるのは母親の実家ではなかった。そこからだいぶ西に行った山中の一軒家。祖母が一人で住んでいた。電気がないので、夜の明かりはランプだ。部屋の壁に映る自分の影がべらぼうに大きくなる――そのころの記憶が、次から次に浮上する。

渡辺商店でアメやお菓子を買って食べた。夏は低い軒先にツバメが巣をかけた。「ツバメの巣、店の軒先、山里」といった原風景が、この商店で形成された。

50年前がそうだったように、今年もツバメが飛来して巣をつくっていた。いや、50年よりもっと前から、そこに店ができたときから、ずっと毎年、飛来し子育てをしてきたのではないだろうか、この「翼をもった隣人」は。

母親の実家の庭に車を止める。亡くなった従兄の奥さんが室内にいた。常葉町から嫁いできて、もう何十年になるだろう。すっかり岩井沢の住人になった。私を見て、びっくりして飛び出してくる。庭の線量は1.012。高い。「栃木の子どものところに避難してたけど、戻ってきたんだ」。室内は0.292。なるべく外での作業を控えるように言って、別れる。

「外と中の数字がわかって、安心した、はー」。よかった、母親の実家に寄って。

西進を続ける。「北作入口」バス停前で線量を測る。0.856。このバス停の奥に祖母の一軒家があった。裏山は鎌倉岳へと続いている。

鎌倉岳は、常葉から見る姿とまるで違う。わが実家の裏山にある常葉の舘公園からは北東の方角にあって、鷲が翼を広げたような山容だ。ところが、都路の国道288号からは――。山は西北に位置して、「緑のおっぱい」のようにこんもりしている。頂上は乳首だ。そこだけとがっている。荒々しい山と、意外とやわらかな姿と。印象はまるで違う。

祖母の家の跡地に杉が植えられた。その杉林が国道288号から見える=写真。左手奥にあるのが鎌倉岳。家が解体され、杉苗が植えられて何十年になるだろう。何年か前に一度来たことがある。杉林をぐるっと回って、家や畑や田んぼの変わりようを、この目に焼きつけた。今度は道路から写真を撮った。もう来ることもないだろう。

都路町の最後は、常葉町と境をなす峠の「サカイノクキ」。峠の手前で測ったら、1.232。都路町は少し数値が高い。阿武隈高地でも一、二の高さを誇る分水嶺の鎌倉岳と大滝根山が壁になって、「放射能雲」がはね返されたか。それで、都路には重い放射性物質が沈んだために、よそより数値が高いのか。

わが記憶の黄金時代を築いてくれた岩井沢の西戸、北作、サカイノクキよ――と、そのつど立ち止まり、風景と対話しては車を走らせた。

2011年6月13日月曜日

山里の線量を測る③


【上川内】いわき市からじかに川内村に至るルートは二つ。小川から国道399号を利用して下川内に入るか、川前から県道上川内川前線、小野富岡線を利用して上川内に入るか、のどちらかだ。両者は「スーパー林道」(広域基幹林道上高部線)の終点、川前町下桶売字荻を貫通する市(村)道?で結ばれている。スーパー林道からなら、どちらへも行ける。

下川内に工房兼自宅を構える陶芸家夫婦がいる。そこへは、牛小川~スーパー林道~市(村)道?~国道399号のルートをとるのが一番。スーパー林道のおかげでだいぶ行きやすくなった。「東日本大震災」以後、連絡が取れないので、寄り道しようかとも思ったが、よした。今回は線量チェックが目的だ。

夏井川渓谷の牛小川からスーパー林道を走り、荻の集落を通って県道に出た。峠を越えると、間もなく市・村境に着く。上川内に入ってすぐのところで線量を測る。0.522マイクロシーベルト/時。

5月5日に来たときには民家に人がいたが、今は雨戸が閉まっている。人のいる、ぬくもりのある静けさではない。人のいない、ぬくもりのなくなった静けさだ。

県道沿いの田んぼの土手と畔に草が生え、ハルジオンが咲きに咲いている。田起こしをしたものの、作業はそれで打ち切りになった。テレビのニュースで承知はしていたが、村民が避難して、山里に人間がいない事実を、田んぼの土手と畔のハルジオンが教える=写真

春が来れば田を起こし、土手と畔の草を刈り、水路を修復して水を通す。やがて、そこら一帯が青田に変わる。草を刈るのは病害虫対策と、田んぼに光を入れ、風通しをよくするためだ。庭の、畑の草むしりも理屈は同じ。それがまた、落ち着いたムラの景観を醸し出す。

夏が過ぎ、秋になれば稲穂が垂れる。刈り取られた稲は、はせぎに掛けられる。あるいは、わらぼっちとなって田んぼに立ち並ぶ。太陽と雨と風を上手に利用した人間の農の営みである。

大げさに言えば、日々、人間は自然にはたらきかけ、自然の恵みを受けながら暮らしている。ときには大きなしっぺ返しをくらうとしても、自然をなだめすかし,畏れ敬って、折り合いをつけてきた。その折り合いのつけ方が景観となってあらわれる。農村景観、あるいは山里景観は、人間が自然にはたらきかけることによって初めて維持されるものなのだ。

その、自然への人間のはたらきかけが中断した。「自然は寂しい/しかし人の手が加わると暖かくなる」。民俗学者宮本常一のことばだ。人間が営々と築き、守ってきた美しいムラの景観が、人の手が加わらなくなったらどうなるか。たちまち壊れて、荒れ始める――即座にそんな印象をいだいた。

稲作中止の補償金は入るとしても、カエルの鳴かない田んぼにどんな影響があらわれるのか。阿武隈高地の稲作史にはうといが、少なくとも江戸時代以後、こうして稲作が中止されたのは初めてではないか。ハルジオンの花に覆われたのもそうだろう。「人の手が加わらなくなって、暖かかった風景が消えた/あとは寂しい自然に戻るだけ」では泣けてくる。

川内の数値はそう高くはない。早く住民が山里に戻って来られる手だてを考え、実行してほしいものである。

2011年6月12日日曜日

山里の線量を測る②


【スーパー林道】背戸峨廊(セドガロ)入り口に寄ったあとは、夏井川渓谷(牛小川)の無量庵を“線量チェックドライブ”の発着点にする。行きは川前~川内~古道~都路~常葉、帰りは常葉~船引町今泉~小野町~牛小川という、およそ130キロの円環コースだ。標高は200~600メートルだろうか。

最初に“難関”が待っていた。牛小川を起点、川前町・荻を終点とする広域基幹林道上高部線、通称「スーパー林道」だ。幅員5メートル、延長14キロの1級林道である。

スカイラインに沿ってアップダウン=写真=とカーブを繰り返す。牛小川から外門(ともん)へ駆け上がり、さらに神楽山の裾をまくようにして、道が続く。峠が四つある。峠で車内の線量をチェックした。

線量が高いことは分かっていたので、マスクをした。エアコンも止めた。窓を開ける気にはならない。じんわり汗がにじむ。

第一の峠、つまり牛小川に最も近いところで0.722マイクロシーベルト/時だったものの、第二の峠では1.876、第三の峠は1.781、第四の峠は1.747、終点の荻に下って来て<やれやれ>と思った瞬間に1.945にはね上がり、びっくりする。広い範囲で「ホットスポット」になっている。「ホットゾーン」、それが荻地区の実態に違いない。

5月5日に、川前の知人から川内に近い荻や志田名の数値が高いことを打ち明けられた。「何もできないけど、ブログには書くから」。そう言って別れたあと、県道経由で荻へ直行した。翌日、その様子をブログで報告した。

「スーパー林道」はいつ車を走らせても対向車がない。が、今回はなんと、軽トラとすれ違った。日中、人を見たこともない荻の集落では、若い女性が道路を歩いていた。県道までもうすぐ、というところではタクシーとすれ違った。平時と非常時が入れ替わっている。なんだか不思議な気持ちになった。

「スーパー林道」の終点寄り、坂を下る途中で阿武隈高地の最高峰大滝根山が見える。わがふるさとの山だ。最近、その手前に風力発電のための風車群ができた。いわきの平地からは見えないが、山里は、場所によっては景観が大きく変化している。そうしたなかでの大震災・原発事故だ。

山は原発から発生する「放射能雲」の通り道になっている。というより、山と原発は空でじかに向き合っている。20キロ、30キロなんて、ちょんの間だ。阿武隈の山中に分け入り、峠を上ったり、下ったりしていると、そのことがよくわかる。

2011年6月11日土曜日

山里の線量を測る①


田村市常葉町の実家では、「東日本大震災」で2階の壁がはがれ落ちるなどの被害に遭った。地震に関しては、浜通りより中通りの方がひどかったのではないか。実家では兄夫婦が床屋を営んでいる。あれからおよそ90日。いわきの平地で被害を、阿武隈の山里の放射線を案じていてもしかたがない。散髪を兼ねて、この目で様子を確かめることにした。

ついでだから、道々で放射線量を測ろう――。6月8日、知人から線量計を借りた。朝に始まった山里の線量チェックは、昼食と散髪の時間を除いて、夕方6時まで途切れることなく続いた。

夏井川渓谷の無量庵を発着点に、グルッと円を描くようにして約130キロ。阿武隈の山里を巡って測定した場所は、およそ60地点に及んだ。文科省の測定地点は避けた。ダブる必要はない。「3・11」からきょう(6月11日)で3カ月。何回かに分けて線量の測定結果を報告する。
         ×    ×    ×    ×    ×
【背戸峨廊】無量庵へ行く前に、背戸峨廊(セドガロ)=夏井川支流江田川=入り口駐車場=写真=で線量を測る。

登山ガイド佐藤一夫さんのブログ「山旅工房『とうほくトレッキング』」で、トッカケ滝までの登山道が落石と崖の崩落で危険――とは承知していた。別の人からは、“せき止め池”が何カ所かにできているらしい、という話も聞いた。いよいよ「セドガロ」が危ない。

いわき地域学會は毎年、2~11月に月1回のペースで市民講座を主催している。今年は2回目の講座が開かれる前に、「3.11」が起きた。中止を余儀なくされた。2回目は、私が<「草野心平とセドガロ」考>という題で話すことになっていた。

それもあって、背戸峨廊の空気に触れておきたい気持ちになった。もちろん、入山するつもりはない。駐車場に続く登山口にロープが張られてあった。

そこに、入山禁止を告げる札がさがっている。「3月11日に発生しました東日本大震災、その後の度重なる余震の影響により、落石・崩落が多数発生し、また、今後の余震でさらに、落石等が発生する可能性がありますので、入山は禁止させていただきます」。4月にいわき市観光物産課が措置した。

駐車場そばの林の縁、樹下にあるコンクリート製テーブルの上。0.263マイクロシーベルト/時。駐車場の防犯灯そばの草むら。0.371。

人間が立ち入りをやめた背戸峨廊は静まり返っていた。

2011年6月10日金曜日

本堂「危険」


東に太平洋を望む小高い丘の中腹に專称寺がある。旧浄土宗奥州総本山にして名越(なごえ)派本山だ。早朝の散歩時、夏井川の堤防を歩きながら、対岸・山崎の里の名刹を遠望する。

山がせり出しているあたり、川が大きく左に曲がるところ(かつて渡し船があった)まで足を延ばせば、すぐ対岸にそびえるように迫ってくる。梅林に抱かれるようにして鐘楼堂、本堂、庫裡が立つ。開山堂は木々に隠れて見えない。

カッコウを探しに、双眼鏡を手にして上流へと足を延ばしたときだ。なにげなく双眼鏡を向けたら、トタンぶきの本堂の屋根に鎮座する鬼瓦(これもトタン製だろう)の一つがない。

專称寺が「東日本大震災」で大きなダメージを受けたとは聞いていたが、遠望するかぎりではどっしりした本堂の屋根にも、かやぶきの庫裡にも、鐘楼堂にも変化はみられない。大丈夫だったのではないか――勝手にそう思っていた。それが、双眼鏡をのぞいて吹き飛ばされた。

押っ取り刀で專称寺へと車を走らせる。ふもとに立つ、いわきでは国宝白水阿弥陀堂の次に古い木造建造物の「惣門」が、ガタガタになっていた。新しい木材で補強され、支えられたために、かろうじて原形を保っている、といった感じ。

息を切らせながら急な石段を上り、本堂=写真=の前に立つと、今度は息を飲んだ。屋根が傷だらけだ。本堂に赤い紙が張られてある。<危険>。赤紙には「この建築物に立ち入ることは危険です」「立ち入る場合は専門家に相談し、応急措置を行った後にして下さい」とあった。「注記・建物の傾きに注意して下さい」とも。

庫裡は<要注意>の黄紙だ。「この建築物に立ち入る場合は十分に注意して下さい」「応急的に補強する場合には専門家にご相談下さい」とあり、「地盤の動きに注意して下さい」という注記が添えられていた。惣門も、本堂も、庫裡も、いやはや大変な被害に遭った。歴代住職の墓石も幾つか倒れていた。

本堂は檀林(大学)としての特徴を持った、いわき市内でも最大級の寺院建築物だそうだ。太宰治の「津軽」に出てくる今別・本覚寺の貞伝和尚も、伴嵩蹊が『近世畸人伝』で取り上げた無能上人も、この寺で学んだ。幕末の江戸で俳諧宗匠として鳴らした一具庵一具も專称寺出身だ。偉人・傑物を輩出した檀林が悲鳴を上げている。

2011年6月9日木曜日

飛び出した本


「3・11」のときに本棚が倒れた。1階は生活空間だ。落下した本をすぐ元に戻した。2階の本棚は無事だったものの、足の踏み場もないほど本が散乱した。すぐ必要になるような本は少ないので、そのままにしておいた。「4・11」と「4・12」に強烈な余震がきて、散乱している本の上に再び本が落下した。

不思議なことだが、落下した本から「読め」と言われているような“現象”も起きた。中井久夫編『1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神医たち』(みすず書房=1995年3月刊)が出てきた。

神戸新聞社編『神戸新聞の100日――阪神大震災、地域ジャーナリズムの挑戦』(プレジデント社=1995年11月刊)と、当時の論説委員長三木康弘さんの『震災報道いまはじまる』(藤原書店=1996年1月刊)も現れた。

いずれも「阪神・淡路大震災」のあとに買い求め、読んで、本棚に置いたら、別の本に隠れてどこにあるか分からなくなっていた本たちだ。

『1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神医たち』の中に、中井さんの記録「災害がほんとうに襲った時」がある。このほど、『災害がほんとうに襲った時――阪神淡路大震災50日間の記録』(みすず書房)と題して、その記録と、今度の「東日本大震災」について新たに書き下ろされた文章とを合わせた本が緊急出版された。(この本は未購入)

作家最相葉月さんは既刊の本を読み直し、「災害がほんとうに襲った時」には普遍的なメッセージがある、ついては東日本大震災下で働く医療関係者に読んでもらいたいと、中井さんと出版社の許諾を得て、インターネット上で電子データを公開している。

本でも、ネットでも「災害がほんとうに襲った時」は読める。心のケアを考える人には必読の本(文章)だ。

1991年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災発生。神戸新聞は、倒壊を免れたものの本社が「全壊」し、コンピユーターシステムがダウンした。

「未曽有の大災害に、1300人の神戸新聞社員は瓦礫の中から立上がり、新聞を発行し続けた。彼らはジャーナリズムとして、企業人として、いかに危機に立ち向かったか」(帯の文)。記者みずからがつづった『神戸新聞の100日』には、とにかく新聞を出すのだという一点に全社員のエネルギーを集中し続けた姿が描かれる。

そのときの論説委員長が三木さん。自宅が崩壊し、父親を失う。震災のあと、最初に書いた社説が「超社説」として有名になった。「大きな反響を呼び、あらゆるメディアで取り上げられた。そっくりそのまま転載した新聞もある。被災者の姿を被災者自身が初めて綴り、やりきれない思いがストレートに伝わったからである」(『神戸新聞の100日』)

書店では、どこでも目立つ場所に大震災・原発関係の書物が平積みにされている。緊急出版されたもののほかに、阪神・淡路大震災のときに出版されたものが増刷・再版されて並ぶ。『神戸新聞の100日』は文庫本が出た。写真集も次々に発刊された。で、わが座右にも震災関連本が並んだ=写真

川村湊『福島原発人災記 安全神話を騙った人々』(現代書館=4月25日第1版第1刷発行)と柳澤桂子『いのちと放射能』(ちくま文庫=4月20日第3刷発行)は4月下旬、東京・代々木公園で開かれた「アースデイ東京2011」の会場で買った。

吉村昭『三陸海岸大津波』(文春文庫=4月25日第10刷)、安斎育郎『福島原発事故 どうする日本の原発政策』(かもがわ出版=5月13日第1刷発行)、広瀬隆『FUKUSHIMA福島原発メルトダウン』(朝日新書=5月30日第1刷発行)……。

書店に入れば、まず特設コーナーに足が向く。人類がかつて経験したことのない「原発震災」である。どう対処したらいいのか。専門家の知見や過去の出来事に学ばなくては、という思いが深い。

にしても、一つ気になることがある。「阪神・淡路大震災」がただの「阪神大震災」になっている。朝日新聞がそうだ。これはどういうことなのだろう。新聞社としての記憶の風化が始まったのか。識者の文章にも、それが散見される。「淡路」の住民は、「私らは忘れられた」、そんな気持ちでいるのではないか。

2011年6月8日水曜日

壊れる「関係」


わが家の隣はアパートとコインランドリーの駐車場。庭の生け垣越しに車の排気ガスも、人語も飛び込んでくる。

ある朝、茶の間にいると、生け垣のそばで人が話を始めた。ケータイがかかってきたのだろう。声がもろに聞こえる。人っ子ひとりいない原っぱでしゃべっているようなあんばいだ。「●〇は××、■□は××、▲△は××に避難しました。てんでんばらばらですよ」。双葉郡から避難して来た人らしく、ケータイの相手に兄弟や親類の避難先を告げていた。

別の日。知り合いの家に行くと、娘さんがいない。他県へ避難したのだという。なぜ、また今?

あと数日で「3・11」から3カ月になる。本来なら家族が向き合い、助け合いながら、復旧・復興への道を歩み始めるときだ。が、いわきではどうもその道筋がみえてこない。かえって、原発事故のために家族関係が壊れかかっている――そんな印象を受ける。もっとも、子どもの住まいに合流して独り暮らしを解消した女性も、近所にはいるが。

夫は職場のあるいわきを離れられない。妻はしかたなく、娘を連れて東京へ避難した。そうした逃げ場のない夫婦は、小さい子どもをはさんで口論を繰り返す。夫婦の関係、親子の関係が尋常ではなくなっている。祖父母と孫たちの交流も寸断された。それが、子どもたちをめぐる「フクシマの今」の姿ではなかろうか。

手帳にはさんだ孫の写真を見てはため息をつく。娘と、孫と離ればなれになった知人の話を聞いては、ことばに詰まる。

ときにいがみ合い、ののしりあいながらも、家族が向き合っていた3月11日午後2時46分以前の日常がなつかしい。恋しい。平々凡々の「無事な日々」がかけがえのないものに思える。

「世の中を憂(う)しと恥(やさ)しと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば」(山上憶良)。白水阿弥陀堂の池の岩頭から飛び立つアオサギの写真でも見てください。

2011年6月7日火曜日

ホットスポット


文科省は毎日、モニタリングカーを用いて固定測定点で空間線量率を測定している。その結果がHPで公開されている。「福島第一原発の20キロメートル以遠のモニタリング結果」を、測定を開始した3月16日からチェックしてみた。

先日、若い友人が「いわき市小川町上小川の数値が高いですよ、牛小川(夏井川渓谷)ではないですか」と言ってきた。牛小川の無量庵では、知人が4月17日に線量を測った。毎時0.291マイクロシーベルトだった。だから「それはないな。川前は峠の荻が高い。上小川も峠の十文字が測定点かもしれない」

測定時間は午前10時と午後6時の2回、いわき市内では毎回、10カ所前後の測定結果が載る。「上小川」は「いわき市小川町上小川(26キロメートル南西)」と表記される。6月6日午前10時現在で「上小川」は1.5、「いわき市川前町荻(28キロメートル南西)」=写真=は2.8。この2地点だけが1をオーバーしている。数値も毎回、そう変わらない。

グーグルアースで福島第一原発から南西26キロを推定すると、はからずも「十文字」近辺だった。国道399号が小川の町中から山中へと駆け上がり、峠の十文字で双葉郡川内村へと駆け下る。下ったすり鉢の底に戸渡の集落がある。十文字は文字通り「十字路」だ。国道399号と交差するように、双葉郡広野町へも、いわき市川前町へも下ることができる。

旧知の戸渡の住人に聞いた。今は平に避難していて、戸渡に通っている。「線量が高いのは十文字です。私も初期から計測していますが、十文字では2マイクロを下がることがないですね」「とわだ分校校庭では0.8~1.6マイクロで推移しています。メタセコイアの前など局所的に3マイクロを軽く超えるところがあります。ホットスポットですね」

「正しく恐れる」ためには客観的なデータが必要だ。おととい(6月5日)、若い友人が線量計をもってわが家に遊びに来た。室内の放射線量を測ったら0.1だった。3月27日にシャプラニール会員の大学の先生が測ったときには1だったから、だいぶ下がった。平常値(0.05)に近づきつつある。

それはいいとして、私には気がかりなことがある。「田村市都路町岩井沢(25キロメートル西)」の数値が高い。6月5日午後6時現在で1.3。ふるさとの田村市常葉町はそれなりに落ち着いているから一安心だが、わが幼少年時代の記憶の宝庫である「岩井沢」(母の実家がある)が、これでは心配だ。

測定点は岩井沢の東か西か。西側、国道288号の常葉と都路の境界は「サカイノクキ」と呼ばれる峠。そこはしかし、30キロ圏外に近い。もっと東側だとすると、双葉郡との境の峠を越えて、古道から岩井沢に入ったあたりか。いわきに住んでいても、国道288号沿いの阿武隈高地の放射線量が気になる。

2011年6月6日月曜日

高木誠一蔵書


「いわき学」の先達の一人、高木誠一(1887~1955年)の家がいわき市平北神谷にある。無住のために借り手を探している。

土蔵の2階に高木の蔵書が眠る。家を管理している孫たちには、使い道のない資料だという。めぼしいものはすでに流出した。「何か役に立つものがあれば持って行っていいですから」。近所に住むいわき地域学會の会員に声がかかった。

3月末に予定されていた調査が、「東日本大震災」の影響で延期になり、先日、2カ月遅れでようやく実施された。地域学會の有志数人が参加した=写真

高木は柳田國男の門人で、民俗学が産声を上げたころからのフィールドワーカーだ。家業の農業についても研究・改良を重ねた篤農家として知られる。請われて村助役も務めた。実業、学問、村政と、多面・多層的に村づくりに尽力した。

大正~昭和時代には宮沢賢治や高木誠一、三野混沌(吉野義也)といった、農の営みを生き方の基本に据えた人間が輩出している。後世の人間から見ると、興味が尽きない時代だ。

高木は明治末期に柳田に出会い、新渡戸稲造らが結成した「郷土会」に参加し、柳田らが編集する月刊雑誌「郷土研究」に次々と調査報告文を発表した。大正時代に、すでに民俗学者としての実績を残している。

彼がどんな本や雑誌を読んでいたのか。「大正ロマン・昭和モダン」の視点で、ほこりをかぶり、黴臭い資料を1点1点手に取る。

結果として、中央報徳会発行の月刊誌「斯民(しみん)」、東京人類學會発行の「人類學雑誌」、帝國農會発行の「「帝國農會報」といった大正時代の雑誌のほか、昭和初期の雑誌・単行本、合わせて15冊ほどを“救出”した。

ほかの仲間は、それぞれの研究テーマに沿って地元北神谷の古文書を、雑誌を“救出”したようだ。

内郷に家があるという高木の孫の女性(もうかなりの高齢だ)を車で送って行った。その車中でのことば。「祖父もこれで喜んでいることでしょう」。高木の民俗学的研究成果を引き継ぎ、発展させるのが、わが地域学會の使命であることを、あらためて感じた。

2011年6月5日日曜日

カッコウを探して


きのう(6月4日)は、朝7時すぎに散歩に出た。快晴、無風。夏井川のヨシ原では、オオヨシキリが盛んにさえずっている。対岸からはホトトギスの鳴き声。

しばらく行くと、かすかに水辺から聞こえてきた=写真。耳に手を当てて音を集める。「カッコー、カッコー」。それが、だんだんはっきりしてくる。

あとで、自分のブログをチェックした。カッコウの鳴き声を聞いたのは2008年5月下旬以来、3年ぶりだ。その前は十数年間、耳にしなかった。夏井川で「ふるさとの川モデル事業」が始まったころに、一時、オオヨシキリのさえずりが途絶え、その巣に托卵するカッコウの雌の、かりそめの夫の鳴き声も消えた。

カッコウは遠くで鳴いているように聞こえても、たいがいはすぐ近くにいる。対岸ではなく、こちら側の岸辺林でさえずっているに違いない。少し沈黙したあと、今度はちょっと遠くで鳴き始めた。対岸へと移動したのだ。すぐわが家に戻り、車でカッコウを探すことにする。

いったん六十枚橋を経由して右岸へ渡り、河口までゆっくり移動した。車には双眼鏡が常備されている。聞こえるのは、しかし、オオヨシキリとホトトギスの鳴き声のみ。

河口の磐城舞子橋は震災の影響で通行止めになっている。堤防の道をUターンして上流へ向かう。六十枚橋を過ぎたところで、再び「カッコー、カッコー」の声が聞こえてきた。右岸のヤナギの木のこずえにいないかどうか、双眼鏡で探すが、姿はない。

と、2羽が連れ立ってヤナギの木から別のヤナギの木へと入り込むのが見えた。次の瞬間、1羽が追いだされたところをみると、1羽はホトトギス、1羽はカッコウだったか。そちらから「カッコー、カッコー」の鳴き声が響く。

ここで、いったんカッコウの“追っかけ”は中止して、朝食をとり、少し仕事をした。午後にまたカッコウの鳴き声を確かめに出かけた。カッコウは沈黙したままだった。午前と午後と、一日2回は夏井川の堤防に立とうと思うのだが、ずっとカッコウが滞留する保証はない。

2011年6月4日土曜日

ヘンな店


「内郷にオーガニックカフェができた」。カミサンがいうので、運転手をつとめる。はがき大の案内カードには、私立の「磐城一高近くです」とある。国道6号から旧道(浜街道)に入り、磐城一高の前を過ぎる。が、それらしい雰囲気の店はない。昔ながらの家並みが続くだけだ。

カミサンが同級生の文具店で場所を聞く。看板は出ていないが、「ここではないか」とカミサンが目星をつけた2階建ての家がある。見た目はただの住宅。同級生が小雨の降る中、道路に出てきて場所を教える。目星をつけた家がそれだった。「オーガニックカフェ&工房 倭夢(わむ)」

前は家を縦割りにして2世帯が入るアパートだったという。男の目から見ると、「ヘンな店」だ=写真。室内が細かく仕切られている。フランス人形が動き出してどこかに隠れていそうな感じ。

店内をよく見る。蛇口、流し、板張りの床、ガラス戸、仕切り壁、照明、器……。「ヘンな店」という印象は、それらがホームセンターで売っているような大量生産品とは無縁のものだったからだ。要は個性的。吟味したあとがうかがえる。

テーブルも、イスも一つひとつ違う。革のバッグデザイナー、美術商(古物商)を兼ねるオーナーの女性が見立てた。売り物でもある。若い作家の作品も展示・販売している。2階は工房。仲間の女性が布のバッグをつくっていた。

カミサンには旧知の女性だ。私も話したことはないが、何度か顔は見ている。アートキルトを手がける「和田のお姉さん」の、年下の友達だった。和田さんらが出演する朗読コンサートの手伝いをしており、そのときに髪形などが個性的なので印象に残っていたのだろう。

オープン準備中に「3・11」に遭遇した。幸い、大きな被害はなかった。オーガニックカフェである。梅干し味の番茶を頼んだ。隣は10階建てのマンション。ビル風が強烈なので看板を掲げられない。地面を掘るのだという。杭のような看板が立つのかな――番茶をすすりながら、そんなことを思った。

2011年6月2日木曜日

朝めし前


きのう(6月2日)早朝、起き抜けに夏井川渓谷へ出かけた。無量庵の片隅に菜園がある。三春ネギの苗を植えてからおよそ1カ月。最初の追肥と土寄せをした。生ごみも埋めた。

「3・11」に落石事故が起き、通行止めになっていた溪谷の幹線道路(県道小野・四倉線)は5月末までに応急工事が完了し、復旧した。通行止めを告げる立て看も、柵も道路から撤去された。落石現場には新たにワイヤネットが張られた。

追肥と土寄せは30分もあれば終わる。朝めし前の簡単な作業だ。6時45分ごろに郡山からの一番列車が牛小川の集落を通過し、7時10分ごろにいわきからの一番列車が同じく無量庵の前を通過する。郡山行きの一番列車を見送って帰路に就いた。

ざっと1時間余の滞在だ。Kさんが早い時間に軽トラで会社に出かける。やがて出勤するだろうTさんと会って、あれこれ話す。「3・11」以後の、集落(牛小川)の様子が少しわかる。

前回、牛小川からの帰路に、平地の平窪地内で通勤途中の車の列に巻き込まれた。今回は下小川から左折し、石森山を越えるルートをとった。四倉・大野二小の前から石森山を駆け上がり、平・絹谷へと林道を駆け下る。

間もなく「青滝の溜池」に出るというあたりで、キジの雄に遭遇した。悠然と林道を歩いていた。

車を止めて、カメラを向ける。何コマか撮影していたら、キジのうしろでリスが素早く道を横切った。偶然、一コマだけキジとリスが写っていた=写真。リスは反対側の草むらへ入り込むために、草むらから林道へと姿を見せたところだった。

石森山でリスを目撃するのは、これで二度目。朝の8時前といっても曇天だ。夜明けのころの明るさしかない。そんな天気がキジとリスを林道に誘いだしたのだろうか。早起きは三文の徳。ピンボケでもうれしい写真が撮れた。

いわき総合図書館再開


震災復旧作業のために閉館していたいわき総合図書館が、5月30日、再開した。「3・11」から80日間、調べものがほとんどできなかった。それどころではなかったにしても、図書館閉館はこたえた。ともかく、これで“知の森”へ分け入ることができる。長かった――が率直な感想だ。

図書館はいわき駅前再開発ビル「ラトブ」の4、5階にある。再開初日の朝10時ちょうど、エレベーターで6階に着く。10時になるまで、2~5階にはエレベーターは止まらない。待ちわびていた市民が5階へと下るエスカレーターの前に列をなしていた。

総合図書館の広報紙「YABINA(やびな)」に館長があいさつを載せている。「今回の大震災により市内6図書館すべてで図書資料が落下・散乱し、書架等も破損したほか、総合図書館では照明器具が損壊するなど、甚大な被害を受けましたが、幸いにも当時館内にいた利用者に人的被害はなく、無事に避難させることができました」

ユーチューブに震災時の総合図書館の様子が投稿されていた。書架から本がなだれ落ち、天井の蛍光灯が波打って落下する。利用者も、職員も生きた心地がしなかったろう。

復旧作業を続けていたさなかの4月11日、「3・11」からちょうど1カ月で強い余震に襲われ、再度、ほとんどの本が落下した。また一からやり直し。「賽の河原の石積み」を経ての再開だ。利用者も待ちに待ったが、職員も万感の思いで利用者を迎えたことだろう。

5階から入館する。と、偶然、顔を合わせた職員に地域資料展示コーナーへ案内された。「戦後いわき文芸出版の先駆け 氾濫社と真尾倍弘・悦子」展がこの日を期してスタートした=写真。「最初の観覧者です」。真尾悦子さんは「おふくろ」のような存在なので、利用者としては光栄だ、としかいいようがない。手がけた雑誌、詩・歌集などが展示されている。

別の一角では企画展「いわきの文学者――小説・評論・評伝・自伝編」も始まった。草野心平記念文学館が協力した。

「3・11」前に借りていた本を返し、二、三、調べものをして、新たに震災関係の写真集を借りる。午後に再び図書館へ出かけた。高校生たちであふれていた。

図書館に人が戻ってくると、「ラトブ」も“シャワー効果”でにぎわいを取り戻す。こうして少しずつ、日常の光景が広がっていく。そうあってほしい――と、年を取ってひねこび、かすれ、乾いた人間も期待を膨らませた。

2011年6月1日水曜日

詩人の街


詩人の草野心平(1903~1988年)が大学の卒業を待たずに中国から帰国したのは大正14(1925)年7月。それから少したったころの平の街の様子。

「第三回の帰国そして現在に至るまでの平、此の間、上げ潮のやうに精神が盛りあがってきた。生っ粋の平っ子中野勇雄は小林直人君と共に『乾杯群』を創めた。/やや、遅れて石川武夫君が『オムブロ』を創めた」

「高瀬勝男、松本純一君が『路傍詩』を創めた。平附近の詩人が平の電柱や塀に詩をはりつけて警察の問題になった。一ト月一度の集会朗読講演などが平詩の会の名目の下に続々矢つぎ早に行われていった。/そして合併誌『突』の発刊、プロレタリヤ意識の濃化」

大正末期から昭和初期、上げ潮のように盛りあがって、「詩人がうようよと出てきて、平はまるでフランスのどっかの町ででもあるかのやう」な状況になった。(北海道の猪狩満直にあてた三野混沌のはがき=昭和2年1月9日推定)

その詩人たちのたむろする場所のひとつが、平・本町通り(二町目)の中野洋品店(中野勇雄の生家)。

「いわきの昔の写真を」となると、必ず登場するのが、空にそびえる尖塔をいただいた中野洋品店だ。故斎藤伊知郎さんは『いわき商業風土記』のなかで、こう書いている。大正7(1918)年に「ハイカラなトンガリ塔つきの洋館」が建った。「そのころ平町で一番見事な『モダン建築』―流石(さすが)、当代一流の器量人中野勇吉、でかしたと話題を呼んだ」

その建物が「3・11」でおかしくなった。東隣の「堀薬局」と「メガネの松本」も含めて、解体作業が行われている=写真(5月19日撮影)。きのう(5月31日)、ヤマ二書房本店に用があったついでに見たら、あらかたなくなっていた。

耐火レンガ造りの建物だったようだ。外観からはわからなかったが、解体過程でレンガ壁が現れた。当時としては頑丈な造りだったのだろう。

山村暮鳥が種をまいたいわきの詩風土から、三野混沌、猪狩満直、草野心平、中野勇雄・大次郎兄弟らが現れ、花を咲かせた。「トンガリ塔」の下を文学青年が行き交い、論争し、離合集散を繰り返した。全国的にも珍しい「詩人の街」の象徴的建造物が一つ消えた。