2016年7月31日日曜日

7月が終わる

 イギリスの詩人T・S・エリオットの「4月は残酷な月だ」にならっていえば、わが家の「7月は散々な月」だった。
 ある日(みんな「ある日」だが)――。メガネのつるが壊れた(フレームを交換)。風呂場の電球が切れた(買い置きの電球と交換)。魔法瓶が壊れた(ヤカンで代用)。ファクスが機能しなくなった(eメールでやりとり)。テレビの画面がおかしくなった(いよいよ症状が悪化、買い替えるしかなさそうだ)。

 平屋を2階建てにしたのはおよそ35年前。台所の床も風呂場の前の床もミシミシいうようになった。5年前の震災で家が「大規模半壊」に近い「半壊」の判定を受けて、窓や戸の開閉がきつくなった。それが裏目に出た。

 店(米屋)の一角にカミサンが運営する地域図書館「かべや文庫」がある。おばさんたちの茶飲み場でもある。フェアトレード商品も展示・販売している。ある日の早朝、カミサンが見ると文庫の様子がおかしい。東側の出窓の外に、中に置いてあった茶わん入りのかごなどが置いてある=写真。フェアトレード商品の売上金もなくなっている。どう考えても「ドロボウに入られた」としか思えないという。

 若いときに「サツ回り」をした。そのときの取材経験からいろいろ推測する。が、やって来た“ドロ刑”(ドロボウ刑事)さんの見立てはさすがだ。犯人はカギのかかっていなかった出窓から侵入し、カネだけ5~6万円を取ってまた出窓から逃げた。日曜日の昼間、「空き巣」に入ったというよりは、夜更けもしくは未明、寝静まってから忍び込んだようだ。
 
 米も、レジも無事。荒らされたのは文庫だけ。レジは寝室のわきにある。いつも電気スタンドをつけっぱなしにして寝てしまうので、真夜中でもうっすらレジの方に明かりがもれている。レジへ近づく度胸はなかったらしい。
 
 東京・目黒の公園で切断された高齢女性の遺体が見つかった事件は、その後の調べで、盗み目的でマンションに侵入した男が気づかれたために、居直り殺人をしたことがわかっている。そんな事態にならなかっただけでもよしとするしかない。「あつものに懲りてなますを吹く」というよりは「後の祭り」だが、ドロボウの一件以来、車も戸も窓もカギを締めるようになった。
 
 そういえば、6月には隣のコインランドリーで下着ドロに及んだ男が捕まっている。世間は煩悩の苦海。私たちは善とも悪とも隣り合わせで生きている。

2016年7月30日土曜日

回覧物振り分け

 行政嘱託員(兼区長)をしているので10日にいっぺん、いわき市から広報資料が届く。各戸配布か隣組回覧かで枚数は異なる。隣組に入っているのはおよそ335世帯。平均すると1隣組あたり10世帯で33班ある。班ごとに配る資料を振り分けないといけない。 
 そうして茶の間が月に3回、折り込みチラシを振り分ける新聞販売店のようになる(10代の終わり、東京の新聞販売店に一時、住み込んだ)。

 暑いときには戸も窓も開け放つ、低気密・低断熱の「昭和の家」だ。カミサンが回覧資料を振り分ける、終わって私が紙袋に詰める、という流れなのだが、袋詰めをさぼっているうちに風が通り抜けて資料が吹き飛ばされることがある。前回がそうだった。あわててそこらへんにあるモノ(爪切り・皿・カッターナイフ・蚊取り線香の台など)で資料を押さえる仕儀になる=写真。
 
 きのう(7月29日)、いわき市を含む南東北の梅雨が明けた。平年(7月25日)より4日遅い。朝から急激に気温が上がった。昼前の室温が32度。とてもじゃないが、「在宅ワーク」をするどころではない。

 といいながらも、扇風機をかけて調べ物をしながら、合間に近所の診療所へ薬をもらいに行ったり、午後には地元の道路整備促進期成同盟会の総会に出席したりした。戻ると、8月1日付回覧資料の袋詰めが待っている。振り分けも袋詰めもひとりで、となると、たぶん「孤独」を感じてため息ばかりついている。カミサンが手伝ってくれるから、なんとかここまでやってきた。
 
 政治の原点はと、つくづく考える。夫婦間の意見の違いや利害を調整して、家庭内の平穏を維持することではないか。たとえば、カミサンが出かけるときに運転手を務める。イヤだとは言わない。行政資料が届くとカミサンが見かねて振り分けを手伝ってくれる。協働、分担、我慢、低姿勢といった言葉が頭のなかで点滅する。

「政治をするサル」という本がある。知り合いに多摩動物公園のチンパンジー飼育係氏がいたので、興味を持って読んだ。その延長で、生活のなかで「政治をするヒト」の姿を観察してきた。今、私もそれを意識して暮らしている。

 すでに8月1日付の資料は振り分けがすんだ。2日から7日までは旅行で家を留守にする。で、きょう、日中は自分の用事に集中し(暑くなりそうだ)、夕方、一段落ついてから資料を区の役員さんに届ける。せいせいして旅行に出かけたいから。

2016年7月29日金曜日

ネットの効用

 四倉の知人から電話が入った。「ブログにあった『アレッポのせっけん』がほしい」という。昔書いていた新聞コラムの延長で、「ネットコラム」と称して毎日、ブログを書いている。先日、「アレッポのせっけん」を取り上げた。ブログを読んでもらえるだけでもありがたいのに、その記事が、カミサンが店(米屋)で扱っている品物の売り上げにつながった。初めてのことだ。
 それから何日か後、「アレッポのせっけん」を買いに来た人がいる。やはり、私のブログを読んで、ということだった。さらに数日後、フェイスブックの友達でもある人生の先輩(女性)が店に来て、ついでに「アレッポのせっけん」を買っていった。

 せっけんばかりではなかった。同じころ、内郷の住宅街にある喫茶店「純」のママさんから電話が入った。「記事を読んでコーヒーを飲みに来た若い女性がいる。なにか書いてくれたのかな」。ママさんはネットとは無縁の人間だ。書いたことを告げると、お礼を言われた。

「純」は福島高専がまだ平高専だったころ、平駅(現いわき駅)前の三田小路にあった。そこに、私も含めて同級生が入りびたっていた。先代の三遊亭円楽そっくりだった、今は亡きマスターに仲間がいろいろ世話になった。

 去年(2015年)5月、その仲間が集まって湯本の温泉旅館で懇親会を開いた。翌朝、内郷へ移動して、「純」でモーニングコーヒーを飲んだ=写真。そのときの様子をブログに書いた。それが、若い女性の目に留まり、コーヒーを飲みに来たのだという。どうやら同じ内郷に職場の拠点があるらしい。

 ブログやツイッター、フェイスブックといったインターネットの特性は――とあらためて思うのだが、過去も現在もなく遠いも近いもない、すべての情報が「今、そこにある」ものとして並列化される。

 功罪はあるが、「功」をきのう(7月28日)実感した。コサメビタキらしい鳥のさえずりを聞き、写真に撮った。が、特徴が合致しない。わかったら教えて――そんな問いかけをしたら、夕方、野鳥の会のいわき支部長氏からブログにコメントが入った。電話もかかってきた。フェイスブックには若い知人が野鳥の「さえずり集」をアップしてくれた。

 支部長氏のコメントと「さえずり集」から、あの鳥はコサメビタキではなくオオルリの雌とわかった。その日の夜更け、せがれからも「オオルリの雌では」という電話が入った。
 
 特にさえずりで合点がいった。ネットの情報は玉石混交だが、つながり次第で「専門知」と「ヒント」の恩恵にあずかれる。これこそがネットの効用だろう。

2016年7月28日木曜日

コサメビタキ?

 この10日間、時間があればちょこちょこ検索して裏を取ろうとしてきたものがある。鳥だ。結論からいうと、よくわからない。で、「だろう」ということで書く。
 小・中学校が夏休みに入る前の3連休のど真ん中、日曜日(7月17日)。夏井川渓谷の隠居の庭の木に止まって、「チーチーチュエ、ビビビ」を繰り返す鳥がいた。音源を探ると、葉に覆われたカエデの内側の枝に止まってさえずっていた。

 40年近いバードウオッチング歴のなかでも初めて見る鳥だ。枝を移動しながらさえずり、合間に羽を打ち鳴らす。さえずりの「ビビビ」はその羽ばたきのようにも感じられた。

 クリッとした目、スズメより小さい体、地味な色合い。図鑑をながめて覚えていた夏鳥のコサメビタキにちがいない。パソコンに画像を取り込み、拡大してチェックすると、全体の印象はコサメビタキだが、細部で特徴と合わない。下くちばしの基部がオレンジ色ではない、目の周りの白い環(アイリング)が薄い、目先も白くない。ネット情報を集めても、コサメビタキという結論は得られなかった。
 
 なかでも困ったのは、さえずりが図鑑の表記にある「早口」と違うことだ。ゆったりしている。個体差はあるにしても、早口が「遅口」になることはないだろう。そのうえ、「さえずりながらはばたく」とは、手元の図鑑にもネットの図鑑にも書いてない。きわめて特異な動作なのに……。
 
 というわけで、直感でコサメビタキと思ったものの、迷路に踏み込んでしまった。どなたかお願い、教えて――。

2016年7月27日水曜日

野球小僧クン

 高校野球福島大会は、聖光学院の10年連続優勝で幕を閉じた。夕方のテレビニュースで結果を知るだけの身でも、いわき勢の勝ち負けにはやはり一喜一憂をした。
 唯一、知っている野球小僧クンがいる。いわきの中学校から聖光学院に入った。今年は2年生ながらレギュラーの座をつかんだ。決勝戦の結果を伝える月曜日(7月25日)の新聞=写真=を読んでびっくりした。野球小僧クンが、守ってはファイインプレ―でチームの危機を救い、打ってはホームランを含む4打数4安打とチームをけん引した。神がかり的な大活躍に感動して、野球小僧クンの祖母に祝いのメッセージを送った。

 野球小僧クンが小学生のころまでは、ときどき、彼の祖父母の家で、ほかの家族とともに飲み会をした。そんなある日の夕方、小学3年か4年の彼と庭でキャッチボールをした。父親の指導ですでに野球大好き少年になっていた。球が速くて重いのに驚いた記憶がある。その後も父親と、応援の祖父母も含めて、野球一筋の日々を送ったのだろう。

 震災もあって飲み会はいつか中断され、彼も中学生から高校生になって家を離れた。いよいよ野球に熱中する生活に入った(祖母はおかげで、世話をする孫がいなくなって、一時、「孫ロス」におちいった)。

 同じ高校の野球部に首都圏の彼のいとこが入部した。祖母から見ると、もうひとりの孫だ。その孫も2年生でレギュラー入りを果たした。決勝戦では打順が6、7番と続き、いとこも3打数3安打と大当たりした。

 親にとってもそうだが、祖父母にとっても孫たちの甲子園出場は無上の喜びとなったことだろう。いささかでも祖父母の苦労を知る者として、まずは祖父母に乾杯、という気持ちになるのだった。

2016年7月26日火曜日

「小名浜ベイブリッジ」

 だいぶ前、小名浜港の人工島と陸地が橋でつながった。日曜日(7月24日)午後、新風景「小名浜ベイブリッジ」を写真に撮ろうと、山里(田人町)からの帰りに立ち寄った。
 震災前の2009年春、いわき市主催で「景観セミナー」が開かれた。景観面からみた人工島の橋の検討経過と方向性が紹介された。そのときと、2年前に橋げたがのび始めたころの拙ブログから。
 
 ――人工島は「東港地区多目的国際ターミナル」整備事業として建設が進められている。外貿貨物(石炭など)需要の増大と船舶の大型化に対応して取り扱い能力を向上させるのが目的だ。海面からの橋の高さは、陸地からの最大勾配5%(100メートル行って5メートル上がる)として25メートルが限界。巡視船は橋の下を通航できるが、大型客船「飛鳥Ⅱ」は通航できない、ということだった。

 この一大プロジェクトの動脈が、橋を含む延長1805メートルの臨港道路。橋の構造は、コストや小名浜港の新たなランドマークとしての眺望を計算に入れた結果、主塔と斜材で主桁を支える外ケーブル構造の「エクストラドーズド橋」になった。「横浜ベイブリッジ」のような吊り橋ではない。が、斜張橋に似て主塔から張り出された斜材が線による三角形、低い山形をつくりだす。それがより立体感を出している。
 
 橋自体が新しい風景になり、新しい視点場を提供する。ライトアップされればそれも格好の被写体になる。アクアマリンパークの北側にはイオンモールができる。小名浜のウオーターフロントは驚くほどに様変わりする――。

 海上に架かる新風景を写真に撮るのは初めてだった。人がたくさん行き来するアクアマリンパークからファインダーをのぞくと……。行楽客というよりはスマホを見ている若者や子どもたちばかりではないか=写真。いっとき、立ち止まって観察していると、小学生が近づいてきた。「ポケモンGO?」「そうです」。父親が少し離れたところから見守っていた。

 夏休み最初の週末、日本列島がいきなり「ポケモンGO」一色になった。どこか遠い大都会だけでなく、いわきの街にも港にも、地域の片隅にもポケモンが現れた。あとで寄った豊間の塩屋埼灯台下にも、スマホ片手の子どもたちがいた(立ち入り禁止になっている防災緑地造成現場には、さすがに人はいなかったが)。小名浜ベイブリッジは「恋人の聖地」、アクアマリンパークは「ポケモンの聖地」?

2016年7月25日月曜日

「ZINARI」展

 きのう(7月24日)は、北部の四倉・久之浜を除いていわき市内を一巡した。南部の鮫川流域へ出かけると、だいたいそうなる。いわきの面積は小豆島を除いた香川県とほぼ同じ。一つの行政圏に三つ、いや久之浜を加えると四つの流域(生活圏)がある。リタイア組はほとんど自分の生活圏で用をすませているから、別の流域へ出かけると「旅」をした気分になる。
 早朝7時から1時間、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。一休みしてから草野心平記念文学館へ。事業懇談会に出たあと、「ZINARI」展(7月31日まで)を見に、常磐道を利用して鮫川支流・四時川沿いの田人・ギャラリー「昨明(かる)」へ出かけた。帰りは海に一番近い道路を選んで、岩間~新舞子海岸の堤防の先に海を感じながら(見ながら、ではない)、いつもの魚屋へ直行した。

 きょうは「ZINARI」展について――。旧知の吉田重信さん(いわき)のほか、市外の3人が出品している。“震災アート”だ。吉田さんは新舞子海岸の流木を素材にした「聖」と題する作品を発表した。
 
 倉谷拓朴さん(横浜)は、原発事故で被曝した土地の植物を、印画紙上に置いて感光させた日光写真(フォトグラム)を展示した=写真。K・Koughさん(大阪)は鉛の手袋とマスクを、中村通孝さん(埼玉)は真ん中が透明な座卓の底にお菓子のようなフレコンバッグを積み上げた作品や、富岡町から採取した植物の葉を収めた“アルバム”などを並べた。
 
 これらの作品と向き合いながら、簡単に「脱原発」あるいは「反原発」へ行かないように、と自分に言い聞かせた。結論はそうだとしても、見る側としては作品と交感したい、作品として楽しみたい、そうやって考えを深めたいと思うからだった。
 
 倉谷さんのフォトグラムには既視感があった。原発事故後、NHKETV特集取材班が初めて放射能汚染の実態を明らかにした。取材班が著した『ホットスポット――ネットワークでつくる放射能汚染地図』(2012年、講談社)の口絵に、「イメージングプレートで視覚化された松の葉」の写真が載る。それを思い出した。
 
 倉谷さんの作品は、植物の姿が鮮やかなブルーで定着されている。イメージングプレートの方は、放射線が強いと黄色、さらに強いと赤色で表現される。1Fから4.4キロの双葉町山田地内の松の葉は全体が赤、そのうえ周囲が黄色、22キロ離れた田村市都路町の中学校の松の葉は全体が黄色で、下部を中心に赤ポツが散らばる。片やアート、片や科学。どちらも見えないものを「見える化」する試みにはちがいない。
 
 倉谷さんの作品には「彼岸花0.72μsv」「杉0.08μsv」といった題が付いている。植物のあった場所の放射線量を示し、さらに撮影年を記す、きわめてドキュメント性の高いタイトルだ。少なくとも福島県内の人間は数値の意味するものを読み取ることができる。「彼岸花」のブルーの濃淡が印象に残った。
 
 ついでながら、展覧会名の「ZINARI」からは、天変地異に通じる「地鳴り」を連想するが、ほんとうはどうなんだろう。(あとで吉田さんからコメントが入った。「世界の地響きも意味します!」、なるほど)

2016年7月24日日曜日

子どもの夏祭り

 南東北も梅雨が明けてよさそうだが、降るでもなく照るでもない日が続いている。風が北東から吹き寄せる。半そででは寒いくらいだ。
 きのう(7月23日)は夏休み最初の土曜日。わが区では、子どもを守る会が県営住宅の集会所で「夏祭り」を開いた=写真。

 一世代前、つまりお母さんたちが子どもだったころ、にぎやかに夏祭りが繰り広げられた。子育てに関してはカミサンまかせで、仕事・仕事・仕事、会社の近くの田町(飲み屋街)で酒・酒・酒の繰り返しだったので、夏祭りに加わった記憶がない。

 その後、守る会とは無縁だったが(夏祭りも中止されたようだが)、区の役員になってからつながりができた。6月、神谷地区球技大会が開かれた。ソフトボール(男性)で優勝し、バレーボール(女性)で3位に入った。反省会(祝勝会)の席で守る会のお母さんたちから相談を受けた。「夏祭りを開きたい」。やめるところはあっても“復活”するところは少ない。賛成した。

 きのうは夏祭りが重なった。夕方、丘の上にある福祉施設の夏祭りに顔を出した。その帰り、歩いて10分とかからない神社でも、茅(ち)の輪神事と夏祭りが行われた。

 守る会の夏祭りでは、氷水やフランクフルトソーセージ、水ヨーヨーなどのコーナーが設けられた。お母さんたちが見守るなかで子どもたちが動き回っていた。守る会の会長さんに「フランクフルトソーセージ、どうですか」と勧められた。100円だという。500円硬貨しか持っていなかったので、「あとは寄付」ということにした。ソーセージは持ち帰って、晩酌のつまみにした。

 同じころ、近所の郵便局で「ポケモンGO」のゲームをしている小学生がいた。父親と自転車でやって来た。カミサンがすれ違った際に聞いて、「ポケモンGO」とわかった。これも一種の夏祭りだろう。

 昼間、いわき駅へ用があって出かけたら、ラトブとのペディストリアンデッキや、下のタクシープールの近くで中学生らしい小グループが“歩きスマホ”をしていた。いつもの土曜日より、少年たちの姿が多い。一気に「ポケモンGO」が始まったのだろう。これはもう「もうひとつの熱中症」だ。

2016年7月23日土曜日

「ネギをうえた人」

 きのう(7月22日)紹介した、日韓の文学の架け橋・金素雲の話の続き――。金素雲は戦後の昭和28(1953)年、『ネギをうえた人――朝鮮民話選』を岩波少年文庫から出した。タイトルに引かれて『朝鮮詩集』などとともに、いわき総合図書館から借りて読んだ。こちらは「子どものフロア」にあった。
 この20年ほど、夏井川渓谷の隠居で地ネギの「三春ネギ」を栽培している。その過程で知ったのだが、ネギの原産地は中国西部~中央アジアあたりで、西へ向かって玉ネギになり、東へ向かって長ネギになった。

 日本では、中国のネギ文化をそのまま水平移動したように、北から長ネギ(白ネギ)・長ネギと葉ネギの中間・葉ネギ(青ネギ)の3文化圏に分けられる(大きくは東日本=長ネギ文化圏、西日本=葉ネギ文化圏)。三春ネギは、白ネギ系だが葉も食べられるので中間種ではないだろうか。

 5月にネギ坊主から種を採った。その後、枯れた花茎をばらして、同じ根から伸びた子ネギを仮植えした=写真。秋にはこれも食べられる。そんなときに知った朝鮮半島のネギの話だ。中国~朝鮮半島~日本という渡来ルートのひとつがわかるかもしれない。しかし、ネギ渡来の話にはちがいないが、おどろおどろしい物語だった。
 
 ――人間が人間を食べていた時代があった。それは、人間が牛に見えたからだという。「ある人」がそれで自分の兄弟を食べてしまった。ああ、いやだいやだ、なんてあさましいのだろう。こんな国に暮らすのはつくづくいやになった。

 で、「ある人」は人間が人間に見えるまともな国を探して旅を続けた。じいさんになって、ようやく牛は牛、人間は人間と区別がつく国にたどり着いた。その国の古老が言うには、その国も以前は人間を牛と間違えて食べていた。それが、ネギを食べるようになったら、間違いがなくなった。
 
「ある人」はネギの種をもらって国に帰り、やわらかい土に種をまいた。そのあと、旧知の人間に会いに行ったら、牛と間違われて食べられてしまった。ネギはやがて芽を出し、それを食べた人たちはちゃんと牛と人間を区別できるようになった――。

「ネギをうえた人は、だれからも礼をいわれません。そのうえ、みんなに食べられてしまいました。けれども、その人の真心は、いつまでも生きていて、大ぜいの人をしあわせにしました」というのがオチである。

 この民話は報われない。報われないけれども、人のために、社会のためになにごとかをなす――。彼が民話選のタイトルを、「ネギをうえた人」にしたのはと、研究者は推測する(ネットにアップされた論考)。

「金素雲は、憎み傷つけ合う二つの民族の間にネギを植えた人である。いや、少なくとも植えようとした人であった。相手文化の尊重というネギを――。けれども、そのネギは人々によってまだ食べられていない」(田淵五十生)

なるほど。「日韓の文学の架け橋」も、本国ではあまり評価されない。日本でもよく知られてはいない。「また裂き」状態の自分の人生を「ネギをうえた人」に投影したのだったか。

2016年7月22日金曜日

朝鮮半島の岩ツツジ

 いわき市国際交流協会の会報「ワールド・アイ」第262号が届いた。5月20~22日にインド人のホームステイを引き受けた。彼らの感想文が日本語訳で載っていた。
 もうひとつ興味深いものがあった。金裕美さんという人が、韓国語と日本語で、向こうの国の有名な抒情詩「チンダルレの花」について解説している。
 
 実は「ワールド・アイ」最新号の編集が始まる前だと思うが、事務局から電話がかかってきた。「韓国のツツジと夏井川渓谷の岩ツツジは同じですか」。最初は「同じだ」と答えたものの、あとで自分のブログで確かめると違っていた。違うことをすぐ事務局に伝えた。

 朝鮮半島にあるのは「チンダルレ」(和名「カラムラサキツツジ」)。春先、岩と松の山肌をピンクに染める。北朝鮮拉致被害者で翻訳家蓮池薫さんの手記『半島へふたたび』のなかの「ツツジの花を思う人びと」にその花が出てくる。
 
「朝鮮半島や中国東北部では見られるが、日本には自生しない。春になると、ほかのどの花よりも早く、赤みがかったピンク色の花を山肌に咲かせる。だから北では『春を最初に知らせる花』と呼ばれ、『民族に解放の春をもたらした革命軍、抗日遊撃隊の象徴』としても、詩歌に盛り込まれている」

 やせ地や岩の割れ目のような過酷な環境のなかで育ち、春先、ほかのどの木よりも早く花を咲かせる、という点では、夏井川渓谷のアカヤシオ(岩ツツジ)と共通する。だから、最初は「同じだ」となってしまった。(『半島へふたたび』を読んだのは6年前、記憶もあいまいになっていた)

 蓮池さんの本には、「チンダルレの花」の作者、詩人金素月(キム・ソウォル=1902~34年)は若くして死んだ、南のみならず北でも「学校の教科書に載せ、生徒たちに詠ませている」とあった。

 で、今回、国際交流協会から電話があったのを機に、ネットで詩を検索した。金素雲(1907~81年)の日本語訳があった。「どうで別れの/日が来たら/なんにもいはずと 送りましょ。/寧辺薬山(ねいへんやくざん)/岩つゝじ/摘んで お道に敷きませう。//(以下略)」。なんだか「大正ロマン」風、あるいは「童謡」にも通じるような歌謡曲調ではないか。訳がこなれすぎている。
 
 そのへんを確かめたくて、図書館から金素雲訳編『朝鮮詩集』など3冊=写真=を借りてきて読んだ。おやおや、おもしろそうだぞ――。

 金素雲は少年時代(大正中期)、日本へ渡って苦学した。やがて、詩人白鳥省吾主宰の雑誌「地上楽園」に朝鮮農民歌謡を連載して認められ、北原白秋らの後援で本人訳の『朝鮮詩集』などを刊行した。
 
 当初、この『朝鮮詩集」に歌謡曲調の「岩つゝじ」が収められていた。朴容澤『金素雲「朝鮮詩集」の世界』(中公新書)によると、この訳詩は失敗作だった。それで、のちの『朝鮮詩集』からは削除された。借りてきた『朝鮮詩集』にもむろん載っていない。
 
 金素月は夭折詩人、若くして人生を閉じた。それに比べたら、金素雲は日韓の文学に橋を架けたさきがけ的存在だ。がぜん、こちらの金さんに興味が移って、金素雲関係本3冊を読んでいるときに会報が届いた。
 
 会報に載った訳詩――。「私を見るのも疎(うと)ましくて/去って行くときには/何にも言わずにきれいに送って差し上げましょう//ヨンピョン(寧邊)にヤッサン(薬山)/チンダルレの花/一抱え摘んで去って行く道に撒いて差し上げましょう//去って行く一歩一歩/撒かれたその花を/そっと踏みしめて行ってください//私を見るのも疎ましくて/去って行くときには/死んでも涙流しません」
 
 金素雲の歌謡曲調に比べたら、現代感覚にあふれた訳詩になっている。紹介者の金裕美さんは、「情」と「恨(ハン)」がよく伝わってくる第3~4連が好きだという。ポイントは「死んでも涙流しません」だろう。「艶歌」であって「怨歌」。マヤという韓国の女性ロック歌手がこの詩に曲をつけて歌っているのをネットで聴いた。オッサンの胸にも響いた。

2016年7月21日木曜日

「昔のおがわ 今のおがわ」

 いわき市小川町の国府田英二さんから、新聞連載エッセーをベースにした冊子『昔のおがわ 今のおがわ』をちょうだいした。
 国府田さんは、いわき民報の長期連載企画「昔のいわき 今のいわき」の執筆者のひとりで、今年(2016年)3月に一区切りつけるまで、100回ほどを担当した。そのなかから小川町関係(といっても大半なのだが)82回分を一冊にまとめた。「いわき市市制施行50年を記念して」と冠が付いている。今年92歳の元市職員として、いわきの歩みを祝う気持ちがあふれている。

 昨年は、誕生から結婚までの自分史を冊子『昭和の子ども』にまとめ、今年のいわき民報ふるさと出版文化賞特別賞を受賞した。老いてなお執筆・出版を続けるエネルギーには舌を巻く。

 近著は、いわき市内でブームになりつつある、旧市町村単位の「好間学」「内郷学」「常磐学」などと同様、「小川学」のテキスト(新旧写真による小川の近代史)になりうるものだ。

 ここでは、セメント原料の頁岩(けつがん)運搬ケーブル=写真=にしぼって書く。中心市街地の平から国道399号を北上して小川町下小川へ入ると、右手の山側から磐越東線小川郷駅へと、頭上を運搬ケーブルが横断していた。空中をモノが移動する――いわきではたぶん、小川のそこでしか見られない光景だった。

 なぜ、小川に運搬ケーブルがあったのか。国府田さんのエッセーによると、セメントの原料になる頁岩が平・平窪~小川・下小川の地下に眠っていた。磐城セメントがこれを掘り出して駅へ運び、貨車で田村工場と四倉工場へ輸送した。駅のわきには、そのための巨大な構造物があった。

 ついでだが、頁岩採掘の名残りか、上平窪地内の県道小野四倉沿いに産業遺産(ホッパー)がある。コンクリート造り、独特の箱型デザイン。写真家や絵描きが見たら放っておかないはずだが、まだそれらしい作品にお目にかかったことはない。

 ざっと40年前、子どもが生まれたあと、日曜日になると故義父の建てた夏井川渓谷の隠居へよく出かけた。子どもたちも次第に運搬ケーブルに興味を抱くようになった。

 運搬ケーブルが動き出したのは昭和38(1963)年。高度経済成長が続き、所得倍増政策が進行しつつあるときだ。ウィキペディアによれば、その年、磐城セメンントは「住友セメント」に社名を変更した。23年後の昭和61年には四倉工場が、さらにその14年後の平成12(2000)年には田村工場が閉鎖される。運搬方法も車に替わった。ケーブルは意外と短命だったようだ。

2016年7月20日水曜日

サトイモの汗

 サトイモはだいぶ前、二度ほど栽培した。といっても、家庭菜園(ベジパッチ)だから、たいした数ではない。せいぜい4株。そのときも、サトイモはあらかた買って食べていた。食べるために栽培するというよりは、栽培そのものを楽しむ、そんな感じだった。サトイモの“生理”は、だからよくわからない。
 カミサンの話――。食べるために買い置きしていたサトイモが芽を出した。土皿(どざら)に水を張り、芽を出したサトイモを浸して縁側の前のテーブルに置いたら、茎がのびて葉が出てきた。

 これは一種の水耕栽培? いや、「生け花」かも――。見るともなく見ていたら、早朝、不思議なことが起きた。雨が降ったわけでもないのに(軒下にあるから雨は関係ない)、テーブルがぬれている=写真。葉っぱの先端には微小な水滴まで付いている。
 
 ネットで検索してわかった。サトイモは、葉の先端に「水孔(すいこう)」がある。根から吸いあげた水分は、日中は葉の表面から「蒸散」する。それで調整している。ところが、過剰に給水すると、蒸散しきれないことがある。それを明け方、水孔から「出水」するのだそうだ(「出水」は「しゅっすい」と読ませるのだろうか)。
 
 驚いた。サトイモの葉と水滴といえば、コロコロ転がる露だ。七夕にまつわる話だが、この露を使って墨をすると習字がうまくなると、小さいころ言われた記憶がある。その露は空気中の水蒸気が冷えて水滴になったもの、出水はそれとは別に内側から排出されたものだ。いわば、サトイモの汗。
 
 出水はいつごろ始まるのか。ある晩、9時に見たら、テーブルに径5センチほどの水のしみができていた。11時には、そう変わっていなかった。ということは、やはり未明に出水が活発になるのだろう。
 
 葉の先っちょの水滴に触れると、なんだか粘り気がある感じ。もしかして、これも甘露? 葉の先端からこぼれる水を集めて飲んだらねとっとして甘そうだ。(けさ、先端に残っていた水滴を指に付けたら、ヒヤッとした。なめると、やはり冷たかった。味があるような、ないような……)

2016年7月19日火曜日

「海の日」に海へ

 普通の月曜日だろうとハッピーマンデーだろうと、朝起きたらまず保管しているごみネットを家の前の集積所に出して、ひもを電柱にくくりつける。
 わが区は月・木曜日が「燃やすごみの日」だ。カラスに負けないためにはごみ袋をネットできちんと覆うことだが、人間はある意味いい加減な生き物だ。ちょっとでもスキを見せると、カラスに生ごみを食い散らかされる。

 きのう(7月18日)は「海の日」。連休とはいっても、仕事はいつのまにかやってきて、絶えず二つ、三つ、締め切りを抱えることになる。早朝、ごみネットを出したからあとは自由、とはならない。午前と午後、一服をはさみながらも、夕方まで仕事を続けた。
 
 早朝は曇りだったがすぐ日が差し、午後の3時近くになって気温のヤマがきた。小名浜(旧測候所)で最高気温30.3度と、真夏日になった。それもあってか、カミサンが夕方、タイミングよく、買い物を兼ねて海へ行こう、という。気分転換をしたいところだったので、喜んで車を走らせた。
 
 行き先は四倉のホームセンターだ。大回りして、夏井川堤防~新舞子海岸~四倉海水浴場・道の駅よつくら港を巡ってから、ホームセンターで買い物をした。
 
 震災前は夏井川河口まで、海へ行ったりバードウオッチングをしたりするのによく堤防を利用した。災後はかさ上げ工事が行われていたので、ほとんど利用できなかった。左岸はあらかた工事が済んだようだ。「ずいぶん堤防が高くなったんじゃないの」とカミサン。
 
 新舞子海岸は、海が全く見えない。かさ上げ工事の終わった海岸堤防に立つ。夕涼み、いや暑気を払うためにやって来た人たちが海を見ている。海は凪(な)いでいた。「何事もなかったようにきれいだね」。その海に釣り糸を投げ込む人が海側の消波ブロックの上にいた。
 
 四倉海水浴場=写真=では、入り込み客を数えてみた。一定の人数(たとえば50人)を数えて、あとはそのかたまりがいくつあるか見当をつけて全体を計る。夕方5時でも、ざっと400人はいたのではないだろうか。
 
 道の駅は、相変わらず好調のようだった。2年前、バングラデシュの地方行政・農村開発・協同組合省の幹部らがいわき市を視察した。「シャプラニール=市民による海外協力の会」の前事務局長氏がスケジュールを調整し、ベンガル語の通訳を兼ねて一行を案内した。連絡を受けて、薄磯・豊間・四倉への道案内をした。

 一行は道の駅で運営する団体の代表・駅長に、農家(生産者)との関係などを質問した。「生産者が直接品物を搬入する」「値段は生産者が決める」「震災前より客が増えた」。そばで聞いていながら、災後に客足が伸びた例は少ないのではないかと思ったものだ。

 密生していた新舞子海岸の松林は、津波による塩害で疎林状態になった。その松林を再生する活動も続けられている。「海の日」にたまたま海を見に行ったのは、海岸の今の風景を目に焼きつけるためでもある。次に行ったらまた風景が変わっている――それが今のいわきの沿岸部だ。

2016年7月18日月曜日

“夢プラン”コンテスト

 いわき市制施行50周年記念市民プレゼン大会「いわき“夢プラン”コンテスト」が土曜日(7月16日)、市文化センター大ホールで開かれた=写真。
 6月、担当の市ふるさと再生課から電話が入った。審査員を――という。あとで届いた資料を見て笑った。7人の審査委員のなかでは最年長(60代)ではないか。50代1人(市長)、40代1人(会社役員)、30代1人(県紙記者)、そして20代2人(ご当地アイドルグループ「アイくるガールズ」リーダー、いわき明星大学園祭実行委員長)。大会当日知ったもう1人は、ローカルテレビ局の若い記者だ。
 
 会社役員は私の長男と小・中学校の同級生だ。県紙記者もいわき出身で、会社役員と同じ中学校に学んだ。どちらの親もよく知っている。偶然の人選だが、二重三重に「老・壮・青」の構成を実感した。
 
 コンテストは3部門に分かれ、「高校生以下の部」では湯本一中修学旅行実行委員会プレゼンテーション班が最優秀賞を獲得した。「一般の部」は紺野博史さん、「企業・団体の部」は福島高専ビジネスコミュニケーション学科専攻科が最優秀賞に選ばれた。
 
 一種の楽屋話を書く。審査項目(着眼点・独創性・期待度・共感度・プレゼン方法)に「実現可能性」が入っていないことを踏まえて審査してほしい、という。
 
 大ホールが会場で、出場者(団体)はステージでプレゼンをする。それを客席の最前列に陣取って採点する。NHKの紅白歌合戦を思い出した。席順も、トップの市長のあとは「あいうえお順」だ。おかげで「アイくるガールズ」のリーダーが私の右、学園祭実行委員長が左という配置になった。
 
 紅白歌合戦と違って歌を審査するわけではない。「50年後のいわき」、つまり、市制施行100年のいわきではこんなことが実現しているという“ホラ吹き大会”だ、役所流エンタテイメントなのだ、と割り切って臨んだ。各部門4団体・人の出場者が派手に、地味にパフォーマンスを披露した。
 
 審査員控室では、「老」も「壮」も「青」もなく、あれこれ話した。「老」にとっては得難い経験になった。

2016年7月17日日曜日

モミの大木

 夏井川渓谷の隠居の隣は電力会社の社宅跡だ。駐車場を兼ねた広場になっている。谷寄りの南東隅、隠居との境に大きなモミの木がそびえている=写真。木の下に行くと、決まって田村隆一の詩を思い出す。震災と前後するように河出書房新社から『田村隆一全集』(全6巻)が刊行された。総合図書館から借りて読んだ『全集2』のなかに「木」が入っていた。
 
 木は黙っているから好きだ
 木は歩いたり走ったりしないから好きだ
 木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
 
 ほんとうにそうか
 ほんとうにそうなのか
 
 見る人が見たら
 木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
 木は歩いているのだ 空にむかって
 木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
 木はたしかにわめかないが
 木は愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
 枝にとまるはずがない
 正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
 空にかえすはずがない
 
 若木
 老樹
 
 ひとつとして同じ木がない
 ひとつとして同じ星の光りのなかで
 目ざめている木はない
 
 木
 ぼくはきみのことが大好きだ

 隠居の対岸に水力発電所がある。昔は何家族かが社宅に住んで、発電所の保守点検、維持補修などをしていたのだろう。V字谷のなかでもゆるやかな斜面を削り、石垣を組んでならし、社宅が建てられた。おそらく一番谷寄りの家の主がモミの苗木を植えたのだ。
 
 石垣の下の道を通るたびに、空に沈むように伸びているモミの木を見上げる。森のなかの巨樹と違って、広場でひとり孤独を楽しんでいる。そう感じられるようになったのは、田村隆一の「木」を知ってからだ。木の愛と正義に関する詩人一流の「へ理屈」にうなってからだ。
 
 思えば、原発事故では多くの家の庭木が伐採された。わが生活圏だけでも、街への往復のたびに目にした国道6号沿いの「塩の大ケヤキ」が消えた。近所のカキの木が消えた。街なかの知人の庭のケヤキも消えた。狂暴化した台風・低気圧の影響もあるが、原発事故が追い撃ちをかけた。見る人が見たら、森の木々も原発事故をうらみ、嘆き、のろっている。

2016年7月16日土曜日

少しだけ「孫育て」

「孫育て」というほどではないが、たまに孫2人(小3と小1)の“学童保育”を引き受ける。今月は先週と今週の火曜日、2週続けて下校迎え=写真、わが家での宿題監督、スイミングクラブへの送迎をした。
 前にも書いたが、孫はジイ・バアには遠慮がない。思ったことをはっきり口にする。3月まで保育園児だった下の孫は特にそうだ。

 とはいえ、小学校に入ると社会一般のコミュニケーションを踏まえて学ぶようになる。小3は「言っていいことばかどうか」を考えるようになった。小1はまだそこまではいかない。「言いたいことを言える最後の年だぞ」と思いながら、無礼な言葉を表面的にはにっこりしながら受けとめる。

 先の週末、近所のおばさん床屋で散髪した。「耳の中間あたりまで髪を残して」と注文をつけたのだが、“スポーツ刈り”になってしまった。てっぺんが薄いのにわきまで刈り上げられたから、翌週の火曜日、孫を迎えに行ったら、さっそく下の方が気づいた。「頭刈ったの?」「うん」「帽子取って」「取らない」と言いながらも、あとで帽子を取ると「ハゲ!」と大笑いする。

 少し遅れて下校してきた上の孫は「前の方がよかったな」と、弟とは反対のことばを発した。吉田類的な髪形の方がまだまし、と思っているのだろう。
 
 先週の“学童保育”のあと、こんなことを書いた。「小学生のころ、どんなことに興味・関心があったのかを、ここでは書けないことも含めて覚えている。自分のそれと照らし合わせながら、こうかああかと想像しながら、孫とつきあう。孫も“大人”への発達過程にある」。今週もまた、頭髪を介して同じ感慨を抱いた。
 
 きょう(7月16日)は坊さんのような頭を人前にさらす。午後からいわき市主催の市制施行50周年記念市民プレゼン大会「いわき“夢プラン”コンテスト」が市文化センター大ホールで開かれる。7人の審査員のなかでは私が一番年上だ。「老いては子に従え」で、若者からエネルギーをもらうつもりで出場者のパフォーマンスを楽しむことにしよう。

2016年7月15日金曜日

鳥の巣

 わが家の道路向かい、駐車場の奥に故義伯父の家がある。クスノキの若木がちんまりと枝葉を広げている。去年(2015年)まで、カラスが2年続けて巣をかけた。子育て時期が過ぎたところで、近所の造園業者に頼んで“散髪”した。ちょうど1年前だ。
 カラスの古巣を壊さないように切ってもらった。古巣は直径40センチほど。今は一種のオブジェとして、庭の隅っこに置いてある。

 堅牢にできている。幹と枝のまたに木の枝を組み合わせて円形の“産座”をつくった。下段はやや太く丈夫な枝、中段はそれより細い枝で、くちばしで枝をしならせながら編みこんだようだ。その枝と同じくらいの太さのハンガーが6~7個、組み込まれていた。
 
 義伯父の家は高床式の平屋建て。玄関前が階段になっている。上り口の軒下に3メートル弱のナンテンの木がある。何日か前、カミサンがこの木を剪定した。鳥が巣をかけていた=写真。長径13センチ、短径9センチ、深さは4センチほど。外側基部にはビニールテープやレジ袋のきれはし、枯れ草を使い、産座にはシュロが敷き詰められている。なかなか緻密な構造だ。
 
 前に、夏井川渓谷にある隠居の庭のクワの木に鳥が巣をかけた。同じ庭木のカエデに営巣中のヒヨドリを見たことがある。義伯父の家の庭の巣もそれに似ている。渓谷の隠居と同様、ふだん人は住んでいない。住んでいれば最も人の出入りが激しいところだ。巣の高さ、大きさからして、建築主はヒヨドリだったかもしれない。

 にしても、鳥は人間をよく観察している。カラスにしろヒヨドリ(として)にしろ、建ち並ぶ住家からたまにしか人が現れない家を見つけて営巣した。人間は「バードウオッチング」と称して野鳥観察に出かけるが、その前に鳥から「マンウオッチング」されているのだ。「聞耳頭巾(ききみみずきん)」をかぶると、鋭い人間批評が聞かれたりして。

2016年7月14日木曜日

どんぐり平

 土曜日(7月9日)の朝6時、孫が父親に連れられてやって来た。ブログをアップするためにノートパソコンを開いてパチパチやっていた。「なんだい、こんな早い時間に」「石森山に行って来た」という。小1の孫に「クワガタ(捕り)か?」と聞くと「うん」。
 石森山は平市街地に最も近い、標高225メートルの里山だ。フラワーセンターがある。雑木林内には遊歩道が張り巡らされている。

 おととい(7月12日)早朝、夏井川渓谷の隠居へ行った帰り、クヌギの「樹液酒場」を思い出して石森山へ寄った。子どもたちとよく行った「どんぐり平」=写真=はしかし、落ち葉が堆積し、クヌギの幹の「樹液酒場」が乾いている。これではオオムラサキもスズメバチもカブトムシもクワガタも現れない。すると、子どもが孫に教えたのは、どこか違ったところにある「樹液酒場」だろう。
 
 子どもが小さかったころ、日曜日になると(まだ週休2日ではなかった)、よく石森山へ連れて行った。バードウオッチングが目的だが、次第に野草・キノコにも目がいくようになった。キビタキの雄に至近距離で遭遇した。「写真を撮っていればねぇ」。あとあと子どもに言われたものだ。

 昼間だけでなく、夜も出かけた。クヌギやコナラの林立する「どんぐり平」は虫たちの「樹液酒場」だ。昼間はオオムラサキ・スズメバチ、夜はカブトムシ・クワガタ。樹液をなめてみたことがある。わりと冷たくて甘酸っぱかった。なるほど、これが虫たちの滋養源か――。
 
 石森山が三代にわたって自然観察のフィールドになる。唯一、「深慮遠謀」が成功した例だ。「こうしろ、ああしろ」ではなく、「これもある、あれもある」。親ができることは興味・関心をもてる環境・機会を用意することだ。その一つが親も楽しむ“山学校”だった。

 今は父親になった子どもが孫に自然の不思議と奥深さを伝える。まだクワガタ止まりだが、やがて野鳥や野草、キノコを好きになってくれるといい。むろん、スズメバチやマムシのように危険な生物がいることも頭に入れて。

2016年7月13日水曜日

ヤマユリ開花

 日曜日に用事があると、夏井川渓谷の隠居へは行けない。7月10日がそうだった。「いわき新舞子ヴィレッジ」で平地区壮年ソフトボール大会が開かれた。翌月曜日もいろいろあった。
 で、きのう(7月12日)、火曜日。キュウリがヘチマみたいに大きくなっていたら大変だ――早朝4時すぎに起き、ブログをアップするとすぐ出かけた。
 
 わが家から隠居までは車で30分。1時間もかかると音(ね)を上げるが、30分圏内ではあれこれ考える前に着く。毎日通っても苦にならない。行くのに30分、キュウリやトウガラシ、ナスの様子を見て収穫・追肥・草むしりをするのに30分、帰るのに30分。朝めし前の6時半には家に戻ってこられる。途中、石森山へ寄り道したので遅れたが、だいたいその通りになった。
 
 キュウリの1本が長さ30センチまで肥大化していた。9日前はちょっと太い楊枝(ようじ)くらいだったのが、そこまで大きくなる。ここ2、3日は一晩で数センチも大きくなったはずだ。
 
 実は、1週間単位でしか収穫できないため、未熟果でもちょっと大きくなると摘み取るようにしている。ヘチマ化を防ぐには週の半ばに一度行くか、最初から摘み取っておくか、するしかない。キュウリ大小、青トウガラシ大小を少し収穫した。
 
 早朝、農道から夏井川に沿って国道399号~県道小野四倉線を往復する。田んぼのあぜ道を散歩する人がけっこういた。道沿いの家のムクゲ、ノウゼンカズラが花をつけ、自生のネムノキも満開だった。行くときには気づかなかったが、渓谷ではヤマユリが咲き始めていた=写真。
 
 肥大キュウリは二つに切って糠床に入れ、夕方には晩酌のおかずにした。生も味噌を付けて食べた。うまかった。間もなく梅雨も終わり、夏本番を迎える。キュウリが、ヤマユリがそのサインだ。

2016年7月12日火曜日

浅漬けキュウリ

 糠漬けにからんではっきり覚えている話がふたつある。冬も糠漬けを食べる家があること、篤農家のキュウリの糠漬けがうまかったこと、だ。
 震災前の2010年晩秋。主婦の目で政治や経済をシビアに語る、古希を過ぎた「お姉さん」の家に夫婦で出かけた。甘い食べ物と一緒にハヤトウリの漬物が出た。聞けば、一年を通して休みなく糠漬けをつくっている。結婚と同時だというから、その家の糠床の歴史は50年を越える。

 わが家は、夏は糠漬け、冬は白菜漬けと決めている。「お姉さん」はそうではなかった。白菜漬けもつくるし、糠漬けもつくり続ける。この漬物談議に刺激されて、私も冬、初めて糠床を眠らせずにかき回しつづけた。やがて3・11を経験する。9日間の避難所暮らしをへて帰宅すると、糠床の表面にアオカビが生えていた。まだ寒気が残るとはいえ、糠床は酸欠状態だった。

 厳寒期の糠床はゾクッとするほど冷たい。乳酸菌の活動も鈍い。大根やニンジンが漬かるまでには、夏場の2~3倍の時間がかかる。冬も糠漬けを――は、その年だけでやめた。

 震災後の2013年7月。それまで毎年そうしていたように、平北白土の篤農家・塩さんを訪ねた。塩さんのつくるキュウリはやわらかい。夏の暑い時期には、朝、糠床に入れたら夕方には食べられる。乳酸菌の活動が活発なときには昼に取り出して食卓に出すこともできる。塩家の糠漬けキュウリを食べての「学び」は、次のようなことだった。

 キュウリの糠漬けは、大根と違って鮮度がいのち=写真。水分をたっぷり含んでいるうちに浅く漬ける(一昼夜寝かせると、少し塩気が強くなる)。シャキシャキとした食感ながら少ししんなりしたな、という漬かり方が、青臭くもなくしょっぱくもなくてうまい。

 冬も糠漬けをつくる「おねえさん」は、今もきらびやかなドレスをまとい、ステージに立つときがある。土曜日(7月9日)、アリオスで「山崎典子ピアノリサイタル」が開かれた。「ピアノとフランスの詩でつづる夜の物語」で、「お姉さん」はポール・ヴェルレーヌ、アンリ・ミショー、ギヨーム・アポリネールなどの日本語訳詩を朗読した。

 糠漬けをつくる主婦がフランスの詩を朗読するエンタテイナーでもあるという、いわきの市民文化の厚みを感じる90分だった。

2016年7月11日月曜日

Iヴィレッジ

 いわき新舞子ハイツの多目的運動場へ行ってきた。滑津川の最下流左岸に宿泊施設(同ハイツ)がある。同じ敷地内に同運動場やテニスコート、人工芝フットボール場、体育館などのスポーツ施設がある。それらをまとめて「いわき新舞子ヴィレッジ」と呼ぶそうだ。「Jヴィレッジ」ならぬ「Iヴィレッジ」か。
 多目的運動場は今年(2016年)4月、オープンした。一度にソフトボールが4試合できる。広い。きのう(7月10日)、3面を使って第49回平地区壮年ソフトボール大会が開かれた=写真。小学校区のトーナメント戦で、平六小学区の神谷地区球技大会でわが行政区が優勝したことから、わが区が中心になって40歳以上の選手を学区内から選抜してチームを編成した。

 滑津川の河口部は3・11に津波に襲われた。やや陸よりの幹線道路から海岸に抜ける、川沿いの道路が再開通したが、また通り抜けができなくなった。幹線道路とハイツへの道路の角に同運動場が建設された。ネットにアップされた市長会見その他の資料によると、国の「福島定住等緊急支援交付金」(子ども元気復活交付金)を活用した。大地震で地盤が沈下した水田の跡地利用をはかる事業でもあった。

 市はいわき新舞子ヴィレッジを、東京オリンピック・パラリンピックの国内外代表チームの合宿拠点にすべく誘致活動を展開する、と新聞記事にあった。やはり第二の「Jヴィレッジ」を目指しているわけだ。

 ソフトの試合は、1回戦不戦勝(2週間前のくじ引きでそうなった)のあと、2回戦で敗退した。朝からカンカン照りのなか、応援団として初めて屋根付きベンチに入った。時折、涼風が吹き抜ける。それよりなにより直射日光を避けられたのがよかった。

 この日、参院選の投票が行われた。こちらは球技大会があるので期日前投票を利用した。ソフトは選手が、選挙は有権者が主役。どちらも勝ち負けで決着がつく。実力差がはっきりしているソフトと違って、新聞・テレビを介して茶の間に届く民意にはいつも考えさせられる。

2016年7月10日日曜日

シリアの石鹸

 前に、NHK「あさイチ」で紹介されたのを見て、ブログで「アレッポの石鹸」(以下、「石鹸」)について書いたことがある。その後も「おはよう日本」で「石鹸」の今が紹介された。
 それと前後して、カミサンに「石鹸」の輸入会社から電話が入った。「いわきで買いたいが、どこで売っているのか」という問い合わせがあった。調べたら、以前にわが家(米屋)で売っているのがわかったので連絡した――という。卸会社を通じて「石鹸」を仕入れていた。震災前後に取引が途切れてからは、自家用分を別の店から買うようになった。

 アレッポはシリア最古のまちで、地中海に面した港町ラタキヤから北東の内陸部に位置する。震災前の2008年8月、小名浜の港づくりを視察に来た外国の「港湾開発・計画研修員」がいわき市暮らしの伝承郷を訪れた。園内でいわき地域学會が「いわき学・じゃんがら体験プロジェクト」を開いていた。彼らも「じゃんがら念仏踊り」の輪に加わった。
 
 なかにシリア・ラタキヤからの研修員がいた。通訳を介していろいろ話した。そのときは、2年7カ月後に東日本大震災が、それと前後してシリア内戦が起きるとは思ってもいない。こちらの市民も向こうの市民も大きな災禍に見舞われた。

 カミサンがまた「石鹸」を扱うことになった。「石鹸」はオリーブオイルとローレルオイルの配合比によって値段が異なる。ローレルが2%の「ライト」=写真=を仕入れた。

 この石鹸を洗髪にも使うようになってからだいぶたつ。ぴたりとフケ・かゆみが止まった。それだけでもすごいのに、まだ使いこなしていなかった。テレビで知ったが、足の裏を洗うと潤いが出てくるという。足裏も洗い始めたら、カサカサとひび割れ、皮のはがれが少し落ち着いた。やがてツルツルになるかもしれない。その期待がふくらんで、このごろは入浴が楽しみになった。
 
 輸入会社が取引している「石鹸」製造業者は、空爆下のアレッポを脱出してラタキヤへ移った。1000年の歴史を誇る「石鹸」はかろうじて命脈を保った。戦争は、人命・財産はむろん、文化を、歴史を、生業を、生活を破壊する――「石鹸」を使いながら、いつもそんなことを思っているわけではないが、シリアのニュースに触れるたびに胸が痛む。平和あってこその「石鹸」だ。

2016年7月9日土曜日

カラスのいたずら

 夏井川渓谷の小集落・牛小川。日曜日の朝、隠居に着くといきなり花火の音がした。パン、パン! 庭先で打ち上げる子ども用の花火だ。どの家で打ち上げたかはわかっている。以前、当主に聞いたら、カラスが家の中に入り込んでいたずらをする、それで追い払うのに花火を使うのだと言っていた。また入り込んだか。
 1週間後、用があって当主を訪ねた。留守だった。母親が住む隣の隠居にも人の気配はなかった。隠居の玄関が開いていた。玄関から庭先にかけて、折りたたまれたレジ袋やごみ袋などが散乱している。これか! カラスが玄関から中に入り込んでモノをくわえ、外に持ち出したのはいいが、食べ物ではないのでそのまま放置したのだろう。近くの電柱にハシボソガラスが3羽止まっていた。

 いつもの癖でカメラを肩から提げていた。“証拠写真”を撮ったが、いくらなんでも当主の許可なしに公開するワケにはいかない。代わりに、渓谷の上空を下流から上流へと飛んでいく、カラスのように黒いカワウを載せる=写真。

 渓谷に旅館がある(営業は休んでいるようだ)。釣り堀を併設し、イワナやニジマス、コイ料理を提供した。この釣り堀を狙ってカワウやアオサギなどが現れた。ヤマセミもやって来た。

 アオサギはときどき、赤松やモミの木の枝に止まっていた。「松に鶴」の花札の絵柄の影響か、大きな鳥が木に止まっていると、街場から来た行楽客は「ツル!」と騒ぐ。ツルは湿原の鳥で、木に止まることはない。潜水が得意なカワウは、たまに渓流の岩場で羽を休めていた。警戒心が強く、人の姿を見るとすぐ飛び立つ。このごろは岩場で日光浴をしている姿を見ない。

 普通、アオサギやカワウは田園地帯や平地の川でえさをあさっている。なかで目先の利く個体が山里の釣り堀に現れた。

 生ごみをあさるカラスは、牛小川ではとりわけ人間を小バカにしているのだ、という。街のカラスは玄関や茶の間の戸が開いていても家の中に入り込むことはない。牛小川のハシボソガラスは平気で入り込む。そこが違う。
 
 渓谷の暮らしは自然の恩恵に支えられているが、リスクも少なくない。田畑を荒らすイノシシ、屋根裏のハクビシン、軒下に営巣するスズメバチ……。落石はしょっちゅうだし、土石流の危険地帯でもある。自然と人間の関係が濃密な山里ならではの“攻防戦”だ。

2016年7月8日金曜日

植物的な悪口

 いわき駅前再開発ビル「ラトブ」へはよく行く。“在宅ワーク”の今は、調べたいことがあると図書館のホームページを開いて本を探し、時間があればすぐラトブの総合図書館へ車を走らせる。ときどき、カミサンも便乗する。
 図書館では本の貸し出しのほかに、市民から寄贈された本や古くなった蔵書・雑誌のリサイクルを行っている。先日は、カミサンが雑誌「ミセス」2014年2月号を持ち帰った。巻頭にベルリン在住の芥川賞作家多和田葉子さんの連載エッセー「言葉と言葉の間で」が載る。11回目の同号は「野菜の悪口」がタイトルだった=写真。

 ドイツと日本の悪口の違いについて書いている。「ドイツ語の場合、人の悪口を言う時に『あの山羊女』とか『あいつは本当に牛だ』とか『豚的な悪事』などと食用になる動物を引き合いに出す。一方、日本語の場合、『あの娘は芋だ』とか『このボケ茄子』とか「大根役者」といった具合に野菜が登場する。草食系の言語なのかもしれない」。さすがは詩人・作家らしい切り口だ。

 震災後、フランス人写真家デルフィーヌと知り合った。彼女はいわきを拠点に、津波被災者・原発避難者の取材を重ね、2014年2~3月、多和田さんとベルリンで2人展を開いた。多和田さんは詩を発表した。多和田さん自身も2013年8月、いわき・双葉郡、その他の土地を巡っている。今年は春、京都で同じ展覧会が開かれた。この間、多和田さんとも2回、いわきでお会いした。

 同じ連載のなかで、多和田さんは福島の旅について書いている。「あの黒い袋の中の物質は何千年たっても子供たちを癌にするかもしれない。(中略)とんでもないもの、手に負えないものを無責任にこの世に送り出してしまった人間のとりかえしのつかない過ち。福島への旅は、わたしにとっては、これまでで一番悲しい旅だった」(2013年11月号)

 おっと、前置きが長くなった。「野菜の悪口」に刺激されて、ほかの悪口を探ると、「おたんこ茄子」「土手南瓜」「青瓢箪」「末成り(うらなり)」「独活(うど)の大木」「大根足」「牛蒡(ごぼう)」……。やはり植物的な悪口が思い浮かんだ。
 
 しかし、「動物の悪口」もないわけではない。「猫かぶり」「負け犬」。池波正太郎の『鬼平犯科帳』には「阿呆鴉(あほうがらす)」が出てくる。悪口ではないが、「鼠小僧」もいた。
 
 多和田さんはエッセーをピーマンで締めくくった。「『あの人っていつも話がピーマン』とは言われたくないものだ」。芥川賞作家がそうなら、こちらは「頭がピーマン」といわれてもしかたがない。

2016年7月7日木曜日

「古さびた家」

 たまに小学3年と1年の孫の“学童保育”を引き受ける。そのたびに孫が言う。「汚い家」「こいつ、なにを言うか。古いだけだぞ」。無礼と率直の違いで言えば、無礼な物言いだが、それを孫にぶつけてもしようがない。
 どの部屋も雑然としている。階段も含めて、本と資料だらけだ。特に、茶の間がひどい。昼は仕事場、夜は晩酌の場。座卓の周りに資料が山積みになっている=写真。このごろは座椅子にすわるのに、抜き足差し足になる。でないと、ちょっとさわっただけで資料が崩れ落ちる。「汚い」の半分は「雑然」なのかもしれない。

 おととい(7月5日)、久しぶりに“学童保育”を引き受けた。下の孫は相変わらず「汚い家」を連発する。「カに刺されたい」とも言う。

 エアコンはない。暑い日は戸を開けて、蚊取り線香をたく。上の孫はもっと小さかったころ、カに刺されると赤く腫れあがった。下の子は、そうはならないようだ。で、このごろはわが家に来るたびに「カに刺されたい」を繰り返す。

「『汚い家』なんて言うものじゃない」。説教じみたことを言うと、上の子がつぶやいた。「古さびた家」。「おい、『古さびた』という言葉を知っているのか」。どこかで耳にしていた、あるいはたまたま「古い」「さびている」を思いうかべて「古さびた」になったのか。

「古さびた」を「ガタがきた」に言い換えると、「あるある」になる。テレビがおかしくなった。風呂場の電球が切れた。メガネのブリッジが折れた。これらが、この10日ほどの間に連鎖的におきた。古さびてガタが来ている。

 小学生のころ、どんなことに興味・関心があったのかを、ここでは書けないことも含めて覚えている。自分のそれと照らし合わせながら、こうかああかと想像しながら、孫とつきあう。孫も“大人”への発達過程にある。

2016年7月6日水曜日

日本は「十字軍」?

 おととい(7月4日)のNHK「クローズアップ現代+」は、ダッカ人質テロ事件を取り上げた。シャプラニール=市民による海外協力の会の元代表理事・現評議員の大橋正明聖心女子大教授が出演した=写真。今年3月31日、大橋さんが奥さんを伴って、5年と4日ぶりにわが家へやって来た。それ以来の「対面」だ。
 大橋さんはバングラデシュやインドなどをフィールドに、日本のODAとNGO、インドの被差別カーストの人々などを研究テーマにしている南アジアの専門家だ。NGOを支援するNGO「国際協力NGOセンター」(JANIC)の前理事長でもある。

 東日本大震災では、いわきへ緊急支援に入ったシャプラの副代表理事として2人のスタッフとともに社協、市役所、市勿来支所などを訪ねて、結果的に5年に及ぶ支援活動を決めた。道案内を兼ねて市内を、大津波の被害に遭った沿岸部を、震災後初めて巡った。
 
 この5年、シャプラと大橋さんらを介して、国内外のNGO関係者や大学の先生らと話す機会が増えた。地震や津波被災者、原発避難者とホームコミュニティ(受け入れ地域社会)の関係についても思いをめぐらせた。

「クロ現」で大橋さんは厳しい見方を示した。バングラは親日国。とはいえ、犯人たちの年代が若いこともあって、「日本人カード」は利かなかった。もう日本は完全に有志連合なり十字軍と見なされるようになった――。

 きのうの朝日新聞に、シャプラのダッカ事務所長のコメントが載っていた。「昨年1月、安倍晋三首相がイスラム国(IS)と向き合う周辺国の難民支援などに2億ドルの資金協力を表明した時が『大きな転機だった』と感じる。『あれから日本人もテロの標的にされている。テロをなくすためには力ずくではなく、貧困の解消などに知恵を絞るべきでは』」

 大橋さんとは別に、きのう、シャプラ会員で徳島大歯学部の森田康彦さんとフェイスブックでつながった。事件がきっかけといってもいい。森田さんは、同大や北海道大学の学生らを率いて、バングラで歯磨き指導や口腔検診をする国際ボランティア活動を展開した。事件の起きた一角に宿泊して村へ通ったという。

森田さんに会ったのは震災直後で、シャプラのいわきでの活動を、放射線量の測定という専門分野から支援した。ボランティアで久之浜の放射線量も測定した。その結果をもとに、震災から3カ月余りあと、市久之浜・大久支所で住民に線量調査報告をした。「小・中学校再開準備プラン」も明示した。(わが家へ来たとき、線量計を初めて見た。屋内で毎時1マイクロあったのを覚えている。今は0.07に減衰した)

 そのとき、連携して支援にかかわったいわき出身の都市計画コンサルタント氏がいる。彼の勤める会社の仲間が今度のテロで犠牲になったという。直接にはいわきと関係がなくても、人のつながりのそのまたつながりをたぐると、亡くなった人たちの志と人生が見えてくる。さぞや無念だったことだろう。

2016年7月5日火曜日

マメダンンゴ採取

 キノコのマメダンゴ(ツチグリ幼菌)だけは、どういうわけかいながらにして採れる。今年(2016年)もおととい(7月3日)、20個余を採った=写真。毎年、梅雨に入ると夏井川渓谷の隠居の庭に発生する。
 前はコケの下に埋もれていた。手のひらをコケに圧(お)し当てる。「小石」様の感触があれば、指で探る。歩いていて「プチッ」と音がするときもある。体重がかかってマメダンゴが裂けたのだ。そんなときにはかがみこんで凝視する。コケの間から何か灰色っぽいものがのぞいている。小石のときもあるが、たいていはマメダンゴだ。

 2年半前の2013年師走。隠居の庭が全面除染の対象になって、土が入れ替えられた。翌年。マメダンゴは出ないだろうとチェックをあきらめた。去年は期待もせずに見たら、親指大の茶黒い“小石”があちこちに出現していた。菌糸が残っていたのだろう。コケが消えた分、地表に露出して簡単に見つけられるようになった。
 
 マメダンゴの旬は6月下旬。そのころは小指大で白い。二つに割ると内部が“白あん”だ。これが7月に入ると黒ずみ、親指大に膨らむ。内部も胞子が形成されて濃いムラサキイモのような“黒あん”状態に変わる。こうなると食不適だ。

 コリコリした外皮と、グニュッとした内部の“白あん”。まずは炊き込みごはんにする、同時期に採れるキヌサヤエンドウや新ジャガとの味噌汁にも――阿武隈の山里の定番と言っていい。しかし、今年採ったマメダンゴの大半は“黒あん”だった。残った“白あん”だけでは炊き込みごはんにする意味がない。みそ汁の具にした。

 このごろ、隠居へは日曜日に行くだけだ。6月12日、サンダルで歩いて感触を探ったが、反応はなかった。同19,26日と、朝早く行って昼前には隠居を離れたので、チェックを忘れた。で、おととい、50個近く露出していたが……。26日、目視ないし手で圧して探り取るべきだったのだ。

2016年7月4日月曜日

昭和11年のいわきの映像

「16ミリフィルムが映す昭和11年のいわき」と題する上映会がきのう(7月3日)、いわき市平・三町目のもりたか屋で開かれた。NPO法人ワンダーグラウンド16ミリフィルム上映委員会が主催した。40人ほどが参加した。
 撮影者は、旧相互銀行の前身・無尽会社の四倉支店長だった人で、半世紀ほどたって家を一部、改築したときにモノクロフィルム=写真=が出てきたそうだ。忘れられたままだったが、フィルムそのものはそう傷んでいなかった。

 そのフィルムを最近、四倉の若い知人が所有者の許可を得てデジタル化した。さらに公開・活用の同意を得て、去年(2015年)11月19日、四倉商工会館でデジタル化完成試写会を開いた。映像そのものは無編集で、音声も字幕もない、知人の生ナレーションだけ。今回は映像をピックアップして字幕と音楽を加えた。「見る・読む・聞く」の三感で受け止めたが、音は少し絞ってもよかった。

 7カ月半前の試写会で印象に残ったシーンがある。今回もやはり同じシーンが目に留まった。白・黒・白と黒いバンドエイドをした一本指のような塩屋埼灯台。植田の町並みの上にはためくこいのぼり。豊間の回春園(現いわき病院)。平・松ケ岡公園に立つ、供出前の安藤信正像。同公園からの町並み。鉄筋コンクリート造りの大浦小と磐城セメント。

 個人的な興味・関心でいうと、それぞれの映像を切り口にして文学的な論考や歴史的な物語を組み立てることができる。10人いれば10人が同じ映像から違った情報を読み取ることができる。

 例えば、塩屋埼灯台。山村暮鳥は大正時代の5年余を磐城平で過ごした。詩人はこの灯台を見て「岬に立てる一本の指」の比喩を得たとされる。この詩句から立ちのぼるのは純白のイメージだが、実際にはバンドエイドを巻いた「岬に立てる傷ついた一本の指」だ。暮鳥の内部で言葉の葛藤があったことだろう。

 松ヶ岡公園から見える町並みのうち、最も手前の材木町や紺屋町は昭和20年の空襲で焼け野原になった。映像にあった初代信正像も戦争による金属供出で消えた。灯台も爆撃された――。

東日本大震災後、折に触れていわきの自然災害や戦争・銃後の暮らしを調べている。安全・安心をキーワードにすると、同じ映像なのに違った感情がわいてくる。自爆テロ、あるいは空爆下にある中近東の市民にも思いが至る。

 上映後に質疑応答が行われた。最後に以上のような「感想」を述べるつもりでいたのだが、一部しか話せなかった。

「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」。田村隆一の詩句にならえば、「<昨日>のいわきの映像はすこしも面白くないが/80年前の映像なら見せ物になる」。ただ、いわきのマチやハマはあっても、ヤマがなかった。もともと映像がなかったのだろう。個人的にはそれが残念だった。

2016年7月3日日曜日

ダッカの惨劇

 バングラデシュでおきたレストラン襲撃事件をテレビが伝えたとき、シャプラニール=市民による海外協力の会のダッカ事務所長の安否が気になった。いわきへ来たことはないが、東京のシャプラニール本部で会ったことがある。きのう(7月2日)、事務局からのメールで無事であることを知った。
 シャプラは南アジアのバングラデシュやネパールで「取り残された人々」の支援活動を展開しているNGOだ。40年以上前、福島高専出身の親友が中心になって設立した。東日本大震災・原発事故がおきると、北茨城市を経ていわきへ緊急支援に入り、今年(2016年)3月12日まで、地震・津波被災者、原発避難者のための交流スペース「ぶらっと」を開設・運営した。

 いわきでの5年に及ぶ復興支援活動のなかで、シャプラの本来の活動を理解する市民が増えた。ネパール大地震では、被災・避難者を中心に義援金が寄せられた。そして、今度のダッカの惨劇だ。「シャプラのスタッフは大丈夫だろうか」。無事だという情報にホッとした市民も少なくなかったろう。

 シャプラの前事務局長氏が、ダッカ事務所長のコメントが載った共同電のニュースをフェイスブックにアップしていた。昨年(2015年)、バングラで日本人が殺されている。それを踏まえて「昨年の事件以降はできるだけ外出を控えていた。ラマダン中に何かが起きるのではないかと心配していた」。けさの新聞=写真=では、後半のコメントが割愛されていた。

 その「何か」が最悪のかたちになった。レストランで食事をしていた日本人8人のうち7人と連絡が取れなくなった。国際協力機構(JICA=ジャイカ)によるインフラ整備事業にかかわっていた企業の関係者だという。
 
 ニュースの続報で、人質20人が亡くなった。大半が日本人とイタリア人だったと知る。IS系メディアが犯行声明を出したそうだ。なんともむごたらしい。思わず手を合わせるしかなかった。

2016年7月2日土曜日

休耕田

 通いなれている道沿いの山里だからわかる変化だ。何枚もない水田の1枚が休耕地になっていた=写真。
 農地、特に水田は震災前から担い手が減っている。後継者がいないまま高齢化して耕作をやめた、あるいはほかの農家に耕作を委託した――というケースが少なくない。非農家から見ると、どこの農家も米を作っているように見えるが、実態は深刻だ。

 耕作放棄地の増加は農村景観の崩壊を意味する。農村景観を維持する基本は草刈りと剪定、道普請と用水路の泥揚げ。

 草刈り、これは家の内外だけではない。あぜ道、堤防、場合によっては空き地も。行政区によっては全戸で対応、というところもあるようだが、高齢化でそれができない家が出てきた。加えて非農家が増えている。今までと違った摩擦もおきる。「草刈り機の音がうるさい」「ここはだれが草を刈るのか」。農家の多い行政区の区長さんの苦労がしのばれる。

 農村景観は、自然と人間の関係が可視化されたものだ、と言ってもよい。典型が双葉郡の風景。原発避難によって耕作放棄を余儀なくされた。秋になると黄金の稲穂が広がっていた田んぼが、除染廃棄物を収めた黒いフレコンバッグとセイタカアワダチソウの黄色い花で覆われた。こんな異常な風景は世界の稲作史のなかでも初めてだろう。
 
 それでも、ところによっては試験栽培から本格栽培へと稲作復活の動きが広がる。住民がみずから「限界集落」と自嘲する夏井川渓谷の小集落でも、「米づくりをやめたらすぐ竹林になっちまうんでねぇべか」と言いながら、無事田植えがすんだ。

初夏になると枯れ田はカエルの鳴く青田に変わる。この“当たり前”の風景は、実は人の手でかろうじて維持されているものだった。自然と人間の関係が切れると、たちまち田んぼは荒れた自然に返る。

2016年7月1日金曜日

ツバメ乱舞

 夕方6時。車で夏井川の堤防を下流へ向かうと、ツバメが群れ飛んでいた。それよりさらに下流のヨシ原に集団ねぐらができる、と聞いたことがある。その数、数万羽――。少しずつねぐらが形成されつつあるのだろうか。
 7年前のことだ。立秋を迎えたばかりの8月上旬、日本野鳥の会いわき支部が河口近くでツバメの集団ねぐら観察会を実施した。好奇心にかられて出かけた。途中でケータイが鳴り、急いて帰ったので、ねぐら入りには出合えなかったが。
 
 日本野鳥の会いわき支部が、支部創立50周年を記念して発行した『いわき鳥類目録2015』に、現支部長氏の「観察メモ」が載っている。

「日が落ちる前の夏の夕方、数万羽のツバメが空一面で乱舞し、その後、急降下しヨシ原の上を群れ飛ぶ姿に、息を呑むほど感動しました。その塒(ねぐら)は2008年、夏井川河川敷ヨシ原にありましたが、その翌年には仁井田川河川敷に塒を移し、今日に至っています」。私が出かけたのは仁井田川にねぐらを移した2009年だった。
 
 ツバメが南からいわきへ渡ってくるのは、早くて3月下旬だ。それからほぼ3カ月。今は2回目の子育てに忙しい個体もいることだろう。

 1カ月前、同級生の車に同乗して那須高原へ出かけた。途中、「道の駅東山道伊王野(いおうの)」(栃木県那須町)で一休みした。テント張りの物産センターにツバメが営巣していた。テントの内側、手を伸ばせば触れられる角の支柱を利用してヒナを育てていた。
 
 帰路は東北道~あぶくま高原道路を利用した。白河市あたりでトイレ休憩をしたら、そこにもツバメが営巣してヒナにえさをやっていた=写真。那須野から福島県の中通り一帯は、ツバメにとっては子育てしやすい場所なのだろうか。

 かつてはどの町も「ツバメのすむ町」だったような気がする。家々の軒下にツバメの巣ができた。今は国籍不明の「○×風」(たとえば「西欧風」とか)の家が建つ。2階建てでも1階にひさしのない建物が増えた。ツバメには住みにくい環境になった。

 きょうから7月。1年の後半分が始まった。このごろは時間もツバメ返しで過ぎる。集団ねぐら入りがピークを迎えるのは1カ月先。すぐくる。一度は数万羽の乱舞という壮大なドラマを見たいものだが……。なかなか晩酌の誘惑を抑えられない。