2012年3月31日土曜日

年度末で週末


年度末に週末が重なった。3月30日金曜日朝、春休み中の子どもたちが登校した。教職員異動に伴う離任式が学校で行われた。市役所では退職辞令交付式が行われた。

その一方で、内郷の知人の家では母屋・レンガ造りの蔵の解体準備作業が続く。「田山花袋の本が出てきた」というので、きのう(3月30日)も夫婦で駆けつけた。蔵は扉の上、2階部分がぽっかり空いていた。2階から荷物を出せないので壊したのだという。知人たちは連日の“蔵出し作業”でくたくたになっていた。

いわきの「大正ロマン・昭和モダン」を語るうえで興味深い資料が出てきた。これについてはいずれ報告したい。

その足で、いわき駅前のラトブ2階にある被災者のための交流スペース「ぶらっと」へ行く。30日正午で「ぶらっと」はラトブでの活動を終えた。4月1日からは駅東のイトーヨーカドー平店2階で活動を再開する。そのための引っ越し作業が行われていた。ボランティアが主役だった。

しばらく手伝い、いったん帰宅しあと、ヨーカドーへ出かけた=写真。「ぶらっと」もまた一種のテナントだ。荷物の運搬には買い物客のためのエレベーターは使えない。通用口で手伝いのボランティアと一緒に手続きを取り、バックヤードから荷物を運び、荷物専用エレベーターに乗る。商業ビルの、もう一つの“裏道”を歩いた。

ヨーカドー平店の「ぶらっと」は4月1日午前10時にオープンする。11時からはオープニングイベントとして、レイモミ小野フラスクールのフラダンスショーが開かれる。年度の変わり目、人にも、場所にも出会いと別れがある。

2012年3月30日金曜日

震災記録


いわき市が『東日本大震災から1年 いわき市の記録』=写真=をまとめ、隣組を通じて全戸に配布した。あれから満1年、「3月11日」が発行日だ。A4判、48ページ。「概要版」だという。

いわき市の基本情報と東日本大震災についての概要を記したあと、「記録編」として①震災発生から②大きな影響を受けた社会基盤③目に見えない放射線との戦い④復旧、そして、復興へ⑤震災からの主な経過――を追い、「写真編」として市のほかに市民、県消防防災航空隊、いわき民報社、小名浜機船底曳網漁協、磐城国道事務所などが提供した写真が載る。

市長の巻頭言。「記憶を風化させることなく、今後の教訓として後世に残すため、概要版として本誌を刊行」した。要するに、本格的な震災記録誌づくりも行うが、1周年の節目に「概要版」をまとめた、ということだろう。

昨年3月15日午後、私ら3家族は避難を始め、同23日午後、帰宅した。その間の足かけ9日間、いわきに関する情報が途切れた。それを「概要版」は埋める。たとえば、3月15日朝の動きを含む次の三つ。

ガソリン不足への対応=3月16日。「市は消防隊員など20人を郡山市へ派遣し、タンクローリー8台で市内11カ所の給油所にガソリンを供給した」。郡山まで行ったのは、いや行かざるを得なかったのは、原発事故のせいでいわきに車が入らないからだった。

安定ヨウ素剤の配布=3月18日~。「妊婦と40歳未満の市民を対象に安定ヨウ素剤を配布した」

「震災からの主な経過(~4月30日)」=新聞で言えば「ドキュメント」だ。3月15日午前9時半の記録。「小川町上小川字戸渡地区、川前町下桶売地区(志田名・荻)に自主避難を要請(国による屋内退避指示は、同日11:00発令)」。30キロ圏内でそういう動きがあったことを初めて知る。

「概要版」といえども、いわき市の公式記録だ。私には、さまざまな「そのとき」を語るうえで欠かせない「基本資料集」と映る。たぶん、ボロボロになるほどページを繰ることだろう。

2012年3月29日木曜日

自動車走行モニタリング


昨年11月15日にいわき市川前地区で自動車走行モニタリング調査が行われた。その結果を3月26日、原子力対策現地本部と県災害対策本部が発表した。福島民報、福島民友新聞(ともに27日付)、いわき民報(28日付)などが報じた。

川前町下桶売字荻付近で最大値が毎時4.48マイクロシーベルトだった。前回、昨年6月29日に実施した調査では最大値3.08マイクロシーベルト。1マイクロシーベルト以上も上昇している。でも、同じ川前でも西の方は数値が低い。最小値は0.09マイクロシーベルトだ。地形と風向きがそんな結果を生んだのだろう。

最大値を記録したルートは、グーグルアースの映像に描きこまれた道路網の右端、つまり一番東側だ。これを2万5000分の1の地図に重ねると、最大値を測定した場所がどこか、だいたい見当がつく。地元の人間が「スーパー林道」とヤユする「広域基幹林道上高部線」の終点近くだ。荻の集落からは少し離れている。

「スーパー林道」は標高200メートルの夏井川渓谷=牛小川(小川町)を起点、標高600~700メートルの山間部=荻(川前町)を終点とする。幅員5メートル、延長14キロ。アスファルト舗装の1級林道で、途中の外門(ともん)までは夏井川の支流・中川に沿い、その後は峠を縫ってほぼ真北に延びる。

起点の牛小川には亡き義父の隠居・無量庵がある。そこをベースキャンプにして、ときどき、「スーパー林道」を駆け上がる。田村市常葉町の実家への行き帰りに利用することもある。昨年6月8日には、個人的に「走行モニタリング」を試みた。

外門の集落を過ぎると、峠が何回か続く。その峠の線量を、車内で測った。最初の峠を除いてすべて2マイクロシーベルト近かった。終点の荻近く、道路標識=写真=のある付近まで来て「やれやれ」と思ったとたん、急に線量がはね上がった。対策本部の発表したデータのうち、最大値を記録した場所はたぶんその付近だろう。

福島民友新聞によると、数値が上昇した理由について県は「秋になり、落ち葉が堆積して水がたまるなどしたため」と推測している。一帯は主に杉山だが、「スーパー林道」沿いは落葉樹が目立つ。平坦なところはほとんどない。やはり落ち葉が原因か。

2012年3月28日水曜日

内郷へ


スペインのグラナダから里帰り中の知人の実家(内郷御台境)を訪ねた。3・11後の昨年4月11日、いわき市田人町を震源とする直下型地震で井戸沢断層付近と、東隣の湯ノ岳断層が動いた。そのとき、地割れが起きた。母屋の基礎がおかしくなり、蔵にも亀裂が入った。いよいよ取り壊すという段になってカミさんに声がかかった。

以前、ハマ(豊間)の知人から連絡があり、解体を翌日に控えた津波被災家屋をいわき市暮らしの伝承郷の職員と一緒に見たことがある。カミサンが伝承郷の事業懇談会委員をしていることもあって、共同で民具救出作戦を展開した。その延長線上で救えるものはないかと、マチ(内郷)の蔵=写真=をのぞいたのだった。

母屋は柱とコンクリート土台にすき間ができたり、基礎が沈んだりしていた。蔵もあちこちで縦にひびが入っている。蔵は、昔、味噌を醸造していたという旧家らしい重厚なレンガ造りだ。中には使わなくなった家具や道具などがすき間なく置かれている。2階は、どうやらハクビシンがすみついていたらしい。カミサンの話では排泄物が山のようにあった。

主に衣類を救出した。マイカーの後部座席を倒して積むといっぱいになった。伝承郷よりは古着リサイクルを手がけているザ・ピープルに贈った方が生かされる――そういう衣類が多いようだった。

湯ノ岳断層の影響が遠野・常磐地区のみならず、平のすぐそばの内郷まで及んでいた、という話を前に知人から聞いて、実は驚いていた。裏山の方まで延びているという敷地の地割れ、沈み込みを目にして、あらためて4・11の直下型余震の破壊力を思った。

2012年3月27日火曜日

置き土産?


3月はせわしなく過ごした。カミサンのいとこの葬式、伯母さんの葬式、いわき地域学會の総会・懇親会、中神谷南区の総会・懇親会、そのための準備、関係する雑誌や会報の校正……。

日曜日(3月25日)の午後、区内会の総会が終わったあと、区長さんが住民から相談を受けた。「ごみ集積所にテレビが捨てられている」。なんとかしてもらいたいという。総会が無事に済んでホッとしたと思ったら、初仕事が待っていた。保健委員(私)の出番だ。

翌日午後、現場を見に行った。小さなテレビが2台、ごみ集積所に置かれていた=写真。人や車が絶えず行き来する地域のメーンストリートではない。通りからは中に入った住宅密集地の一角。行きずりに捨てたというより、引っ越すので捨てた、あるいは燃えないごみとして出した――そんな印象を受けた。

まずは市に相談しないと。災害ごみ一掃の市民総ぐるみ運動や、放射線量を減らすための生活空間環境改善事業などでなじみができた環境整備課に電話したら、たまたま旧知の若い職員が出た。担当は「廃対課」(廃棄物対策課)だという。

そこへつないでもらい、事情を説明すると、すぐ動いてくれた。夕方、「テレビを回収しました」という電話が入った。保健委員としては素直に「ありがとうございます」という言葉が出た。

家電リサイクル法では、テレビなどの持ち主はリサイクル料金を負担しないといけない。「ブラウン管・液晶・プラズマ式テレビ15型以下・15V型以下」は1台1785円だ。これに該当するか。

区内ではときにこうした問題が起きる。人ごとではなく、自分たちのこととして動かないと前に進めない。そんなことをまた学習した。

2012年3月26日月曜日

「そのとき」の救急隊員


3月22日付いわき民報の連載記事「3・11東日本大震災から1年――あの日、あの時から」⑬を切り抜いた。記事は「1人でも多くの命を救いたい―。あの日、被災した沿岸部のまちに自分の命を顧みず、がれきの山を押しのけ、人命救助に従事する消防人の姿があった」という文章で始まる。

同社の東日本大震災特別報道写真集『3・11あの日を忘れない いわきの記憶』に「命をつなぐ決死の救助」と題した組写真が載る=写真

津波に襲われた直後の四倉のまちで、若い消防隊員が家に取り残され、けがを負った高齢男性をおぶって1階の窓際に現れる。それを、別の2人の隊員が受け止め、救出する――その瞬間を記者が撮影した。連載記事は、素足の高齢男性を抱えた2人の隊員の「そのとき」を伝えるものだった。

1人はそのとき、高熱を出して早退し、病院の待合室にいた。もう1人は非番だった。2人はすぐ職場の平消防署四倉分署に駆けつける。当直の若い隊員と3人で人命検索チームを組み、津波に襲われたまちに向かう。

「『こん中に足わりいおんちゃんがいんだよ』分署を出ると、血相を変え、若い男性が助けを求め、叫んでいた」「2階建ての家屋は傾き、周辺は押し寄せた津波で水たまりになっていた。その妻は数メートル先で手から血を流しながら、がれきでできた孤島の上にうずくまっていた」。その直後の救出劇だった。

救急隊員の3・11はあまり知られていない。「消防人として当たり前のことをしただけです」。メディアもそう受け止めているふしがある。実は、カミサンの親類に救急隊員がいる。春分の日にカミサンの実家へ線香をあげに来た。彼の3・11もまたすさまじいものだった。

非番で沖釣りを楽しみ、陸に上がった直後に大地震に襲われた。すぐ近くの職場に駆けつけた。ハマの合磯(かっつぉ)で避難を呼びかけた。「2人は救った」という言葉の裏に無念さがこもっていた。多くの人がそこで亡くなった。本人も間一髪で助かった。

新聞記事を切り抜いたのは、消防人としての使命感に心を動かされたからだった。同時に、親類の救急隊員の「そのとき」を忘れないためでもあった。

2012年3月25日日曜日

旧小川跨線橋


いわき市小川町の国道399号中島バイパスは2011年2月11日に全線が開通した。3・11のちょうど1カ月前だった。JR磐越東線に架かる新小川跨線橋の供用が開始されると同時に、旧跨線橋の通行が禁止された。

3・11までの1カ月間に二度ほど新跨線橋を利用した。直近は3月9日。夏井川渓谷の無量庵へ出かけ、そこで地震に遭遇したのでよく覚えている。

震源は三陸沖。宮城県北部で震度5弱だった。間もなく正午というとき、家(無量庵)のガラス戸がカタカタいい始め、次第に家全体が揺れ出した。急にグラグラッとくる感じではなかった。横揺れ、しかも長い。それが3・11の前兆とは夢にも思わなかった。

この1年間、新跨線橋を通ったらそのままバイパス終点へと直行していた。が、どうも面白くない。行きはバイパスなら帰りは一筋町の旧道を通ろう、先に旧道を利用したら帰りはバイパスへ出よう――なにより、旧道の家並みの奥には草野心平生家がある。そうして行き帰りに変化をつけているうちに、もう一つのルートを“発見”した。

新跨線橋の手前の坂を右折し、ちょっと行って踏切を渡るとすぐ旧道に出る。バイパスを利用するより距離を短縮できる。バイパス建設事業者からすれば、一番使ってほしくないルートだろう。なにより跨線橋は踏切利用を減らすためにあるのだから。

旧跨線橋は片側の坂道が撤去されていた=写真。橋そのものはまだ線路の上に架かっている。いずれ橋も、それに続く坂道も撤去されるのだろう。第三の道を利用したからわかった“珍風景”ではある。

2012年3月24日土曜日

「ぶらっと」、4月移転


被災者のための交流スペース「ぶらっと」が、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」2階からいわき駅の東、「イトーヨーカドー平店」2階へ移転する=写真。「ぶらっと」は「シャプラニール=市民による海外協力の会」が運営している。ヨーカドーへ移っても運営主体は変わらない。

ラトブでの「ぶらっと」は3月30日正午まで。そのあと撤収・引っ越し作業に入り、4月1日午前10時にイトーヨーカドー平店で再スタートする。

シャプラは、もともとはバングラデシュやネパールなどで活動しているNGOだ。すでに40年の歴史がある。それを始めた一人がいわき出身の私の同級生。その縁で私ら夫婦はシャプラとつながってきた。

シャプラは3・11後、初めて国内支援に入った。北茨城での緊急支援活動を経ていわきへ北上し、以後、いわきを拠点にさまざまな支援活動を展開している。

この1年、なにをしてきたかはシャプラのHPに詳しい。いわきでの活動をつかず離れず見ている人間として、たまに手伝ってくれと言われる“半当事者”として、シャプラがいわきで実施してきたことは、掛け値なしに「ありがとう」である。

具体的には①災害ボランティアセンターの運営支援・コーディネート②一時提供住宅への入居が決まった被災者への調理器具セットの提供③夏休みのスクールバス運行支援④物資無料配付会――など。シャプラのテーマ「取り残さない」に沿った活動だ。

その延長で、シャプラは昨年10月9日、ラトブに交流スペースを開設した。いわきの被災者のみならず、双葉郡などからいわきへ避難している人たちも足繁く通うようになった。その「ぶらっと」がヨーカドー平店に移るわけだから、戸惑う人もいるに違いない。が、駅から歩いて何分だろう。5分? 10分? そんなところだ。

ラトブにしろ、ヨーカドーにしろ、一種の「企業メセナ」としての協力が交流スペース開設につながった。そういう認識を胸に秘めつつ、新しい「ぶらっと」へもちょくちょく顔を出すことにしよう。

2012年3月23日金曜日

花巡り


小名浜特別地域気象観測所(旧小名浜測候所)の梅が開花した。小名浜まちづくり市民会議が発表した。きのう(3月22日)のいわき民報で知った。測候所が無人化になって以来、同会議が市内在住の気象庁OBの協力を得て、梅と桜(ソメイヨシノ)の観測を続けている。

東北で真っ先に春が訪れるいわき市。それを裏づけるのが、生物季節観測だ。小名浜測候所が梅や桜の開花、ウグイスのさえずりなどの生物季節観測を続けていたからこそ、胸を張ってPRできた。測候所が無人化されてから、人間の目と耳による生物季節観測ができなくなった。で、梅と桜については同会議が観測を引き継いだ。

記事によれば、梅の開花は昨年より30日、平年より32日遅い。昭和28年の観測開始以来、2番目に遅い。これは、いわば公式記録につらなる準公式記録。個人的な生物季節観測となると、30日どころではない。わが散歩コースの梅たちを見る限り、平年よりまるまる2カ月は遅れている。

きのう朝、散歩コースは花巡りコースになった。畑のそばの梅は五分咲き、民家の庭の梅は七分咲き。別の民家の庭ではジンチョウゲの開花を確認した。その近くの民家では道端にヤブツバキが落花していた。「光の春と空気の冬」ではなく、「光と空気の春」を感じる穏やかな朝だった。

朝食後、生ごみを埋めに夏井川渓谷の無量庵へ車を走らせた。高崎(小川)の県道沿いにある梅が満開になっていた。その屋敷の梅は、暖冬なら1月には開花する。ここも2カ月ほど遅いのではないか。

夏井川の梅前線は高崎の上流、江田(小川)には到着したが、無量庵のある牛小川(小川)はまだつぼみ。代わりに溪谷ではマンサクとアセビが咲きだした。フキノトウもようやく頭を出して小花を付けている。花を求めてやって来たのは二ホンミツバチだろう=写真

わが家のある神谷(平)は標高5メートルほど、牛小川は同200メートルほど。その違いはやはりある。牛小川のジンチョウゲはまだつぼみが小さく硬い。

2012年3月22日木曜日

応急修理申し込み


津波の死者を慰霊する千人塚、少年時代に一時、四倉で暮らした明治の作家三島霜川、双葉郡の知的障がい者施設入所生の、千葉県からいわき海浜自然の家への“帰還”……。最近、四倉のことを調べたり、聞いたりすることが増えた。霜川の作品「ひとつ岩」の舞台となった海辺=写真=も歩いた。そうしたなかでの、いわき市四倉支所行きだった。

自宅が「半壊」の判定を受けたのに伴い、先日、市役所に出向いて国保税の減免や義援金支給などの申請手続きを済ませた。唯一残っていたのが「災害救助法に基づく住宅の応急修理」で、3月30日が申し込み受け付けの最終日。締め切りが迫ってきたことから、カミサンに急き立てられるようにして、きのう(3月21日)、市に申請した。

出かけた場所は窓口のある市文化センターではなく、四倉支所。なぜ支所へ? 平の人間なので、手続きは本庁・文化センターと思い込んでいる。カミサンが市の建築指導課に電話したら、文化センターは込み合っている、支所がお勧め、と教えられたのだという。

自宅から北の四倉支所に出向いて正解だった。その場で住民票と所得証明を取り、応急修理の申し込みをした。

コンクリートの基礎に亀裂が入った。道路側に少し沈んでもいる。それで、2階の部屋も床が沈んでいる。大型車が通ると、ドンと家が揺れる。3・11から日がたつにつれて揺れる回数が増えたような気がする。

それらを修理するために工事業者に見積もってもらい、内容を確認したあと、業者が市に見積書を提出する。要するに、市が業者に依頼し、一定の範囲内で応急修理をするという建前の制度だ。

工事代金はどこまでやるかによって変わってくるだろう。仮に100万円かかるとして、限度額52万円は市から直接、工事業者に支払われる。被災者はその残りを負担することになる。

3月も下旬になって、ようやくすべての申請手続きが終了した。帰りは、津波の直撃を受け、近くに設けられた大型テントで仮営業中の「道の駅よつくら港」へ寄って、野菜やら漬物やらを買った。せめてもの応援買いのつもりで。

2012年3月21日水曜日

墓参


「春分の日」のきのう(3月20日)昼前、カミサンの実家の墓参りをした。なぜか墓を管理してもらっている寺が二つある。こっちとあっちと、春と秋の年に2回は寺巡りをしなくてはならない。

墓(死者)と家(生者)とのつながりとしては、血系そのものの「主」があり、しかし血系は不明だが家として代々供養しでいる「従」がある。それでもねんごろに焼香し、花を手向けるという気持ちに変わりはない。

ふだんはどうか。死者のことはさっぱり忘れている。が、3・11以来、死んだ人間も、生きている人間も、自然も、かけがえのないもの、よりいとおしいものになった。

昨年は「原発避難民」になって春分の日に墓参りができなかった。その二日後に帰宅した。4月中旬、義父の命日に合わせて墓に参ったら、墓石があらかた倒れていた。

今年の彼岸の入りは土曜日(3月17日)、雨。翌日曜日、伯母の葬式が行われた。雨模様だった。一日おいたきのう(春分の日)は晴れ。カミサンの実家(平・久保町)に車を止めて歩いて寺へ向かった。久保町界隈は「寺町」。実家の前は墓参の車でごった返していた。

墓石はだいぶ復旧していた。が、墓石が消え、真新しい砂利が敷かれて更地になったスポットもある。廃墓、という言葉が浮かんだ。

カミサンの実家の墓も倒れたままになっていた=写真。理由があった。中心的な墓石が倒れて一部欠けたために、同じ石材を使って新しくつくることにしたのだという。墓石に刻まれた文字も再現するという。文字は、義父がわざわざ京都の本山の管長に願って書いてもらった。その書がどこかにしまってあるはず。探し出さなくては――という話だった。

墓参の人波にもまれながら、墓もまた復旧半ば、いやいわきの沿岸部以外では、墓地が一番3・11の被害を受けたのではないかと思った。

2012年3月20日火曜日

春分の日


昨年、2011年の「春分の日」は白河市の西方、西郷村の高原にある「那須甲子青少年自然の家」=写真=にいた。

3・11からすぐ福島第一原発がおかしくなった。水素爆発が連続して起きた。で、3月15日午後1時、2台の車に3家族が乗って避難を始めた。原発から遠くへ――国道49号、6号を経由して深夜に着いたところが、標高1000メートル前後の高原にある青少年自然の家。3月23日に帰宅するまで足かけ9日間、そこでお世話になった。

3・11は自然災害。大津波で沿岸部は壊滅的な被害を受けた。そこへ原発の水素爆発が襲いかかった。見た目は被害がそれほどでもなかったいわきの内陸部の住民も、3・12~15あたりにストレスのピークがきた。放射能を恐れて避難する人が相次いだ。「日常」の場と時間を奪われた避難所生活だった。

避難所で知人に会い、後輩に会った。そこで見たことのある人と、帰宅してから道ですれ違った。近所に住んでいながら知らなかったか、あるいはその後、近所に住むようになったか――いずれにしても同じ場所と時間を生きている人には違いない。その人も子や孫とともに避難していたのだった。

再び3・11が過ぎ、3・15が過ぎたら、かえって1年前を日替わりで思い出すようになった。1年前の3月16日は、17日は……。避難所という非日常の環境のなかで最大700人がひしめき、放射能の底なしの怖さに震えていたからこそ、一日一日が鮮明に頭に残っているのだろう。

きょうは「春分の日」。昨年の「春分の日」は避難所で迎えた。先祖の墓参りができないのをはるか西の山からわび、いわきの方に向かって手を合わせるしかなかった。

2012年3月19日月曜日

こて絵


いわきはハマ・マチ・ヤマに三区分される。ヤマのすそ野の里の話。そこにカミサンの親類の家がある。昨年5月、避難所で使われていた毛布を届けた。

3・11後、ハマの知人がしばらく避難所で過ごした。避難所が閉鎖されることになり、支給されて下に敷いていた毛布が不要になった。

親類の家では、伯母さんが野菜づくりをしていた。寒さから野菜を守るために毛布をかぶせることがあった。要らない毛布があれば欲しいと言われていて、前に一度届けた。カミサンがそれを思いだしたのだった。

その伯母さんが先日、95歳で亡くなった。10カ月ぶりに親類の家を訪れた。

親類の家には白壁の土蔵がある。白壁だけでも立派に見えるのだが、扉の両脇と高窓にはさらに「こて絵」が施されている(高窓のは「巾着」=写真)。建てられたのは幕末か明治初期かわからないが、文化財級の土蔵には違いない――門外漢ながら、贅を尽くした土蔵を見るたびに圧倒されたものだ。

その土蔵が3・11で激しく傷めつけられた。当主はどうしたものかと悩んでいたが、今度訪ねたら解体することに決めたという。「こて絵」は保存することにした。なんだか壁の崩落が進んだと思ったら、「こて絵」をはがしたためにそんな印象を受けたのだった。扉の右側の壁には「俵と白鼠」、左の壁は……思い出せない。

3・11後、歴史研究家などがボランティアで文化財のレスキュー活動を行った。いわき地域学會の若い仲間がそうだった。彼にならえば、土蔵は古文書や書籍、手紙などと違って「動かない史料」だ。こうした「動かない史料」の救出・保存が課題として浮かび上がった。保存と解体と、引き裂かれた実例を見る思いがした。

2012年3月18日日曜日

いわき清苑


カミサンの義理の伯母の入棺・火葬に立ち会った。大正5(1916)年生まれの満95歳。カミサンにとっても、カミサンのほかのいとこたちにとっても、親たちが亡くなったあとの唯一のオバさんだった。

火葬は「いわき清苑」=写真=で行われた。4年前の4月、「人生最後のステージ」が明るくモダンになってオープンした。その1年半後の2009年9月、元の職場の後輩が亡くなったとき、「いわき清苑」で最後の別れをした。2年半ぶりに訪れた。

待合室で軽い食事をしながら、喪主たちと話をしているうちに、東日本大震災にまつわる「いわき清苑」の話を思い出した。

1年前、「いわき清苑」では津波で亡くなった人たちの火葬が続いた。原発事故が起きて避難した遺族もいたために、全員がそろわないケースもあった。

いわきの新聞には毎日、お悔み情報がチラシとして折り込まれる。今も時折、1年前の3月11日を死去日とするお悔み情報が載る。それも2人、母子と思われるものだったり、夫婦と思われるものだったりするときがある。

先週、3・11から1年を前にして載ったのは、後者の方だった。春の彼岸が近づいたために、遺族が区切りをつけたのだろう。

オバさんの話に戻る。大正5年生まれだから、歴史に残る災厄を3回は経験している。

まず、関東大震災。それが起きたとき、いわき地方はどうだったか。四倉の知人から借りた本がある。吉野熊吉著『海トンボ自伝』。そのなかにこうある。著者はそのとき、12歳。

「――昼ごろ大きな地震だ。家の電灯はこわれるし、戸棚の上の物はみんな転げ落ちた」「驚いて私は外へ飛び出したが、他の家の人々も飛び出した」。その日の夕方、「西の空が真っ赤に染まっていたのを子供心に憶えている」。

震災で東京は火の海になった。それが、四倉からも見えた。オバさんはそのとき、7歳。内陸部の小川の人間だから、それを見たかどうか。地震もどこまでわかっていたか。

次は、太平洋戦争。20代後半で、妻として、母としてしゃにむに働いていたことだろう。そして、最晩年の東日本大震災・原発事故。94歳。

午後の日差しが差し込む「いわき清苑」のロビーで、オバさんの人生に思いをめぐらし、同時に3・11からまったく時間が進んでいない遺族が浜通りにはまだまだいる――そのことを忘れぬようにと、自分に言い聞かせた。

2012年3月17日土曜日

屋根のブルーシート


3月に入って、目に見える変化が起きている。といっても、散歩コースでの建物の話だが。民家の屋根のブルーシートが一つ、また一つと、姿を消すようになった。

夏井川の堤防に近い集落は、農家が主。家のつくりは重厚だ。そういう家にかぎって、3・11に屋根の“グシ”が壊れ、瓦が割れたり落ちたりして、ブルーシートをかぶるようになった。1年前、数が多すぎて全部の修繕が終わるのは2、3年先、といわれたものだ。それが、ここにきてピッチが上がってきたのだろう。

わが散歩コースで最も早く屋根瓦の修繕が行われたのは、去年の暑い盛りだった。その後は動きがなく、たまに瓦が葺き替えられるということはあっても、ブルーシートのままの光景が続いた。今も続いている。

かつてわが家の瓦を葺いた瓦屋さんが、秋に様子をうかがいに来た。その直後、瓦が1枚割れていることに気づいた。瓦屋さんに連絡したらすぐ来てくれた。軒下に瓦が保管されていた。そのことを家のあるじは忘れている。わが家に来るということは、瓦屋さんによっては葺き替えの仕事がなくなりつつあるのだな、と思ったものだ。

年が明けて、2月が来て、3月に入ったら、あちこちで修繕作業が始まった。きのう(3月16日)朝、散歩をしたら、別の家の屋根がきれいになっていた。はしごはまだかけられたままだった=写真。前日には、はしごはなかったから2日くらいですむところもあるのだろう。屋根からブルーシートが消えるのは、思ったより早いかもれない。

2012年3月16日金曜日

カモシカの話


いわき地域学會の若い仲間がわが家に来て話しているうちに出た話題。いわきの平地にニホンカモシカが現れたという。場所は草野小絹谷分校の近くの集落、市街地に程近い田園地帯だ。仲間を介して写真(芳賀利典さん撮影)の提供を受けた。

写真のデータを見ると、撮影したのは昨年12月3日。カモシカが芳賀さんの家の裏山に現れ、じっとこちらを見ているところをパチリとやった。ざっと3カ月半前の出現だから、今はどこへいることやら。

ニホンカモシカは国の特別天然記念物だ。低山地から亜高山にかけての落葉広葉樹林や混交林に生息するという。いわきにはいない。が、数年に一度、はぐれカモシカが目撃されて新聞の話題になる。平の奥山、閼伽井嶽にも現れ、ニュースになった記憶がある。ずいぶん前のことだが。

19年前の平成5年には、地域学會の別の仲間が川前町下桶売地内の路上で2頭のシカを目撃した。阿武隈高地からはシカが姿を消して久しい。野生のシカだとしたら、どこからやって来たのか。確か、福島市の養鹿場から中国産の梅花鹿が脱走したというニュースがあったばかり。私は、脱走シカではないかと思ったが、もとより確証はない。

夏井川渓谷の集落には晩秋、はぐれザルがカキの実を食べていたという目撃談が残る。その奥の奥、溪谷の両側、川前、三和では以前、ツキノワグマの足跡を見たなどという目撃情報が飛び交った。

阿武隈高地の大型動物はイノシシと思い定めていたが、クマについても意識のすみっこにおかないといけなくなった。阿武隈高地は、奥羽山脈とは阿武隈川で隔てられている。なにか川を越えて阿武隈の山に移ってくるような環境変化が起きているのだろうか。カモシカだってそちらの住人のはず。

なにはともあれ、山の神さまが阿武隈高地の舌先ともいうべき平地の丘陵にカモシカを使わしたのだ。

2012年3月15日木曜日

地盤沈下


東日本大震災で沿岸部は大津波に襲われた。地盤も沈下した。いわきでも砂浜が水没して狭くなった。波消しブロックが連なる新舞子海岸=写真=は、それで波音が高くなった気がする。砂に埋もれたブロックの間から護岸にまで波が押し寄せている。

ある飲み会で誰かが「沿岸は、50センチは沈んだ」と言った。みんながうなずいた。測ったわけではないが、見聞きしているからわかるのだ。

市街地のビルと歩道に段差ができ、橋と道路に段差ができて、修復工事が行われた。坂の上に橋がある――そんな印象の橋が多くなった。内陸部は10~20センチくらい沈んだか。

津波に襲われたために除塩が必要になったいわきの沿岸部の農地は、ネットの情報によると、北から新舞子の下仁井田・下大越・藤間・下高久、ずっと南に下って錦地区の計61ヘクタールに及ぶようである。

3月12日から18日まで、いわき総合図書館で開かれている「東日本大震災復興写真展」「ふるさとだより展」を見た。海水に浸かった新舞子海岸そばの田んぼの空撮写真があった。下大越~藤間あたりか。

4・11には、いわきの南部の断層が動いた。田人の山が崩れ、4人が亡くなった。田人のほかに、遠野・常磐地区などに地表地震断層が出現した。こちらは段差がメートル単位のところもある。ハマ・マチ・ヤマと3層に区分できるいわきだが、南部のヤマで大きな段差ができ、ハマでは地盤沈下が顕著になった。

先日、ハマの農村に住む友人が来ていうには、田んぼの用排水機能がおかしくなっている。もともと最下流の沿岸部にある田んぼだ。地盤沈下が起きて稲作に支障が出かねない事態になったか。マチの人間には想像もつかない問題が多々ある。

そんなことを考えていたら、きのう(3月14日)の午後6時すぎ、家が揺れて、北海道から岩手までに津波注意報が発令された。心がざわざわした。

「原発震災」紀元2年であることを、あらためて確認する。3・11から1年はたったが、それは3・11が2年目に入っただけ、ということなのだと。

2012年3月14日水曜日

ハクチョウたちの3・11


人間の3・11に気持ちがいって、鳥たちの3・11を忘れていた。鳥だけではない。キノコの、ミミズの、ミジンコの、ケヤキの、三春ネギの3・11がある。イノシシも、キツネも3・11を経験した。

自然災害だけなら、打ちのめされた気持ちもやがては希望に変わる。が、原発が事故を起こして放射能をまき散らした。土も、水も、空気も3・11のあと、違うものになった。この不条理は、人類が初めて経験するものだろう。

ハクチョウ=写真=たちの3・11を思い出した。きのう(3月13日)、いわき駅前の「ラトブ」2階にある、被災者のための交流スペース「ぶらっと」へ行った。東京に本部のあるNGOのシャプラニールが運営している。その帰り、夏井川の堤防に出たら、カミサンが言った。「ハクチョウはいるかな」。去年は3・11を境に姿を消したのだっけ。

夏井川白鳥を守る会のHPをのぞいて、3・11にハクチョウが中平窪の夏井川から姿を消したのを知った。その下流、わが散歩コースの塩~中神谷に逗留していたハクチョウもその日の午後、同じように姿を消した。

地震に驚いて飛び去ったと思っていたが、そうではなかった。下流の塩~中神谷でえづけをしているMさんの話では、津波が夏井川をさかのぼってきた。それに驚いて飛び去ったのだった。

夏井川を津波がさかのぼってくる。その高さは? 堤防の天端近くまできたという人がいる。としたら、かなり内陸まで逆流したことになるだろう。中平窪のハクチョウたちの休み場下流にはがっしりした愛谷堰、つまり低いけれどもダムがある。そこまで到達したかどうか。

中平窪のハクチョウたちは、津波が来て姿を消したわけではあるまい。中神谷のハクチョウたちは地震に驚き、次に津波が襲って来たために飛び立った。いずれにしても北へ帰る時期を早める大災害だった。

2012年3月13日火曜日

続・キャンドルナイト


3月11日の夜、豊間海岸にロウソクの灯がともった。堤防に沿って光の列ができ、メーン会場の海岸駐車場には「と」「よ」「ま」の文字が赤々と浮かび上がった=写真。津波で流された家の基礎部分にもロウソクの灯がともされた。

キャンドルナイトは、脚本家倉本聰さんが率いる劇団「富良野グループ」が主催した。3・11から1年。津波で亡くなった人を鎮魂し、豊間の復興を祈った。献花・献灯の列が続いた。メディアも多数詰めかけた。

メディアはしかし、どこまでキャンドルナイトの精神を理解していたか。倉本さんが主役ではない、死者が主役なのだ。どこのテレビ局だかわからないが、取材を終えて倉本さんと記念写真を撮るような感覚が、私には解せなかった。

メーン会場の「と」「よ」「ま」の飾りつけを担当したのは、知り合いの志賀大工たち地元の「とよま龍灯会」の面々。初めて聞く名前だ。地元の「若手」で急きょ結成したという。

大工のウデを生かして、板で「と」「よ」「ま」の三つの文字をつくり、斜めにセットした。高さはざっと2.7メートル。板には30段前後、木製の燭台が添えられた。ここにプラスチック製の透明な容器でつくったロウソク立てを両面テープで接着する。その数は一文字あたり100個以上。一番多いのは「ま」で300個近くあったろう。

ロウソク立ては、片方の容器の底を少し残してくりぬき、ロウソクを入れてから口と口を合わせて透明なテープでつないだものだ。そうすることで、簡単に着火でき、風で消えることなくロウソクの灯りが「と」「よ」「ま」の3文字になる。美術館の仕事を手がけている志賀大工らしい演出だ。本人はそれを「作品」と呼ぶ。

――3・11から1年の午後4時すぎ。ぶらっと志賀大工の作業場を訪ねたら、イベントの詰めの作業が行われていた。たちまち夫婦でロウソク立ての底に両面テープを張る仕事を手伝わされた。そのときの「龍灯会」の面々の問わず語りが重かった。淡々としゃべるからこそ、ずしりときた。

「去年の今ごろは……」。テープを張りながら、それぞれが遭遇した体験を語る。1年という時間が、少しは話者に落ち着きをもたらしたか。

大津波が押し寄せ、あたりはがれきの山と化した。ずぶぬれになり、血だらけになって歩いている人がいた。がれきの中で息絶えている人がそこかしこにいた。ある人は――1階がつぶれた家の2階から声をかけられた。「1階にばあちゃんがいんだ」「オレもおふくろを見に行かなくちゃなんねぇ、かんべんな」。ばあちゃんは亡くなっていた。

この人たちは“地獄”を見たのだろう。だから、心から死者・行方不明者の鎮魂を願っている。結束して動いていることがなによりのあかしだ。

キャンドルナイトは午後6時にスタートした。闇に浮かぶ「と」「よ」「ま」の3文字を眺め、小さくゆらめいている灯りのかたまりを見つめていると、気持ちが晴れてきた。「龍灯会」に交じって少しでもキャンドルナイトを手伝うことができた、という思いがそうさせたのかもしれない。死者の魂を鎮めることは生者の魂を奮い立たせることでもあった。

「こんなに明るいんだから、おばちゃん、(海から)出てきな」。そう口にする人もいたそうだ。死者にも、行方不明者にもロウソクの灯りは届いたのだと思う。

キャンドルナイトは午後8時に終わった。その前に帰宅した。と、雨、雷鳴。天からの鎮めの一発だったか、それは。

2012年3月12日月曜日

キャンドルナイト


きのう(3月11日)は午後2時46分まで、わが家にこもって「仕事」をした。おとといもそうだ。先送りしていた書類、たとえば「確定申告」がある。ほかにつくらなければならない資料もある。おとといは書類とにらめっこをし、きのうは資料を整理して、なんとかみられるかたちにした。

テレビはかけっぱなしにしておいた。どのテレビ局も3・11から1年がたつために、特番を続けている。テレビを見ていたら「仕事」にならない。でも、どんな番組づくりをしているかは知りたい。AM、FMのラジオもチェックすべきなのだろうが、耳も目も二つで一つ。テレビをサーフィンしながら過ごした。

2時くらいからNHKにしぼる。政府主催の追悼式が始まり、2時46分に時報が鳴った。こたつから立ち上がり、海の方に向かって黙祷する。その前に、テレビの奥の杉戸に張った去年3月のカレンダーに合掌する。1年前のそのときを思い出して息苦しくなる。

野田首相が式辞を述べ、天皇陛下のおことばを聞いたら、急に空腹感を覚えた。カミサンに「食べに行こう」と言うと「豪遊したい」。午後3時。車で5分もかからない国道6号沿いの「幸楽苑」へ行く。一番安い中華そばと、ギョウザ一皿を頼む。しめて1000円未満の「豪遊」だ。

日曜日だからそうなのかどうか。親が30代、40代と思われる家族連れが次から次へと入ってきた。レジで金を払うときに聞いた。いつもこう? 3時ごろはパタッと途切れるときがあるが、今日は違う、ということだった。私ら夫婦がそうだったように、「2時46分」を迎えたあと、外食をしよう、となったか。

「2時46分」は大震災の始まった時間。大津波はそれから少したってやってきた。豊間の、旧知の志賀大工の家へ様子をうかがいに行ったら、地元の人が何人かいて「キャンドルナイト」の準備に追われていた。その渦中に巻き込まれて、たちまち手伝う羽目になった。

神戸からやってきた「希望の灯」=写真=を会場に持って行ってくれとなって、いよいよ帰るに帰れなくなる。

キャンドルナイトは、脚本家倉本聰さんの呼びかけによる。倉本さんの演劇塾を卒業した豊間出身の女優の両親、祖母が津波で亡くなった。父親は志賀大工の同級生。で、地元の「若手」が裏方を引き受けた。志賀大工からその話を聞いていたので、なんとなく豊間へ足が向いたのだった。行ってよかった。あしたはその様子を。

2012年3月11日日曜日

1年がたった


とうとうこの日がきた。ゆうべ(3月10日)は飲んでやれと思った。が、カミサンに焼酎の一升瓶を取り上げられた。

そうだ、二日酔いで3・11を迎えるわけにはいかない。そんなことをしたら、亡くなった人たちに申し訳ないではないか。いや、そんな物言いこそが亡くなった人たちに失礼だ。

3月に入った途端に気持ちが落ち着かなくなった。やらないといけないことがある。なのに、それが手につかない。たかだか「半壊」の家の住人でさえそうなのだから、津波で家や家族を失った人たち、原発事故に追われた人たちは、呼吸が苦しくなるほどの思いで3・11を迎えたのではないか。

「鎮魂には死者の魂を鎮めると同時に魂を奮い起こすという意味もある」。J―CASTニュースの「被災地からの寄稿」欄をのぞいていて、胸に入ってきたフレーズだ。

岩手からの発信だが、そのフレーズを舌頭でころがしているうちに、魂が鎮められ、奮い起こされるのは、死者だけではない。生きている人間もまた鎮魂することで鎮魂されているのだ、と知った。悲しみとともにあなたたちの分も生きる、魂を奮い起こして――それがもう一つの鎮魂の意味なのではないか。

きょうもあちこちで鎮魂のイベントが行われる。でも、午後2時46分まではわが家で過ごす。

テレビの奥の壁、というよりインテリア代わりの杉戸に去年3月のカレンダーが張ってある=写真。3・11を忘れてはいけない、3・11を踏まえて生きねばならない、という思いから去年4月に張った。

2時46分がきたら、カレンダーに合掌し、海の方を向いて黙祷をする。それからだ、どこかへ出かけるとしたら。

2012年3月10日土曜日

表示が消える


散歩コースにある放射能の「リアルタイム線量計」の話を前に書いた。電源は太陽光。早朝、表示の消えているときがある=写真

そこは夏井川の堤防そばの「中神谷公園」。朝の散歩のついでに、必ず線量をチェックする。だいたい7時前後にはそこに着く。もう4、5回は表示なし、だ。なんだこの機械は――がっかりして、腹が立って、“白ポスト”をけっとばしたくなる(というのはうそだが)。

“白ポスト”は文科省のサーバに途切れることなくデータを送信している。ということは、雨天・曇天でもカバーできる蓄電能力はあるのだろう。ならば、表示だってと思うのだが、そこまでの力はないらしい。

住民としては不安になる。いや、違う。不安以前に信用できなくなる。いい加減な機械ではないのか。一日くらい太陽が出ないからといって表示が消えるほどヤワなのだな、こいつは――と考えたが、日中は復活している。夜も見に行ったら、表示が消えている。表示時間を制限しているのか。

いわき市内には420基のリアルタイム線量計がある。文科省のサーバにはデータが送信されているからいい、のではない、住民のための表示だ。それが消えているときがある、というのでは意味がない。夜明けとともに表示ができないのか。

きのう(3月9日)は雨。散歩を休んだ。きょうも雨。車をとばしてリアルタイム線量計の表示を見に行った。表示時間前だからか、消えている。文科省のHPをのぞくと、中神谷公園の6時半の線量は0.249マイクロシーベルト/時だった。

2012年3月9日金曜日

「冥途のみやげ」だなんて


小名浜の高橋安子さんから恵送いただいたコスモス短歌会福島支部の歌集『災難を越えて 3・11以降』を2月27日に紹介した。小名浜の知人が早速、ブログをプリントアウトして高橋さんに送ったらしい。こちらからのはがきへの返信を兼ねた礼状が届いた。

「コピーをして支部会員に配布するように手はずを整えました。みんなどんなに喜ぶでしょう。みんないい冥途のみやげとなります」。な、なんですか、「冥途のみやげ」だなんて。

はがきを読んで少しすまない気持ちになった。今もそれが尾を引いている。歌集に作品を寄せた22人のうち、8人の作品しか紹介しなかった。ブログの文章をいつもの分量に収めようとしただけだから、他意はない。優劣や好き嫌いでもない。

大地震・大津波=写真、そして原発災害。圧倒的な現実に、コスモス福島支部のみなさんはかろうじて短歌で向き合っている。

短歌によって支えられている。そういう人たちがいる。名もない人たちの、というより当たり前に暮らしている人たちの、心の記録。

前回紹介しなかった人の作品を次に掲げる。

がうがうと被災地にゆくヘリ続き空襲の記憶また改まる(安藤美江子)
大地震(おほなゐ)に病院壊れ長男がその心労か五十歳で逝く(池田康子)
テレビより被曝の報に山人ら育ちし野菜つぎつぎ倒す(岩沢ふじを)
この身一つ無事にあればと歩きたり津波の速さにただ驚きて(宇多妙子)

 おじいちゃん、耳をすませば草や木の歌が聞こえるよ
人棲まぬ町となりたるふるさとの木草にひくき声あらしめよ(尾崎玲)
三月の冷たき浪が胸にまで押し寄せたりとふ友らの街に(岸キク)
家ごもり二ケ月過ぎぬ思いきり五月の風に吹かれてみたい(紺野晴子)
大津波を逃れ帰郷の檜沢さん声ふるはせて体験を語る(砂土木一路)

客に茶を進めし直後畳浮き家鳴りて揺るこは何ごとぞ(髙松こと)
大揺れの直後ホールに釘付けで逃げるを知らず津波そこまで(長瀬慶一郎)
大津波に呑まるる弟夫婦をば助けえざりしとその姉嘆く(芳賀テル子)
昭和の世原子爆弾に戦破れ平成の世に再びこのざま(星源佐)

夢いっぱい詰まった赤きランドセル瓦礫の横にぽつんと一つ(松本真智子)
レトルトの粥ですまぬがあと少し飲み込みてくれ病みいる父よ(吉田葉亜)

2012年3月8日木曜日

堤防のスイセン咲く


3月に入って暖かく感じるときが何度かあった。余寒と春光の綱引きが続く。いや、今までは勝負にならなかったのが五分になり、春光がときどき余寒に勝るようになった、というべきか。夏井川の堤防にスイセンの花が咲いているのが目に留まった=写真。葉先が茶色いのは霜に焼けたからだろう。

河川敷のサイクリングロード沿いにもスイセンが植えられてある。さえぎるものもなく寒風が吹きぬける川辺だ。厳冬にはなかなか花芽をつけない。逆に、暖冬になると師走のうちに花が咲く。花が咲きだすのに2カ月以上も幅がある。今年はまれにみるほど遅い。

民家の庭のスイセンは、日だまりになっていることもあってか、ほぼ満開になった。それでも今年は遅れた。知り合いが持って来てくれたのだろう、スイセンが2輪、わが家のテレビのそばに飾ってある。ようやく露地の花が暮らしを彩るようになった。

スイセンよりも、まずは梅だ。「観光いわき」さんのブログによると、わが散歩コース・夏井川の対岸、名刹・專称寺は梅林で知られるが、ふもとの総門わきの梅が咲きだしたところだ。梅も今年は遅れに遅れている。前にも書いたが、散歩コースでもまだちらほらでしかない。

その專称寺に近い夏井川右岸にここ2、3日、かなりの数のハクチョウがばらけて羽を休めている。

きのう(3月7日)の朝は、そこかしこでグループが「コーコー、コーコー」と鳴き交わしていた。しばらくすると、気持ちがそろったのか、一斉に水面をけり出したと思うや、バタバタはばたいて空へ飛び立った。次から次にそうして空を舞い、どこかへ消えた。

人間も、部屋で石油ストーブをつけていると熱く感じるときがある。外を歩いていてセーターを脱ぎたくなるときもある。ハクチョウたちはそれ以上に春光を感じて北帰行の準備を始めたか。

2012年3月7日水曜日

そのときの線量は


数日前、長男が2011年3月11日から15日までの、福島県内7方部環境放射能測定結果(暫定値)をプリントアウトして持ってきた。外出していたので話はできなかったが、なぜ持ってきたかは察しがついた。

3月14日午前、福島第一原発3号機の建屋が水素爆発で吹っ飛んだころ、あずかった子ども2人、つまり孫を庭で遊ばせていた。暖かい南風が吹いていた。第一からおよそ40キロ離れているとはいえ、外で遊ばせた無知が罪障感となって今も胸を刺す。親子の確執の原因にもなっていた。そのときの線量はこうだった、という長男からのサインなのだろう。

それで今度初めて、じっくり当時の線量を見た。いわきの平常値は毎時0.05~0.06マイクロシーベルト。3月11日は、白河市のデータしかない。そこもほぼ平常値だ。

12日。午後3時半ごろ、1号機の建屋が吹っ飛ぶ。同8時に南相馬市の線量が急上昇し、同9時に20マイクロシーベルトを記録する。

13日。午前7時にいわきのデータが初めて加わる(県いわき合同庁舎駐車場で測定)。0.08。平常値よりやや高めだが、数値は夜まで0.09~0.07の範囲にあった。この日昼前、近くの平六小へ水をくみに行った。校庭は双葉郡から避難して来た人たちの車で埋まっていた=写真。11日夜にはもう避難民が到着していたという。

いわきの人間は、というより私たちが――だが、そういう異常な状況を目にしながらも、ピンとこなかった。隣郡にある原発がまるで見えていなかった。自治体が違うというだけで生存の危機への想像力が欠けていた。

14日午前10時=0.09、11時=0.08、正午=0.08。午前11時過ぎに3号機建屋が黒煙を上げて爆発した。いわきの数値はそれ以後も0.07~0.10の範囲にあった。原発周辺では陸から海へと西風が吹いていたのだろう。罪障感が消えたわけではないが、少し胸のつかえがとれる。

日付が15日に変わると、いわきの状況が一変する。線量が急に上がり、午前4時にはピークの23.72マイクロシーベルトに達した。以後漸減し、昼前には1マイクロシーベルト台に減る。この日午後1時、2台の車に3家族が乗って白河へと避難を始めた。

国道49号から須賀川へ抜け、国道6号を南下したが、かえってそちらの線量が高くなっている。最後は西郷村の那須甲子青少年自然の家にたどり着いた。情報がないからただ遠くへ――実際には放射能に追いかけられながらの避難だった。

2012年3月6日火曜日

東北まち物語紙芝居


広島の市民団体「ボランデポひろしま」が<東北まち物語紙芝居化100本プロジェクト>を展開している。その紙芝居公演が3月3日、いわき市で行われた。

広島からやって来た「一座」は、泉玉露(富岡町の応急仮設住宅)と中央台高久(広野町の第四応急仮設住宅)の2班に分かれて公演した。連絡がきたので、中央台の公演を見た。

開演時間の午後3時。会場の集会所が広野町のお年寄りでいっぱいになった。広野町に由来する紙芝居は「日之出松物語」と、童謡「とんぼのめがね」の2本。これに、広島で昭和21年の大みそかに開かれた第九のレコード演奏会にちなむ「第九伝説」、いわき市の「おな石伝説」=写真=も披露された。

3年間で100本の紙芝居をつくり、東北の人に届けるのだという。地道なプロジェクトで、いわきでは「おな石伝説」のほか、「星一」と「三函座」が紙芝居になる。いわき地域学會にも地元のNPOを介して依頼があり、歴史的な津波に材を取ったシナリオを仲間が書いた。

紙芝居の物語を書いたり、資料を提供したりするのは東北の人。それを受けて広島の人が紙芝居に仕上げる。紙芝居は地元の人に引き継がれ、地域活性化のツールとして役立ててもらう――というのが狙いだ。

話者は、ふだんは広島弁で話している。福島の紙芝居を演じるにあたっては、広島に住む福島県出身者に方言の指導を受けたという。「おな石伝説」に関して言えば違和感はなかった。上演後、広野町の人に、そしていわきの「おな石伝説」資料提供団体に紙芝居が贈呈された。新しいつながりが、またひとつできた。

2012年3月5日月曜日

木々の悲鳴が聞こえる


カミサンのいとこの葬儀に出るため、平・中神谷から夏井川を越えて市街地にある葬儀場へ向かった。そのときのことだ。道路沿いの家並みが途切れてぽっかり“空き地”ができていた。車を運転しながら“チラ見”をしてうめいた。木がすべて根元から切られている。遊園地だ。

そこは17歳のころ、しょっちゅう訪ねて本を借りた恩師の住まい(教員住宅)があったところに近い。いや、その集合住宅そのものだったかもしれない。ざっと45年前の情景がよみがえる。集合住宅の南も、東も田んぼだった。今は一帯が宅地に変わった。

木が伐採された遊園地は、そこだけではないようだ。遊園地のほかにも、中神谷~国道6号バイパス~いわきニュータウンへと向かう道すがら、ニュータウンに近い道路で刈りこまれた街路樹を見た。

バイパスの終点、ドライバーからすれば始点でもあるが、そこに斜面を利用した「草野の森」がある。

平成12(2000)年3月、地元の小学生らが参加してタブノキ・スダジイ・アカガシ・シラカシなどの照葉樹のポット苗が植えられた。人為が加わらなければいわきの平地の森はこうなるだろう、という「ふるさとの森」づくりだ。宮脇昭横浜国立大名誉教授が指導した。

密植・混植の競い合いが苗木自身の生きる力をはぐくむのだという。若木は成長し、林内が鬱蒼とした雰囲気になってきた。落葉樹のヤマザクラなども自生するようになった。毎朝、散歩の途中にこの森を眺める。

土曜日(3月3日)、バイパスを利用していわきニュータウン内にある広野町の仮設住宅へ向かったとき、その森の木々が業者によって剪定されていた=写真。理由はあれか、放射能か。としたら、あそこでも、ここでも――木々の悲鳴が聞こえる。

2012年3月4日日曜日

どこの雪山?


平の街の西方に阿武隈高地の山が連なる。夏井川の岸辺から見えるのは、北の水石山から南の湯ノ岳までのパノラマライン。3月3日・ひなまつりの朝、堤防に立って驚いた。山々がすっぽり雪に覆われている。これはいわきの山ではない、信州の山ではないか――そう言っても不思議ではないほど、ふもと近くまで雪で白くなっていた。

前日は昼から雨になった。平で人間の葬式に出たあと、夏井川渓谷で猫の葬式をした。雪にはならなかった。金曜日だ。夕方、川内村の風見正博さんがわが家に卵を持って来た。カミサンに「雪が降ってきた」という声が聞こえた。それで、雨が雪に変わったのを知る。夜の8時、庭を見たら雨になっていた。

平地(平)では、雪は降ったかもしれないが積もらなかった。山間部は万遍なく降ったから、道も、集落も白くなった? ともかくも、平から見える阿武隈の山々がここまで白くなるのは珍しい。何年かに一度あるかないかだろう。ちょうどハクチョウたちが中神谷の上空を飛び交う時間帯。雪山をバックにシャッターを押した=写真

この山々の白さを見て、逆に春が近づいていることを実感する。日にちは前後するものの、夏井川の河川敷でキジが「ケン、ケーン」をやり、モズのつがいが電線でなごんでいた。金曜日(3月2日)には、ウグイスの「ホケチョ」を聞いた。初鳴きだ。

生きものはそうして体で季節を感じるが、精密な機械は逆に雨雪に弱いらしい。中神谷公園にある「リアルタイム線量計」は、雨や雪が降ったあとは電光表示が消える。自前の太陽光電力が不足してそうなるのか。かろうじて文科省のサーバにはデータが送られている。太陽が出ないとたちまち表示が消えるようでは「信用できるのかい、これ」とならないか。

2012年3月3日土曜日

チャーが逝く


わが家の老猫「チャー」が3月1日の夜更け、眠るようにして彼岸へ旅立った。1年前、老衰のために後ろ足を引きずり、排便もきちんとできなかったのが、3・11後、人間が避難している間によみがえった。猫の身に奇跡が起きた。その神通力もおよそ1年で果てたか。いや、1年ももったというべきか。

福島第一原発の3号機の建屋が黒煙を上げて爆発した翌日、3月15日、本能的な危機感に突き動かされて、孫たちを連れていわきを離れた。チャーとほかの2匹の猫は、えさと水を用意して家に残した。足かけ9日後に帰宅した。避難先では、チャーは衰弱して息絶えているのではないか――そんな心配に沈んだ。が、現実は逆だった。

ちゃんと4本足で歩けるようになっていた=写真。排便もきれいにできるようになっていた。カミサンがすっくと立っているチャーを見て歓声をあげた。9日間は、人間は世話をしなかった。なぜかそれでチャーの生命力が復活した。わが家ではこの猫の奇跡がささやかながら、3・11後のひとつの希望になった。

でもやはり、である。夏から秋にかけて右目が白濁した。次第に動きもにぶくなった。体がやせ細り、毛のつやがうせた。そして、3月1日。なぜか、朝から外と家とを行ったり来たりした。

午後4時すぎ、カミサンが知人に教えられた。「家の犬走りに横たわっている猫がいる。死んでいるようだ」。チャーだった。死んではいなかった。タオルケットにくるんで抱き上げ、居間の石油ストーブのそばに置いた。いのちの火が消えかかっている。カミサンは死に水をとった。

チャーは、東京・八王子から長男に拾われてわが家にやってきた。猫年齢では13歳くらい、人間だと80歳は越えているか。交通事故に遭わずに寿命を終えた初めての猫だ。

きのう(3月2日)。昼前、カミサンの従兄の葬式に夫婦で出た。午後、チャーを夏井川渓谷の無量庵へ運び、夫婦で猫の葬式をした。夏井川渓谷の無量庵では毎夏、長男が学生仲間と合宿する。13年前、八王子で拾ったチャーを連れて来た。チャーにとっては初めてのいわきの地だ。奇跡の猫、ここに眠る――という墓標を胸に立てた。

2012年3月2日金曜日

3月になってしまった


中国・揚州市美術館で昨年11月8日~12月10日まで、いわき市の書家、石川進さんの現代水墨画展が開かれた。石川さんから先日、図録の恵送にあずかった。ほかにも後輩から、サクソフォンのジャズミユージシャンとして歩みだした娘さんのDVDが届いた。撮影したのは後輩。親バカを自認している。

ホンダからはフィットのリコール(無償修理)の知らせ。昨年11月に届いた。ほったらかしにしておいたら、2月にまた知らせがきた。運転席側パワーウインドースイッチユニットの構造・樹脂が不適切で、最悪の場合、外側カバーが発火するという。

そういえば、エンジンオイルをしばらく交換していない。目安の走行距離が書いてあるシールを見たら、だいぶオーバーしていた。あわてて交換した。

いわき地域学會の総会が3月24日に開かれる。その案内はがきを出す。住宅半壊に伴う書類、確定申告の書類は手つかずのまま。3月11日~7月11日まで4カ月間の行動記録、つまり福島県民の健康管理調査のための問診票もある。が、なぜか記入する気になれない。事務的にサッサッサッとできないたちなのか。

3月がくる。その前に礼状を書かないと、書類をつくらないと――。ばたばたやっているうちに3月がきた。3月になってしまった。

その最初の日、いわきのシンクタンク「いわき未来づくりセンター」から3月末をもって業務を終息するという手紙がきた。昨年11月末、同センターから食の地産地消を特集した研究誌「みらい」第12号が出版された=写真。頼まれて「『ネギの道』を考える」を書いた。その縁で、年明けに「みらい」が送られてきた。

3・11の影響がここにも及んだのか――「みらい倶楽部会員」あての通知文を読みながら、少々複雑な気持ちになった。

2012年3月1日木曜日

また春の雪


また春の雪だ。今年は4年に一度のうるう年、つまり2月29日がある年で、その日に雪が降った。

早朝、家の前の歩道の雪かきをした。7時15~25分ごろ、集団登校の小学生が家の前を通る=写真。その前にスコップと竹ぼうきで雪を払った。重く湿った雪で、車道は車の往来があるために、わだちとわだちの間がうっすら白くなっているほかは、びしょびしょに濡れている。雪は午後まで降り続いた。雪かきをした歩道もすぐ白くなった。

朝、小学生たちは雪玉を手にしたり、蹴ったりしながら、わが家の前を通り過ぎた。大人と違って子どもは目の前の状況を楽しむ才がある。校庭では雪合戦でもして遊んだのではないか。

集団登校が行われているころ、車体に「災害復旧作業実施中」と書かれた大型バスが通った。2月28日付小欄で紹介したバスだ。作業服姿の人が何人か乗っていた。200メートル先のコンビニの近くで止まり、人を乗せた。国道6号のバス停付近で止まっていたのは、「災害復旧作業」をする人を乗せて北へ引き返すための時間待ちだったのだ。

午後、「Listen!いわき」(東京で開催)と「Feel!いわき」(いわきで開催)の両方に参加した早稲田の大学院生が雪の中、わが家にやって来た。指導教授と学生も一緒だった。

常磐道は最初、いわき湯本IC~いわき中央IC間が雪で通行止めになった。時間通りに着いたのが不思議なので聞いたら、前日に電車でいわき入りして調査を進め、ビジネスホテルに泊まった。2日目、午前の調査を終えてやって来たのだという。いわきではタクシー2台で移動した。

聞かれるままに、自分のこと、いわき地域学會やいわきの地域構造、自治会、メディアのことなどを話した。「いわきは平・小名浜・勿来の3極とハマ・マチ・ヤマの3層の組み合わせ」ということを強調した。そうでないと、いわきを見誤る、そんな思いがあるからだった。