2014年5月31日土曜日

いわきの「あさイチ」

 おととい(5月29日)のNHK「あさイチ」で、ミニ特集<公開復興サポートinいわき>が放送された。

 25日の日曜日、いわき明星大を会場にNHKの13番組の公開収録が行われた。「あさイチ」はキャスターの有働由美子アナウンサーと、リポーターのタレント篠山輝信さんがトークショーを展開した。

 当日と、前の晩、いわきの中心市街地にある平・田町(飲み屋街)に2人が繰り出し、取材する様子が放送された。“突撃訪問”をした店は――とみると、なんと若いころよく出かけたおでん屋ではないか。アルコール抜きでおでんを食べているところがアップされた=写真。

 独身時代、アパートが一緒だったNHK記者氏がいる。私が結婚したとき、披露宴の司会を買って出た。その彼と同僚記者氏を加えて、ときどき田町で合流した。おでん屋で待ち合わせることが多かった。割と早い時間からやっているのと、料金が手ごろなのが理由だった。

 東京へ転勤した彼はその後、解説委員になった。プライベートでいわきへ来たとき、やはりおでん屋で再会の酒を酌み交わした。

 田町の一角に職場があった。目の前が飲み屋街だから、現役のころはちょくちょく紅灯の路地をさまよった。その田町も、今は日中、通り抜けるだけになった。誘われてスナックの扉を開けるのは、年に3、4回にすぎない。

「あさイチ」が突撃訪問をしたといっても、私にはNHK記者氏との思い出が強い店だ、ツボにはまりすぎている。まったくのアポなしではないだろう、地元スタッフから事前に情報を仕込んでいたのではないか、などとよけいな推測をしながら見た。

 おでん屋はコの字型のカウンターになっている。一番奥、トイレの側が“定席”だった。そこに「あさイチ」の2人が陣取っている。つい「オレの席だ!」とテレビに向かって叫んでいた。

2014年5月30日金曜日

蚊取り線香

 エアコンのないわが家では、暑くなると玄関や茶の間のガラス戸を開ける。と、庭からスズメバチやアシナガバチ、アマガエル、アゲハチョウ、時にはスズメ、野良ネコが入り込む。
 
 なかでも季節のバロメーターは蚊だ。最初にチクリとやられた日を記録してきたら、5月20日が多かった。今年は20日を過ぎたが、まだ刺されていない。日中はヤブ蚊、夜はイエ蚊。注意していると、先週末からブンブンやり始めた。
 
 日曜日(5月25日)、初めて蚊取り線香を焚いた=写真。去年の残りなので使っているが、ほんとうはのどを刺激しない別の蚊取り線香がほしい。

 植物の開花日、鳥・虫の初鳴日や初見日など、“生物季節暦”に興味がある。「初物ジャーナリズム」につかっていたせいだろう。春は梅の開花に始まり、桜の開花、ウグイスの初鳴、ツバメの初見ときて、5月にはオオヨシキリの初鳴、ホトトギスの初鳴をメモする。

 カッコウは、ホトトギスより早く現れるが、この30年ほどの間に鳴き声を聞いたのは2、3回しかない。

 そういえば――。しょっちゅう車で夏井川の堤防を通る。もうとっくにオオヨシキリがさえずっていいはずだが、まだ耳にしていない。ホトトギスも、まだ。

2014年5月29日木曜日

新緑の磐越東線

 夏井川渓谷を通過する磐越東線の列車(電車ではない)は、上下合わせて一日に9本。最寄りの駅は江田だ。わが隠居(無量庵)の前を通過する時刻は、その江田駅の出発時刻からプラス・マイナス3分といったところだろうか。

 時計代わりでもある。たとえば、いわきからの2番列車(下り)は朝9時1分に江田をたつ。無量庵の前を通過するのは同4分ごろだ。逆に、郡山からの2番列車(上り)は9時15分ごろ、隠居の前を通過し、同18分江田をたつ。そのあとは、午後1時半すぎまで列車の運行はない。列車が通過するたびに、今9時すぎ、今午後1時半すぎと、おおよその時間がわかる。

 4月末、V字谷は冬枯れた裸木が若緑や臙脂(えんじ)色のパステルカラーに染まりつつあった。1カ月後の今は、濃淡・深浅入り乱れた緑色に包まれている。その中を、2両編成のディーゼルカーが走る=写真。3両、いや4両のときもあるようだが、乗客はいつもまばらだ。
 
 5月25日、日曜日早朝。街から車で駆け上がり、隠居の庭で土いじりをした。朝めし前に1時間ほど体を動かすと、もうすることはない。カミサンは朝食後も庭に出て、スギナほかの草むしりに精を出した。私は家の中でラジオを聞きながら本を読んだ。

 列車は、午前中は上下各2本しかない。10時半ごろ、いわき行き3本目の列車が通過した。あれ、この時間帯にもあったっけ――一瞬、「?」が頭の中に点滅する。「青い列車が通ったわよ」。あとでカミサンから聞いて納得した。臨時運行のイベント列車にちがいない。

 後日、フェイスブックに「磐越東線新緑号」の写真が投稿されていた。車体が白と青のツートンカラーだ。カミサンが見たのはこれだった。

 5月24~25日、JR東日本水戸・仙台支社が、この列車を運行した。2両編成、全車指定80人とかで、午前は郡山からいわきへ向かい、午後はいわきから郡山へ戻った。

 郡山―夏井間は高原状の田園地帯を走る。夏井の先から小川郷の手前までは、急こう配の渓谷を縫う。トンネルと鉄橋が多い。「新緑号」にふさわしく、V字谷は万緑、いやその半分くらいの緑が目に優しかったことだろう。

 6月14~15日は、「新緑号」と同じタイムスケジュールで「ポケモン磐越東線号」が運行されるという。今度は無量庵の庭に立って、にわか「撮り鉄」になろう。

2014年5月28日水曜日

夏のカモ

 20代半ばまで、鳥といえばスズメ・ツバメ・カラス、声のウグイス・カッコウ・ホトトギスくらいしか知らなかった。そのころ、農家が青田を荒らすカモに困っている――県紙の社会面トップにカルガモの記事が載った。それを今も記憶しているのは、同業他社氏によるいわき発のニュースだったからかもしれない。
 
 この新聞記事がきっかけになったわけではないが、子どもが生まれるころ、いわきの自然を丸かじりしようと決めた。人間については、いやでも仕事のなかで知ることになる。自然については注意して見聞きしないとわからない。以来40年近く、いわきの海・山・川、鳥・花・キノコと向き合っている。鉱物や化石、昆虫などは、それを専門に研究している知人に聞けばいい。
 
 カモは冬鳥、夏にカモがいるはずがない――そんな皮相で、狭い知識しか持ちあわせていなかった20代の人間の蒙(もう)を、カルガモが啓(ひら)いた。別名、夏ガモ。水稲の苗を踏みつける、倒す、苗のもみ部を食害する。農家にとっては厄介な留鳥だ。
 
 そのカモを10メートルほどの距離から撮影した=写真。日曜日(5月25日)早朝、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へと、平地の田んぼ道を進んでいた。すると、右側の青田にカルガモ、左側の青田にコサギがいた。車中からそっと、望遠で右を狙い、左を狙った。

 6月に入ると、市街地でカルガモが営巣し、水辺へと親子で道路を横断する写真・動画がメディアに登場する。水田のない街なかでは愛らしいニュースだが、水田の広がる郊外では……。
 
「稲の苗を倒すなよ」と念じながら撮った写真を拡大すると、目に光が当たっていた。漫画の少女の目と同じで、ピントが合って生きた目になっていた。それもよかったが、なにより水面の“さかさガモ”に引かれた。たまにはこんな写真も撮れる。早起きしたからこその三文の得(徳)、というやつだろう。

2014年5月27日火曜日

二十日大根から始める③

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)で「週末菜園」を再開した。まずは二十日大根を縦4列の筋まき、カブを横4列5ポイントの点まきにした。種をまいてから3週間たった日曜日(5月25日)。二十日大根は緑の線になり、カブはようやくすべてが芽を出した。こちらは極端なほど育ちに遅速がある。

 本葉はどうか。二十日大根は双葉のほかに2枚、カブは同じく3~4枚=写真。こんなに生長が遅くていいのだろうか。いや、いいも悪いもない。太陽と雨と土と種の、現時点での“話し合い”の結果がこれ、なのだから。人間は少しそれに手を加えるにすぎない。

 除染で表土がはぎとられ、山砂が投入された。その一角に肥料を加えて小さなうねをつくった。表層はどうしても山砂が多い。乾燥しやすくて、貧栄養なところが、たぶん育ちの遅さと関係している。

 朝めし前に間引きと追肥をした。うねはまだ合わせて畳2枚半ほど。それでもたっぷり1時間はかかった。小指の先ほどの間引き菜は、みじんにしてすまし汁に散らした。淡い緑がいい彩りになった。
 
 1週間に一度しか手をかけられないからと、ついついがんばってしまいがちだが、それは体にもよろしくない。もともと手抜き菜園である。そのことを自覚して、涼しい早朝のうちに作業をすませ、日中は家の中でごろんとしている――熱中症予防の“朝活”も復活した。

2014年5月26日月曜日

ラジオの家

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)にはテレビがない。代わりにラジカセで放送を聞いたり、CDやカセットテープをかけたりする。

 きのう(5月25日)の日曜日は、朝起きるとすぐ家を出て7時すぎに隠居に着いた。NHK第一をかけた。「ラジオあさいちばん」から「音楽の泉」「日曜討論」「歌の日曜散歩」「のど自慢」と進んで、「日曜バラエティー」が終わるころ、隠居を離れた。午後3時すぎ、冬なら太陽が谷の尾根に隠れる時刻だ。

 朝めし前に土いじりを終えた。あとは自由時間だ。ラジオを聞きながら、竹山昭子『ラジオの時代 ラジオは茶の間の主役だった』(世界思想社、2002年刊)=写真=を読む。たまたま図書館から借りてきた1冊だ。走り読みしていると、大正~昭和初期の詩人多田不二(1893~1968年)の名前が目に留まった。
 
 ラジオは大正14(1925)年に放送が開始された。日本放送協会の前身、東京放送局がそれで、今のFMいわきと同じように新聞社がニュースを提供した。新聞記者経験のある多田が入局したのは、翌15年3月。
 
 その東京放送局が、大正天皇の容態悪化を受けて、宮内省から直接、情報を取るようになる。7日間で昭和元(1926)年は終わり、同2年2月に大葬が行われた。そのとき初めて実況放送を取り入れ、独自にニュース原稿をまとめた。その原稿を編集したのが、当時34歳の多田ら記事係だった、と著者は推測する。
 
 多田は茨城県生まれで、学生時代、磐城平に住む山村暮鳥と文通した。暮鳥の仲間の萩原朔太郎、室生犀星らとも交流があった。免疫学者で能作者の故多田富雄の大叔父でもある。終戦をはさんでNHK松山放送局長を務めた。
 
 暮鳥ネットワークにつらなる人間を調べている。そのネットワークは、いわきと茨城で、たがいに結ばれながら大きな房(クラスター)になっている。多田もまた茨城の房を構成する一粒の小さな実だ。
 
 最初は情報の断片にすぎなかったものが、また別の情報の断片とつながって、少し大きな実になる。「ラジオの家」だからこそ可能な<ながら読書>で、多田不二について思わぬ拾い物をした。

2014年5月25日日曜日

糠漬けはカブから

 カブを糠床に入れ、丸二日後に取り出して食卓に出した=写真。糠床の眠りをさましたばかりで、新たに加えた糠と塩がなじんでいない。しんなりしていい具合だと思ったが、少し塩分が強かった。一日半でよかったかもしれない。これも、やがて夏になり、乳酸菌の動きが活発になると、一日で漬かるようになるはずだ。

 糠床をならすために古くなった大根を捨て漬けにした。カブの葉も入れた。それとは別に、早く糠漬けを口にしたくてカブを漬けた。よく食べる糠漬けはキュウリだが、5月はなぜかカブというイメージがある。「自産自消」のカレンダーでは、ちょうど収穫期に当たるからだろう。
 
 今の糠床は3代目だ。家庭菜園を始めると、どういうわけか自産の野菜の糠漬けを食べたくなる。収穫期には余ってしまうので、飽きない工夫をするようになる。それで、糠漬けも――となったのだ。冬の管理が悪くて、二度、失敗した。
 
 今度の糠床は震災3、4年前につくったから、乳酸菌のいのちをつないで7年になるだろうか。お付き合いのある“おねえさん”の家に行ったら、冬も糠漬けをつくっていると言われた。わが家も1年を通してやってみるかと続けていたときに、大地震がきて原発が事故をおこした。避難している間に糠床がダメになりかけた。その話は21日に書いた。
 
 わが家では、私が漬物をつくる。夏は糠漬け、冬は白菜漬け。糠漬けは工夫次第というところがおもしろい。糠床は余ったカレーも、サケの皮も受け入れて分解してくれる。そうした“栄養物”の違いが、その家独特の味わいを生む。一日に一回、糠床をかきまわすことで気分転換にもなる。なにより手っ取り早く食べ物ができるので、飽きずに続けている。
 
 夏井川渓谷にある隠居(無量庵)で除染後、野菜づくりを再開した。糠漬けにはまずカブを、と種をまいたのはいいが、育ちがいまいちだ。きょう(5月25日)はこれから山へ柴刈りならぬ、カブの追肥に行く。双葉から本葉になっているとは思うのだが、さてどんなものか。

2014年5月24日土曜日

公開収録準備

 きのう(5月23日)朝、いわき明星大へ行くと、児玉記念講堂のわきに大型トラックが何台か止まっていた=写真。

 前に交流スペース「ぶらっと」で、NHKが同大を会場に複数の番組の公開収録をするので、希望者は事前に申し込みを――というチラシを見た。それにちがいない。帰りに、昼休み中のスタッフに聞いた。「NHK、ですか」「そう」。やっぱり。

 NHKは「被災地復興支援」のひとつとして、<NHK公開復興サポート 明日へ>を展開している。これまでに仙台、大船渡、石巻などで実施してきた。今回はいわき。あしたの本番に向けて2日前には準備に入る、という大がかりなものだ。

 講堂に横付けされた車から、建物の縁に沿ってケーブルが延びていた。反射的にふたつのことを思い出した。

 ひとつはこの目で見たことだ。去年(2013年)の11月下旬、NHK福島の午後6時台の番組<はま・なか・あいづ>のなかで、原発避難者、地震・津波被災者のための<まちの交流サロン「まざり~な」>が取り上げられた。生中継のために、午後2時過ぎには中継車がわが家(米屋)へやって来た。隣のコインランドリーの駐車場から家へとケーブルが敷かれた。これだけでも大変な作業だった。

 もうひとつは5月20日付の福島民報、「全電源喪失の記憶」(共同通信配信)で、最後にかたずをのんだ。福島第二原発の外部電源がひとつだけ生きていた。原子炉を冷やすために、よそから取り寄せたケーブルを人力で敷設した。その延長は9キロに及んだ。これにより第二原発は瀬戸際でメルトダウンを回避できた。

 収録される番組は「あさイチ」「Rの法則」「きょうの料理」「趣味の園芸」「福島をずっと見ているテレビ」「BS日本 のうた」など13。あすのいわき明星大は、アルバイトを含むスタッフ、出演者、見学の市民でNHK本局が引っ越してきたようなにぎわいをみせることだろう。

2014年5月23日金曜日

刺し身とあら汁

 あら汁は、数年前まではカツオ一辺倒だった。行きつけの魚屋さんから、ヒラメ=写真=もありますよ、ホウボウもありますよ、と言われて試しているうちに、濃厚なカツオだけでなく、淡白なあら汁にも引かれるようになった。スズキもさっぱりした味が好ましい。

 おととい(5月21日)、小名浜に今年初めてカツオが水揚げされた。夕方には食べられるかなと思ったが、行きつけの魚屋さんは水曜日が定休日だ。ここは我慢して日曜日を待つことにした。
 
 もう何回も書いているので気が引けるが、いわきに根っこを生やしたわけは、第一には結婚したこと、第二にはカツオの刺し身のうまさ、新鮮さに引かれたことだった。

 カツ刺しのうまさを二度“発見”した。最初は、カミサンの実家のすぐ近くにある、個人経営のスーパーから買ってきたカツ刺しが新鮮だったこと。二度目は、今住んでいる家の近くにあるスナックで、脂ののったカツ刺しに出合ったこと。阿武隈の山里で育った人間は、これがほんとのカツ刺しだと感激した。
 
 以来、初夏から晩秋までの半年間、日曜日の夜はカツ刺しで一杯という習慣ができた。今は径20センチ余の染付の“マイ皿”を持っていく。カツ刺しにはこの皿の藍色がよく合う。
 
 小名浜の船が漁獲した場所は、千葉県の犬吠埼南東約320キロの太平洋上だという。今年は不漁が言われているが、カツオの群れはやがて黒潮にのっていわき沖に現れる。あら汁もカツオで、ということが、今年も何度かありそうだ。むろん、上品な味のするヒラメやホウボウなんかも狙い目だが。

2014年5月22日木曜日

ホオノキの白い花

 夏井川渓谷はすっかり青葉に覆われた。よく見れば、まだ薄紫色のフジの花が垂れ、ミズキの白い花が葉の上に浮かんでいる。わが隠居(無量庵)の庭のホオノキも、白く大きな花をつけた=写真。長い葉が放射状にのびている。ホオノキの花はその中央で天を向いて咲く。真下からは見えない。
 
 日曜日(5月18日)、庭のはしからなにげなく周りを眺めていたら、隠居の屋根の上に1、2個、白い花が浮かんでいた。近距離でホオノキの花を見るのは初めてだ。大きい。香りも強いらしい。写真をパソコンに取り込み、拡大すると、花の近くに黒い点々があった。芳香に誘われてやって来た虫たちが羽音を鳴らしているにちがいない。
 
 昨年(2013年)の師走に行われた除染作業では、折れたキリの太い枝と根がはがれてかしいだ高田梅が除去されたほかは、庭木はそのまま残った。花は高田梅からはじまり、カエデ、シダレザクラ、コバノトネリコが終わって、今はホオノキ、キリが花盛り。エゴノキはこれからだ。
 
 大きなニュースが飛び交っている。パソコン遠隔操作の青年が墓穴を掘って保釈を取り消された。きのう(5月21日)は大飯原発3、4号機再稼働差し止めの1審判決が出た。事故をおこした福島第一原発では、海への地下水放出が始まった。
 
 そうしたなかで、朝日の特報「吉田調書」第2弾と、共同の調査報道「全電源喪失の記憶」をじっくり読んだ。共同の連載記事では、東電本店の緊急事態に対する認識の甘さ、想像力の欠如に腹が立った。東京にある本店と原発との距離が離れすぎているから、そうなるのだ。東京は福島の現場を全然わかっていない――。
 
 カッカしたときには庭の草花を見ることだ。といっても、きのうは嵐に近かったが。

渓谷のホオノキはやがて果実をつける。果実にはマーブルのような種子が眠っている。せめて渓谷へ出かけたときには、そうしたものに目を見張る「センス・オブ・ワンダー」で自然と向き合いたい。

2014年5月21日水曜日

糠床の眠りをさます

 そうだ、帰ったら糠床の眠りをさまそう。ほんとうは大型連休後半のいずれかの日、糠漬けを再開したかったのだが、忙しさにかまけてずれこんだ。新「ぶらっと」での茶飲み話で、<なにがなんでも、きょうやるんだ>という気持ちになった。

 糠床は甕のなかで食塩のふとんをかぶって眠っている。きのう(5月20日)、そのふとんを取り除き、新しい小糠と食塩を加えてかきまぜた=写真。
 
 ――いわき駅をはさんで、東側のイトーヨーカドー平店から西側のスカイストアへと、交流スペース「ぶらっと」が移転してから1カ月半がたつ。きのうの夕方、「レッドワーク」のサークルに関係しているカミサンを迎えに行って、茶飲み話に加わった。

 双葉郡から原発避難をし、今はいわきに住む若い女性スタッフ、大地震で家が被災し、借り上げ住宅で暮らす女性利用者、そしてわれら夫婦の4人だ。いつの間にか漬物と糠床の話になった。

 女性利用者の家は地震のとき、近くのトランス(変圧器)が壊れて停電した。冷蔵庫のなかのものが腐敗し、祖母から母が、母から自分が受け継いだ糠床もダメになった。

 思いだした。「震災と糠床」ではこんなことがあった。1つはわが家の糠床で、原発避難をしている間にダメになるところだった。
 
 10日前後、人間の手が加わらず、酸欠状態だったので、表面にアオカビが生えた。アオカビ層は1ミリ程度だった。胞子が飛ばないように、慎重にお玉で糠みそごとアオカビをかき取り、布を濡らして甕の内側をきれいにしたあと、よくかきまぜた。ぎりぎりでわが家の糠床はふんばり、生き延びた。

 もう1つ。浪江町の糠床がいわきにやって来た。ある町民が、原発がおかしくなって、浪江から東京へ避難した。一時立ち入りの際、家から糠床を持ち出した。冬場は食塩を敷き詰めて休眠させていたのだろう。東京へ持って行くのは断念して、いわきに住むいとこに糠床を託した。こちらは祖母の、そのまた祖母から続く糠床だ。

 双葉郡全体ではどのくらいの糠床が救出され、ダメになったか。何代も引き継がれてきた糠床は、それ自体、生きた文化財だ。原発事故で庶民の食文化はずいぶんやせ細った。

行政は「糠床再生」を施策の1つにしてもいいのではないか――糠床の眠りをさましたちょうどそのとき、今は楢葉町の情報発信の仕事をしている元「ぶらっと」スタッフが顔を見せたので、そんなことを話した。糠床はきっと、避難中の町民の健康と生きがいのもとになる。

2014年5月20日火曜日

漫画「いちえふ」

「竜田一人」はもちろんペンネームだ。「たつたかずと」とルビがふってある。「たったひとり」とも読める。楢葉町のJR常磐線竜田駅がペンネームの由来だとか。2014年4月下旬に発売された漫画『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(1)』(講談社)の作者のことだ。

 漫画は、いわきの宿舎から「いちえふ」の事故収束作業に通う作業員の日々をつづる。現実に「いちえふ」へ通っているいわきの人間に聞くと、「漫画は正確、周りの人間はみんな買って持っている」という。

 今、「いちえふ」ではどんな作業が行われているのか、作業に携わっている人間の心情は?――「手負いの原発」がいつまた暴走を始めるかわからない、と危惧しているいわきの人間には、とにかくそのへんが大きな関心事だ。暮らしの場ではいちいち原発の話をしなくなったが、それは風化ではなくて、問題が胸底に根を張るほど深化したからだ。

 収束作業の実態がマスメディアからは見えてこないだけに、ハッピー著『福島第一原発収束作業日記 3.11からの700日』(河出書房新社)が出れば読む。今度も、東京へ行ったついでに東京駅構内の本屋で、たまたま店頭に平積みされていた『いちえふ』を見て買った。
 
 本筋ではないかもしれないが、いわきの国道6号を北上し、波立海岸で作業員が朝日を迎え、感動するシーンに感動した。
 
 未明に出発する。「クソ狭い車におっさん5人では夜明けのドライブなんてロマンチックなものには程遠いが……」「それでも途中で見事な日の出を拝めたりもするので、いやーありがたい」「今日一日の安全を祈願する」=写真。
 
 朝4時半。波立海岸の弁天島を射抜くように、水平線から朝日が立ちのぼってきた。「おおー 今日も見事たいねー」と一人が言葉を発する。同海岸は初日の出の人気スポットだが、それと知らずとも神々しい瞬間に遭遇すれば、自然と手を合わせたくなるのだろう。
 
 作業員諸氏が過酷な作業現場へ向かう途中、海の日の出に癒されていることに救われると同時に、霜山徳爾(とくじ)訳のV・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房、2000年新装判)に出てくる夕焼けのシーンを思い出した。絶望の中にも自然は人間に希望の光をもたらす。
 
 ナチスドイツによって強制収容所に入れられたユダヤ人が、労働に疲れてバラックの土間に横たわっていると、仲間の一人がみんなを外へ呼び出した。

「われわれはそれから外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。(中略)感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に『世界ってどうしてこんなに綺麗なんだろう』と尋ねる声が聞こえた」

「いちえふ」は今や、世界で最も過酷な労働現場のひとつにちがいない。われわれ市民の命運はその作業員たちのウデと士気にかかっている。漫画はその現実をありのままに伝える。いわきの方言も正確だ。

 過酷な現場の内実を伝える共同通信の連載「全電源喪失の記憶 証言福島第一原発」の<第3章制御不能>がきのう(5月19日)、福島民報で始まった(福島民友新聞も、だろう)。なにかの読み物に似ているなと思っていたが、共同版「プロメテウスの罠」だった。

 その「プロメテウスの罠」の朝日新聞はきょう、政府事故調の「吉田調書」を入手したと大々的に報じている。「原発撤退は所長命令違反/所員の9割 福島第二へ/震災4日目の福島第一」という見出しが躍る。マスメディアの底力を感じさせる仕事ではある。

 それらマスメディアの仕事、フリージャーナリストの仕事に合わせ、内部からの漫画「いちえふ」などを加えて、福島第一原発の「そのとき」と「今」をできるだけ頭の中に“3D”化しておきたい――また避難?などという事態が起きないことを祈りつつ、しかし最悪に備えて。

2014年5月19日月曜日

二十日大根から始める②

 除染で山砂が敷き詰められた、夏井川渓谷の隠居(無量庵)の庭で野菜の栽培を再開した。家庭菜園を始めた18年前の“原点”にかえって、少量多品種栽培、つまり野菜のパッチワークをする。そのために少しずつ、うねを復活させることにした。

 大型連休後半の日曜日、5月4日に二十日大根とカブの種をまいた。収穫まで短期間なのと、あまり手をかけなくてもすむのが理由だった。そのことは小欄の5月6日付「二十日大根から始める」に書いた。
 
 きのう(5月18日)見たら、むむむ……。2週間もたっているのに、3~4日後の発芽状態となんら変わりがなかった=写真。問屋は簡単には卸してくれなかった。山砂は土よりきめが粗い。保湿力も低い。繊細な種の布団としては不向きなのだろう。
 
 同じ溪谷の上流・川前の気象データによれば、種をまいたあとは5、6日に計1.5ミリの雨が降った。9日5.0ミリ、12日0.5ミリ、13日4.5ミリと、4日に一度のペースでうねが湿った。それでもやっと13日の雨で芽を出した、そんな感じだった。
 
 二十日大根は筋まきにし、カブは点まきにした。二十日大根は緑の線ができた。まずまずの発芽率だ。が、カブは大半がまだ眠っている。カブの生育が悪い原因は乾燥と肥料不足だろうか。混み合っているところは間引きをし、たっぷり水をやった。次回は追肥だ。
 
 先週の日曜日は東京へ出かけて、手をかけてやれなかった。人間は手をかければかけるほどダメになるが、野菜はちゃんとこたえてくれる。手を抜きすぎては二十日大根も、カブもがんばれない。二十日大根は、なんだか“三十日大根”になってしまいそうだ。

2014年5月18日日曜日

小学校の運動会

 5月の大型連休が終わると、小学校の運動会が始まる。きのう(5月17日)は孫が通う小学校で行われた。4月に入学してから1カ月余。「園児」から「児童」に脱皮した1年生の様子を見に行った。
 
 保育所の運動会と違って、1~6年生がいるから数が半端ではない。ギャラリーの数も多い。最初は孫も、親たちもどこにいるかわからなかった。
 
 前夜、孫の母親から電話がかかってきた。駐車場(小学校に隣接する中学校)は満パイで、利用できない――歩けば20分はかかるだろうか。歩くことに決めたあと、行きつけの魚屋さんから学校まで近いことを思い出した。朝、店の駐車場に車を止めてから、「運動会なので」と若だんなに手を合わせた。

 前日午後、雹(ひょう)まじりの通り雨が降った。一夜明けると快晴。しかし、次第に風が強くなり、運動会が始まって間もなく、事故予防のために本部のテントがはずされた。

 前日の雨のおかげで砂ぼこりが舞うことはなかった。が、大玉をころがす2年生(たぶん)の競技=写真=では、何度か大玉が風に流された。孫が出た玉入れでも、カゴをめがけて投げているのに玉が次々と風に飛ばされた。
 
 自分の運動会、子どもの運動会、そして孫の運動会と、小学校の三つの運動会を経験した。夜9時すぎ、電話で「赤組が勝った」と孫が言ってきた。私たちが帰るころには接戦になったものの、赤組が負けていた。勝つ楽しさも、負けるくやしさも、それなりに学んだということだろう。

2014年5月17日土曜日

江筋の初夏のたたずまい

 小さいときのキラキラした記憶のひとつに、山里の暮らしと結びついた用水路がある。幅はせいぜい1メートル余り、深さは30センチほどだ。上・中・下水でいえば、中水としての利用だったろうか。水源は少し上流にある川で、堰(せき)を設けて水を引き込んでいた。今は3面舗装になっているはずだが、当時は素掘りだ。夏の夜にはホタルがきらめいた。

 母親に言われてザルに米を入れ、流れにひたしてといだことがある。野菜の泥も洗い流した。泥はすぐ沈み、白いとぎ汁もすぐ消えた。まさに「三尺流れれば水清し」だった。

 海に近い平野部のいわきで暮らすようになってからは、すまいからそう遠くはない山すその農業用水路(小川江筋)に心引かれるものを感じている。「江筋」は「疏水(そすい)」「用水」と同じだが、疏水ほど一般的ではない。ネットの辞書にも載っていない。

 おととい(5月15日)、カミサンが山すその寺に用ができたので、運転手を務めた。小川江筋が寺の前を流れている=写真。物を洗えるように、水辺に階段が設けられている。木々も水路を覆うように茂っている。車1台分の道が水路に沿って延びているところもある。

 小川江筋は江戸時代にできた。いわき市北部の水田を潤す大動脈だ。その水路と木々や小道、そばの家のたたずまいがなぜかなつかしい。日本の農村の、どこにでもある、人間が長年、手を加えることでできあがった、安定して美しい景観。

一帯が青田に変わりつつある今、小川江筋は大動脈らしくドクドクと脈打ち、輝いている。

2014年5月16日金曜日

2円切手

 4月に消費税が5%から8%に上がった。それに伴い、郵便料金もはがきが50円から52円、手紙が80円から82円に値上がりした。手元にある50円はがきには2円切手を張らないといけない。同じように、80円切手があっても手紙にはさらに2円切手が必要になった。

 きのう(5月15日)、日本古書通信社の編集者Oさんから「日本古書通信」2014年5月号が送られてきた。Oさんの被災地ルポ「震災後の文化振興――福島の博物館と古書店」が載る。

 震災1年を前に、いわきの若い古書店・阿武隈書房経営者の案内でOさんが取材に来た。2012年5月号のルポ「震災後1年レポート――福島、宮城の古書店界(上)」に反映された。その縁でまたまた恵贈にあずかった。

 今度もいわきの平読書クラブや阿武隈書房、岡田書店などの話が載る。前二者はつきあいがある。後者は家の近所に店があった。記事に出てくる双葉町教委のY君も知り合いだ。

「日本古書通信」はB5判、56ページ。第3種郵便だからか、料金は78円で届いた=写真。ただし、50円(オシドリ雄)・20円(レンゲソウと二ホンミツバチ)・3円2枚(ホトトギス)・2円(エゾユキウサギ)と切手が5枚張ってある。手間をかけて送ってくれたのだとわかる。

 いわき地域学會でも先日、市民講座案内の封書に2枚、あるいは3枚の切手を張って出した。知人からダンシャリの一環で未使用切手をたくさんもらった。古い切手も当然ある。金額がさまざまだから、規定の料金に合わせるにはかえって都合がいい。しかし、切手1枚ですむのはいつのことか。
 
 そういえば、8%の影響はバスにもあらわれていた。火曜日(5月13日)にバスを利用した。下りるときに料金箱にカネを入れたら、「お客さん、10円足りないですよ」。「エッ、いつ上がったの?」「4月」。バスを利用するのは、4月以降初めてだった。

2014年5月15日木曜日

白土大橋

 夏井川は、いわき市の平では市街地の北から東へ進み、再び田園地帯を蛇行したあと、太平洋に注ぐ。途中、同じ市街地の南を流れてきた新川が右岸で合流する。秋になると、合流地点にコハクチョウやカモたちがやって来る。

 わが家は、早くから平のベッドタウンとして宅地開発が進められた左岸の神谷(かべや)地区にある。対岸には甲塚、大国魂神社、旧浄土宗名越派本山・專称寺などが点在する。いわきの考古・歴史の“聖地”だ。

 聖地から少し離れた新川に、3月下旬、新しい橋ができた。5月の大型連休後半初日、近くへ行った帰りに初めて渡った=写真。橋の名前はなんだっけ、なんていう橋だっけ……。それから10日余り、悶々として過ごした。

 きのう(5月14日)午後、川をはさんで用事が二つできたので、名前を確かめるために寄り道をした。橋の銘板に「白土大橋」とあった。なるほど。地名の南白土と北白土を新川が分ける。南・北白土をまたぐ(つなぐ)から「白土大橋」か。

 橋はいわき市の都市計画道路内郷駅平線の東端に架けられた。神谷を起点にすれば、橋を渡って少し行ったところに葬祭場がある。今までは通夜・告別式へと、いったん街へ出てから反時計回りに車を走らせたが、これからは時計回りに行くことができる。そんなに時間が短縮されるわけではない。が、交通量が少ない分、気持ちが楽になる。

 葬祭場の先に、冬になると郡山の阿久津曲がりネギを売るスーパーがある。最近、建て替えられた。買い物がてらのぞいた帰りに、新しい橋を渡ったのだった。

 今のところは橋が架かって新しい抜け道ができた、といったプラスの感覚だが、やがて橋の存在が知られ、交通量が増えると、抜け道の価値は薄れてただの道になる。

2014年5月14日水曜日

駅弁とノンアル

 単独では4カ月ぶり、夫婦では2年ぶりの東京行だった。日曜日(5月11日)、常磐線の特急「スーパーひたち」を利用した。朝8時2分、いわき駅を静かに発車したのはいいが、相変わらず親切すぎる。湯本、泉、勿来、磯原、日立、……。停車駅が近づくたびに日本語と英語で案内放送が流れた。しかたない、朝寝の代わりに“朝読”をした。
 
 前の座席の背中にはめ込まれたテーブル板に、車内設備のあれこれが書かれてある=写真。各座席にコンセントがついていて、ノートパソコンが使える。忙しい人には便利だろう。そこまで仕事に追われているわけではない。が、今回はインターネットを利用して切符を買った。
 
 近くのオジの家の住人になった若い女性が家に来て、アイパッドで予約してくれた。駅にも出向いてくれた。切符は3割引きだった。アナログ人間でもデジタル社会に生きている、ネットで買えば安くなる――そんな当たり前のことをあらためて実感した。
 
 日帰りで、上野発午後6時のスーパーひたちに乗った。席を指定して切符を買っておいたので、車内をうろうろすることはなかった。
 
 この時間帯の楽しみは駅弁とアルコール。いわきに着けば車を運転しないといけない。カミサンは駅中で「稲荷ずし」を、私はホームで「深川めし」を買った。アルコールは、カミサンが缶ビール、私がビール味のノンアルコール。

 今年の正月、飯田橋で開かれた“日帰り新年会”でも、同じように「深川めし」の駅弁を食べた。「前も深川めしだったわよ」というから、2年前に出かけたときも同じ駅弁を買ったようだ。「鬼平犯科帳」の影響が大きい。

 ノンアルでも疲れた体にはほろ酔い感があった。筋肉がほぐれていく感じがした。列車自体も今回はだいぶ揺れた。それでほろ酔い感が増したか。

2014年5月13日火曜日

吉田重信の「光跡」

 いわき市の現代美術家吉田重信さんが、平で二つの個展を同時に開いている。ギャラリー界隈では「光跡」と題してアクリル絵画=写真=などの小品を、ギャラリーコールピットでは「光る虹」と題して森の木に虹色の光を映した大判の写真4点を展示している。界隈は18日、コールピットは24日まで。

 もう30年くらい前の話だから記憶があいまいなのだが、彼の師匠の故松田松雄から連絡がきて、何かの賞をもらったか、入選したかした「若者」の記事を書いた。家業が自動車整備工場で、事故をおこして壊れた自動車の部品を組み合わせてオブジェ化した作品が高い評価を受けたのだった。立体作品におもしろさと可能性を感じた。

 若者はその後、「インスタレーション」という空間、あるいは自然環境を相手にした作品に取り組み、海外にも知られる存在になった。東日本大震災を経験して、いちだんと活動の場・機会が増えたようにもみえる。いわきで支援活動を続けているシャプラニール=市民による海外協力の会とも“協働”した。

 展覧会にはいつでも行けると思っているうちに会期が過ぎていた、ということがある。「きょうこそは」と自分に言い聞かせて、月曜日(5月12日)午後遅く、界隈へ出かけた。

 イブ・クラインの青にも似た「臨在の光」は、東電の福島第一原発事故がおきて以来、見る側に特別な思いをいだかせる。発災前からのシリーズだが、1999年秋の東海村JCO臨界事故で作業員が見たという「青白い光」を連想してしかたがなかった。見る側がやっと作品に追いついたのだと思う。
 
 偶然、会場にコールピットのディレクター氏がいて、界隈のオーナーに紹介された。あとで初めて、そちらを訪ねた。写真専門のギャラリーで、月に一度くらいのペースで企画展を開いているという。
 
 こちらは、森の内部に水と鏡で太陽光を反射させ、虹色を映し出すインスタレーションの写真だが、ディレクター氏が独立した写真作品として評価したからこその企画展だろう。

1点は、樹皮がまだらに、複雑にはがれたリョウブ(方言サルスベリ)の木の幹を、光の虹が射る。時期的には今ごろの、生命力に満ちた森の息遣いが聞こえてくるような作品だ。じっと見ていると、幹のまだらが動き出すような感覚に襲われた。

2014年5月12日月曜日

東京ウオーキング

 きのう(5月11日)、カミサンが東京へ出かけ、「シャプラニール=市民による海外協力の会」の評議員会に出席した。道案内役を兼ねて同行した。東京は正月以来、4カ月ぶりだ。

 シャプラの事務所のある早稲田奉仕園で会議が開かれた。2年前の評議員会にも同じように同行した。記憶をたぐりながら、JR常磐線から山手線、東京メトロの地下鉄東西線を利用して、なんとか迷わずに着いた。

“難関”は東京駅とメトロの大手町駅までの長い通路だ=写真。表示に従って右に折れ、左に折れ、地下にもぐって、やっと改札口の前に出た。

 1年半前に体調を崩して散歩を中断した。足の筋肉が衰えているから、歩くスピードが遅い。若い女性はもとより、カミサンにも追い抜かれる。しかし、最近では最も長いウオーキングになった。このくらいの距離なら散歩を再開してもよさそうだ――そんなことを考えながら歩いた。

 東京駅も、上野駅も広く、深い。階段にはエスカレーターがついている。体調を崩して初めて、駅にはエスカレーターが必要なことがわかった。いわゆるユニバーサルデザインで、年寄りには、エスカレーターのない駅はエレベーターのない中層住宅と同じだ。

 東西線の早稲田駅で降り、穴八幡の前を左折すると、左手に早稲田大学戸山キャンパスが見えてくる。入り口に「地域社会学会」の大会開催を告げる立て看があった。いわきで震災調査を続けている若い女性研究者の顔が浮かんだ。彼女も大会スタッフとして来ているのではないか。たぶん来ている、そう思った。

 早稲田奉仕園はそこからすぐ向かい、右手の坂の途中にある。だらだら坂をのぼると、瀟洒な建物に囲まれた広い中庭に出る。イチョウの大木のそばのベンチで一休みした。行き交う人のほとんどが外国人だ。日曜日、青空、薫風、外国語――東京ウオーキングのゴールには、街の喧騒とは無縁の不思議な空間とゆるやかな時間が待っていた。

2014年5月11日日曜日

庭のエビネ

 きのう(5月10日)の夕方、いわき地域学會の仲間と会員への資料発送作業をしていたら、行政区の役員さんから電話がかかってきた。「◎班で赤十字の用紙が1枚足りないそうです」。午前中に隣組の回覧物を担当の役員さんに届けた。それがさらに班まで届き、ある班長さんがチェックしたら、班の世帯数より用紙が1枚足りなかった。こちらのミスか、新たに1世帯が加わったかのどちらかだ。近所の役員さんの家まで用紙を届けた。

 家を出るとき、庭の片隅にうっすら紫っぽいかたまりが見えた。エビネの花だった=写真。鉢物を買って露地植えにしたら、少しずつ数が増えた。今年最初のエビネの花に、腫れぼったい目が洗われた。

 大型連休が終わって、通常の暮らしのモードに入った。日曜日の5月4日は午後、夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の庭で除染後初の野菜の種まきをした。前後の3、5、6日は家に缶詰になって仕事をした。宿題の3つ、4つは片づけないと、と連休前に自分に言い聞かせた。珍しく、予定通りに事が運んだ。

 年度当初には行政区の役員会、地域の各種団体のメンバー選出、危険個所の検分と、波状的に仕事が押し寄せる。これに、10日ごとの回覧物振り分け・配付、いわき地域学會の事務局としての仕事、週に1回のおしゃべりの準備が加わる。

 ここ2~3日は、午前に区の仕事をし、午後に自分の仕事をする、あるいはその逆と、「なにもしなくていい時間」を楽しむゆとりがなくなっていた。きのう(5月10日)はそれで起きるとすぐ仕事にとりかかり、招待状が届いていた小学校の運動会を欠席した。
 
 パソコンに向かい続けているから、目薬が欠かせない。今は現役のころよりいっそう眼球が重く、腫れぼったい。加齢も手伝って、目から始まった疲労が体の節々にたまっていくようだ。
 
 そんなときに見た、妖しげできれいなエビネの花だ。ああ、エビネも自分の仕事をしてるんだな――なぜかそう思った。庭に出てぼんやり花をながめるくらいの時間はひねりださないと。

2014年5月10日土曜日

ヘボンの英和辞典?

 NHKの朝ドラ「花子とアン」の時間になると、珍しくカミサンがテレビの前に陣取る。いつもは台所に立っていて、朝ドラはほとんど見ない。ミッションスクールが舞台で、英語が重要な道具立てになっている。自分の青春時代と重なるものがあるのだろうか。

 今週(5月5~10日)の「腹心の友」では、エピソードのひとつとして、出版社でアルバイト中の花子の翻訳力が急場をしのぐ様子が描かれた。社員のたばこの火の不始末で翻訳原稿が燃える。翻訳に必要な辞書が手元にない。花子がいう。印刷所より学校の方が近い。学校の「図書室ならヘボンの英和辞書があります」。

 ヘボン(1815~1911年)とくれば、反射的に岸田吟香(1833~1905年)が思い浮かぶ。

 ヘボンは幕末に来日した宣教師、そして眼科医、言語学者だった。ヘボンに目の治療をしてもらった吟香は、ヘボンの和英辞典『和英語林集成』=慶応3(1867)年初版=の編集を手伝う。ヘボン直伝の目薬の製造・販売も手がける。それだけではない。日本の新聞記者の草分け、日本最初の従軍記者、目薬の広告をみずから考案するコピーライターでもあった。

 いわき駅前再開発ビル「ラトブ」の建設工事中に、磐城平城外堀跡から吟香が販売した目薬「精錡水」の荷札が出土した=写真左端。その話を何年か前、いわき地域学會の市民講座で聴いた。講師は同会顧問で考古学が専門の馬目順一さん。出土品からヘボンの目薬、和英辞典、岸田吟香、ヘボン式ローマ字と話題が転がり、それに刺激されて後日、ヘボンや吟香に関する本を読んだ。
 
 なにを言いたいか。花子が口にしたヘボンの辞書の話だ。ヘボンがつくったのは和英辞典だが、ドラマの原作、村岡恵理『アンのゆりかご――村岡花子の生涯』(新潮文庫、2011年)には、日本で初めての英和辞典は明治の初年にヘボンがつくった、とある。

 和英と英和では仕組みが違う。頭がこんがらかってきたので検索をかけたら、明治19(1886)年発行の第3版では、『和英語林集成』が『改訂増補 和英英和語林集成』になっていた。明治5(1872)年の改訂再版から英和の機能も備えていたようだ。してみると、ドラマが念頭においていたのはこの再版の辞典だったか。

2014年5月9日金曜日

入館50万1人目

 いわき市立草野心平記念文学館で、新年度最初の企画展「草野心平の詩 富士山編」が開かれている。開幕して2日目の日曜日(4月20日)に出かけた。8ページのパンフレットをめくりながら、「カエルの詩人」は「富士山の詩人」でもあることを、あらためて感じた=写真。
 
 パンフに「富士山 作品第肆(し)」は載っていなかったが、春のうららかな日にはときどき耳底に響く。<川面(づら)に春の光りはまぶしく溢(あふ)れ。……花環が円を描くとそのなかに富士がはひる。その度に富士は近づき。とほくに坐る。……耳には行行子(よしきり)。頬にはひかり。>

 2013年6月、富士山が世界文化遺産に登録された。そのことも企画展開催の動機になったか。

 大型連休最終日の5月6日、同文学館の入館者が平成10(1998)年7月の開館以来、50万人に達した。夜のローカルニュースを見て、カミサンが声をあげた。記念すべき50万人の入館者の隣に、知っている女性がいた。50万人目の男性の奥さんだった。
 
 4月7日、小学校の入学式に学区内の区長と民生委員らが臨席した。そのあと、場所を変えて両者の合同懇親会が開かれた。奥さんは民生委員の1人だった。
 
 自己紹介の言葉が忘れられない。よそから嫁いで長いが、いまひとつ地域にとけこめないでいた、地域のために何か役立ちたい、それで民生委員を引き受けた、と。そんな思いで地域と向き合っている人は少ない。こういう人を行政区の役員に迎えたいものだが……現実には欠員を埋められないでいる。

 夫が50万人目、本人は50万1人目。前後賞ではないが、50万1人目というのも乙ではないか。企画展のパンフに「メデタシ目出度しめでた志」と文字の入った富士山の絵が載っている。地域のために手をあげたからこそ、めでたいことが巡ってきたのだと、私は勝手に解釈している。

2014年5月8日木曜日

「お客さんが来てましたよ」

 新年度がスタートすると間もなく、行政区内の「個所検分」をやる。自分たちが住む地域を区の役員が見て回り、危険個所や道路の要補修個所の有無などをチェックして、行政に改善方を要望する。
 
 1年の間には、我慢の限度を超える“ほころび”が二つや三つは生じる。それを拾い上げ、住民の安全・安心につなげるのが「個所検分」の目的だ。今年度は連休明けのきのう(5月7日)午前に実施した。

 コースの最後に国道へ出た。歩道にせりだすように繁っている庭木がある=写真。何年か前に一度、春のいわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動に合わせ、区の役員が出て剪定した。

 そろそろ剪定しないと――となって、そばの床屋さんを訪ねたら、お年寄りがひとり、ソファに座っていた。「(女性店主が)どっかへ行ってていねぇんだぁー」という。客がいるのに店主がいないとは不思議だ。

 あとでまた床屋さんを訪ねることにして、先へ進むと、近くの県営住宅の角で女性が2人、座って話し込んでいた。役員の1人が「床屋さんだ」という。声をかけると、左側の女性が反応した。

「1人では何にもできなくて……」。木々の剪定に往生している。「根元からばっさりやってもいいですか」「いいです」。あっという間に剪定が決まった。「ところで、店にお客さんが来てましたよ」というと、「あらら」と慌てて帰って行った。

 近くに双葉郡をエリアとする信用組合の支店が避難してきた。支店から頼まれて、自作の俳句だか短歌だかを飾りに行くところだったらしい。手に短冊をいくつか持っていた。

 あわただしく、目まぐるしく動く世の中でも、地域の片隅にはゆるやかな時間を生きる人たちがいる。なんとなく心があたたまるようなひとコマだった。

2014年5月7日水曜日

岸辺のシロヤシオ

 その木が白い花のドレスをまとっているのを見たのは、震災後、初めてだ。夏井川渓谷の岸辺に1本、水面を覆うように枝を垂らしている。花の数の多さは、溪谷で随一といってもいい。

 4月のアカヤシオ(イワツツジ)の花が散り、V字谷を若葉が染める5月初旬、点々と斜面にシロヤシオ(ゴヨウツツジ)の花が咲く。毎年咲くとは限らない。咲いてもチラホラの年がある。今年は、花は例年より目立つほうだろう。

 そのシロヤシオは、渓谷を走る県道小野四倉線の対岸にある=写真。木々の若葉にさえぎられて、県道からはよく見えない。対岸の遊歩道からも若葉と岩盤に隠れて見えない。

 ちゃんと写真を撮ろうと思ったら、ガードレールをまたいで急斜面を下り、岸辺の岩場に出ることだ。そうして写真を撮ったのは、もう15年以上も前だろうか。

 日曜日(5月4日)、近くにある隠居(無量庵)で土いじりをした帰り、思い出して木の間越しにそのシロヤシオを見たら、満開だった。急斜面を下りる体力はないので、県道を行ったり来たりしては、かがんだり、立ったりしながら、花の全体が見えるところを探したが、そんな都合のいいスポットはない。

 はいつくばるようにガードレールのすきまからパチリとやり、トリミングをしたのがこの1枚だ。時折、通る車の運転手は、路肩で体をねじ曲げるようにしてかがんでいる男女に、「なにやってんだ、この2人は」と首をかしげたことだろう。何年かに一度目を奪われ、心が吸い寄せられる木ではある。

2014年5月6日火曜日

二十日大根から始める

 夏井川渓谷にある隠居(無量庵)の庭に、「畑おこすべ~」で畳2枚半ほどの“ベジパッチ”(家庭菜園)=写真=をつくり、二十日大根の種を筋まきにした。カブも3~4粒の点まきにした。

 大型連休後半2日目の日曜日(5月4日)。午前は平の立鉾鹿島神社の祭典に出席し、午後は溪谷で土いじりをした。祭り日和、畑日和だった。

 去年は、早春に市が庭の放射線量を測定し、全面除染が決まったため、野菜の栽培を中断した。

 それから半年以上が過ぎた初冬、菜園を含む庭の表土が5センチほど取り除かれ、山砂が投入された。庭の平均線量は地上1メートルで毎時0.24マイクロシーベルトから0.17マイクロシーベルトに下がった。雨樋の排出口などはやや高い。が、それを除けば地表面で0.15前後だろう。

 家庭菜園を始めて18年になる。荒れ地同然だった庭の片隅にスコップを入れ、クワを入れ、ツルハシを振り下ろして石を取り除き、ササタケの根を断ち切って、落ち葉の堆肥を入れてきた。少しは畑の土らしくなったと思ったとき、東日本大震災に伴う原発事故がおきた。
 
 昔野菜の「三春ネギ」、これは意地でも栽培を続けると決めて、自家採種・保存・播種・定植を続けてきた。ところが去年、除染が決まったことと、行政区の仕事が増えたこともあって、ほったらかしにしておいたら、ネギが雑草に負けてやせてしまった。こうなると採種はできない。まだ冷蔵庫におととしの残りの種が眠っている。これを秋にまいて希望をつなぐことにした。
 
 そのための気力を持続するのに、もう一度、ゼロから野菜づくりを始めよう――。18年前の“原点”にかえって、二十日大根とカブの種をまいた。野菜づくりには失敗を含めて前の経験が生きる。流行がない。季節のめぐるなかで、必要なときに必要なことをするだけだ。その時期を逃したばかりに、わが三春ネギは風前の灯になった。

 ただ、山砂は土より粗く、繊細な種たちの布団には硬くて重い。きのう(5月5日)はいい具合に雨が降った。とはいえ、砂がはじけて種がむき出しになっていないか、気になった。ここは種の生命力にまかせるしかない。

 家庭菜園の魅力はなんといっても少量多品種にある。まず2畳半を二十日大根とカブに充て、次の2畳半はサニーレタスに、また次の2畳半はニンジンに……といった具合に、ゆっくりゆっくり小さなスペースをつくっていく。
 
 元英語指導助手のオーストラリア人女性が、夫と無量庵へ遊びに来たことがある。夫から、向こうでは家庭菜園を「ベジパッチ」ということを教えられた。まさに少量多品種栽培は野菜のパッチワーク。そのための「ベジパッチ」再生でもある。

2014年5月5日月曜日

線路が参道に戻る日

 去年(2013年)初めて、近所の立鉾鹿島神社の祭典に出席した。5月4日(みどりの日)が例大祭の日で、社殿前から出発したみこしはためらいなく目の前の線路(常磐線)を横切り、氏子の待つ集落へと繰り出した。

 堂々とみこしが線路を渡っていく――。びっくりしながらも、そこはもともと参道ではないか、参道を行くのは当然だと、すぐ納得した。

 神社から南方の旧道(近世の浜街道)へとまっすぐ参道が延びる。たまたま明治30(1897)年に参道を横切って常磐線の線路が敷かれた。ふだんは当然、通行が禁止されている。ハレの日、5月4日だけはJR関係者が立ち会うなか、線路を往来できる。今年もそうして線路を渡った。

 わが家の斜め向かい、旧道沿いの参道入り口に神社名が刻まれた石碑が立つ。そのはるか奥に一の鳥居=写真=がある。二の鳥居は線路の向こう、社務所のわきに立つ。
 
 旧道沿いの家並みを抜けると水田になり、線路近くになってまた家が立ち並ぶ。きのう(5月4日)、参道を歩いていくと、休耕田が2枚、盛り土された田が2枚、目に入った。神社の祭典に出席した人の話だと、盛り土された田は戸建て住宅になるようだ。
 
 東日本大震災後、いわきでは大津波に襲われた沿岸部だけでなく、市街地でも建物の解体、建築・更地化が進む。住宅と田畑が混在するわが家の周辺も、時間の経過とともに風景が変わってきた。田畑のあとにアパートや戸建て住宅が立つようになった。参道の両側にもやがて、すきまなく家が連なることだろう。

2014年5月4日日曜日

祭り日和

 きのう(5月3日)、車の燃料計の針が半分近くまできたので、いつものガソリンスタンドへ寄って満タンにした。夕方の6時を過ぎていた。

給油中、なにやらにぎやかな音が聞こえてきた。道路に出てすぐ直角のカーブを曲がると、「愛宕花園神社」ののぼりが目に入った。ハッピを着た人や背広姿の人もいる。すぐそばに神社がある。みこしが町内の渡御を終えて帰ってきたのだろう。

 いわきに根っこを生やした人間だが、いわきのどこの神社ともつながってはいない。いつ、どこで、どんな祭りが行われるのかも、正確にはわからない。ただ、ゴールデンウイークになると、祭りが集中して新聞記者たちは取材に追われる――そのことだけが記憶に刻まれている。

 ちょうど田植えが始まる時期。春祭りは神に豊作を祈り、秋祭りは神に豊作を感謝する――そういうふうに単純に考える癖ができた。わが住む地域には大きな神社が2つあって、うまい具合に祭りの時期が春と秋に分かれている。そのことが大きい。

 いわきの中心市街地(平)でも、ゴールデンウイーク前半に通称「県社」(子鍬倉神社)の「渡御祭」が行われた。4月27日午後3時すぎ、たまたま西側の並木通りからいわき駅前再開発ビル「ラトブ」へ入ろうとしたら、そばの銀座通りでハッピ姿の男衆が一服していた。トラック積みのみこしが動き出すところだった=写真。

 この神社のみこし渡御には、大学生らがボランティアで参加しているはずだ。撮った写真をあとで拡大したら、それらしい若者たちがラトブの前の歩道に座り込んでいた。
 
 きょう(5月4日)は、近所の立鉾鹿島神社の例大祭が行われる。毎年、各行政区に招待状が届くので、午前10時の式典に合わせて出かける。ちょうどいい具合に前夜、おしめりがあった。空気中のチリが洗い流され、若葉がいちだんと輝きをました。6時、花火が2発。きょうもカラリと晴れて祭り日和だ。

2014年5月3日土曜日

4連休だが…

 ゴールデンウイークも後半に入った。暦の上では4連休だ。子どもが小さかったころは、何家族か集まってカツオパーティーやタケノコパーティーをしたものだが、今は静かに、おとなしく過ごすことが多い。

 平日は仕事、週末は休み――現役のころはおのずとメリハリがついていた。子どもが巣立ったあとは、土曜日になると街を離れ、夏井川渓谷の隠居(無量庵)で一人過ごすのが習慣になった。

 冬枯れた渓谷林にアカヤシオ(イワツツジ)の花が咲くと、いっせいに木の芽が吹きだす。谷間の急斜面が緑を主体にしたパステルカラーに染まる。今がその時期。無量庵のガラス戸を開け放し、こたつから真正面に据えられた緑の点描画をあかず眺める=写真。寒くもなく、暑くもない、しのぎやすい5月の連休の楽しみだ。きょう(5月3日)なんかは最高だろう。
 
 この連休に、泊まりがけで小旅行に出かける人たちがいる。休み返上で仕事を続ける人がいる。今年は私も、“宿題”だらけなので遊びほうけるわけにはいかない。あすは近所の神社の祭礼に顔を出したあと、山里へ出かけるつもりだが、大型連休が終わる時点で宿題の3つ4つは片づいているようにしないといけない。
 
 連休明けには田植えが進んで、郊外の風景が一変していることだろう。それと同じように、きょうと5、6日は缶詰になって自分の仕事をするぞ――4連休初日に宣言しておかないとなし崩しになってしまいそうなので、そう自分に言い聞かせる。

2014年5月2日金曜日

「全電源喪失の記憶」

 共同通信の配信で福島民報と福島民友新聞に、「全電源喪失の記憶――証言福島第一原発/第2章 1号機爆発」が載った。4月15日に始まり、29日に終わった。全国ではどのくらいの地方紙が掲載したのだろう。

 2011年3月11日午後2時46分、東北地方太平洋沖地震が発生する。巨大地震と津波で東電福島第一原発の全電源が喪失し、翌12日午後3時36分、1号機の建屋が爆発する。

 炉心溶融が進む中、菅首相がヘリで第一原発のグラウンドに降り立ち、やがて建屋爆発に至るまでのほぼ24時間を、関係者の証言でつづった。
 
 ただちに郡山市の自衛隊から消防車が出動する、福島の自衛隊からも消防車が出る――そのへんは、門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(PHP研究所、2012年12月刊)に詳しい。今回はその検証作業をマスメディアがやった。老若男女が目を通す新聞に記事が載った意義は大きい。

 4月24日付の10回目。原発の立地町である大熊町の原発担当課長の証言が載った=写真。3月12日午後3時半。全町民の避難がほぼ完了し、残っていた役場の職員も避難することになった。課長が車に乗り込み、役場を出ようとしていたそのとき、1号機の建屋が爆発した。「原子炉が止まりさえすれば、何とかなると思っていた…」。学校の後輩の悔しさ、無念さが伝わってきた。

 2012年5月。大熊町民を対象に、いわき市文化センターで政府主催の説明会が開かれた。たまたま道路向かいの市立美術館を訪ねて開催を知った。後輩が来ているにちがいない。文化センターに入ると、大ホール入り口付近にいた。黙って近づき、左手で背中をポンポンたたいた。後輩も同じようにした。それで十分だった。
 
 それから1年後の2013年5月初旬、定年退職あいさつの封書が届いた。「県内はもとより日本全国に影響を与え、大変なご迷惑をお掛けしたこと、今も継続中であることに重ねてお詫びいたします」

 発災直後、吉田所長以下、東電社員、自衛隊員らが命がけで原子炉の暴走を止めようと闘った。同時に、双葉郡の役場の職員たちは住民避難に奮闘した。

 門田本にこうある。「入れつづけた水が、最後の最後でついに原子炉の暴走を止めた――福島県とその周辺の人々に多大な被害をもたらしながら、現場の愚直なまでの活動が、最後にそれ以上の犠牲が払われることを回避させたのかもしれない」。その愚直な活動を展開したのは、地元福島の人間だ。

2014年5月1日木曜日

マツバウンランとお座敷列車

 いわき地域学會の総会が「昭和の日」(4月29日)に開かれた。準備があるので、早めに若い仲間の車で出かけた。途中、いわき駅に寄り道をした。構内に3両編成のお座敷列車が止まっていた。若い仲間がそれを撮影した。

 構内に隣接する駐車場に“撮り鉄”がいた。わが家の後ろの家の若者だった。しかも、地域学會の若い仲間とは職場が同じだ。情報を共有していたらしい。
 
 “乗り鉄”でも、“撮り鉄”でもない人間には、お座敷列車の価値がわからない。ただただ派手な色に感心するばかりだ。ピンクというより赤に近い色の車両には「雪」の字、紫色の車両は「月」とくれば、残る緑色の車両は「華」だ。日本の四季の自然美を象徴する「雪月花」である。
 
 郡山駅発で、田村郡小野町の「夏井の千本桜」を車窓と夏井駅のホームからながめたあと、いわきのスパリゾートハワイアンズに遊ぶ――というのが、旅のプランだったようだ。

 若い仲間が写真を撮っている間、周囲をブラブラしていたら、駐車場の入り口にマツバウンランが咲いているのが目に留まった。お座敷列車をバックに写真を撮った=写真。“撮り鉄”ではないから、花を主役にした。同じカメラを手にしても、撮り方は十人十色だ。

 マツバウンランは散歩コースにしていた夏井川の堤防にもみられる。北アメリカ原産の帰化植物だ。それが街なかの駅のそばにもあった。常磐線の電車が南から種を運んできたのだろうか。