2014年9月30日火曜日

宴の前と後

 7人のミニ同級会といっても、旅館や飲食店で開いたわけではない。夏井川渓谷にあるわが隠居(無量庵)が会場だ。飲む・食う・寝る・その他一切の準備・片づけを自分たちでやらないといけない。

 メーンは、冬以外は刺し身と決めている。行きつけの魚屋さんにカツオ・サンマ・イカの盛り合わせを頼んだ。ほかに豆腐やサラダ=写真、鶏のから揚げ、つまみ、浅漬け、おむすびなど。自家製のサラダ以外は、アルコールを含めてコンビニとスーパーから調達した。

 豆腐・から揚げ・サラダは、参加者の1人からメールで要望があった。昼食時、コンビニでよく購入しているらしい。サバの味噌煮も――とあったが、私が好まないのでそれは無視した。コンビニはすっかり年寄りにも欠かせない存在になったようだ。

 これまで何回も隠居でミニ同級会を開いているのでわかるのだが、60代後半になって、おおむね食が細くなった。おむすびが余り、から揚げが余り、アルコールが余った。「しゃべる口」は相変わらず達者でも、「食べる口」は年相応に衰えてきた。自分たちのことを1人が「中高年」と言って、みんなから「老人」と訂正される一幕もあった。

 カミサンから念を押されていたことがある。敷きぶとんには必ず敷布を使って――。1週間前にふとんを天日に干し、飲み会前日には隠居の掃除に行き、押入の前に敷布を出しておいた。酔って寝るころには、敷布のことはすっかり忘れていた。

 翌朝、5人がふとんをたたんで帰路に就いた。昼まで寝ていると宣言して飲んだ1人は、その通りになった。宴の夜のあとには頭痛の朝がくる。これもいつものパターンだ。調子がよければ、食器などはこの人間が洗ってくれるのだが、しかたがない。彼を見送り、カミサンにしかられない程度に片づけをすませてから、帰宅した。

2014年9月29日月曜日

水道「故障」

 夏井川渓谷にある隠居(無量庵)でミニ同級会を開いた。今度で何回目になるだろう。飲む前に忘れないで、必ず――とカミサンから注文がついた。坪庭風の空間に据えてある味噌釜(大豆を煮る)を移すこと、故障している洗面所の水道=写真=をみてもらうこと。味噌釜は1人では動かせない。人数がそろった。なかに1人、水道工事業の社長がいる。懸案解決の好機だ。

 1年前、坪庭に味噌釜を据えた。平に住む旧知の篤農家が東日本大震災で傷んだ土蔵を改修した。その土蔵にしまってあった。無量庵の庭に置いたらどうだろうと言っていると、知人から連絡を受けた。気に入ったので譲り受けた。鉄製で五右衛門風呂よりは小さい。孫が来たら水遊びができる。“隠れ家”にどっしりと重しができたようだった。

 しかし、誤算があった。真上に雨樋がある。この雨樋から雨が漏れる。味噌釜にあたってはね返った雨が雨戸を濡らす。縁側の土台を濡らす。このままでは雨戸も土台も腐食しかねない。で、男どもが集まる日を待っていた。夕方、本格的に飲み始める前に、キリの木の下に味噌釜を移した。庭のオブジェだ。

 もうひとつの懸案、洗面所は真冬、水道管が凍結・破損を繰り返し、そのつど水道工事業の社長に連絡して直してきた。その水道が断水したままだ。蛇口のそばに「故障」の紙を張った。さっそく社長が見たら、すぐ水がでるようになった。憮然とした口調で言われた。洗面台の中の「元栓が閉まっていただけ」。

 言われれば、そうだ。厳寒期の去年の1月ごろ、凍結・破損を予防するために元栓を閉めた。それを忘れていたのだ。蛇口に接続する蛇腹状の管がよくやられる。「それは取り替えたほうがいい」というから、元栓を閉めておいたのは、半分は正解だった。もし管がわずかでも破損していれば、今度は水漏れが心配になる。

2014年9月27日土曜日

コミュニティFM

 FMいわきは、同じいわき市内でも山間地では聴取が難しい。そう思っていたから、夏井川渓谷にある隠居(無量庵)では、AM放送かCDをかけるだけだった。カーラジオも同じで、市街地を離れて渓谷に入るとCDに切り替えた。

 そんなわけで、溪谷でFMいわきを聞くことができる――と気づいたのは、つい最近。カーラジオをかけ続けていると、途中から雑音が入ったり、沈黙したりした。が、そのままかけていたら、溪谷の江田地区に入って音が鮮明になった。

 隠居に着くとすぐラジカセ=写真=をかけ、AMをFMに切り替えて76.2メガヘルツに合わせた。ちゃんと聞こえる。3・11後、FMいわきの聴取エリアが拡大したと、新聞かなにかで読んだ記憶がある。これだったか。
 
 ネットで拾ったFMいわきの広報文(2013年5月15日付)によると、災害時の市民への情報提供を目的に、難聴取地域の解消を図るため、いわき市内山間部を中心に13中継局を設置した。総務省の補助事業(「ICT(情報通信技術)地域のきずな再生・強化事業」)を活用したようだ。もう1年以上前から、溪谷でも聴こうと思えば聴けたのだ。
 
 夏井川渓谷に最も近い中継局は上流の川前、次いで山ひとつ越えたところにある戸渡。川前局は川前小中学校に、戸渡局は旧戸渡分校に設けられたという。主として川前から電波が届くようになったのだろう。
 
 で、このごろはカーラジオをFMいわきに合わせている。月曜日(9月22日)に双葉郡富岡町経由で阿武隈高地の南半分を一周した。FMいわきをかけっぱなしにして、どこまで聞こえるかチェックした。
 
 ざっとこんな感じだった。国道6号は「道の駅ならは」(現在は双葉警察署の臨時庁舎)あたりで急に聞こえなくなったあと、開けたところに出ると雑音になる。阿武隈の山里では川内村に入って、雑音交じりの放送が聞こえ、田村市では国道288号から磐越東線沿いの県道(滝根町)に入って、雑音交じりの放送が復活した。小白井局(小白井小中学校)からの電波だろうか。
 
 夏井川渓谷では震災1カ月前にケータイ(ドコモ)がかかるようになった。それまでは、隠居は連絡の取れない「隠れ家」同然だった。そして今度、FMいわきが聞こえるようになった。光ファイバー網ができた結果だろう。地元のFMは歓迎だが、ケータイがつながるのはあまり好ましくない。といっても、そのつながりの深化が人の集まりをより可能にした。
 
 きょう(9月27日)はその隠居でミニ同級会が開かれる。(一泊するので、あすのブログは休みます)

2014年9月26日金曜日

墓のヒガンバナ

 秋分の日(9月23日)の午後、カミサンの実家の墓参りをした。日曜日に予定していたのがずれこんだ。墓地のへりにヒガンバナが咲いていた=写真。津波で亡くなった息子のためにと、頼まれてヒガンバナの造花をつくった――そんな話を聞いたあとだったので、少し厳粛な気持ちでカメラを向けた。

 その日の朝、旧知の“きょうだい”がやって来た。“姉さん”と“兄さん”夫婦の3人だ。長姉の墓参りをした帰り、私がいるかどうかわからないが、わが家へ寄ってみることにしたのだという。

 “姉さん”はたまにやって来る。“兄さん”はそれこそ、わが家を2階建てに増改築したとき以来だから、30年ぶりだろうか。左官業だったので、壁塗りを頼んだ。

 独身のころ、“きょうだい”の家の近くのアパートに住んでいた。毎晩のように風呂をもらいに行った。ときにはビールと晩ごはんをごちそうになった。両親とは親子のような、子どもたちとは“きょうだい”のような関係になった。

 それから40年近くたって、東日本大震災が起きた。私ら夫婦が関係する国際NGOのシャプラニールがいわきで震災支援に入り、交流スペース「ぶらっと」を開設した。「ぶらっと」は間もなく開設3年になる。最初はいわき駅前のラトブに、次いでイトーヨーカドー平店に移転し、今は本町通りの西端、スカイストアに入居している。

 3・11後、“兄さん”の奥さんがうつ状態になった。たまたまヨーカドーへ行ったとき、「ぶらっと」を知り、教室のひとつに通いはじめた。今ではうつ状態も改善され、「ぶらっと」の仲間が自宅を訪ねるまでになったという。

 その1人に原発避難をしている人がいる。津波で息子を失った。その人も精神的に厳しいものがあったが、「ぶらっと」へ通っているうちに仲間ができて前向きになった。ある日、息子のためにと、その人から“兄さん”がヒガンバナの造花を頼まれた。竹で人形を、楊枝で杵(きね)をつくる器用な人だ。ヒガンバナをつくるのも造作(ぞうさ)はなかった。
 
 “兄さん”はつい最近まで、私たちが「ぶらっと」に関係していることを知らなかった。私たちも奥さんが「ぶらっと」へ通っていることを知らなかった。私ら夫婦を知る別の仲間を介して、双方が「ぶらっと」に関係していることを知り、ともに驚いたのだった。巡りめぐってまた“きょうだい”がつながった。

「ぶらっと」のおかげでよくなった。「ぶらっと」に行かなければ、今もひどい状態が続いていたと思う――“兄さん”の述懐が「ぶらっと」の役目をよく表している。孤立を防ぎ、つながり、やがて被災者が少しずつ日常を取り戻す。「ぶらっと」はその手伝いをする場のひとつにはちがいない。

2014年9月25日木曜日

「除染作業中」

 福島県の地図を4等分したうちの右下、浜通りの平野部を含む阿武隈高地南部を一周した。いわきから国道6号を北上し、双葉郡富岡町から西に連なる山を越えて川内村を抜け、田村市常葉町で法事をすませたあと、夏井川に沿っていわきへ帰ってきた。ざっと150キロの行程だった。

 事故をおこした東電福島第一原発(1F)からの距離でいうと、およそ7~40キロ圏を走行したことになる。国道6号の人口集中地域を除けば、道沿いに広がるのは田畑と山の農村風景だ。所によっては、汚染土などの入ったフレコンバッグが野積みになっている。

 3・11後、田村市の実家へ帰ったのは4回。いずれもいわき~夏井川溪谷~川内村~田村市~小野町~いわきのルートだった。今回、何年ぶりかで富岡ルートを利用した。所どころで「除染作業中」=写真(田村市)=の立て看が見られた。昨年まではなかった作業員の宿舎もできていた。田村市に隣接する葛尾村へ除染作業に通っているということだった。

 帰路は国道288号を西に進み、南相馬市方面への迂回路でもあった同349号(田村市船引町)から磐越東線と夏井川に沿って浜通りへ下った。

 磐東線沿いは運がよかったのだろうか。線量は低い。道端に立て看があったので、ここでも?と見たら、水道の工事を告げるものだった。福島県の東側半分は、阿武隈高地の南部だけでなく北部も「除染作業中」のところが多いのではないか。その異常事態のなかで出合った普通の工事だ。「普通」がこんなに新鮮で、ホッとするものだとは知らなかった。

2014年9月24日水曜日

朝の北上ラッシュ

 いわき市から双葉郡内の国道6号を経由し、西側の阿武隈高地を越えて田村市常葉町へ行く“自由通行ルート”は1つ。富岡町内で国道から県道小野富岡線に入り、川内村へ向かうことだ。

 9月15日に富岡~浪江町約14キロ区間の通行止めが解除され、オートバイ・原付き自転車・リヤカーなどの軽車両・歩行者を除く一般車両が通行できるようになった。川内へはそれ以前にも、山寄りの主要地方道いわき浪江線(通称・山麓線)を利用すれば自由に行けた。

 山麓線は大熊町で国道288号と接続する。同国道は通行証がなければ通れない。ポイントはその手前、県道小野富岡線との交差点だ。今回は山麓線ではなく、国道6号を北上し、富岡町内経由でこの交差点をめざした。
 
 連休合間の9月22日、月曜日。朝8時半にわが家を出発した。この時間帯は通勤で平市街方面へ南下する車が多い。3・11後は逆に北上する車が上回るようになった。事故をおこした東電福島第一原発がわが家から40キロ北にある。その収束作業や除染作業に従事する車が増えたのだ。

 北上を始めてすぐ後悔した。車が延々と続いている。このままゆっくり走るしかないのか。すぐ山麓線に乗り換えたくなったが、赤信号になると車列が途切れる。ガマンして走り続けた。富岡町へ入るころには、先行車両が右へそれ、左にそれて少なくなった。連休の合間ではなく、通常の月曜日であれば、もっと混んでいたかもしれない。

 線量計をオンにしたまま進む。広野町から楢葉町へ、さらに富岡町へと北上するにつれて数値は上がったが、ピークは6号をそれた富岡町内=写真=で毎時1.4マイクロシーベルトほどだった。同じ帰還困難区域でも1Fのある大熊町は、そんなものですまないことは新聞記事などで承知している。

 富岡町内で道に迷い、交通整理員に2回、道を聞いて川内へ向かう交差点にたどり着いたときには、さすがにホッとした。あとのルートは頭に入っている。ほんとうは国道288号を利用したいのだが、それはいつのことやら。

2014年9月23日火曜日

父の27回忌

 生きていれば、間もなく数え100歳。大正4(1915)年生まれの父親のことだ。きのう(9月22日)、1年半ぶりに田村市常葉町の実家へ帰り、兄弟だけで27回忌の墓参をした。そのあと家で食事をし、午後1時前には解散した。

 父親は昭和63(1988)年10月10日、誕生日に亡くなった。そのときの拙文――。

「夜10時前、実家から電話がかかってきた。連休を利用して泊まりに行き、わが家へ戻って5時間後のことである。『あのあと、じいちゃん(父親)の具合が急に悪くなって駄目だったの』と、義姉が沈んだ声で告げた」
 
 この年の春に発病した。「3カ月の入院生活を経て自宅療養を続けていた」「会うたびに父は小さくなっていった。いのちがしぼんでいくのが、手に取るようにわかった」
 
 いわきへ帰るために、父親にあいさつした。「『元気を出さなきゃ』というと、小学生みたいにコクリとうなずいた。それが最後だったが、死に目に会えなかった、という悔いはない。/そういえば、その日はおやじの誕生日。生まれた日に死ぬなんて」
 
 当時、私は40歳、父親は73歳。26年たった今、父親の年に近づいたこともあって、父親は体力の衰えとともに死を意識していたのではないか、という思いが強くなった。記録があるからこそ、読むたびに最期の記憶がよみがえる。
 
 墓は町の東はずれの小山にある。一見、雑木交じりの杉山だが、ふもとから上へと墓が増設された。本家の墓はふもとにあっても、分家の墓をつくる余裕はない。分家はついのすみかを求めて上へ、上へ、ということになる。

墓へ行く坂道から町が見える=写真。墓は日差しが遮られて薄暗い。そのおかげで雑草はほとんど生えていないが、ヤブカが一気に襲ってきた。
 
 墓石は、東日本大震災のときには無事だったが、一段上の墓石が落ちてきてぶつかり、角が一部欠けた。そばにある両親の法名碑を写真に撮った。帰宅してデータをパソコンに取り込み、法名碑を拡大したときに、<しまった、きょうが母親の命日だった。忘れていた>。母親は平成17(2005)年9月22日、満90歳で亡くなった。なんてことだ。
 
 兄はどうだろう、承知していたのか。実家は床屋で、月曜日が定休日だ。10月10日前後はウイークデー、ならば世間が連休になる合間に法事をしよう、となった。母親も生きていれば数え100歳。胸中、あわててわびながら、手を合わせた。
 
 墓があるからこそ、ふるさととつながっている。ふるさとへ帰れない人が墓を移転したら、ふるさととのきずなは切れる。ふるさとは死者とともにある――身近な死者と対話しながら、双葉郡の住民が抱えている葛藤にも思いがめぐった。

2014年9月22日月曜日

太陽の恵み

 晴れてさわやかな一日になったきのう(9月21日)の日曜日。早朝、夏井川渓谷にある隠居(無量庵)へ出かけ、真っ先にふとんを干した=写真。濡れ縁と庭のテーブルだけでは足りない。車を寄せて、ドアも開けて干し台にした。

 渓谷は空中湿度が高い。植物はその環境に適したものが生息するが、人間はそうはいかない。家の戸や窓を開閉し、あるいはエアコンを入れて住環境を調整する。わが隠居のようにふだんは閉ざされた状態だと、長梅雨には廊下などにカビが生える。当然、押入のふとんも湿ってかび臭くなる。で、年に1~2回は押入に入っているものを全部出して天日に干す。
 
 ふとんを取り込むときの、ふかふかして甘いぬくもりが好きだ。甘い匂いはしかし、太陽が届けたものではない。ネットには、人間の汗や皮脂などの汚れが太陽の紫外線で分解されたときに出る匂い、とある。少し興が冷めるものの、太陽の熱と分解力・殺菌力はすごい。“ふかふか力”にも驚く。ふっくらして、1枚、押入にふとんが入らなくなった。

 太陽の恵みは万物・万人に平等だ。「生産消費者(プロシューマー)」が当たり前の田舎では、昔からその恵みを生業と生活の中に取り入れてきた。身近な例では、大根を干してたくあんをつくる。漬けた梅を干して梅干しにする。今の時期なら、刈り取った稲をはせにかけて干す。このごろは屋根の太陽光発電が普通になった。

 ふとんの話に戻れば、一番の安眠のもとはこの甘い匂いとぬくもりだ。それはしかし、太陽がくれた1回だけのごほうび。一夜明けたらふとんの甘やいだぬくもりは冷める。
 
 今週末に無量庵で飲み会が開かれる。7人が泊まる。ほんとうはそのときにも干せばいいのだろうが、そこは勘弁してもらうしかない。酔っ払ったら、ちゃんとふとんを敷けるかどうかもわからないし。

2014年9月21日日曜日

秋の彼岸

 きのう(9月20日)はわりと忙しかった。午前10時過ぎには回覧物を区の役員さんに届け、午後1時過ぎにはいわき地域学會の市民講座へ出かけた。合間に“文字読み”を続けた。

 回覧物を届けて帰ってくると、北の空、水平の雲の屋根の下に青空がちょっぴり姿を見せていた=写真。2階の物干し場から写真を撮った。<あれっ、ほんとの家の屋根の上に人がいる。屋根のカラーベストのふき替え作業が行われている>。これも3・11の後遺症だろうか。――土曜日、しかも午前中、外を動き回ったからこそ目に入ったひとコマだ。

 この時期、眼球は脹れて重い。毎年、月遅れの盆上がりから秋分の日の前あたりまで、ほぼ1カ月間、400字詰め原稿用紙に換算して3000枚前後の量の文字を読む。きのうの夕方にようやくそれが終わった。

 秋の彼岸前が「読了」の目安だ。春にゴールデンウイークがあるように、秋にもシルバーウイークがある。2009年9月後半の大型連休がそうだった。この連休に、同級生数人で北欧へ旅行した。還暦を迎えて始めた海外修学旅行だ。2010年には同様に台湾へ出かけ、2012年にはベトナム・カンボジアを旅した。「宿題」を抱えていては旅をしてもおもしろくない。

 今年は南半球を訪ねる話が持ち上がっていたが……。その代わりかどうか、今週末、仲間が夏井川渓谷にあるわが隠居(無量庵)に集まる。
 
 けさは間もなく、その無量庵へ出かける。久しぶりに、日曜日を自分のためだけに使える。仲間が使うふとんを干し、生ごみを埋め、10月に種をまく三春ネギの苗床をつくる。時間があれば、対岸の森を巡ってキノコの写真を撮る。3・11後は、「キノコ採り」が「キノコ撮り」に変わった。

 年度の折り返し時期に入ったこともあって、連休明けにはやることがめじろ押しだ。きょうも渓谷から街へ戻ったら、カミサンの実家の墓参りが待っている。時間を“ぶつ切り”にしてうまく使わないと。

2014年9月20日土曜日

「平七夕まつり考」余話

 ゆうべ(9月19日)のいわき民報には驚いた。中面の1ページを使い、上半分で平七夕の歴史に関するいわき地域学會・小宅幸一さんの論考を、下半分で同紙の年代別の七夕記事を紹介していた=写真。

 小宅さんは今春、地域学會の会報「潮流」第41報に「平七夕まつり考」を発表した。大正・昭和期の地域新聞をチェックし、平七夕まつりの起源を、大正年間ではなく昭和初期としぼりこんだ。その論考を基に7月19日、同学會の市民講座で話した。

 市民講座の内容を当ブログで紹介した。ついでに、平七夕まつりの起源を大正8年とするメディアの記事が、聞き書き、あるいは過去記事を踏襲したものに終わっている現状を踏まえ、<「~といわれる」「~とされている」ことを鵜のみにすることなく調べてみると、違った姿が見えてくる>と書いた。それが、8月5日。ポイントを再掲すると――。
 
 七夕といえば仙台。その仙台に本店のある七十七銀行が大正8(1919)年、平支店を開設する。そのころ、仙台の七夕は風前の灯だった。それが、昭和2(1027)年に復活する。その流れを受けて、同5年、七十七銀行平支店が店頭に七夕の飾り付けをする。
 
 これに刺激されて地元商店の動きが活発になる。昭和7年・平三町目の商店有志が中心となって七夕飾りを実施。同9年・本町通り舗装により盆行事の「松焚き」が中止になる。同10年・平商店街全体で七夕まつりを実施――となって、「松焚き」に代わる集客イベント「七夕まつり」がスタートした。

 8月22日にも当ブログで平七夕のことを取り上げた。以下はその骨子。いわき市立図書館のホームページをのぞいて、電子化された地域新聞から次のような記事を見つけた。昭和10(1935)年8月6日付磐城時報=「平町新興名物『七夕飾り』は今年第二回のことゝて各商店とも秘策を練って……」。

 ホームページをのぞいたのは、お盆の一日、『いわき市と七十七銀行――平支店開設70周年に当たって』(七十七銀行調査部、平成元年発行)を再読したことが大きい。
 
 70年記念誌に掲載された写真のうち2枚が平七夕関連で、1枚には「七十七銀行平支店の七夕飾り(昭和5年)」、もう1枚には「昭和12年の平七夕、仙台市から昭和5年に移入した」というキャプションが付されていた。平七夕を調べるうえでは、七十七銀行の“資料”が優先されるのは言うまでもない。
 
 つまり、平七夕まつりは昭和5年以降に起源を求めるのが妥当だということだ。七十七銀行平支店の開業年=大正8年と平七夕まつりの起源がいつの間にかごっちゃになって、メディアも何の疑いも持たずに「大正8年」説を流してきた。
 
 電子化された地域新聞を2~3時間調べれば、記事の間違いに気づくだろう――少し苦言めいたことを書いたら、若い記者が反応した。電話がかかってきたので、小宅さんから話を聴くように勧めた。その結果がきのうの記事になった、というわけだ。
 
 地域学會の初代代表幹事・故里見庫男さんの言葉に「事業はまじめに、記録は正確に」がある。地域学會の図書も次のような思いをこめて刊行している。「われわれは、われわれが現に生活している『いわき』という郷土を愛する。しかし偏愛のあまり眼を曇らせてはいけないとも考える。それは科学的態度を放棄した地域ナショナリズムにほかならないからである」
 
 その精神が根づいているからこその「平七夕まつり考」であり、逃げも隠れもできない地元紙の記者だからこその反応だった。

2014年9月19日金曜日

庭のコスモス

 コスモスはこぼれ種でも増える。わが家の庭に3つ、4つ、コスモスが生え、生長して、花を咲かせるようになった=写真。どこからか種が飛んできたのだ。「ふっつぇコスモス」だ。

 もう6年以上前になる。当ブログで「ふっつぇ」と「やご」について書いた。「ふっつぇ」とは「どこからともなく種が飛んできて、知らぬ間に自然に生えること」(いわき市教委編『いわきの方言調査報告書』2003年)だという。

 夏井川渓谷の小集落に隠居(無量庵)がある。そこで小さな菜園を始めたら、ミツバが勝手に生えてきた。一度種をまいたシソは、それから毎年、勝手に生えてくる。土中に残ったジャガイモの小玉も、春になると芽を出す。それを「ふっつぇ」という、と住民に教えられた。

「やご」は、同じく『いわきの方言調査報告書』によれば、「植物の切り株から出る新芽・新しい枝」のことだ。たとえば、春の白菜の菜の花。花芽が次々に現れる。それを食べたいばかりに、わざわざ白菜の種まきを遅らせる人がいる。この方言も、やはり溪谷の住民から教えられた。

 ついでながら、「やご」と聞くと、トンボのヤゴ(幼虫)を連想してしまう。関連はあるのかないのか。気になってしかたがない。

 さて、いったんは除染されて山砂が敷き詰められた渓谷の隠居の庭だが、そちらには「ふっつぇコスモス」は出なかった。「ふっつぇシソ」だけが間引きをしないといけないくらいに現れた。今は花穂も伸び、実ジソを収穫できる段階になった。花を見るといつも植物の不思議を思う。

2014年9月18日木曜日

サンマの刺し身

 いつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに行ったら、店頭に出ているはずの「かつお」の立て看がない。店内にしまってあった。
 
 3連休まんなかの日曜日、わが地区と隣接する地区の市民体育祭が1週間遅れで行われた。そのあと、各行政区で反省会が開かれた。この時期、カツオの刺し身のない飲み会は考えられない。翌日は敬老の日(9月15日)。この日もカツ刺しの注文が多かったはずだ。
 
 半ば品切れを承知で魚屋さんへ出かけた。「(カツオは)ない?」。いちおう尋ねると、若だんながすまなさそうにうなずく。「あるのはヒラメ、マグロ、それにサンマ」「サンマ! いいね、ヒラメ、マグロも。盛り合わせで」。今秋最初のサンマの刺し身=写真=だ。そういう季節になったのだ。
 
 前からサンマの刺し身を食べていたわけではない。生のサンマは虫がいて中毒する――そういわれていたこともあって、焼いて食べることしか知らなかった。
 
 冷温保存の技術が進んだ結果、いわきの内陸部でも飲み屋街あたりからサンマの刺し身を食べる習慣が広がり、それが家庭にも普及したのではなかったか。わが家でもサンマを生で食べるようになったのは、ここ数年のことだ。今は、手おろしをし、皮をはいだものを冷蔵便で送り、届いたら切るだけにしたサンマの刺し身の「鮮魚パック」もある。
 
 さて、と――。脂(あぶら)ののった魚は旨(うま)いという。ふと思った。「脂(あぶら)」は「月」(にくづき)と「旨い(うま・い)」に分解できる。脂ののったカツオは「旨い体」だし、サンマもまた「旨い体」だ。しかも、「旨い」と感じる、その味の奥には「甘い」がある。刺し身の「旨さ」は天然のほのかな「甘さ」でもあると、私は勝手に解釈している。 

2014年9月17日水曜日

雨のカーテン

 きのう(9月16日)午後1時すぎ、車で平の街へ向かっていると、西方、阿武隈の山並みが一部、灰色に染まっていた。街に入ったとたん、雨粒がフロントガラスをたたき始めた。ほどなく土砂降りになった。

 鉛色の雲から垂れ下がる雨のカーテンにはそう出合わない、写真に撮らねば――一瞬考えたが、間に合わなかった。街の中ではビルが邪魔になって、山並みが見えない。そういえば……、旅先でも雨のカーテンを撮ったことがあったっけ。

 写真のデータをチェックしたら、2013年7月京都旅行、2010年9月台湾旅行のなかにあった。京都では京都タワーから洛南をぬらす雨を撮った。台湾でもタイペイ101から局地的に降る雨を撮った=写真。
 
 自然は時々刻々変化する。通り雨が来る。急に風が吹く。雨脚が遠のけば青空になる。そうだ、忘れていたが、通り雨の前、午後零時28分に地震があった。震源地は茨城県南部で、栃木・群馬両県南部と埼玉県北部で震度5弱を記録した。
 
 いわきは震度2だった。おや、めまいかな。でも、ちょっと体が揺れているぞ。地震だ!と気づいたときには、家そのものがプリンの上で左右に動いているような感じになった。
 
 9月3日には栃木県北部を震源に、日光で震度5弱の地震が起きている。関東の内陸部が少し活発になってきたということか。
 
 通り雨の中を帰宅するとほどなく、シャプラニールの前事務局長が心配して、滞在先の沖縄から電話をくれた。ありがたいことだ。が、今回は関東が主だ。電話をもらうより、こちらからかけないといけないくらいだった。

 通り雨の話に戻ると――。平のまちで雨に出合った好間(平の隣接地区)の人が、急いで帰宅すると洗濯物は濡れていなかったという。雨のカーテンは、境目がはっきりしていた。

2014年9月16日火曜日

国道6号全線開通

 きのう(9月15日)のテレビは一日、国道6号の交通規制解除のニュースを流していた=写真(NHKニュース7)。東日本大震災に伴う福島第一原発事故の影響で、双葉郡富岡町~浪江町の約14キロ区間が通行止めになっていた。それが、3年半ぶりに解除され、一般車両も通行できるようになった。

 ただし、オートバイ・原付き自転車・リヤカーなどの軽車両・歩行者は、被曝を防ぐためにこれまでどおり通れない。

 3・11後、新しく知り合った双葉郡や相馬郡、南相馬・相馬市の人たちから、実家や自宅への一時帰宅がいかに不便か、という話を聞いていた。許可車両以外は、阿武隈の山中を南北に貫く国道399号、あるいは349号を迂回するしかない。時間もかかれば、燃費もかさむ。多少のリスクはあっても、本来の便利さが戻ってきた。

 主要地方道いわき浪江線(通称・山麓線)は、いわき市と、川内・葛尾2村を除く双葉郡6町の国道6号西側の山すそを縫って走る。大熊町の北で双葉町から郡山市へとほぼ真西に延びる288号にぶつかる。田村市常葉町の実家(この国道沿いにある)への行き帰りによく利用した。山麓線も原発事故のあと、帰宅困難区域内で通行止めになった。
 
 で、今は川前~川内~田村市ルートで実家に帰り、夏井川沿いの田村市~小野町ルートで戻ってくるのが定番になった。むろん、その逆もある。
 
 2013年11月初旬、震災後初めて山麓線を富岡町まで北上した。知人のオジさんの家が山麓線沿いにある。土の庭の放射線量は1メートルの高さで毎時4.2マイクロシーベルトだった。日中の立ち入りが可能になった山麓線沿いでこの数値だから、国道6号も除染をしたとはいえ数値は低くはない。ネット情報がそれを裏づける。

 わが家の近くの国道6号――。道路情報板は、以前は「冨岡町以北通行止め」を告げるものだったが、きのうから2輪車走行を規制するものに替わった。

 来週は父親の27回忌のため田村市の実家へ帰る。大熊町~国道288号間は依然、一般車両は通行できない。山麓線から県道小野富岡線を利用し、川内を経由して田村市都路町で国道288号に出るルートは前から自由通行だった。行きか帰り、このルートで規制が解除された富岡の国道6号を通ってみよう。

2014年9月15日月曜日

優勝してしまった

 第40回神谷地区市民体育祭がきのう(9月14日)、平六小で行われた=写真。雨で1週間延期になった。敬老の日を含めて3連休の真ん中だ。競技に参加できない人も出た。
 
 種目には個人競技と団体競技がある。8行政区の親睦(しんぼく)を兼ねながらも、団体競技で順位が決まる。せめて3位か4位には食い込みたい――内心ではそう思っていた。それが、総合優勝をしてしまった。
 
 勝敗対象の団体競技は、一輪車にボールを何個か入れて運ぶ「安全運転」、そして「綱引き」「玉入れ」「リレー」の4種目だ。

 わが区は「安全運転」と「玉入れ」で1位になった。「リレー」と「綱引き」は予選敗退だった。1位8点~8位1点で計算すると、「リレー」の決勝、「綱引き」の準決・決勝を残す時点できん差のトップだった。

 リレーに強いA区に逆転される。農村部のB区は綱引きで勝った、リレーで健闘すればそちらも優勝の可能性がある。そうみていたら、番狂わせがおきた。優勝圏外のC区が最初のテープを切った。
 
 わが区のほか2つの区でポイントが同じになった。その場合は①玉入れ競技の玉の数②それでも同点の場合はリレーの順位③最後は抽選――の3段階で優勝を決める。玉入れの“貯金”が効いた。第40回という節目の大会、大きな区から分区・独立して十数年目で初優勝だ。
 
 3・11から3年半。「いわきではこうして運動会ができる、ありがたいことだ」。ともに記録係を務めたB区の区長の言葉である。参加することに意義を見いだしてきたチームとしては、優勝は「棚ぼた」に近い。

とまどいながら、かくかくしかじかでわが区が優勝――と告げると、子どもを守る会のお母さんたちはびっくりして歓声をあげた。地区体協の会議、区と守る会の合同役員会、協賛金集め、雨による延期……。地域の一大イベントの最後に思いもしない喜びが待っていた。

2014年9月14日日曜日

海上の橋

 9月7日の日曜日は朝、土砂降りだったために、地区の市民体育祭が1週間延期になった。小名浜のアクアマリンパークでは「おいしいふくしまいただきますフエスティバル2014」が開かれている。昼前には雨がやんだ。「なにか食べてこよう」と夫婦で出かけた。人工島(東港)に架かる臨港道路=ベイブリッジを初めて見た。といっても、まだ建設中だが=写真。
 
 5年前の2009年2月、平の生涯学習プラザでいわき市主催の「景観セミナー」が開かれた。そのとき、景観面からみた人工島の橋の検討経過が紹介された。以下は、当時の小欄を引用・参考にした橋の話――。

 人工島は「東港地区多目的国際ターミナル」整備事業として建設が進められている。港内に人工島をつくり、外貿貨物(石炭など)需要の増大と船舶の大型化に対応して取り扱い能力を向上させる、というのが目的だ。
 
 この一大プロジェクトの動脈が陸地と人工島を結ぶ臨港道路。延長1805メートルのうち中心となる橋の構造は、コストや小名浜港の新たなランドマークとしての眺望を計算に入れた結果、主塔と斜材で主桁を支える外ケーブル構造の「エクストラドーズド橋」になった。

 海面からの橋の高さは、陸地からの最大勾配5%(100メートル行って5メートル上がる)として25メートル。巡視船は橋の下を通航できるが、大型客船「飛鳥Ⅱ」は通航できない、ということだった。

 横浜ベイブリッジのような吊り橋ではない。が、斜張橋に似て主塔から張り出された斜材が線による三角形、低い山形をつくりだす。景観としては味わいがある。「小名浜ベイブリッジ」だ。
 
 橋自体が新しい風景になり、新しい視点場を提供する。ライトアップされればそれも格好の被写体になる。アクアマリンパークの北側にはイオンモールができる。小名浜のウオーターフロントは驚くほどに様変わりする。

 1週間前の「いただきますフェス」は大変なにぎわいだった。会場からかなり離れた臨時駐車場(3号埠頭付近)に車を止めた。そこが臨港道路の“たもと”だった。

 さて、きょう(9月14日)は快晴。朝6時に花火があがった。隣の地区からも花火の音が届いた。1週間遅れたが、これ以上ない体育祭日和である。長い一日になりそうだ。

2014年9月13日土曜日

芸術祭「玄玄天」

「玄」は、色としては黒くて赤みを帯びた幽遠な色のことだという。その「玄」が二つ重なれば、奥深いうえに奥深いことをさす。

 いわき市の中心市街地(いわき駅前)で、9月21日まで芸術祭「玄玄天」が開かれている。現代美術家吉田重信さん(いわき)をディレクターに、市内外の作家27人と1組が作品を発表した。ほぼ1カ月に及ぶ長期展で、「人と人の想いをつなぎ、今のいわきを未来へつなぐ」ことを目的にしている。

「玄玄天」は、いわき出身の詩人草野心平の作品から取った。晩年の年次詩集『幻景』(1985年)に収録されている。<ひろいひろい空にはだんだんがある。//空気天。/透明天。/青天。/玄天。/玄玄天。/即ち深い八方天。//(以下略)>。段々畑ならぬ「だんだん」(段々空)は「天の詩人」の心平らしい発想だ。

 それと芸術祭がどうつながるのか。いや、そんなことは詮索しないほうがいい。より根源的な創作活動を、表現を――という心意気を示すものと受け止めればいい。

 会場は、平・本町通りのもりたか屋(三町目)を中心に、同・坂本紙店(一町目)、いわき駅ビル、同駅前再開発ビル「ラトブ」の4カ所。何日かかけて、飛び飛びに見て回った。

 20代~40代の若手が多い。初めて見る実験的な作品がほとんどだ。そんなときには、頭でわかろうとせずに体で感じることだ。作品とのコミュニケーションではなく、作品が発するバイブレーションを受け止めることだ。というわけで、いわきではめったに見られない、多様な表現を楽しむことができた。

 さて、ここからは極私的な感想。真っ先に見に行ったのは坂本紙店だ。旧知の写真家吉田和誠(あきとも=平出身)クンが出品した=写真。同じ壁面に白土亮次クンという若手の写真もあった。共に抽象的な、布のような海の写真だ。このへんに写真の新しい可能性があるのかもしれない。

 もりたか屋では、建物そのものにも興味を抱いた。ラビリンス(迷宮)的な雰囲気がある。京都の町屋ではないが、城下町の地割りが残っていて、南北にひょろ長い建物の内部が細かく仕切られている。これ自体も船室のようで、“作品”として見るとおもしろい。

2014年9月12日金曜日

だるまの目

 小さな公園で一休みしていたときのこと。一画がなにか同じ人の手で飾られているような印象をもった。松の木の根元に壁掛け用のだるまが置いてある=写真。別の木には手づくりのブランコ。そばの池の囲いには、これまたペットボトルを利用した手製の風車(かざぐるま)。風車は風が吹くたびにくるくる回った。
 
 風車などの製作者は私と同年代と思われる男性だった。自転車でやってきたので、だるまについて尋ねると、「友達が持ってきたの。子どもたちには人気がないねぇ」。それはそうだろう。黒い眉、大きな目。目は左上を凝視している。子どもたちは「にらまれている」と思ってしまうのかもしれない。
 
 だるまは慧眼(けいがん)の象徴だ。本心ばかりか、物事の本質も射抜く。なんでもお見通しだ。吉田姓なので、メディアで「吉田証言」がどう、「吉田調書」がどう、となるたびに、複雑な思いを抱く。何となく落ち着かない。「だるまの目」がほしいと思う。
 
 朝日新聞の社長が昨夜(9月11日)、記者会見をした。「吉田調書」に絞っていえば、独自に調書を入手しながら、「思い込みや記事のチェック不足などが重なっ」て、「所長命令に違反 原発撤退/「福島第一 所員の9割」などと誤った記事を書いてしまった(今年5月20日付1面ほか)。その記事を取り消し、おわびし、謝罪する会見だった。
 
 朝日の“スクープ記事”を最初に目にしたときの違和感が、今も忘れられない。門田隆将著『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』を読んで、原発の暴走を止めたのはそこに踏みとどまった人間たち、それも県内出身・在住者だったと知っていたから、その現実を否定する“特ダネ”がにわかには信じられなかった。
 
 なぜこんなことが起きたのか。「だるまの目」を通せば、誤報に至る記者の心情が透けて見えるようだ。ひとことでいえば、虚心坦懐、ニュートラルでなかった。他紙の報道のように、「テキスト」(吉田調書)をどう読んでも「命令に違反し撤退した」とは読めない。
 
 若いころ、地域紙の記者として全国紙、県紙の記者諸氏と取材を通して交流した。記者諸氏の信念や取材の作法・流儀に対して、共感したり、違和感を覚えたりした。そのときの体験も参考にして、両「吉田」問題の根っこを掘りおこしてみよう――けさの新聞を読みながら、そう思った。

2014年9月11日木曜日

ヤブカに注意

 デング熱の患者が増えている。海外渡航歴のない女性が発熱し、母親が症状から、ネットで調べて「デング熱では」と疑った。で、医師が感染症に詳しい医師に声をかけて初めて、そうとわかったそうだ。69年ぶりに国内で確認された最初の「デング熱」患者について、きのう(9月10日)のNHK・クローズアップ現代が伝えていた。

 女性が蚊に刺されたのは都立代々木公園。ダンスの練習をしていたときだった。その蚊がデングウイルスを持っていた。

 デングウイルスはどうやって代々木公園に持ち込まれたのか。FB友の情報にピンときた。同公園には日本人だけでなく、外国人も多く訪れる。しょっちゅうイベントが行われている。

 私ら夫婦も3・11直後の4月23、24日、同公園で開かれた「アースデイ東京2011」にいわきから出向いた。いわきで震災支援活動を始めた「シャプラニール=市民による海外協力の会」が、本来のフェアトレード=物品販売に合わせ、いわきの被災状況を伝えて支援を呼びかけた=写真。

 同公園に行くのは初めてだった。JR山手線の原宿駅から吐き出された人が大勢向かう先に公園があるとみて、人の流れにしたがった。正解だった。道路をはさんで森林公園とスポーツ・イベントゾーンが広がっている。
 
 さまざまな国籍の人間が行き交っていた。その体験と報道その他で得た情報からの推測だが、デングウイルスをもった外国人か、アジア方面へ旅行して蚊に刺され、デングウイルスをもって帰国した日本人が、同公園でヤブカ(ヒトスジシマカ)に刺された。すると、ヤブカにデングウイルスが移り、新たにその蚊に刺された女性たちが発症した。
 
 そうして、人がひんぱんに国境を越え、地域を超えて移動するるようになった今、人と蚊との“刺しつ刺されつ”の連鎖が生まれ、非連続の連続とでもいうべき“つながり”ができたのではないか。となれば、いわきでも「対岸の火事」視してはいられない。
 
 いわきの、いやわが家の蚊の生態は次のようなものだ。①毎年5月20日前後に蚊が現れて人間を刺し始める②蚊が姿を消すのはほぼ10月下旬③午後から夕方にかけてはヤブカ、夜はアカイエカに変わる④最近は蚊取り線香(緑色ではないもの)をたいてもブンブンやっている――。その年最初に刺された日を記録し、蚊について調べてわかったことだ。
 
 まずは、庭にある不要な鉢を逆さにしたり、古タイヤの内側の水を捨てたりして、庭から水たまりをなくさないと。草木が密生し、葉が茂りすぎているのも、蚊のすみかになってよくないか。

2014年9月10日水曜日

アレチウリとヒガンバナ

 夏井川の堤防は、街や海への往来に利用する「もう一つの道」。季節の移り行きを実感するフィールドでもある。

 散歩をしていたころは、その移り行きを「日単位」でとらえることができた。何月何日にウグイスの声を聞いた、ツバメを見た、オオヨシキリがやって来た、ハクチョウが飛来した――。ときどき車で通るだけになってからは、そうした“発見”は人より遅くなった。なかでも花は、毎日歩いたり、サイクリングをしたりする人がネットにアップした写真で知ることが多い。
 
 その、人より遅い発見を二つ。一つはアレチウリだ。断続的に堤防を覆っている。つるを伸ばし、花を咲かせ、他の植物をすっぽりと覆っている=写真。

 夏井川の堤防を散歩していて、アレチウリに気づいたのは2008年秋。10月初旬に当欄で次のようなことを書いた。
 
 ――アレチウリは北米原産の1年生のつる性植物で、日本では1952年に静岡で発見されたのが最初。特に河川敷で分布が広がっている。外来生物法で規制されている侵略的な植物である。これらの生物を予防するには、入れない・捨てない・広げない、が大原則になる。ところが、現実は拡大する一方だ。

 昔からのつる性植物にクズやヤブガラシがある。アレチウリはそれさえも覆ってしまう。覆われた植物は日光を遮断されるから、やがて枯れる。アレチウリの最も厄介な点がこれだ――。
 
 夏井川の堤防を、河口から水源までチェックしたらどうだろう。飛びとびに「アレチウリマップ」ができるのではないか。夏井川渓谷でもアレチウリは見られる。その上流、川前の磐越東線沿いにもある。

 もう一つの遅れた発見はヒガンバナだ。堤防土手の草が刈られたところでは真っ赤な花が咲きはじめ、草刈りが遅れているところではアレチウリが繁茂していて、花は見えない。こまめに草を刈っていれば、アレチウリは生えても増えることはないだろう。河川敷の草刈りを引き受けている行政区の頑張りに期待するしかない。

 今度の彼岸には田村市へ足を延ばす。夏井川の堤防がどのくらいアレチウリに覆われているのか、ざっと見てこよう。

2014年9月9日火曜日

棒ささら

 日曜日(9月7日)午後、小名浜港のアクアマリンパーク・親水テラスで――。白足袋が汚れていた。「どこかで練習してきたんじゃないの」「汚れるようなとこ、ないでしょ」。夫婦で適当なことを言いながら、岡小名ささら保存会による演技を見た=写真。棒術のほかに獅子舞が披露された。

 6、7日と同パークを会場に、「おいしいふくしまいただきますフエスティバル2014」が開かれた。福島県と「ふくしまからはじめよう。『食』と『ふるさと』新生運動推進本部」が主催した。7日、わが地域の市民体育祭が雨で1週間延期になったので、急に時間ができた。雨もやんだ。「昼メシでも」と港へ出かけたのだった。
 
「県内最大級の食の祭典」には、浜・中・会津の3地域から食がらみの120ブースが並んだ。人出がすごかった。会場そばの駐車場は「満車」「満車」「満車」の札をもったスタッフがいて、会場から遠い工場の空き地に車を止めて、延々と歩いた。
 
 どのブースにも長い列ができていた。パッと見には10人くらいなのが、テントの陰にも折れ曲がって並んでいる。「最後尾」まで30~40人というところが多かった。並んで待つのが苦手なので、会場で食べるのはあきらめ、アクアマリンパークの東端(1号埠頭)にある「いわき・ら・ら・ミュウ」でラーメンをすすった。
 
 そのあと、目の前の親水テラスに出たら、ささらと獅子舞の告知看板が目に入った。待つこと30分。冒頭に書いた保存会の一行が、ら・ら・ミュウの中から現れた。

 なぜ白足袋が汚れていたのか。8日付のいわき民報でわかった。小名浜諏訪神社で7日、「夏祭りささら奉納」が行われた。練習ではなく、境内で本番を演じた足で港へやって来たのだ。すでに1人、陶酔状態の人がいた。あとでひょっとこのお面をかぶり、木彫りのイチモツを手に、観客に愛想を振りまいた。

 ささらは、農民が護身のために身に付けた棒術が中心だという。子どもが棒対棒を、おとなが棒対棒のほかに、刀対刀、棒対唐傘、刀対鎖鎌を披露した。バシッと打ち合うときには、足首あたりの筋肉が仁王様のように浮き彫りになった。獅子舞もそうだが、郷土芸能は結構、ハードなものが多い。真剣だからこそ魅力があるのだろう。

2014年9月8日月曜日

体育祭延期

 天候が思わしくないときには5時40分、公民館に集合――各地区から1人が出て市民体育祭を決行するかどうかを決める、ということになっていた。

 きのう(9月7日)の日曜日、早朝。協議をするまでもない、土砂降りである。間もなくやむことはわかっていても、会場(小学校の校庭)のグラウンドコンディションがよくない。体育祭の1週間延期が決まった。
 
 公民館に出向いたのは地区体協の役員・事務局、各区長らだった。私は、午前3時に一度、目をさました。雨脚が強い。「二度寝」をしたら5時40分集合に間に合わないかもしれない――そう思うと、寝られなくなった。そのまま起きて、時間がくるのを待った。

 前日午後、石灰でラインを引いたトラックの周囲にテントが配置された=写真。体協のスタッフのほか、各行政区から3人が出て組み立て、寝かせた。テーブルと折りたたみイスも体育館に用意した。雨が降らなければ、スタッフや区の役員らは当日7時半に集まり、会場の準備をととのえたあと、8時半には開会式が行われた。

 延期が決まると、公民館に集まったスタッフがケータイで連絡を取り始めた。私もその場で同じ区の弁当・反省会飲食物担当に連絡した。発注先に延期を伝えないことには弁当・飲食物が無駄になる。帰宅後は7時になるのを待って、ほかの役員・関係者にその旨、電話を入れた。ふだんは電話をかけない時間だが、緊急なのでやむを得ない。

 延期は、現スタッフにとっては初めてのことだ。テントをそのまま校庭には置けない。体育館のテーブルとイスも元の場所に戻す必要がある。公民館の和室に山積みにされた景品はどこに保管するか。即断即決が求められた。

 中止するのは簡単だ、中止ではなく、延期だから、元に戻したり、再度、招集をかけたりと、手間暇がかかる。その手間暇を省略すると、子どもたちにとっては楽しみの少ない、つまらない地域になる。きょうは午前11時に学校へ出向いて、テントをばらして撤去する。で、土曜日午後、また招集をかけてテントを組み立てる。

2014年9月7日日曜日

狩猟免許講習会

 ときどき、近くの公民館で地域の集まりがある。そのあと、これもときどきだが、8地区の行政区長が残って当面の行事や課題について話し合う。先日は、「狩猟免許講習会」=写真=が話題になった。

 隠居のある夏井川渓谷では、夜、イノシシが当たり前のように出没する。農作物が被害に遭うときもある。平地でも山すその田畑が荒らされるケースが増えている。当ブログでも何度かそのことを書いてきた。

 わが家のある平・中神谷は、東西に延びる旧街道沿いに家が張りついている。南側は国道6号・夏井川、北側はすぐ常磐線、そして「神谷耕土」といわれる水田地帯だ。近ごろは、この線路のところ、つまり家の裏までイノシシが現れるようになった。田んぼに足跡が付いているのでわかった、という。
 
 阿武隈高地の東端、小さな丘が区内にあるのは5行政区。残る3行政区のうち、田畑と縁がないのはわが区を含めて2つだけ。この2区以外では、イノシシへの警戒が強まっている。で、ある区長から、イノシシを生け捕りにするわな猟などの講習会が近く開かれる、という話が出た。

 山手のある行政区では、すでに2人が狩猟免許を取り、ワナを仕掛けてイノシシを駆除しているという。箱ワナかくくりワナかは聞きもらしたが、ワナにかかったイノシシを成仏させ、処分するまでがまた一苦労だとか。
 
 結果的には、今回はどこの区も受講を見送ることになったが、イノシシ被害が農山村に限らず、市街地にも及びつつある、ということを認識させられた。言い方を換えれば、3・11後、イノシシが増えて街に攻め寄せつつある、というイメージ。農作物被害どころか、住宅街に現れて、遭遇した人を襲わないとも限らない――そんなケースも考えないといけなくなった。

2014年9月6日土曜日

90年前の紙屑

 <おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか>。大正13(1924)年1月15日発行の、磐城平の同人詩誌「みみづく」には、この山村暮鳥の詩「友らをおもふ」が載る。
 
 ほかに、草野心平らの詩、暮鳥が最も期待した地元の若手詩人磯貝彌(1895?―1919年)について知ることのできる佐々木顕「磯貝彌氏の手紙」、4カ月前の関東大震災で亡くなった親友を詠んだ鈴木茶茂子の歌も収める。通巻第3輯、第2年第1号で、発行兼編集印刷人は馬場京助(いはらき新聞記者)。暮鳥研究者にとっては垂涎の雑誌だろう。

 3・11後、いわきでも「全壊」「大規模半壊」の住家の解体が続いた。あるとき、古本屋を営む若い仲間が、この「みみづく」の現物を持ってきた。某家でダンシャリが行われた。そのときに出てきたもののひとつだという。

 コピーは四半世紀前から持っていたが、本物を手にするのは初めてだ。紙の質、表紙絵の色、活字の凹凸感、日焼け具合、裁断の雑さなど、コピーにはない情報をたくさん秘めている。しばらく預かることにした。

 その経緯を、2013年10月10日付の当ブログ(「古書は巡る」)に書いた。これが、群馬県立土屋文明記念文学館のスタッフの目に留まった。いわき市立草野心平記念文学館の学芸員女史を介して連絡があった。秋に「山村暮鳥生誕130年記念展(仮称)」が開かれる。「みみづく」の現物を展示物に加えたいという。

 現在の所有者(若い古本屋)の了解を取り、たまたま預かり人である私が立ち会うかたちで貸し出すことになった。その作業が先日、心平記念文学館で行われた。同文学館からの資料貸借に合わせ、わが家に来てもらうより私が文学館へ出向いて手続きを済ませた方が早いので、場所を借りることにした、というわけだ。

 公的機関との資料の貸借にかかわるのは初めてだ。借りる側は白い手袋をはめて、慎重に資料をチェックする。写真を撮り、スケッチをする=写真。資料のどこが破れ、穴が開き、しみがあるか。「原状」を把握して借り、「原状」のまま返す――そのための作業はまるで警察の鑑識のようだった。展覧会はこうして、空気がピーンと張りつめたような、水面下の作業の連続の上に成り立っているものなのか。

「みみづく」は表紙から本紙がはみ出している。裁断ミスだ。そのうえ、親指の爪の先ほどの裁断くずが付いている。そんな紙屑があると、かえって神経を使うのではないか――そう思って、「取ってしまおうか」と旧知の学芸員女史に言うと、たしなめられた。

 90年前の手抜き、あるいは未熟な裁断の結果の紙屑だ。そこまで含めて資料価値があるとは思えない。借用書とスケッチのコピーが手元にある。それを見ながら、やはり紙屑は私が除去しておけばよかった、と思った。

2014年9月5日金曜日

奥さんのオトウト?

 庭のフヨウ=写真=が咲き始めたのは8月下旬。それから半月がたつが、今も次々と花を咲かせている。朝方咲いて夕方しぼむ一日花だ。花としてははかないが、見た目はいつも新しい。

 人間の記憶も、一面では一日花のようにはかない。しぼんで、変形して、まったく違ったものになる。誤解を生む――といったことも起きる。

 カミサンが米屋(実家)の支店をまかされている。ちょっとした雑貨も売っている。近所へ出かけるというので、店番を頼まれた。

 40年も前から知っている女性が食塩とチリ紙各3袋を買いに来た。電卓で代金を計算した。「計算ができなくて」といいながら、おつりを渡すと、「奥さんのオトウトさんに新聞社の人がいたよね」「オレ」「うそっ!」「オトウトでなくて、ダンナ。オレはちゃんとあなたのことを覚えてるよ、変わらないね」。

 義弟も支店でコメの配達をしている。カミサンが言う「オトウさん」(私のこと)と「オトウト」がダブって、いつのまにか新聞記者をしていたのは「奥さんのオトウト」になってしまったのではないか。

 女性は会社の近くの飲食店(確か串焼き店だった)で働いていた。私は独身のころから、よく上司に誘われてカウンターに座った。もう一人の大先輩と3人になることが多かった。そのとき、飲食の世話をする彼女と顔見知りになった。街に車を置いて帰宅した翌朝はバスになる。バスが一緒になることもあった。すまいが近所で、私が米屋に住んでいることも、やがてわかったはずだ。

 いつのころから、私は女性のなかで「米屋の奥さんのオトウト」と誤解されるようになったのだろう。年下だからオトウトには違いないが、そんなことを彼女は知るよしもない。きっかけはおそらく前述したとおりだが、ときどき店で見かける「ダンナさん」と、昔の私の外見があまりにも違い過ぎている(たとえば髪の毛)ことも、原因のひとつだったかもしれない。
 
 40年前は上司と同世代の40代前半という印象だった。今は、私よりちょっと上の70代半ばといった感じ。いや、ただそう見えるだけで、ほんとうは80歳を超えているかもしれない。私もまた彼女を正確にはわかっていないのだ。こうして、人生は、社会は誤解で成り立っているものなのか。

2014年9月4日木曜日

列車とイノシシ

 隠居のある夏井川渓谷へは、普通、日曜日の朝に出かける。渓谷を一番列車が走り抜け、二番列車がやって来る前の時間帯、つまり7時すぎ~9時前が多い。

 谷を縫って県道とJR磐越東線が並走している。隠居に着くまで踏切を2つ渡る。土地の人は渓谷のど真ん中、江田駅での列車の発着時間はもちろん、踏切の通過時間を熟知している。同駅を発着する列車は一日に上下合わせて11本しかない。

 まだ現役のころ、隠居に泊まるため、土曜の夕方に出かけたことがある。偶然、知り合いの車のあとになった。踏切でも、カーブでもよほどのことがないかぎり、ブレーキランプがつくことはなかった。エンジンブレーキでスピードを調整していたようだ。

 8月31日の日曜日は午前中、街で用事があった。午後1時ごろに街を出た。平野部から溪谷へと入る「地獄坂」の上り口に磐城高崎踏切がある。警報が鳴り、遮断かんが下りて、列車が通過した=写真。ここで列車の通過を待つのは数年ぶりだった。

 その磐東線は、夕方以降は野生の生きもの、とりわけイノシシが要注意となる。新聞によると、おととい(9月2日)午後8味5分ごろ、夏井―川前駅間の上り線(いわき方面)で普通列車がイノシシと衝突し、一時運転を見合わせた。

 まただ! 記憶に新しいところでは、8月20日の宵にも磐東線で普通列車とイノシシの衝突事故がおきている。
 
 同夜、平で夏井川流灯花火大会が開かれた。ビールを飲みたくて、家族で磐東線を利用しようとした若い仲間が、フェイスブックでつぶやいていた。列車の着時間数分前に突然、放送があった。「列車がイノシシと衝突したため、徐行運転をしております。2駅前に到着したところで点検を行う予定です」。結局、1人だけ家に戻って車を出す羽目になった。
 
 イノシシは夜間(人がいなければ昼間から)、活発に動き回る。夏井川渓谷ではときどき、土手や空き地が激しくほじくり返される。集落の住人からはこの十数年の間に、イノシシが列車にはねられたという話を何度か聞いた。今度も渓谷を中心に動き回っている1匹がはねられたのだろう。
 
 3・11後は明らかに事故が多発している――そんな実感がある。原発事故の影響でイノシシ猟をする人が減り、山中をバッコするイノシシが増えた。それで、列車にはねられるイノシシも増えた。
 
 ところで、事故がおきた区間と時間(午後8時5分)だが、磐東線の時刻表からは該当する列車が見当たらない。いわき行きの最終列車は、夏井駅発午後8時39分、その前の列車は同6時45分だ。次の川前駅には9分で着く。臨時列車? まさか。事故の発生時間が「8時45分」だったということはないのか。

2014年9月3日水曜日

“ハスの文化史”

 ハスの花が散ったあとの花托のかたち=写真=がおもしろい。生でハスの実も食べられる。そう教わって食べた瞬間、国境を越えた「ハスの文化圏」が思い浮かんだ。

 ハスと、ハスの文化に関する情報をネットで探った。でも、やはりハスについて書かれた本を読みたい。ハスを、ハスの文化をよく知りたい――となれば、図書館へ行くに限る。事前にいわき市立図書館のホームページで、ハスに関する本をチェックした。
 
 著者・出版社は省略する。『ハスの文化史』『睡蓮と蓮の世界』『蓮』『蓮への招待――文献に見る蓮の文化史』をメモして、駅前再開発ビル「ラトブ」の4・5階に入居している総合図書館へ出かけた。

『蓮』はすぐわかった。5階の「一般・植物学」のコーナーにあった。同じところにあるはずの『蓮への招待』が見つからない。『ハスの文化史』は「出納書庫」にある。4階の「一般・園芸」コーナーにある『睡蓮と蓮の世界』はあとで探すとして、カウンターで『蓮への招待』と『ハスの文化史』の取り出しを頼んだ。

 私が渡したメモを見ながら、検索を始めたスタッフが念を押す。「『バスの文化史』ですか?」「いや、ハス」「バスですが」「あのバス?」。ハンドルを握って回すまねをすると、「そうです」。「いやぁ、まいった。それはパスです」。顔を見合わせながら、声を殺して笑った。スタッフはそのあと「一般・植物学」のコーナーから、『蓮への招待』を探して持ってきてくれた。

 江戸時代中期の俳人横井也有(1702~83年)の狂歌が頭に響いている。也有は<幽霊の正体見たり枯尾花>の元句<化物の正体見たり枯尾花>の作者だ。

「手はふるう足はひょろつく歯は抜ける耳は聞こえず目は疎(うと)くなる」。歯茎が腫れる。テレビの音量が大きいと注意される。足元もときどき、おぼつかない。今度は、目。「ハ」も「バ」も区別がつかなくなった。

2014年9月2日火曜日

住宅地のキジ

 水田と川にはさまれた住宅地を車で通りぬけようとしていたときだった。前方50メートルほどの路上に、カラスとも、ニワトリともつかない鳥がいた。カラスにしては脚が長い。ニワトリにしては体が長い。近づくと、雄のキジだった=写真。
 
 なんでこんな住宅地に? といっても、家は細道の両側にポツリポツリとあるだけ。まとまって建っているところもあるが、家の裏手は、北側が水田、堤防のある南側が畑や空き地、神社の境内だ。河川敷を主なえさ場にしているキジにとっては、やすやすと足を延ばせる空間なのだろう。
 
 その細道には、同年代の知人の実家がある。お父さんは亡くなり、お母さんは養護施設に入っている。過疎化・高齢化は山里だけの話ではない。市街地の古い住宅団地でも同じ現象が起きている。その細道沿いも例外ではない。世代交代が進んだのか、家が新しくなり、空き地も増えたような印象を受けた。

 キジは警戒心が強い。ところが、車に関しては接近してもそんなに気にしない。そっと窓を開けてカメラを向けたとたん、急に駆け足になり、あっという間に空き地の草むらに消えた。その素早さは見事というほかない。人間に狩られ続けてきた歴史がDNAに刻まれ、人間の姿を見たらとにかく逃げる――という反応が生まれたのだろう。

2014年9月1日月曜日

ハスの実を食べる

 ハス(蓮)の実=写真=を、初めて生で食べた。味はクリに似る。生のクリは硬いが、ハスは軟らかい。やわらかくてクリに似た味の植物の実があったような、なかったような……。

 きのう(8月31日)の日曜日。ある公園で弁当を食べていたら、自転車の男性がやって来た。

 目の前にハス池がある。あずまやもある。その辺一帯を清掃しているのだという。といっても、誰かに頼まれたわけではない、勝手にやっている――ひょうひょうとした雰囲気から、そんな感じを受けた。
 
 きのうはたまたまその時間が遅れたのか、近くで祖父と遊んでいた幼児が「じいさん、きょうは遅いね」といいながらやって来た。部活帰りの中学生も現れた。子どもたちには知られた存在らしい。
 
 清掃を続けていても、毎回、ちょっとしたごみはあるという。このごろは長い竹の先にくくりつけた鎌で、盛りが過ぎて汚れたハスの花や茶色くなった蜂の巣状の花托を片づけたり、刈り取ったりしているようだ。
 
 その男性と、「ハスの実はうまい」という話になった。確かに、台湾で食べたハスの実の砂糖漬けは甘納豆みたいでうまかった。いやいや、生がうまいのだ――という。
 
 さっそく、実演してくれた。花が散ったばかりで、まだ蜂の巣状になっていない花托を刈り取り、指をギュッと差し込んで、緑色の実を取りだした。それを食べようとしたら、「待った、殻をむかないと」と注意された。緑色の殻は簡単にむけ、白くツルンとした実が現れた。それを食べるのだという。食べたら、冒頭のような食感を得た。
 
 その瞬間、アジアではハスが重要な役割を果たしているのではないか、「ハスの文化圏」といった視点が成り立つのではないか、と思った。
 
 台湾はむろん、ベトナム、カンボジアと、同級生と“修学旅行”をした国はハスの国だった。バングラデシュもそうだろう。国花はスイレン(睡蓮)。いわきで震災の支援活動を続けている国際NGO「シャプラニール」は、ベンガル語で「スイレン(睡蓮)の家」。ハスと睡蓮の違いはあるにしても、同じ水生植物、「蓮華」だ。仏教もまた、「泥沼に咲く蓮華」ではないか――。
 
「子どもたちには食べさせられないけど、おれたちはもう年だからね」。そういいながら、彼はにやりとした。私も、カミサンも同意した。