2014年10月31日金曜日

罰当たり

 常習累犯窃盗の判決公判が月曜日(10月27日)、地裁いわき支部で開かれた。原発事故に伴う避難区域の富岡、楢葉、広野各町で空き巣を繰り返した35歳の男に、懲役4年が言い渡された。

 男はわがふるさと・田村市の人間だ。初夏に双葉署に逮捕されたとき、その件数の多さに驚き、なぜ阿武隈の山の向こうから浜通りの双葉郡南部へ――と疑問に思ったものだ。

 空き巣に入った件数がハンパではない。判決理由で裁判官は「200軒とも300軒ともいう住居に忍び込んで窃盗を繰り返したのは、原発事故により長期間の避難生活を強いられている被害者らに追い打ちをかける行為」(福島民報)と断じた。仕事のついでに、なんてものではないだろう。空き巣を仕事にしていたようなものではないか。

 震災後、ボランティアとして浜通りに駆けつけたふるさとの人間がいる。一方で、空き巣を繰り返す罰当たりな人間がいた。浜通りに住む同郷の人間として、被害者にすまない思いを抱かずにはいられなかった。

 9月下旬、広野~楢葉~富岡~川内村経由で里帰りをした。双葉町と郡山市を東西に結ぶ国道288号は通行証がないと通れない。田村~川内~いわき市と阿武隈高地を南北に走る国道399号は、つづら折りとアップダウンが激しい。とすると、男がつかった道は真ん中の県道小野富岡線=写真=ということになる。

 私が子どものころは、阿武隈高地の分水嶺が生活圏=交通圏を分けていた。分水嶺の西、中通り(現田村市常葉、都路町)の人間は郡山市を向き、東の浜通り(川内村)の人間は同じ双葉郡の富岡町を向いていた。今もその構造は変わらない。

 が、原発が稼働し、車社会が進展した結果、田村市東部からも原発へ通う人間が現れた。分水嶺の西側の人間であっても、浜通りは「山の向こう」ではなくなった。道路もずいぶん改修された。震災前は、富岡の人間が郡山から東北新幹線を利用するということもあった。要は、時間距離が短くなったのだ。
 
 男の家から最も遠い広野町まででも、車で1時間ちょっとだろうか。先月の里帰りの際に、県道小野富岡線を通りながら、車が空き巣の常習化と広域化を可能にした、しかもこのルートはほとんど人に会うこともない、などと思った。その熱心さをなぜ社会的なものに振り向けられなかったのか、といってもしかたないことだが。

2014年10月30日木曜日

福島県文学賞

 10月27日、いわき市の吉野せい賞、福島県の文学賞が発表された。せい賞の選考結果について、市教育長、吉野せい賞運営委員会委員長とともに市役所の記者クラブに出向いて話した。県文学賞は県と共催新聞社・福島民報の28日付1面で知った=写真。

 せい賞の記事は同じ日の同紙の5面に載った。県紙からすれば、県内の1自治体の文学賞にすぎない、ニュース価値は県文学賞より低い、という判断だ。同じ日の発表になったために、よけい扱いの違いが際立った。

 それはさておき、県文学賞の<小説・ドラマ>部門正賞を畏友の夏井芳徳さんが、<詩>部門正賞を知人の木村孝夫さんが受賞した。知り合い2人の同時受章に、<おおっ>となった。朝7時には夏井さんに電話をかけた。8時にはカミサンが木村さんに電話をした。夏井さんは初の応募、木村さんは準賞受賞から25年たっての正賞だ。
 
 夏井さんの小説は「石熊村キツネ裁判―『三川タイムス』取材ノート」で、「キツネに化かされた被害者を救済するための裁判がある、というユニークな発想の娯楽小説で、文章力、構成力があり完成度が高いと評価された」。
 
 木村さんの詩作品は「ふくしまという名の舟にゆられて」13編で、「東日本大震災と東京電力福島第一原発事故後の現況を多面的に表現した。完成度や作品の質において正賞にふさわしいと推された」。
 
 夏井さんはいわき地方のじゃんがら念仏踊りや獅子舞など、民俗学的な分野での調査・研究を続けている。若いときには小説の単行本を出したこともある。それで、本領は創作、と私はずっと思ってきた。ユニークな視点から話を組み立てて人をけむに巻いたり、笑わせたりするふだんの会話からも、それは察せられる。いよいよエンジンがかかってきたか、というのが実感だ。
 
 木村さんとは震災後、国際NGOのシャプラニールがいわきで運営する交流スペース「ぶらっと」で知り合った。「ぶらっと」の利用者であり、支援者であり、シャプラニールを支える“同志”でもある。
 
 昨年暮れ、詩集『ふくしまという名の舟にのって』(竹林館)を刊行した。あとがきに「奉仕活動を通して傾聴した被災者の方々の気持ちや、毎日のようにニュースになっている原発事故の収束状況などを下地として、作品を書き上げている」とある。受賞作品の「ふくしまという名の舟にゆられて」は、その延長線上にあるものだろう。

 キリがない。「キツネ裁判」のからみでいえば、哲学者内山節さんの『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(講談社現代新書)は、夏井さんの愛読書のひとつではなかったか。そういうことも含めて、書こうと思えばいくらでも書ける。ひとまずきょうはこのへんでやめよう。
               ◇
 深夜、内山さんのキツネの本を引っ張り出したら、中からいわき地域学會の平成20(2008)年2月のはがきが出てきた。

 市民講座の案内で、第238回は夏井さんが「狐に化かされた話『石城北神谷誌』より」というテーマで話している。「人間が狐に化かされた話を取り上げ、昔の人たちと狐の関係などについて考えてみたいと思います」とあった。ずっとキツネがとりついていた、いやキツネのことを考えていたのだろう。

2014年10月29日水曜日

甘梅漬

 カリカリの梅漬けは「おふくろの味」。母親は梅干しもつくっていたが、記憶にあるのはカリカリ漬けだ。以来、梅のカリカリ漬けに出合うと、自然に手が伸びる。

 JAいわき市の小川・高萩女性部が手がけている「甘梅漬」も、カリカリ漬けの一種だ。青梅の種を取り、砂糖とリキュールなどを加えて3カ月ほど寝かせたものが出回るようになった。日曜日(10月26日)に今年の甘梅漬をJAの直売店で買い、早速、酒のつまみにした。止まらなくなった。

 で、きのう(10月28日)、「売っているに違いない」とふんで、四倉方面へ出かけたついでに道の駅よつくら港に立ち寄った。JAの甘梅漬(600円)も、同じ小川町の元祖・大平商店の甘梅漬(550円)もあった。

 晩酌のつまみに2つの甘梅漬を並べ、知人からもらった会津の梅干しを添えてみた=写真。左側が元祖・甘梅漬、右側がJAの甘梅漬、上が会津の梅干しだ。赤シソからしみ出したアントシアニンの色がなんとも美しい。

 それぞれの家庭にそれぞれの食文化がある。元祖甘梅漬とJAの甘梅漬にも違いがある。カリカリした食感は同じだが、元祖・甘梅漬はよりリキュールが多いように感じられた。

 甘梅漬のカリカリ感は会津の高田梅に似る。高田梅には、梅とアンズの雑種「豊後梅」に在来種の梅をかけあわせて改良を加えた――という説がある。大きく肉厚なところも共通している。会津の梅干しも、もしかしたら高田梅を小割りにしたものかもしれない。

 さてさて、道の駅で甘梅漬をまとめ買いしようとしたら、わきから「待った!」がかかった。3袋や4袋でも結構な値段になる。それで、元祖・甘梅漬、JA・甘梅漬各1つに抑えられた。人の好みはそれぞれだが、まとめ買いしたくなるような酒のつまみはそうない。

2014年10月28日火曜日

実生カエデ

 夏井川渓谷の紅葉がピークを迎えつつある。土曜日(10月25日)には渓谷を縫うJR磐越東線の列車徐行が始まった。

 紅葉といっても、今はツツジやヤマザクラ、その他の落葉広葉樹が主役。V字谷が日を追って黄~紅色に染まってきた。カエデも少しずつだが色づきはじめた。

 渓谷の景勝のひとつ、「籠場の滝」のそばに大町桂月(1869~1925年)の歌碑がある。「散り果てゝ枯木ばかりと思ひしを日入りて見ゆる谷のもみぢ葉」。十何年も渓谷に通い続けて、ようやく紅葉は前半が非カエデ、後半がカエデ――と区別がつくようになった。桂月は、非カエデの紅葉が終わり、落葉が進んだあとのカエデの紅葉を詠んだ。

 カエデの紅葉は美しい。しかし、その生命力に手を焼くこともある。溪谷のわが隠居には敷地境界と庭に合わせて4本のカエデがある。その実生が庭のあちこちに発生する。5年後、10年後の庭を想像すると恐ろしい。その意味では、間引きを兼ねてポット苗にするのは好ましいのだが……。

 昨年師走に庭の全面除染が行われ、表土をけずりとったあとに山砂が敷き詰められた。砂浜のようになにもない状態から、春にはスギナが生え、シソが芽生えた。カエデの実生も散見されるようになった。

 赤ちゃんカエデは紅葉が早い=写真。さて、この実生をどうするか。引っこ抜いてしまおうかと考えていた矢先に、カミサンがコンビニのおでん容器を利用してポット苗に仕立てた。

 自宅の庭にはポット苗から定植したカエデが4本、ほかの木とせめぎ合うまでに育った。最初はてのひらにのるほどかわいい実生だったのが、年数を重ねてそうなった。ポット苗は、これ以上わが家にはいらない。だれかにあげるために育てるのだろう。

2014年10月27日月曜日

旬のヒラタケ

 この10日近く、飛び飛びに行事が続いた。10月18日はいわき地域学會の300回記念市民講座。21日は好間公民館の市民講座・好間学。22日は区費協力お願いのための地元事業所巡り。25日は東京へ。きょう27日は吉野せい賞の発表。あしたも、あさっても、しあさっても予定が入っている。

 せめて日曜日(26日)は夏井川渓谷の隠居で気ままに過ごしたい――と出かけたものの、午前も、午後も本を読んでいるうちに寝入ってしまった。前日の東京行の疲れが出たのだろうか。東京ではJRだ、地下鉄だと、駅から駅へ、駅から目的地へと歩いて、歩いて、足が棒になった。

 さて、隠居で寝入っている間にカミサンが周囲を歩き回り、対岸の水力発電所に渡る吊り橋付近で、森から帰って来る男性に出会ったそうだ。「袋にヒラタケだか、ナラタケだかがいっぱい入っていた。別の袋に入っていたのはマツタケにちがいない」という。マツタケはともかく、ヒラタケも、ナラタケも今が旬のキノコだ。運が良ければ大量に採取できる。

 話を聞いたからにはこの目で確かめたい――。隠居の庭にアラゲキクラゲとヒラタケの菌糸が同居する木がある。見ると、手の届かないところに長径10センチほどのヒラタケが1個、発生していた=写真。大きさといい、傘裏の白さといい、今が食べごろだ。男性が森から採ってきたのもヒラタケだろう。

 話は変わるが、「ムーミン」の作者、フィンランドのトーベ・ヤンソンは今年が生誕100年。彼女の『彫刻家の娘』という自伝的な作品にこんな文章がある。

「キノコ狩りにもやりかたがある。何百年も昔からずっと、キノコは冬の朝食に欠かせない大切な食べものだといってもいい。どのキノコにもあるふしぎな菌糸をたやさないよう、キノコの生える場所を、つぎの世代の人のためにも、とっておかなければならない。夏のあいだに家族の食料を手に入れること、自然をうやまうこと、このふたつは市民の義務だ」

「キノコ入手」の義務は、福島県東部では3・11前の話になってしまった。自然界の隅々まで汚染された結果、渓谷の森に入ること自体が激減した。庭のヒラタケも、撮っても採らない。キノコの味の記憶をかみしめるだけというのは、なんともむなしい。

2014年10月26日日曜日

珍銘柄米

 孫にとって祖父母は、一面では都合のいい存在だ。親には通用しないわがままが許される。まだ5~7歳の子であればなおさら。なにをしても怒られない。なにをいっても聞いてもらえる。

 ふだん欲しいものは100円、200円のお菓子のたぐいだが、祖父母はそのくらいなら喜んで財布を開ける。他人には言ってはいけない卑語や悪口のたぐいも、祖父母はやんわり受け止める。

 先日は、カミサンが孫の顔を見たくなったのか、電話をかけたら親が連れてきた。土曜日の午後のひととき、小1と年中組の“学童保育”を引き受けた。庭でムスカリを移植するために土を掘ったり、水をやったりしたあと、段ボールやすだれ、板切れ、コンクリートブロックなどを持ち出して「米屋兼おもちゃ屋」をつくった。

「米は何を売ってるんですか」。しらばくれて上の子に聞くと、米屋の孫らしく「こしひかりです」。「はげひかりというのもありますか」。「ありません」という答えを期待したのだが、「はげひかりは高いです」。からかいのエンジンにスイッチが入ったらしい。板切れに「はげひかり1万円」「こしひかり2000円」「ひとめぼれ1990円」と書いて並べる=写真。

 調子に乗るんじゃなかったと悔みながらも、即興で孫が応じたことには感心した。

 成長するにつれて悪口やからかいの語彙(ごい)が増えてきた。「あっかんべー」から始まって、今は「はげたま」をよく口にする。わが家に来ると、決まって私の背中にまとわりついて、頭のてっぺんをぺたぺたやる。ニヤニヤしながら「はげたま!」と叫ぶのがたまらないらしい。「はげひかり」という珍銘柄米も、祖父をからかう言葉に加わったか。

2014年10月25日土曜日

二ツ箭の雲と影

 草野心平記念文学館から見える二ツ箭山の上に白い雲がたなびき、山腹にその影ができていた=写真。

 尾根と沢とで複雑に入り組んだ山襞(やまひだ)に映る雲の影は、カモノハシのくちばしとダックスフントの頭と胴体をもった生きもののようにみえたり、左右から真ん中にあるえさをがつがつ食べている2匹の猫のようにみえたりする。

雲の影が真ん中でへこんだあたり、斜めに細く光る“爪の先”は、大地震で崩れた桐ケ岡林道ののり面だ。3・11に二ツ箭山頂の女体山の岩の一部が剥落した。たぶん同時に、中腹の林道でもガケ崩れが起きた。グーグルアースで見ると、今は防災工事が終わって通行が再開されている。

通称「ヤマノカミ」の「大山祇(おおやまつみ)神社」奥の院の上方だ。3・11から2カ月余がたった5月下旬、いわき市内の鉱物を研究している知人(いわき地域学會の仲間)の案内で現地を訪ねた。各所で落石がみられた。二ツ箭山の月山登山口の先で大量の土砂が林道を埋めていた。

物の本には、新第3紀の後半、二ツ箭断層を境にこの山の南側(写真に写っている面)がずり落ちた。新第3紀は2303万年前から258万年前の間というから、約1150万年前~258万年前に大地の変動が起きたことになる。防災工事が行われた林道の下方にその断層の破砕帯が見られる。大昔には土石流も起きたはず、と知人はいう。今は中腹まで人が住み、梨畑などが広がる。

3・11から1カ月後、いわき市南部の井戸沢断層(塩ノ平断層)と東隣の湯ノ岳断層が動いて、巨大余震が発生した。東電の福島第一、第二原発までの距離は、中部の二ツ箭断層の方が近い。3・11後、東電はこの断層についても地震発生が促進される傾向にある、と評価を変えた。ただの絵はがきのように、二ツ箭山の風景を見ることはできなくなった。

2014年10月24日金曜日

車道の盲導犬

 内郷の保健福祉センターの近くを車で移動しているときだった。盲導犬が車道をこちらに向かってやって来る。あわてて対向車線にハンドルを切り、犬と黒いサングラスのパートナーを避けた。
 
 なぜ車道を? 歩道にバンタイプの車が止まっていた。そばの空き地で男性が草刈りをしていた。広い歩道だが、でんと行く手を遮られては、盲導犬も車道に出て進むしかなかったのだ。
 
 その結果、盲動犬とパートナーが車にはねられたら、誰が責任を取るのか。はねたドライバーか。歩道に車を止めた人間に責任はないのか。

 2009年7月下旬の日曜日、いわき市立草野心平記念文学館でくどうなおこさんの企画展にちなむ、絵本の読み聞かせが開かれた。いわき絵本と朗読の会のイベントだった。ロビーに2匹の盲導犬が座っていた=写真。パートナーが朗読を聴きに来たのだろう。

 以下は、当時の小欄の一部。飼い主の関係者と思われる人がいすに座り、ハーネス(犬が体に付けている白い胴輪)に結んだリードを膝にかけていた。「写真を撮ってもいいですか」「どうぞ、どうぞ」。いろいろ話を聞いた。

 犬種はラブラドール・レトリバー。1匹は16歳、人間でいえばかなりの高齢だ。年のために床にへばりついている。若い犬はいかにも体力十分といった風情で首をスッと上げている。へばっていようと、元気だろうと、ハーネスを付けているときは「仕事をしている」とき。緊張して待機しているのだという――。
 
 歩道は歩道、駐車場ではない。盲導犬は歩行者への想像力を欠く人間の身勝手な行動に、強いストレスを感じたにちがいない。

2014年10月23日木曜日

芽ネギが列をなす

 夏井川渓谷にある隠居の庭の一角に畳半分くらいの苗床をつくり、三春ネギの種をまいてから2週間余がたつ。先の日曜日(10月19日)に見たら、髪の毛ほどの太さの芽ネギが列をなしていた。丈は2~4センチ。先端に種の黒い殻を付けているものもある=写真。思った以上に発芽は順調だ。

 10月最初の日曜日(5日)、三春ネギの種を筋まきにした。次の日曜日(12日)には、種の直上の土が筋状に割れていた。その割れ目から1カ所だけだが、緑色の点(発芽しつつある緑色のネギ苗)がのぞいていた。

 種は地中2ミリほどのところで眠っている。黒い殻を破った芽(根と茎の部分がある)はいったん上向きに伸び、やがて根の部分が屈曲して下へ、下へと向かっていく。茎は屈曲した状態で上へ伸び、ヘアピン状のまま地上に現れる。

 不思議なのは、土のふとんをかぶった黒い種がまた、茎に引っ張られて地表に出てくることだ。前にも書いたが、初期の芽ネギは頭に黒い殻をのせているために、「7」あるいは「?」のように見える。次の段階には黒い殻が脱落し、茎も根もピンと一直線になる。

 発芽率は8割以上だろうか。種としては古い。通常はその年の初夏にネギ坊主から採った種を冷蔵庫に保存しておいて秋にまく――という流れで栽培しているのだが、去年は初冬、菜園を含む庭が全面除染されることがわかっていたので播種を中止した。1年よけいに冷蔵庫で眠っていた種だ、発芽率は下がると覚悟していたものの、例年と変わりはなかった。

 第一関門は突破した。次は、どんなかたちで芽ネギを越冬させるか、だ。温室のようにビニールシートで覆うか。そこまではせずに、防寒用に苗床にモミ殻を敷き詰めよう。そうすれば霜柱の予防になる。霜柱が立って苗床の芽ネギの根が浮くようなことはないだろう。

 昨年は手抜きが原因で栽培にも失敗した。それもあってこの2年というもの、三春ネギを口にしていない。

 ゆうべ(10月22日)は6時台のNHKローカルで、青森県南部町の幻の伝統野菜「南部太ネギ」が復活し、初出荷の時期を迎えたという話題を取り上げていた。なるほど、下仁田ネギほどではないが、太い。白根が長く、加熱すると甘く、やわらかくなるという。

 三春ネギがそうだ。わが家の三春ネギが復活するまで、あと1年。この冬もときどきは、三春ネギと産地が隣り合う郡山の「阿久津曲がりネギ」(三春ネギの親だと思う)の世話になろう。そうだ、紅葉シーズンになると夏井川渓谷に直売所を設ける小野町のNさんの曲がりネギもある。こちらも加熱すると甘く、やわらかい。

 この夏から秋は買うネギ、買うネギが加熱してもあらかた硬かった。甘く、やわらかいネギに早く出合いたい。

2014年10月22日水曜日

捕虜と松のツリー

 吉野せいの短編集『洟をたらした神』に「麦と松のツリーと」がある。終戦前年の師走の暮れ、夫の三野混沌(吉野義也)とせいが菊竹山の畑で麦踏みをしていると、炭鉱の捕虜収容所通訳Nさんと捕虜の若い白人が現れた。

 Nさんが言う。「この辺に樅の木はないかねぇ」。混沌「樅はねえなあ、松の木ならどうだ」。Nさんと若者は松林の中に入り、クリスマスツリー用に「ひねくれた一間ばかりのみすぼらしい芯どまりの松」を取ってくる。およそ1.8メートル、ツリーには手ごろな長さだ。

 その松かどうか、クリスマスツリーの前に居並ぶ捕虜たちの写真が、古河好間炭鉱の捕虜収容所の実態について調べたPOW研究会・笹本妙子さんのレポートに載っている=写真。Nさんは混沌のいとこだということも、レポートで知った。

 昨夜(10月21日)、好間公民館で市民講座「好間学」の2回目が開かれた。昨年、「山村暮鳥と菊竹山」と題してしゃべった縁で、今年はその続きとして「吉野せい、そして三野混沌・猪狩満直」と題して話した。笹本レポートを紹介するなかで松のツリーも取り上げた。

 笹本さんの調査レポートはネットから入手した。捕虜になった側の英文レポート、体験記などもネットから拾えるという。いわき地域学會の若い仲間から教えられた。「いわき文献案内」に“収蔵”されている。
 
ネットをうまく利用すれば、いながらにして、瞬時に、必要な情報(文献)が入手できる。文献渉猟は今や想像力と検索技術次第。地球の裏側も、表もない。半分アナログ・半分デジタルの人間でも、仲間の力を借りれば、今まで思いもよらなかったような視点から調べを進めることができる。

「麦と松のツリーと」に登場する若い白人はどこの国の誰か、その後どこでどんな仕事に就き、どんな人生を送ったのか、などが実証的にわかってくる。やがてそこまで研究が進むにちがいない――。途中でひらめいたことをアドリブで話した。

作品と作者の研究は、既に先人によって本や雑誌の論考としてまとめられている。それをベースに、さらにデジタル社会にふさわしい研究手法を磨けば、作品と作者の読解、理解はより深く、広くなる。その確信を抱いた、楽しい講座になった。

2014年10月21日火曜日

行楽客、目につく

 日本晴れとなった10月19日、日曜日。東北最南端のいわきでも、紅葉見物の行楽客が目についた。JR磐越東線江田駅の真向かい、夏井川溪谷キャンプ場では昼前、バーベキューの煙がたなびいていた。

 テレビの紅葉情報では、夏井川溪谷は「色づき始め」だが、目当てのカエデはまだあおい。カエデの緑は少しくすんだ感じで、一部が汚れた暗赤色に変わりつつある。これがやがて、赤く激しく燃え上がるのだろう。

 それでも、広葉樹の広がる渓谷の斜面はいちだんと赤みを増してきた。朱、橙、赤、黄、……。それこそ和名の色辞典を携え、実際の葉の色と照合して、黄丹(おうに)・照柿(てりがき)・猩々緋(しょうじょうひ)・蘇芳(すおう)などと言ってみたくなるほど、微妙な色調の違いを見せる。

 江田駅直下の県道小野四倉線沿いにはこれから、農産品などの直売所、焼きそばなどの屋台テントが立つ。小野町の農家のNさんも毎年、長芋と曲がりネギを直売する。いつもの空き地にブルーシートをかけるための鉄骨が組み立てられた。この週末には自慢の産品が並ぶにちがいない。

 溪谷のわが隠居(無量庵)の隣は、個人が空き家を解体し、杉林を伐採して開いた「錦展望台」だ。先日は紅葉シーズンを控えて草刈りが行われた。同じ日曜日、このシーズンとしては初めて、入れ代わり立ち代わり車が止まっていた=写真。

 11月9日には錦展望台を出発・帰還場所に、紅葉ウオーキングフェスタが開かれる。“地元”の人間の1人として案内人を務めているが、去年は会津芦ノ牧温泉でのミニ同級会と重なって参加できなかった。今年も、夏井川河口へと向かってごみを拾いながら歩くわが区のイベントが同じ日にある。

 フェスタのスタッフから案内人の要請があってOKしたものの、後日、歩こう会と重なることを思い出した。日曜日に会って不参加を伝えた。10月~11月と、週末はイベントがめじろ押しだ。

2014年10月20日月曜日

大挙飛来

 先週の日曜日(10月12日)、平の中平窪と赤井に架かる久太夫橋から夏井川のすぐ下流、ハクチョウの越冬地を眺めたら、白く大きな鳥が休んでいた。ハクチョウらしい、ということをブログに書いた。14日は台風19号の影響で大水になった。15日は「寒かった。中神谷の夏井川にもそろそろハクチョウが飛来することだろう。川から目が離せない」とも付け加えた。

 そのあとすぐ、久太夫橋からそう遠くない所に住む若い友人が、フェイスブックにハクチョウの飛翔写真を投稿した。この秋の初飛来を確認した。

 きのう(10月19日)の朝、夏井川渓谷の隠居(無量庵)へ行く途中に越冬地の岸辺に立った。ハクチョウが大挙飛来していた。数えたら、ざっと100羽。林に隠れて見えない下流からも声が聞こえる。あとで久太夫橋から見ると、大群とは別に20~30羽のグループがいた。

 あらかたは長旅の疲れからか、砂地に座り込み、あるいは1本脚で仮眠している=写真。近づくとハッと首をあげ、立ち上がったり、2本脚になったりして浅瀬へ移動するものもあった。

 急にはばたいたものがいる。たちまち緊張が走り、何羽かがあわててはばたきながら動き出したり、声を発したりした。人間との距離感を測っていたのだろう。一定の距離を保つと、警戒しながらもじっとして、静かになった。

 ハクチョウは、地元メディアには欠かせない季節のネタだ。月並みながら「冬の使者到来」が読者をひきつける。去年はしかし、記事にはならなかった。記者が自然情報に鈍感になったのか、ハクチョウ到来を伝える地元の人がいなくなったのか。「読者が新聞から離れたのではなく、新聞が読者から離れたのだ」。アメリカの紙媒体の衰退について言われる言葉だが……。

 さて、夏井川溪谷では「ヒッヒ、カタカタ」という冬鳥のジョウビタキの鳴き声を聞いた。小さな野の鳥も北国から渡って来たのだ。

 隠居からの帰り、いわき市の夏井川の第3の越冬地(小川町三島)を見ると、ハクチョウの姿はなかった。第2の越冬地(平塩~中神谷)には、2羽が羽を休めていた。いよいよ川から目が離せない。

2014年10月19日日曜日

大根畑の電気柵

あらかた稲刈りは終わった。イノシシが刈り田に現れても直接的な被害はなくなった。が、イノシシ出没の話が後を絶たない。きのう(10月18日)は朝と夜、4人からイノシシ情報を得た。

神谷公民館まつりがきのう、きょうと開かれている。初日早朝、公民館利用者や区長、民生委員らが出て、テント張りなどをした。阿武隈高地の東端、小さな丘に囲まれた行政区の区長さんが一服のときにつぶやいた。「今朝、箱ワナにイノシシがかかっていた」

講習会を受講して狩猟免許を取った住民がいる。それで箱ワナを仕掛けることができたのだが、ワナにかかればかかったで、成仏させるまでが大変だという。大きいイノシシは暴れ方が並みではない。

きのうはそのあと、いわき地域学會の第300回市民講座が開かれ、夜は講師を囲んで打ち上げが行われた。その席での話。南に小丘が延びる内郷の市街地で、土地を借りて家庭菜園をやっていたが、大根の苗がほじくり返された。前にも違う野菜が同じようにダメにされた。荒らし方からしてイノシシではないかという。

それで思い出したのが、小川の丘陵地にあるいわき市立草野心平記念文学館の大根畑だ。先日訪ねたら、施設前の畑の周りに電気柵が張りめぐらされていた=写真。イノシシは大根を狙うのか、地中のミミズを狙うのか。

打ち上げに同席した仲間は、平北神谷でも普通にイノシシが現れるという。帰宅すると、平上平窪でイノシシが現れたという話を地元の人がしていたと、カミサンが教えてくれた。なんだか人間の世界がイノシシに包囲されたような感じだなぁ。

2014年10月18日土曜日

モグラ復活

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)の庭が全面除染されて間もなく11カ月。天然芝の庭土ははぎとられ、山砂が敷き詰められた。地中のいきものが復活するには時間がかかる――と思っていたら、意外と早かった。モグラ道ができて、土が盛り上がっていた=写真。
 
 除染前、庭を天然芝が覆い、ところどころコケが生えていた。もう4年も前のことだが、庭で休んでいると、足元を動く黒いかたまりが目に入った。頭胴長およそ7センチ。ノネズミ大のモグラ(ヒミズ?)だった。

 ぼろぼろになりかけたテーブルの丸太の脚のわきに出入りする穴があった。そこからとがった肉色の鼻をひくひくさせては地表に現れ、絶えずコケの間を動き回っている。カメラのシャッター音にも驚いて穴に引っこむほど、おどおど、びくびくしていた。

 地表すれすれのところでは、モグラ道ができると土が盛り上がる。種をまいたり、苗を植えたりしたあとのうねがそうなったらコトだ。根が地中の空洞=モグラ道にさらされ、枯れることがある。
 
 8月中旬に種をまいた辛み大根の小さなうねにも一部、モグラ道ができた。足で踏みかためたが、それで終わりという保証はない。踏み固めたあとにまたジグザグの盛り上がりができることがある。
 
 除染後、庭に最初に現れたのは除去を免れたスイセンだった。その後、スギナが現れ、シソがいくつも芽を出した。ツチグリの菌糸は消えたらしく、梅雨になっても幼菌(マメダンゴ)は形成されなかった。そして、今度はモグラ道。ミミズも少しずつ戻って来たのだろう。

2014年10月17日金曜日

『長い竹藪」再び

 震災直前の平成23(2011)年3月2日に小欄で次のようなことを書いた。
                  ☆
 草野心平の詩に「故郷の入口」がある。平駅(現いわき駅)に着いたあと、「ガソリンカー」に乗り換え、ふるさとの小川へ向かう。赤井、小川郷と駅は二つ。途中、左手に三野混沌・せいのいる好間・菊竹山の一本松が見える。

 心平は回想にふける。「北海道釧路弟子屈の開墾地での苦闘の果ての失敗から。女房の骨壺をリユツクに背負い。帰つてきた猪狩満直とこの道をとほり登つていつた。/その時三野の小舎のなかには。蜜柑箱の上に死んだばかりの子供の位牌があり。香爐代りの茶箱の中の灰には線香が二三本ささつてゐた。」

 ガソリンカーは赤井駅に止まって発車する。赤井と小川の境の切り通しが近づく。「切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」。下小川の「長い竹藪」は今も夏井川の両岸を小川郷駅の方へと伸びている。真竹のようだ。自然繁殖をしたのだろう。竹林内はうっそうとして暗い。(以下略)
                ☆
 いわき市立草野心平記念文学館の「山村暮鳥展―磐城平と暮鳥」図録(2005年)に、暮鳥だけでなく盟友の混沌・せい、満直らの略年譜が載る。満直が北海道から戻り、混沌・せいの次女梨花が急性肺炎で1歳に満たないいのちを閉じたのは昭和5(1930)年の暮れ。

 細かくみると、心平は11月、前橋での生活を切り上げて小川へ帰郷する。満直一家の帰郷は12月29日。梨花が亡くなるのは翌30日だ。そのとき、混沌は36歳、せい31歳、満直32歳。心平は27歳だった。

 心平は、昭和45(1970)年8月号の「歴程」三野混沌追悼号にこう書いた。「猪狩の川中子と三野混沌の好間と自分の上小川と、ひょろ長い三角形になる」。暮鳥のまいた詩の種に由来する“文学地理”だ。その延長で、作品だけでなく、作品が生まれた風土、風土が作品に与えた影響について関心を抱いてきた。

「いつもと同じ」小川の「長い竹藪」は、今も変わらない「故郷の入口」の風景と言ってよい。その長さを写真でどう表現するか。プロではないから、なかなかアイデアが浮かばない。先日はたまたま車で下小川を走っているときに、跨線橋の上から線路と竹藪を撮ることを思い立った=写真。

前よりは立体的になったが、夏井川が蛇行していて竹藪に奥行きがない。知人のカメラマンの文章に「習作」という言葉があった。これも、もっといい写真のための習作、「へたな写真も数撮りゃ当たる」精神でいくしかない。

2014年10月16日木曜日

川中島

 おととい(10月14日)の夏井川は、台風19号の影響で堤防中段の高水敷(こうすいしき)まで濁流に没していた。

 川の下流域では、流れが蛇行する。水量が少ないと中州ができる。川中島だ。夏井川の左岸・平中神谷に、川中島という地名がある。その名の通り、川と河川敷しかない。

 川中島の対岸・平山崎で河川拡幅工事が行われ、河川敷が広がった。岸辺にはたちまちヤナギが繁茂した。今度の大水では、ヤナギのてっぺんを除いて水没した。濁流はヤナギ林で二つに分かれ=写真、その先でまた合流する。まるで川中島だ。

 対岸の地名も水に関係している。悪戸(あくと)だという。アクツ(阿久津、圷)と同じで、川沿いの低湿地を指す。

 中神谷は江戸時代、笠間藩の飛び地だった。藩の陣屋(出張所)があった。罪人はこの川中島で処刑された。志賀伝吉著『夏井川』(1984年刊)によると、川中島は、大正・昭和になってから流路が変わり、姿を消した。その名残が渇水時になると現れる中州だろうか。

 中神谷に出羽神社がある。日曜日(10月12日)に例大祭が行われた。神輿が夏井川にも渡御する。川中島のすぐ下流部、調練場(ちょうれんば)に繰り出し、すっぽんぽんになった若者が川に入るのを目撃したこともある。

 そこには秋、サケのヤナ場が設けられる。今年も捕獲作業が始まった。大水になると、ヤナ場は水没する。きのう見たら、まだ水中に沈んでいた。

日曜日、平中平窪の久太夫橋から下流の夏井川を眺めると、ハクチョウらしい大型の鳥が数羽いた。きのうは寒かった。中神谷の夏井川にもそろそろハクチョウが飛来することだろう。川から目が離せない。

2014年10月15日水曜日

救急車が止まった

 夜の9時半すぎ。「ピーポー、ピーポー」が大きくなって、近くで止まった。ん! 外に出ると、隣の駐車場だった。車の中に、助手席を倒して男性が横たわっている。運転する奥さんが119番をしたのだろう。救急隊員が声をかけながら男性を担架に移して救急車に収容し、時をおかずに出発した。

 きのう(10月14日)の昼、車で街へ出かけた。交差点で赤信号になり、一番前に止まっていると、反対側から救急車がやって来た=写真。すかさずカメラに手が伸びた。

 救急車はパトカーと違ってスピードを出さない。交差点に近づくと、注意喚起のアナウンスをして慎重に通過する。病人やケガ人を運ぶ緊急車両だ、「飛ばさず、止まらず」が鉄則なのだろう。
 
 それから11時間後の、隣の駐車場の緊急事態だった。救急車のサイレンと赤色灯に気づいて、近所に住む知り合いのNPOの女性から電話がかかってきた。東京からいわきへ震災支援のために派遣されている。カミサンが出た。
 
 たまたま前任者も東京から来ていると聞いて、ピンときた。私がいろいろ薬を飲んでいることを知っている。前任者が<もしかしたら>と私のことを心配したのだろう。

 救急車がやって来る回数が多い地区でもある。通過するだけではない。これまでにも何回か近所で止まった。今回はわが家のすぐそばだ。心配する側からされる側へ――年を重ねれば、いつ救急車の世話になってもおかしくない。そうならないよう節制しなければと、一瞬だけ思った。

2014年10月14日火曜日

ネギ発芽

 10月5日に三春ネギの種をまいてから1週間余。おととい(10月12日)、夏井川溪谷の隠居(無量庵)へ様子を見に行った。庭の一角に苗床をつくり、筋まきをしたら、それに沿って表面の土が割れ、小さな溝ができていた。

 溝をつぶさにチェックする。1カ所に緑色の点があった。大きさは縫い針の頭ほど。砂粒より小さい。写真を撮って拡大すると、発芽しつつあるネギの苗だった=写真。

 ネギの発芽過程は不思議に満ちている。黒い種が薄く土のふとんをかぶって、地中2~3ミリのところで眠っている。やがて種から幼根があらわれる。幼根は上昇しかけるとすぐ屈曲して地中に深く根を伸ばす。

 人間が仰向けに寝た状態のまま膝を折ると山形になるのと似ている。その山形のまま、ふとんを突き破るのがネギの目覚め方だ。
 
 たとえれば、人間の足先が幼根となり、太ももが茎となる。黒い種の殻は頭で、そのまま茎とつながってふとんを突き破り、地表にあらわれる。数字で言えば「7」、記号で言えば「?」のかたち。それが、やがてまっすぐになって空をめざすようになる。レイチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」(不思議さに目を見張る感性)に包まれるときだ。
 
 種をまくとすぐ台風18号がやって来た。雨にたたかれて種のふとんがはがされていないか、気になって播種2日後の7日に出かけた。大丈夫だった。そしておととい、無事に種が目覚めつつあるのを確かめた。
 
 いわきの小中学校は、きょう(10月14日)は台風19号の影響で繰り下げ授業になり、子どもたちは午前10時に登校する。6時すぎに起きると雨がやんでいた。風もまもなくおさまった。新聞は? そうだった、休刊日だ。配達員にはいい骨休めになった。
 
 ネギの苗床はどうだろう。前回は気をもんだが、あれだけの大雨でも無事だった。弱いようで強く、強いようで弱いのが地ネギだ。今回は少しも心配していない。種はまだあらかた土のふとんに守られている。

2014年10月13日月曜日

暮鳥生誕130年(下)図録

 群馬県立土屋文明記念文学館から、山村暮鳥生誕130年を記念する企画展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」の図録が届いた。5章仕立てで、ほかに論考・略年譜などが収められている。

 ポイントは、タイトルにもある第Ⅳ章「そして『雲』が生まれた」(22~31ページ)だろう。磐城平で大正13年1月に発行された同人誌「みみづく」第2年第1号が紹介されている。前にも書いたが、この現物は東日本大震災後のダンシャリのなかで、私の若い仲間(古本屋)が救い出し、私が預かっていたものだ。それを持ち主の了解を得て貸し出した。

「みみづく」には暮鳥の詩が載る。そのなかの1篇が、暮鳥の雲の詩の代表作だ。<おうい、雲よ/ゆうゆうと/馬鹿にのんきさうぢやないか/どこまでゆくんだ/ずつと磐城平の方までゆくんか>。タイトルは「友らをおもふ」。
 
 暮鳥の愛弟子でもある斎藤千枝への“相聞歌”説をとる詩人(たとえば壺井繁治)もいるが、そうではない、という反論の、これは“物的証拠”でもある。暮鳥研究家の佐藤久弥さん(平)がすでに指摘していることだ。

 図録は、そのへんを意識した構成になっている。Ⅳ章の最初の見開きページ=写真=には、暮鳥が新聞「いはらき」の連載や千枝への私信に「おうい、雲よ」を使っていること、しかし雑誌「みみづく」(図録の左隅)には「友らをおもふ」と題して「おうい、雲よ」が出てくることを載せ、左右を比較すれば「おうい、雲よ」と詠んだ暮鳥の内面がおのずと推察できるようになっている――。
 
 というわけで、この1週間余、暮鳥あるいはその関連で吉野義也(三野混沌)・せい夫妻、猪狩満直などについて調べてきた。水戸に住む友人にお願いしたり、満直の息子・娘さんらとたまたま出会ったりしたことから、疑問がいくつか解けた。
 
 そこへ、暮鳥生誕120年記念のふろしきが舞い込み、生誕130年記念展の図録が届いた。義也・せい夫妻の開墾地(菊竹山)もせいせいするほど手入れがされていた。
 
 いわきの大正ロマン・昭和モダンの、その象徴ともいえる暮鳥ネットワークの一端を、また少し知ることができた。

2014年10月12日日曜日

暮鳥生誕130年(中)ふろしき

 今年は山村暮鳥生誕130年・没後90年の節目の年。里見庫男さん(いわき地域学會初代代表幹事)が生きていれば、「いわき暮鳥会」としてなにか記念の事業を企画したに違いない。

 暮鳥ゆかりの群馬県(生誕の地)では、県立土屋文明記念文学館で記念展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」が開かれている。茨城県でも終焉の地の大洗町、幕末と明治の博物館で記念展「山村暮鳥の散歩道―詩と風景―」が開かれている。暮鳥の文学が“爆発”した福島県いわき市では、残念ながら格別なこともないまま10月になった。

 数日前、知人が暮鳥の詩「野良道」を染め抜いたふろしき=写真=を持ってきた。10年前、高崎市の暮鳥生家の庭に「いわき暮鳥会」の協力で「野良道」の詩碑が建立された。そのときの記念品だ。暮鳥研究とは直接関係がないとしても、暮鳥ファンにとっては身近に置きたいグッズのひとつだろう。喜んで引き取った。

 ふろしきを眺めながら、ぼんやりとよみがえってきた記憶がある(手元に資料がないので、間違いがあるかもしれない)。里見さんが音頭を取り、仲間を募って群馬へ出かけた。職場の後輩が一行に加わり、ふろしきを持参した知人も一緒に群馬を訪ねたはずである。

 暮鳥は「日本の詩壇の中にあって、常に自分自身を地方に置き、詩歌という文学を通じ、その地方の地域おこしをしていた」、そして「地域づくりは人づくりであることを、既にこの時代(註:大正時代)に実践していた」(里見庫男『地域の時代へ』、2000年刊)。
 
 里見さんは暮鳥に深い敬愛の念を抱いていた。その業績を踏まえて、こんなことも言っていた。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。また、雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている」。それを踏まえたうえでの、生誕120年・没後80年記念の詩碑建立だった。
 
 日本の近代詩は暮鳥の『聖三稜玻璃』から始まる。『聖三稜玻璃』は磐城平で生まれた。暮鳥が先導した文化運動は戦後、真尾倍弘・悦子夫妻に受けつがれ、やがて医師蓬莱信勇さんらの総合雑誌「6号線」発行、いわき地域学會発足、「うえいぶ」発行とつながる。暮鳥生誕130年・没後90年の今年、その文化的な血脈を再考、再確認したい。

2014年10月11日土曜日

暮鳥生誕130年(上)菊竹山

 今年(2014年)は山村暮鳥生誕130年・没後90年。暮鳥の生まれ育った群馬県では、県立土屋文明記念文学館で記念展「山村暮鳥―そして『雲』が生まれた―」が開かれている。

 最晩年に刊行された詩集『雲』がテーマだ。磐城平時代を思い出して、雲に託して友に呼びかける「おうい、雲よ……」が重要な作品として位置付けられている。きのう(10月10日)届いた図録を見て実感した。

 暮鳥の生涯の友・三野混沌(吉野義也)と結婚した若松せいは、将来を嘱望された文学少女だった。混沌と同様、暮鳥ネットワークに属していた。結婚後はおよそ半世紀、好間の菊竹山で土と格闘した。

 夫の死後、せいは再びペンを執る。単行本『洟をたらした神』が大宅壮一ノンフィクション賞・田村俊子賞を受賞する。せいの没後、いわき市が文学賞を制定した。数年前からその選考にかかわっている。
 
 10月中旬には暮鳥に始まる地域の文化活動について、下旬には<好間学>の一環として暮鳥とつながる混沌・せい夫妻、猪狩満直その他の話をすることになっている。せい賞の発表もある。

 それらもろもろのことを頭に入れながら、久しぶりに菊竹山を訪ねた。夫妻が開墾し、生産し、暮らした土地は、きれいに手入れがされていた=写真。おととしだったか、息子さんが「いずれ戻る」と言っていた。それを実行したのだろう。人の手が入った自然は温かい。

 混沌が生き方に悩んで閼伽井嶽にこもった際、南東に光る原野(通称菊竹山)が見えた。そこを開墾生活の地と決めた。生家はその菊竹山の東方、夏井川の近くにある。

開墾地と生家まではどのくらいの距離があるのか、菊竹山の帰りに車で測ってみた。およそ3キロだった。歩くのが当たり前の大正時代。生家の下平窪から見ても、菊竹山はすぐ西の小山の奥にある。人里離れたユートピアではなく、俗世間と隣り合わせた山の原だ。これだったら、混沌の母親も苦にせずに往来できる。
 
 そのへんの距離感が大切ではないだろうか。暮鳥・混沌・せい・満直、さらには草野心平らの関係を考えるとき、「文学地理学」的な視点が新しい読解をもたらしてくれるかもしれない。そんな期待が広がる。

2014年10月10日金曜日

金色のウイスキー

 ウイスキーは、ふだんは飲まない。先日、夏井川溪谷の隠居(無量庵)でミニ同級会を開いたとき、1人がスコッチウイスキーの「バランタイン21」を持ってきた=写真。生(き)でなめるようにして飲んだ。「水なんかで割ったらだめだ」。それが共通認識になっている。

 というのも――。同じメンバーで還暦記念の“海外修学旅行”を始めたとき、海外出張経験の豊富な1人が搭乗前に空港内の免税店でウイスキーを買った。お土産にするためではない。毎夜、夕食時のアルコールだけでは飲み足りない。ホテルの部屋で飲み直し、語り直すために、どうせならうまい酒、いい酒を、という旅慣れた者の知恵だった(もちろん代金は割り勘)。

 北欧(2009年)、台湾(2010年)、そしてベトナム・カンボジア(2012年)と、免税店でウイスキーを調達し、夜は“学生飲み”を繰り返した。ベトナム・カンボジアのときには、翌月、いわきで飲むために「バランタイン21」を託された。それ以来のスコッチだ。別の1人が2年間、保管していたのだろう。
 
 9月中旬、スコットランドの独立の賛否を決める住民投票が行われた。同下旬の週末、「バランタイン21」に再会したと思ったら、月曜日にはNHK総合で朝ドラ「マッサン」が始まった。極東の人間の脳内にもスコットランドの風が吹いた。「金色のウイスキー」の味がしみた。
 
「何も足さない 何も引かない」とは日本の、あるウイスキーのキャッチコピーだ。ずばり、そのまま、あるがまま。どういう意味?なんて思わせない名言だろう。「ウイスキーを水でわるように/言葉を意味でわるわけにはいかない」(田村隆一)。いい酒はいい言葉を生む。

2014年10月9日木曜日

カナチョロと月食

 わが家の玄関先に代々、カナチョロ(カナヘビ)がすんでいる。このところ、毎日のように姿を見せる。尾の先端まで10センチもない。生まれて間もない子どもだろう。2匹いるときがある。

 きのう(10月8日)も昼前、車で出かけようとしたら、右側の玄関先に現れた=写真。もう1匹は反対側のコンクリート台の上で日向(ひなた)ぼっこをしていた。

 晴れたまま夜になり、満月が上がって6時15分ごろに月食が始まった。人間はすっかり興奮し、庭に出たり、2階の物干し場に出たりした。人間以外のいきものはどうだったのか。

 昼間見たカナチョロは、夜は茂みや葉の上で寝るらしいから、満月がかげっても生態に関係はないだろう。アマガエルは家の明かりを求めて現れた虫などを捕食する。月食はかえって好都合だったかもしれない。

 皆既日食のときは鳥が鳴くとか、ねぐらに戻るとかすることが知られている。昼の“天変”はそれなりにいきものの行動に影響を与える。皆既月食といっても真っ暗になるわけではない。北の大地では渡り始めたハクチョウやガン・カモが、夜の飛行を中断するようなことがあったのかなかったのか。

 太古の人間はなまじ「考える力」を付けたばかりに、“天変”には大きな不安、恐怖を感じたことだろう。「天体ショー」などと形容して夢中になっているのは、やがて月が明るさを取り戻すことを知っているからで、なんのことはない、人間だけが大騒ぎをしている。

 私も外に出てはデジカメで写真を撮った。いい写真が次々にネットにアップされる。いやはや、へたな写真は見せられない。というわけで、昼に見たカナチョロの写真をアップしました。

2014年10月8日水曜日

「紅葉情報」始まる

 NHK福島で県内の「紅葉情報」が始まった。夏井川溪谷はまだ「青葉」。が、実際には紅葉しているものもある=写真。アカヤシオなどのツツジ類とヤマザクラ類のようだ。葉のマークからして、メディアが伝えるのは「カエデ紅葉情報」なのだろう。

 9月のことだが、ある情報紙のゲラ刷り(紅葉スポット特集)を見ていて、おかしい表現に出くわした。ネットで検索したら、同じ文章が出てきた。「じゃらん」の紅葉情報をコピペしたのだった。ところが、元の文章自体が間違っている。

「夏井川渓谷は迫力ある岩場の間を清流がはじけるように流れる景勝地で、四季を通じて観光客が絶えない。溪谷にはJR磐越東線が走り、モミ、スズタケなど多彩な紅葉に彩られる頃になると、大勢の人々でにぎわう」

「モミ、スズタケなど多彩な紅葉」とはなんだ? モミは常緑針葉樹だし、林床を覆うササの一種であるスズタケは知っているが、紅葉するスズタケという木は知らない。「じゃらん」を出典・引用した間違いがネットに散乱している。

 ついでに書けば、夏井川渓谷に注ぐ支流の江田川は、別名「背戸峨廊(せどがろ)」。ここも紅葉の名所だ。こちらも間違った呼び方が流布し、「せどがろ」より「せとがろう」が耳になじんでしまった。
 
 ゲラをそのままにしてはおけない。コピペの文を削り、紅葉の樹種をツツジやヤマザクラ、カエデ類に差し替えた。正確な情報を発信する――活字の世界以上にネットの世界では、この点に留意しないといけない。

2014年10月7日火曜日

避難準備情報

 台風18号がいわき市に最接近したのは、きのう(10月6日)の昼前後だったか。朝9時15分、福島地方気象台がいわきに「土砂災害警戒情報」を、直後の9時35分には、市が全域・全市民を対象に「避難準備情報」を出した。全市民対象の「避難準備情報」は記憶にない。市民もずいぶんとまどったことだろう

 午前中は暴風雨に閉じ込められた。テレビをつけっぱなしにし、ネットで絶えず情報をチェックした。リアルタイムの情報という点では、ツイッターにかなわない。発信する個人が現場にいる。夏井川やその支流の新川、藤原川流域の釜戸川の様子が市民撮影の写真でわかった。

 わが家は、大雨になるとすぐ車・歩道が冠水する水害常襲地帯にある。ちょうど「燃えるごみ」の収集日。川になった歩道をごみ袋が流れてきた=写真。あとで聞いた話だが、近くを流れる農業・生活排水路(三夜川)があふれそうになった。側溝から逆に水があふれたところもある。

 雨は、お昼過ぎにはやんだ。青空が広がり始めたころ、行政区の仕事で保健福祉センターと市役所本庁へ出かけた。途中、新川と夏井川を見たが、台風が去って2~3時間あとだったからか、堤防のてっぺんまではまだ余裕があった。夏井川河口経由で、写真を撮りながら帰宅した。

 見晴らしのいい場所で車から出ようとした途端、うしろから烈風が吹いた。あおられてドアが開き、激しく音を立てた。ドアがもぎ取られるのではないか、と思うくらいの風の勢いだった。現場を見たい――職業病的な欲求がまだ残っている。ほどほどにしないとケガをするぞ、という警鐘でもあったか。

2014年10月6日月曜日

三春ネギの種をまく

「三春ネギの種は10月10日(ごろ)にまく」。夏井川渓谷の小集落・牛小川の住民のことばだ。いわきの平地では、春まきが当たり前。平地のネギと山地のネギでは品種が違うのだろう。

 小集落に隠居(無量庵)がある。庭の一角を菜園にした。地元の伝統野菜である「三春ネギ」の苗をもらったのをきっかけに、自家採種をして栽培を続けている。10月10日は、昔は「体育の日」で祝日、そして私にとっては「三春ネギ種まきの日」。その日を基準に、逆算して苗床をつくる。今は10月10日に最も近い日曜日に種をまく。
 
 三春ネギの栽培サイクルはこうだ。初夏にネギ坊主から種を採り、保存し、秋に苗床をつくって種をまき、翌春、定植する。秋から冬にかけて収穫し、一部を採種用に残して越冬させたあと、初夏を迎えて種を採る。2年がかりのサイクルを繰り返すことで、三春ネギは未来へといのちをつないでいく。
 
 しかし、このサイクルが原発事故以来、おかしくなった。去年(2013年)は師走に入って、隠居の庭が全面除染された。表土が5センチほどはぎとられ、山砂が敷き詰められた。菜園も、それでいったん消えた。除染されることがわかっていたので、三春ネギの種まきも中止した。種は乾燥剤とともに小瓶=写真=に入れて冷蔵庫の中で眠り続けた。

 いつもなら半年弱のあとにまかれる種が、足かけ2年、実質1年半弱休眠していたことになる。前に一度、種が余ったので冷蔵庫に保管して、同じように翌年秋、その年の種とは別の苗床をつくってまいたことがある。発芽率は、思ったよりはよかった。が、その後の手入れがよくなかったせいか、生長率は悪かった。

 その経験を生かすしかないと思いつつ、きのう(10月5日)朝、休眠2年目の種をまいた。水はやらなかった。台風18号の影響で雨の予報が出ていた。まき終わったころ、予報より少し早く、ポツリ、ポツリと落ちてきた。天からのもらい水――を期待して、急いで種をまいたのだった。

 今朝起きると、風雨が強い。午前5時半現在の24時間降水量は、溪谷のある川前で71.5ミリ。「もらい水」にしては多すぎる。予報では、きょうはまだまだ雨が降り続く。種の覆土がどのくらい残っているか、気にかかる。

2014年10月5日日曜日

見るラジオ・聴くテレビ

 おととい(10月3日)の夜、7時半。岩手・宮城・福島限定でNHK総合で「ラジオのチカラTV」が放送された。<前代未聞!民放DJと贈るラジオな時間>と新聞の番組表にあった。
 
 NHK仙台・加藤成史、IBCラジオ・大塚富夫、デイトエフエム・石垣のりこ、FMいわき・ベティさんのパーソナリティー4人が出演した=写真。
 
 東日本大震災で「ラジオのチカラ」が再認識された。FMいわきの場合は、発災直後から24時間体制で災害放送に切り替え、「豊間の○○荘の入居者は全員無事という情報が入りました」「「江名の○○さんは江名小に避難しています」といった安否情報、あるいは生活情報を流し続けた。
 
 その情報を伝えたパーソナリティーの1人がベティさんだった。『HOPE2 東日本大震災いわき130人の証言』(いわき市海岸保全を考える会、2011年10月刊)に彼女のことばが載る。

「今、心に残っているのは『大津波警報』という単語と『この情報がほしい人にちゃんと伝わりますように』という祈りみたいな感覚。伝えなくてはいけないというより、伝われ、伝われ、伝われと、ずっと念仏のように心の中で唱えていた」

 最初に読んだとき、発信者としての彼女の真情に打たれた。3年半前の非常事態を思い出しながら、テレビを見た。

 番組は関係するラジオでも流された。テレビ自身も一時、画面を仙台の夜景に切り替え、「ラジオのつもりでお聴きください」という字幕を重ねた。見るラジオ・聴くテレビだ。FMいわきもかけたら、テレビより2秒くらい速い。両方同時の聴取・視聴は無理だった。
 
 テレビは、7時55分には終わった。ラジオはそのあと9時まで続いた。テレビからラジオに切り替えると、なんだか話の流れが軽くのびやかになった。テレビは想像力を刺激するラジオと違って、いろいろ見せないといけない。そのための指示を見落とすまいと、よけいな神経を使う――そんなことが作用しているのではないか、なんて思った。
 
 面白い企画だった。それこそ前代未聞だから、こちらも面白がってテレビとラジオを同時に聴いたりしたのだった。

2014年10月4日土曜日

今度はレース鳩

 今度は足環のついた鳩だという。レース鳩が道路向かいの歩道で死んでいた=写真。カミサンが朝、店の雨戸を開けると目に入った。2カ月ちょっと前には同じように、こちら側の歩道でカルガモが死んでいた。「片づけて」と、しかめた顔がいっている。

 カルガモのときにも書いたが、若いころ、石森山(平)の絹谷富士では血にまみれて死んでいるレース鳩を見た。オオタカのえじきになった。そのあと、やはり同じ山の遊歩道でタカのえじきになったレース鳩を見た。

 それに比べたら、今度のレース鳩は外傷がない。死因はもちろんわからない。足環から宮城県の鳩舎の鳩だとわかったが、死んだ鳩は引き取りに来ない、そちらで始末してください、となるに決まっているから、新聞にくるんでごみ袋に入れ、燃えるごみの日に集積所に出した。

 参考までに、23年前(1991年10月)の拙文を載せる。疲れて飛べなくなっていたレース鳩をいわきの奥山(小川町・十文字付近)で保護したときの様子とその後を、勤めていた夕刊紙のコラムに書いた。
                 ☆
 人っこ1人いない小川の山奥。降り続く雨に心細い思いで車を走らせていたら、ずぶ濡れになってすくんでいる伝書バト(注:レース鳩のこと)が行く手を遮った。あっさり捕まったところをみると、体力を消耗しきって飛べなくなっていたのだろう。

 足環に記された日立の飼い主に連絡を取った。2日後、引き取りにやって来た彼の話では、10月6日朝6時、人に頼んで岩手県寄りの青森県から78羽を放した。早いのは4時間後に戻って来たが、結局、18羽が帰らずじまいだった。

 その1羽を保護したのは、青森を飛び立ってから丸4日後。今年かえったばかりの若鳥で、いきなりの遠距離には無理があったらしい。

 伝書バトの敵は猛禽類だけではない。地面に落ちているえさしか口にしないから、道に迷ったが最後、衰弱して獣のえじきになってしまう、というケースが少なくないのだという。どっちにしても行く手には死が待ち構えている。

 命拾いしたハトだって幸運とは言い難い。あんまり遠距離だと、そちらで処分してくれ、と飼い主に見放されることがある。それもこれも、レースバトとしては失格、とみなされるからだろう。

 北上高地を越え、阿武隈高地を越えて必死にはばたいていく彼ら……。悲しくもけなげな帰巣本能ではないか。

2014年10月3日金曜日

「キノコ撮り」

 今年は、秋キノコはどうなのだろう。9月下旬、夏井川渓谷の岸辺の道を少し歩いただけで、有毒のテングタケ=写真=などが次々に見られた。おそらくキノコは豊作ではないだろうか。

「キノコ採り」なら山の斜面を攻める。若いときはそうだった。が、垂直方向に進むとたちまち息が切れる。で、水平方向だけに動く「キノコ撮り」に切り替えた。要するに、デジカメをもった散歩だ。

 写真を撮り始めるとすぐ、男性がうしろからやって来て道の奥へと進んでいった。いでたちが渋い。タオルを頭巾にし、地下足袋をはき、リュックを背負って、手には小鎌を持っている。思わずあいさつしながら聞いた。「キノコですか」「ええ、様子を見に」。こちらはマツタケの意味で聞き、相手もそれを察して答えた。

 私が「キノコ撮り」をしていた場所は、それこそ40年前にはマツタケが採れた斜面のふもと(私は採ったことはないが)。その後、松枯れがおき、いったん収まったと思ったら、最近、また松枯れが始まった。それに加え、林床が富栄養化し、赤松が年を取ったこともあって、マツタケが姿を消したと思われる。

 マツタケ採りの人々はその小道の奥の、また奥に「シロ」を持っている。私のように足元にある毒キノコなどには目もくれない。

 ツイッターでいわき内外のキノコのベクレルを測って発信している人がいる。数値を見る限りでは毎回ため息がもれる。いよいよ味より色とかたちの「キノコ撮り」に徹するしかない。

2014年10月2日木曜日

川内村の峠道

 いわき市の北隣、川内村の避難指示解除準備区域がきのう(10月1日)、解除された。そのなかに一部含まれていた居住制限区域は避難指示解除準備区域に変更された。

 10日前、同じ双葉郡の富岡町から川内村を経由して田村市常葉町の実家へ行った。国道6号を北上し、富岡からは県道小野富岡線を利用した。楢葉・富岡・川内と避難指示解除準備区域と居住制限区域を通った。

 富岡~川内ルート利用の里帰りは3・11後、初めてだ。その前はもっと北、国道288号ルートを利用した。

 富岡川沿いにV字谷を駆け上がる。トンネルがいくつかできていて、ずいぶん通りやすくなったが、川内村に入ると昔ながらのくねくね道が続く。峠の割山トンネル付近でまた立派な道になった。

 峠を越えると西側、雲の切れ目に青空が見えた=写真。自転車に乗った若者が2人、坂道を駆け上がってくる。川内に入って出会った最初の“村びと”だ。やがて坂を終わりかけたところから集落が始まった。おばあさんが道を歩いていた。さらに行くと、もう1人、おばあさんがいた。

 阿武隈の山里で午前中、しかも月曜日に、人間が道を歩いたり、自転車をこいだりしているのは珍しい。3・11の前でも後でも、まず軽トラに出合うくらいだった。連休の合間だったことが影響していたのだろうか。
 
 詩人草野心平はこのルートを利用して、バスで初めて川内村へ入った。以後、村民と交流を深め、名誉村民に推戴され、天山文庫を贈られた。心平が通い始めた昭和20年代は、子どもがまだ道路を遊び場にしていた。私らがその最後の世代だった――。指示解除のニュースを受けて、心平のこと、10日前の川内村の様子を思い出した。
 
 田村市都路町の20キロ圏内も指示解除になって、きのうで半年がたった。知人の家や親類の家の前を通るたびに、今どうしているのか、これからどうするのかと気になった。

2014年10月1日水曜日

天井裏の同居人

 スズメバチがときどき、わが家の茶の間に現れる。キイロスズメバチらしい。これまでに何度か家の軒下を見て回ったが、巣はなかった。

 夏井川渓谷の隠居(無量庵)では、毎年のように軒下に営巣した。放置しておいたものはサッカーボール大になったが、2度ほどソフトボール大のところで巣を取り除いた。

 朽ちかけた風呂場の板塀のすきまから入り込み、内部に営巣したこともある。その前で草引きをしていたカミサンがチクリとやられ、脹れも痛みも引かないので、磐城共立病院の救命救急センターへ駆けこんだ。10年近く前のことだ。痛い経験があるので、軒下に巣がないからといって油断はできない。
 
 おととい(9月29日)は夕方、開け放たれた茶の間に2匹が入り込み、しばらくブンブンやっていた。きのうは朝、その1匹が茶の間のどこかで一夜を過ごしたのか、人間が動き始めるとすぐそばを飛び始めた。ガラス戸を開けてやると、庭へ消えた。
 
 近くに巣があるにちがいない。庭へ出たら、スズメバチが飛び交っていた。東西に台所と茶の間が配された1階部分の三角屋根直下に、空気抜きの塩ビ管が2つ出ている。玄関の真上、約4メートルの高さだ。東側の管をスズメバチが忙しそうに出入りしている=写真。屋根裏、イコール茶の間の天井裏に営巣したのだ。これでは、巣は外からは見えない。
 
 9~10月にはスズメバチが最も数を増やす。刺傷事故も多い。ここまできたら、天井をはさんで下と上とで同居するしかない。気温の下がる晩秋には姿を消す。ヤブカだって10月いっぱいでいなくなる。それまで静かに、知らんぷりをして。