2017年4月30日日曜日

朝ドラ「ひよっこ」

 きのう(4月29日)のNHK朝ドラ「ひよっこ」。半分期待していたことが起きた。
 集団就職列車のなかで「奥茨城村」の3人組(少女2人、少年1人)が女の子と出会う。青天目澄子(なばためすみこ)=写真。出身は「福島のいわきです」。3人組は茨城の高校を、青天目澄子はいわきの小名浜中学校を卒業したばかりだ。
 
 中卒少女が心細い思いでひとり反対側の座席に座っている。それに気づいた主人公の高卒少女、谷田部みね子が声をかける。なんと、就職先がみね子ら少女2人と同じ東京のトランジスタラジオ工場だった。

「いわき」は磐城?岩城?石城? はたまた平仮名のいわき? どれでもいいが、舞台が「奥茨城村」ときては、北隣の村は「福島の『奥いわき村』」にちがいないと、勝手に思い定めていた(昭和39年当時は「石城郡」の村々。14市町村が合併して「いわき市」が誕生するのは昭和41年)。

 いわき市南部と茨城県の北部は人の行き来が濃密だ。風土的にも共通している。いわき地方の山里が舞台といっても通じる、いわきの準「ご当地朝ドラ」。語尾の「ぺぇ・べぇ」も同じだし、「青天目」姓も茨城と接するいわきの南部に多い。

 昭和39年の東京オリンピックのあとに高校、中学校を卒業して東京の会社に就職――という設定が、団塊の世代(昭和22~24年生まれ)には生々しい。オリンピックの年に、私は高専に入学した。その意味では、「ひよっこ」のみね子たち3人組は2歳年上、同世代の物語だ。

 みね子の父親は東京へ出稼ぎに行き、いったん稲刈りに戻って来たものの、再び上京して失踪する。前は国会議事堂の見える霞が関のビル建設現場で働いていた。当時は地方のどこの町・村でも農閑期の出稼ぎが普通だった。
 
 超高層ビル第一号「霞が関ビル」(36階建て、147メートル)の建設現場で、夏休みにアルバイトをしたことがある。同ビルは昭和40年に着工し、43年4月にオープンした。みね子の父親が建設現場で“ネコ車”を押す姿に、つい「ネコは一輪車だからバランスをとるのが難しい」なんて、感情移入をしてしまった。
 
 高度経済成長のエンジンがうなりを上げていた。ちょうど大人になりかけていた10代後半。「ひよっこ」に、自分の“青春”のあれこれが重なる。ふわっとした増田明美のナレーションが登場人物の心の生傷を包む。

2017年4月29日土曜日

いわきの“北回廊”

 きょう(4月29日=昭和の日)からゴールデンウイーク。平日の5月1、2日を含めて9連休という人もいるだろう。
 毎日が“日曜日”、いや“自由業”の身には、現役のように「仕事の合間が自分の時間」ではなくて、「自分の時間がときどき仕事の時間」に変わる。その“仕事”は1~2時間程度でしかないのだが、準備に丸一日かかったり、忘れて欠席したりできない厳しさがある。
 
 きょうは所属する団体の資料郵送準備作業、5月1日は「広報いわき」その他の回覧資料配り、4日は近所の神社の祭礼出席。ほかにも二、三、先送りしてきた“仕事”がある。それをゴールデンウイーク中にやっつけないといけない。
 
 カミサンが久之浜にオープンした商業施設「浜風きらら」へ行きたいというので、きのう、出かけた。ゴールデンウイークに遠出する計画があるわけでもない。ささやかだが、久之浜までのドライブをプレゴールデンウイークの楽しみとすることにした。

 国道6号久之浜バイパス(四倉・六丁目~久之浜・金ヶ沢間6キロ)が2月26日に全線開通をした。海岸に接する国道の西側、久之浜の市街を避けて阿武隈高地の東縁を貫通する。初めて利用した。波立海岸では国道と常磐線の上を走る。太平洋が一望できる。

 久之浜は薄磯や豊間と違って、海寄りの防災緑地と住宅地が接近している。「浜風きらら」はその接点に位置し、鮮魚店や飲食店、商工会、NPOのザ・ピープルなどが入居する=写真。近くに仮設商店街から戻った店も建つ。
 
 ザ・ピープルの店をのぞき、鮮魚店で買い物をしたあと、バイパス経由で戻ることにした。久之浜の市街を抜けると、四倉の内陸に通じる県道と交差する。常磐道のいわき四倉インターチェンジに通じている。そばにワンダーファームがある。急にそこでソフトクリームを食べたくなった。
 
 視界は海と丘から田園と山に変わる。往来する車は少ない。信号もない。ドライブにはもってこいの田舎道だ。
 
 浜風きらら、ワンダーファーム、そして道の駅よつくら港。いずれもわが家からひとっ走りで行ける商業施設である。バイパスができたおかげで、いわきの“北回廊”が頭に入る。3施設のはしごも簡単にできるようになった。

2017年4月28日金曜日

キジの母衣打ち

 マチからの帰りに夏井川の堤防を利用する。ハクチョウが北へ帰った今は、ウグイスがさえずり、南から渡って来たツバメが飛び交っている。セイヨウカラシナ?の菜の花が満開だ。 
 堤防の“定線観測”で生物季節現象、たとえばウグイス初鳴、ツバメの初認、ハクチョウ初飛来などがわかる。キジの雄も春には「ケンケーン」と鳴き始める。
 
 堤防の「内側」は人間が住んでいるところ、「外側」は川と河川敷。家が堤防そばまで密集している「内側」の平・塩~中神谷に、ところどころネギ畑が広がる。右岸堤防「外側」の河川敷にも、誰かが“開拓”した畑がある。
 
 おととい(4月26日)、塩地内の休耕地に雄のキジがいた=写真。ときどきそこに現れる。翼をうちわのようにパタパタやる母衣(ほろ)打ちをしたと思ったら、「ケンケーン」と鳴いた。今年初めて聞く雄たけびだ。あとは、周りの様子を見ながらえさをついばんでいた。この雄キジは川を挟んで両岸を行き来している。草木が繁茂する右岸にすみかがあるようだ。

 9年前のブログの引用――。夏井川の堤防を散歩していたころ、右岸の3カ所からキジの鳴き声が聞こえた。1羽は畑の真ん中に、ほかの2羽はそれぞれ離れて河川敷の砂地に近い草むらにいた。

 3羽の距離を歩いて測ったら、AキジとBキジの間は240歩(一歩90センチとして216メートル)、BキジとCキジの間は100歩(同90メートル)だった。真ん中のBキジの縄張りを中間で線引きすると108メートル+45メート=153メートルになった。少し余裕をもたせて200メートルごとに縄張りがあるとすると、雄のキジは1キロメートルに5羽はいることになる。
 
 現実にそのくらいの割合で生息しているかどうかはわからない。今も300メートルの間に3羽の雄がいるかどうかは不明だ。が、河口から上流までカウントしたら結構な数になるのではないか。

 留鳥のウグイス、キジのほかに、ツバメと同じ夏鳥のオオヨシキリが間もなく南から到着する。いや、間もなく、は正確ではない。今年は遅れるのではないか。岸辺のヨシ原はやっと緑のじゅうたんができたばかり。巣をかけるまで茎が育つには少々時間がかかりそうだ。

2017年4月27日木曜日

暴風のツメ跡

 ほぼ9カ月前から、いわき市の防災メールサービスを利用している。朝起きるとチェックする。強風注意報が発表されてから、実際に風が吹き始めるまでには数時間のズレがある。そうでないときも、もちろんある。が、メールサービスを利用してから、そんな“推測”が身についた。
 ちょうど1週間前の4月19日がそうだった。朝10時過ぎ、暴風警報が発表された。これが、強風注意報に切り替わるのは20日午前2時前。夜が深まるにつれて風が強くなった。夏井川渓谷に家のある友人が「台風以上の暴風」のなかを帰宅した。停電していたという。

 わが隠居は友人が暮らす集落と隣接する集落にある。風の影響はどうだったか。ブレーカーは、庭のキリの木は? たぶん大丈夫、屋根に木が倒れていれば近所の住人が連絡をくれるはず……。とはいっても、気がもめる。次の日、確かめに行った。

 さいわい何事もなかった。別の集落の知り合いが近くにいたので聞くと、「家が持っていかれるかと思った」ほどの暴風だった。やはり、停電したという。
 
 後日、いわき市危機管理課がまとめた「暴風警報経過報告書」を市のホームページで読む。19日は、夜になって「ソーラーパネルが飛んだ」「桜の木が倒れた」「物置が飛ばされた」といった被害情報が災害対策本部に入ってきた。そのころが暴風のピークだったらしい。
 
 災対本部の警戒態勢は、20日午前3時には解除される。そのあと、朝になって好間町川中子(かわなご)の愛宕神社境内入り口にある鐘楼が倒壊しているのがわかった。鐘楼は4本の柱で屋根を支えているだけだ。雨はしのげても風がもろに吹き抜ける。暴風に屋根が持ち上げられるようにして柱が倒れたか。県重要文化財に指定されている銅鐘は無事だったようだが、鐘楼は無残な姿をさらしていた=写真。

 愛宕神社の隣の地区公民館の庭には川中子出身の詩人猪狩満直の詩碑が立つ。鐘楼がやられたくらいだから、詩碑も倒木被害に遭っているのではないか。ニュースで鐘楼倒壊を知り、そちらが気になって見に行ったのだった。詩碑は無事だった。
 
 鐘楼の所有者は地元の行政区だ。行政区だけで鐘楼の修復は可能だろうか。わが行政区だったら……などと、役員の胸の内がしのばれた。

2017年4月26日水曜日

林業女子

 マチの第三次産業からヤマの第一次産業へ――。知り合いの若い女性が林業会社に転職した。杉やヒノキの苗木植えが仕事だという。世にいう「林業女子」だ。
 会社はいわき市遠野町にある。「H商店? 知ってるよ」。社長とはおよそ35年前、勿来青年会議所で知り合った。たがいに30歳前後の“青年”だった。勿来支局に転勤すると、当時の青年会議所理事長に入会を勧められた。会社が了承した。

 このごろはイベントで顔を合わせる程度(最近では去年12月19日、FMいわきの開局20年を記念する「感謝のつどい」で言葉を交わした)だが、会えばすぐ「あのころ」にタイムスリップする。

 H商店のホームページを開いて驚いた。「社員紹介」はインタビュー形式だ。10人のうちベテラン1人を除くと、みんな若い。市外からの移住組もいた。それでも、「震災から変わった。社員が減って今は14、5人」(社長インタビュー)という。震災前は「20人以上いた」。

 哲学者内山節さんの本で知ったのだが、20世紀の終わりから「若者が山里を目指す」現象がみられるようになった。それが今、いわきでも顕在化しつつあるということだろう。「林業女子」が現れても不思議ではない。
 
 いわき市は、かつては「日本一の広域都市」だった。しかも、市域の7割が森林だ。中山間地へ行くと、杉の人工林が広がる=写真。

「循環型社会」を推進するには、木を切って植える、つまりは森林の利用と維持・管理が必要になる。除伐・間伐・造林といった仕事は途切れなくある。きつい職場だが、「身の丈に合った文明」を支える未来型の産業でもある。ずいぶん機械化も進んでいるという。

 半ば押し付けるように、森と林業について考察した哲学者の本を、林業女子に貸した。

2017年4月25日火曜日

鳥の羽根の話

 鳥の羽根を、ノートパソコンの画面に付いたほこりを払う「ほうき」にしている。
 前はカラスの羽根を、今は大人の中指より少し長いくらいの羽根を使っている。夏井川渓谷の隠居の庭に落ちていた羽根を拾った。羽根の模様からするとタカだが、小さすぎる。キツツキか。いや、ほかにも似たような模様の羽根をもっている鳥がいる。よくわからない。
 
 使い続けているうちに、羽根の先端が摩耗した。なんでもいい、新しい羽根がほしい――代替品を探していたら、家の玄関前に落ちていた。色からするとカラスのものらしい羽根が1本、どこからか風に飛ばされてきたのだ=写真(左が新しい羽根、右が古い羽根)。
 
 古い羽根と一緒に、根元を輪ゴムでぐるぐる巻いて、画面のほこりをなでるように払っている。画面を傷つけるのでは、という心配がきれいに解消された。
 
 もうひとつ――。市から「緑の羽根」募金の協力要請がきて、各隣組に羽根とチラシなどを配った。
 
 募金には応じても、緑の羽根を上着に付けている人は、政治家か公務員以外は見当たらない。日曜日(4月23日)午前、地元の長寿会の総会が開かれた。招かれて地元の3行政区長が出席した。人生の先輩でもある北隣の区長さん(元公務員)が緑の羽根を用意していた。公式の場だから――ということなのだろう。
 
 背広のえりのボタン穴にでも刺そうとしたら、針がない。「貼るだけでいいんだよ」といわれた。羽根の裏側になにやら紙が付いていて、赤く矢印が書かれている。それをはがしてえりに付ける。シールタイプの羽根だった。いやあ、緑の羽根も進化するものだ。
 
 隣組の世帯数に応じて緑の羽根を配るのだが、本数から袋詰めまでカミサンに頼んでいたので、針からシールに変わったのに気づかなかった。<おい、おい>と羽根で軽くなでられたような気分になった。

2017年4月24日月曜日

孫と遊ぶ

 上の小4の孫が10歳の誕生日を迎えたので、カミサンが電話をかけた。誕生日プレゼントを“えさ”に連れ出して、下の小2の孫も含めて日曜の午後を一緒に遊ぼう、というわけだ。運転手を務めた。
 下の孫はゲーム用のカードが、上の孫はプラモデルがほしいという。売っている店は鹿島街道、いわき駅近辺と異なる。カミサンはカミサンで、夏井川渓谷の隠居の庭にあるシダレザクラの花を見たがっている。買い物途中で渋る孫を隠居へ連れて行った。

 ちょうど1年前、孫たちは隠居の庭で“水路遊び”をした。風呂場からホースを伸ばして水を流すと“峡谷”ができた。今年はあいにく井戸のポンプが故障している。水が出ない。スコップや草引きで崩れた“水路”を修復したあと、近くの小流れ=写真=からバケツで汲んで来た水を流しては歓声を上げていた。

“水路”修復中に乾電池をガムテープでくるんでつくった戦車が出てきた。去年、“水路”の“崖”の上に置いたのが、忘れられてなかば土に埋まっていたのを掘り出したのだった。
 
 隠居の庭に猫の墓がある。先の暴風で倒れたスイセンの花を切って下の孫に手渡し、猫の墓にたむけるようにいう。花を受け取った孫が茎を口に持っていきそうになったので、「スイセンは毒!」と注意すると、手の動きが止まった。

 1年前、たまたま隠居に遊びに来た知人が孫の“水路遊び”を見て、「学問の始まりです」といった。遊びのなかから、土木や防災、歴史、自然などへの関心が芽生える、ということだろう。1年後、孫たちは井戸水に代わって近くの小流れの水を利用することを学んだ。「おじいさんは山へ柴刈りに、おばあさんは川へ洗濯に……」に通じる暮らしの原型のようなものだ。

 シダレザクラは満開を過ぎて散り始めていた。カミサンは、「咲いても誰にも見られないのではかわいそう」と思っていたそうだが、花と対面して満足していた。
 
 さて、マチに戻り、目当ての大型店へ行くと、上の孫はプラモを買い、下の孫は100円を投入し、カードをゲーム機の画面に当てて動かした。初めてデジタルカードゲームというのを見た。アニメのドラゴンボールだった。これが今の子どもたちの「サバイバルゲーム」なのか。

 しめくくりは、いつもの魚屋さんへカツオの刺し身を買いに――。教材用なのか、アンコウの骨格、アブラザメの頭部と尾ビレが飾ってある。アブラザメは和名アブラツノザメ。肝油やかまぼこなどの練り製品の原料になる。刺し身にしてもうまいという。下の孫はアブラザメの歯にさわってその鋭さにびっくりしていた。

 ゲーム機では倒された相手は何度もよみがえる。が、現実の自然にはスズメバチがいる、マムシがいる、サメがいる、スイセンがある。命取りになりかねない生物の存在を体で覚えないといけない。孫たちは少しばかり、ほんとうの「サバイバルゲーム」を体感したことだろう。

2017年4月23日日曜日

急行いわき―富岡線

 正午前。用事があって出かけた帰り、平市街の国道6号を東進していると、歩道側の車線を走るバスに追いついた。赤信号で停止し、バスの後部に表示されている行き先を見た。「急行 富岡駅」とあった。
 今年(2017年)4月1日、帰還困難区域を除いて、双葉郡富岡町の避難指示が解除された。それに合わせて、同町で新常交の「町内循環線」と、いわきを結ぶ「急行いわき―富岡線」の運行が始まった。「急行 富岡駅」は後者の路線バスだった。

 ネットで時刻表と停留所を確かめる。いわき駅から富岡駅へは午前3本、富岡駅からいわき駅へは午後3本、運行している。いわき市内の平~久之浜間では5カ所に停まる。所要時間は、朝夕の混雑時間帯が1時間25分、それ以外は1時間10分。6号線で見たのは午前最後の富岡駅行きだった。

 ふだんは車で移動している。マチで飲み会があるときだけバスを利用する。飲み会が午後5~6時開始なら、国道6号の最寄りの停留所「平六小入口」で午後4時23分発着の四倉―いわき駅線のバスに乗る。午後6時半ないし7時開始なら、旧道の最寄りの停留所「平六小」で午後5時54分発着の草野駅―いわき駅線のバスに乗る。
 
 急行いわき―富岡線は、最寄りの停留所は「平六小入口」のひとつ東隣、「神谷住宅口」だ。どちらの停留所も自宅から歩いてそう変わらないところにある。
 
上り側の「神谷住宅口」で時刻表を確かめる=写真。「(急行)いわき駅前」行きの発着時刻は「13:25、17:25、18:40」だ。
 
 富岡からの2番目のバス(午後5時25分発着)だと、6時開始の早い飲み会に間に合う。今までは1時間早い四倉からのバスしかなかったから、1時間だけ自分の時間が増える。しかも、いわき駅前まで市街の「五色町」以外はノンストップだ。急行気分が味わえる。ただし、運賃は20円上がって280円になるが。今度飲み会があったら、“急行バス”を利用するか。

2017年4月22日土曜日

春の「天狗の重ね石」

 年に一、二度は中川渓谷の「天狗の重ね石」=写真=に会いに行く。夏井川渓谷の隠居の近くにある。
 いわき市川前町の神楽山(かぐらやま=808メートル)を水源とする中川が急斜面を流れ下り、隠居のある牛小川で夏井川に合流する。下流の江田川(背戸峨廊=せどがろ)も水源は神楽山だ。

夏井川渓谷は、右岸が急斜面、左岸がそれよりは少しゆるやかな斜面(一部はその逆)で、人間は主に左岸域に住んでいる。

「天狗の重ね石」は、中川がヘアピンのように屈曲するところにある。というより、岩そのものが流れを遮り、屈曲させている。見る位置によって、岩盤はあいきょうたっぷりのゴリラの横顔になり、船のへさきになる。谷底に近づくほど岩盤は細くなっている。

東日本大震災のとき、ゴリラの“鼻”のあたりの岩が少し剥落した。そこだけ今も赤みがかっている。

 中川渓谷もまた隠れたアカヤシオの景勝地だ。本流の夏井川と違って、こちらは対岸の花を水平に見られる。日曜日(4月16日)、ゴリラの顔を見に行ったら、“肩”あたりでアカヤシオが1本、満開になっていた。景観を独り占めできるかと思ったが、1人、2人、先客がいた。

明治の碩学(せきがく)、大須賀筠軒(いんけん)が「磐城郡村誌十」(下小川・上小川村・附本新田誌)に書いている。「天狗ノ重石ト唱フルアリ、石ノ高四丈、礧砢(らいか)仄疂(そくじょう)頗フル奇ナリ」。天狗の重ね石というものがある。岩の高さはおよそ12メートル。大小の石が傾きながら重なるさまはすこぶる珍しい――といったところか。昔から奇岩として知られていた。

木の芽は吹き始めたばかり。まだ見通しがいい。ゴリラの横顔をながめ、船のへさきをながめて安心する。震災時以外の岩盤剥離はなさそうだ。

2017年4月21日金曜日

小川の「竹火山」

 これは私見でしかないが――。東日本大震災後、夏井川渓谷のアカヤシオの花見客が激減した。一番の理由は原発事故。今はお年寄りを中心に回復しつつあるとはいえ、往時のような“路駐”は見られない。原発事故のほかに考えられる理由はひとつ。同じ小川町にある諏訪神社のシダレザクラに花見客が集中し、上流の渓谷まで足をのばす人が少なくなったのだ。
 先の日曜日(4月16日)、渓谷の隠居で満開のアカヤシオと向き合ったあと、草野心平記念文学館で春の企画展「草野心平の詩 料理編」を見た。その帰り、ふもとの諏訪神社に寄った。人であふれていた。
 
 境内の一角に青竹のアートがあった=写真。一本の竹を根元近くまで十六に割り、それを半円状に曲げて地面に差し込んである。見た目は「竹噴水」。ネットで似たようなものを見た。そちらは「竹火山」。水が噴く、あるいは火が噴く。どちらであれ、スケールの大きい竹のアートだと感心した。
 
 夜の闇が降りると、このアートに灯がともる。桜のライトアップに合わせて、中心と周りの十六の根元に明かりがおかれ、円く点々とほのかな光がきらめく。いわき市総合観光案内所のスタッフブログでわかった。にくい演出だ。

 小川がふるさとの草野心平の詩に「故郷の入口」がある。平駅(現いわき駅)から磐越東線のガソリンカーで小川へ向かう。赤井と小川の境の切り通しを過ぎると、夏井川に連なる竹やぶが見えてくる。「切り割だ。/いつもと同じだ。/長い竹藪。/いつもと同じだ。」。今も変わらない小川の入り口の風景……。

 以前、拙ブログでこんなことを書いた。川岸の竹林内はうっそうとして暗い。間伐した竹を利用してなにか細工する。例えば、竹炭。ただの竹ではない。心平の詩に出てくる「長い竹藪」の竹だ。いくらでも活用する方法があるのではないか――。

それが可能かどうかは別にして、「長い竹藪」は折れたり倒れたりした竹で少々見た目が悪い。それらを片づけるだけでもすっきりするのではないか。

と、ここまで書いてきて、ひょっとしたら、と思う。竹灯籠は心平の詩を意識したものだった? そうであれば、心平と「竹藪」をもっと前面に押し出してもいい。「竹と心平と小川の物語」になるのだから。

2017年4月20日木曜日

子ども見守り隊総会

 日曜日(4月16日)に、近所の神社の参道にあるソメイヨシノを見たら、満開だった=写真。
 それから3日後のきのう、花散らしの暴風が吹き荒れた。すでに近所の別のソメイヨシノも、小学校のソメイヨシノも花が散り、葉が開きはじめていた。
 
 この日、朝、小学校の校長室で「子ども見守り隊」の総会が開かれた。PTA役員のほかに、行政区長・民生委員などがメンバーになっている。20人ほどが出席した。総会後は体育館で児童との顔合わせ式が行われた。

 千葉県で登校途中の女の子が行方不明になり、排水路わきで遺体で発見された事件が、みんなの頭にある。逮捕された容疑者は保護者会長だった。PTA会長(女性)が「大変ショックなニュースでした」とあいさつのなかで事件に触れた。ほかの役員も同様だろう。

 それはそれとして、地域の子の見守りはこれまで通り続けないといけない。総会後、重苦しい気持ちを振り払って顔合わせ式に臨んだ。
 
 用意された椅子に座る。ずらりと体育座りをしている子どもたちが、チラチラ横目で見守り隊のメンバーを見る。3年生だか4年生だかの列にいる男の子と目が合った。驚いたような表情をしながら、ぺこりと頭を下げた。同じ行政区の子だ。こちらも思わず口元を緩めてうなずく。お母さんが子どもを守る会の役員をしていたとき、打ち合わせについてきて顔を合わせたのが最初だった。まだ小さかった。

 見守り隊のメンバーが児童の前に立って自己紹介をした。私は「バス停近くの米屋だから、なにかあったら入って来てね」ということを付け加えた。「よろしくお願いします」。それぞれに元気な声が返ってきた。

メッセージが届いたのかどうか。夕方、女の子が駆け込んできた。カミサンが応対した。トイレを借りたい、ということだった。むろん、どうぞ、である。地域の大人ができる見守りとはこういうことなのだろう。

2017年4月19日水曜日

ソメイヨシノの末路

 ここ数日は、用があって車で出かけるたびに“花見”をしている。目的地に着くまでのチラ見でしかないが。それでも感動があり、落胆がある。
 少し遠くの丘に見えるピンクはヤマザクラ。わが生活圏でいえば、草野心平記念文学館の背後の山から夏井川渓谷に至る右岸一帯、ここに展開されるピンクの点描画に引かれる。「いわきの奥吉野」だ。

 道路沿いにも桜の花が咲き誇る。こちらはほとんどが植樹されたソメイヨシノ。残念ながら、てんぐ巣病にかかっているものがある。ソメイヨシノは、葉より先に花が咲く。病気にかかった枝は花の前に葉を広げる。ピンクの花と緑の葉でまだらになっているものがあちこちにあった。

 ソメイヨシノは、ヤマザクラに比べると寿命が短いといわれる。夏井川渓谷の小集落・牛小川の県道沿いにも5本ほどソメイヨシノがある。老木で、ほとんどが空洞になっていたり、キヅタがからまったり、先端が枯れたりしている=写真。

 昔、だれかに聞いてかすかに覚えているのだが、それでもまったく自信がないのだが……。大正6(1917)年、磐越東線が全通する。ちょうど100年前だ。その記念に植えられたのではなかったか。80歳を超える地元の住人は「私が生まれる前からあった」という。

 ソメイヨシノは「戦勝記念」として植えられることが多かった。明治の日露戦争はざっと110年前だ。幹の太さからどうだろう。「戦勝」以外で記念植樹をするくらいのできごとは――105年前の「大正」改元、あるいは91年前の「昭和」改元があるが、あまりピンとこない。住人の“証言”を重ね合わせると、やはり磐東線の全通記念か、となる。

 天然のヤマザクラと違って、人間が生み出したソメイヨシノは人間の手が加わらないと生きていけない。5本のうち1本だけは手入れをされたので勢いを取り戻し、樹形はよろしくないがきれいな花をまとっていた。ソメイヨシノの末路はなんともわびしいものだ。

2017年4月18日火曜日

いわきはカツ刺し

 日曜日(4月16日)の夕方、息子一家が来た。座卓(こたつ)にカツオの刺し身を置いて、晩酌を始める寸前だった。小4の上の孫が父親にうながされる。「(小学校の近くにある)魚屋の刺し身だぞ」
 私は、カツオの刺し身はおろしにんにくとわさびをまぜたしょうゆにつけて食べる。そのしょうゆに小4がカツ刺しをつけて口に持っていった。にんにくとわさびだ。吐き出すかと思ったら、一呼吸おいて「うまい」ときた。飲兵衛になるな、これは――驚きつつ、カツ刺し好きが一人増えたことをうれしく思った。

 阿武隈の山里で生まれ育った人間がいわきに移り住んで、カツ刺しのうまさを知ったのは結婚後だ。極言すれば、新鮮なカツ刺しがある――それだけで、いわきに根っこが生えた。

 やがて子どもが生まれ、幼稚園に入り、小学校へ行くと、何家族かが集まって、ゴールデンウイークにはタケノコパーティーを、夏にはカツオパーティーを開くようになった。親だけでなく、子もカツ刺しになじんだ。それから一世代、30年余がたった。カツ刺し好き3代目、いや、いわきの人間としてはごく普通の食習慣が孫にも形成されつつある。
 
 この日、夏井川渓谷の隠居へ行った帰り、草野心平記念文学館へ寄った。春の企画展「草野心平の詩 料理編」が前日の土曜日に始まった。リーフレットに「ふるさとの味覚」が載る。ふるさと・いわきのうまいものとして、心平はアンコウ、ウニの貝焼き、カツオなどを上げる=写真。
 
 カツオの回顧――。いわきのハマから心平の生まれ育った上小川村へ「ぼでふり(浜の小商人)」がカツオをかごに入れてやって来た。「切り身では売らない。そこで買った一尾を、荒縄でゆわいて井戸の中にしばらくひやしておいてから料理する。鰹のなかでは刺身と中落ちの味噌汁がおいしかった」

 いわきの沿岸部から「四、五里の距離」がある内陸の上小川村でも、「ぼでふり」のおかげでうまいカツオが食べられた、ということだろう。

 心平が子どもだったころからすでに100年がたつ。生カツオの冷温保存技術と流通ネットの進化のおかげで、阿武隈の山里でもまあまあのカツ刺しが食べられるようになった。いわきでは、早い時期から生のカツオが入荷する。私は、今年は2~3月あたりからほぼ毎週、カツ刺しを口にしている。

2017年4月17日月曜日

“冬”を脱ぐ

 きのう(4月16日)の日曜日は、いわき市山田町で最高気温が27.2度。夏日だった。小名浜は21.6度。海辺の小名浜より、丘が連なる平地の山田の気温が体感に近かった。
 早朝7時半ごろ、家から夏井川渓谷の隠居へ向かった。快晴、無風。服装は惰性で“冬”のままだった。毛糸帽、マフラー、ジャンパー、コールテンのズボン、厚手の靴下、冬靴。
 
 8時過ぎ、隠居に着くと気温は“春”以上になっていた。マフラーが邪魔になった。菜園に生ごみを埋める。汗をかく。ジャンパーを脱ぎ、やがてチョッキを脱ぐ。それでも汗がにじむ。長袖シャツの袖をまくって歩いても、汗は収まらない。ズボンが、靴下が、靴が熱気をためる。
 
 渓谷では、斜面をアカヤシオの花が彩っていた=写真。満開だった。行楽客が次々にやって来る。おおかたは私ら夫婦と同じジイ・バアだ。カメラを手にした人が多い。
 
 ジイ・バアは“冬”を着たままだが、若い人はどんどん“外皮”をはいでいく。それほど暖かい南風だった。いや、「暖かさ」を超えて今年初めて「暑さ」を感じた。揺り戻しはある。が、冬服とはおさらばだ。
 
 隠居の庭のシダレザクラは、朝はつぼみだったが、時間がたつにつれて開花し、午後には二分咲きになった。その下でカミサンが草むしりを続けた。昼食後、窓と戸を全開した隠居で昼寝をする。部屋を通り抜ける風が「天国から吹いてくる風のようだった」そうだ。
 
 夕方、帰宅して、笑った、ジャンパーを隠居に置き忘れてきた。内ポケットに手帳が入っている。手帳はスケジュール管理だけでなく、名刺・カード入れ、財布を兼ねる。きょう、また隠居へ出かけるしかない。ついでに、ハス口のじょうろを持ち帰る、途中にある直売所で漬物と野菜を買う――行く理由を一つ二つくっつけて。

2017年4月16日日曜日

山里暮らし

 稲作や野菜栽培だけでは食べていけない。そもそも稲作のできないところがある。生きるためには自然を利用する知恵とウデが要る――山里はそういうところだ。弥生的、いやそれ以上に縄文的。その“合わせ技”がヤマの暮らしを豊かなものにする。
 縁あって、週末、夏井川渓谷の小集落にある隠居で過ごす。先日も書いたが、渓谷の春の花・アカヤシオが咲き出すと、集落の守り神・春日様のお祭りが行われる。今年(2017年)は1週間前(4月9日)の日曜日がハレの日だった。あいにく天気は雨だったが。

 集落の裏山に鎮座する春日様に詣でたあとは、「直会(なおらい)」に移る。この日だけは神様も許すのか、アルコールが入るたびに猥雑なエネルギーに満たされる。道路の上の線路からイノシシが列車にはねられて降ってきた。それをすかさず拾って、さばいて食べた。あるいは、水力発電所の導水路でウナギやカニを捕った……。想像を絶するような体験談が次々に飛び出す。

 直会のヤドはこのところ、固定している。Kさんの家の一角にできた「宴会室」だ。土間にテーブルといすが置かれ、一段高いコンクリートの床にはカラオケ装置がセットされている。流しも冷蔵庫も、まきストーブもある。裏山に煙が立ち昇る=写真。けむに巻かれるのは久しぶりだ。
 
 現役のころは土・日と隠居で過ごした。今は日帰りだ。ウーロン茶で下ネタを聞いたり、カラオケをやったりするのはきつい。隠居に泊まれるように、「土曜日に前夜祭をやろう」なんてうれしいことをいわれる。

アルコールが入るごとにどんどん建前の世界から離れていく。「牛小川の自然だけでなく、人間のことも書いてよ」。住民と腹を割って話せる関係になったからこその“注文”だが、私にも元ブンヤとしての“節度”はある。事実だからといって下ネタばかり書くわけにはいかない。ま、そんなこんなで雨の一日、大人たちは神様の子になって遊んだのだった。

 それから1週間。快晴のきょう(4月16日)はこれから、満開のアカヤシオに会いに行く。

2017年4月15日土曜日

庭にアミガサタケが

 きのう(4月14日)朝、店(米屋)の用事で運転手を務め、配達から帰って庭に車を止めた。「あらっ、キノコ!」。カミサンが助手席から降りるなり叫ぶ。急いで回り込む。庭の花壇のへりにアミガサタケが頭を出していた=写真。まだ幼菌だった。
 アミガサタケは優秀な食菌だ。春、空き地や人家の庭、路傍などに生える。夏井川渓谷では、友人の家やわが隠居の庭でも見られる。

 隠居の庭は3年4カ月前の師走、全面除染の対象になって土を入れ替えた。しばらく地上性のキノコは出ないないだろうと思っていたら、去年(2016年)の春、シダレザクラの樹下にアミガサタケが発生した。4本のうち3本を採って、バター炒めにした。山砂に胞子が含まれていたのかもしれない。あるいは、除去された表土より深く菌糸が残っていたのかもしれない。

 市街のわが家の庭に現れたのは初めてだ。渓谷の隠居の庭からなにかをレジ袋に入れて持ち帰り、袋をひっくり返して葉っぱや土を捨てた中にアミガサタケの胞子が含まれていたか。

 わが家の庭では、生け垣のサンゴジュやマサキが菌にやられたことがある。腰のあたりで二マタになったプラムも、片方がカワラタケにやられたので除去した。

 アミガサタケは、柄も頭部も中空だ。丈はまだ5センチにも満たない。頭部の網目の間のくぼみ(ここに胞子が形成されるそうだ)は黒っぽい。その色が、頭がどう変化するのか。1週間は観察してみる。そのあとバター炒めにしてもいい。久しぶりに「ラディ」でアミガサタケのそばを測ったら、地面すれすれで毎時0.15マイクロシーベルトだった。

 渓谷を、街を、野原を、杉の花粉ばかりか、キノコの胞子が飛び交っている。空に浮かんでいる胞子は見えないが、胞子の存在を想像することはできる。その空に、おととい、胞子に比べたらとてつもなく大きいツバメが飛んでいた。今年初めて見た。地面も空も春である。

2017年4月14日金曜日

墓を彩る「削り花」

 阿武隈の山里では今も春の彼岸に「削り花」を供える。
 3月末、実家で関東に住んでいた姉の葬儀が行われた。町はずれの丘に共同墓地がある。近隣の墓にカラフルな削り花が供えられていた=写真。風で吹き飛ばされたものもあった。

 削り花はちょっと厚めのカンナくずといった印象だ。もちろんカンナくずではなくて、削り花用に最初から厚めに木を削っている。形状は、ぱっと見にはコスモスだが六弁花、あるいはキクやヒガンバナに似る。色も赤・黄・緑・紫などと多彩で強烈だ。

 私は、阿武隈高地で生まれ育った。15歳からはおおむねいわき市平の平地で暮らしている。平で墓参りをしている限りでは、墓前には生花しか見ない。それで、削り花の風習を忘れている。久しぶりに削り花に接して、死者とつながる心と風土の違いを思った。

 削り花の風習は阿武隈の山里だけではない、東北一帯でみられるらしい。春彼岸にはまだ雪がある、あるいは雪が消えても寒気が残っている――そういうところが多い。春の花が咲くには早い。代わりに、着色した木の花で死者を慰める、というわけだ。

 いわきの山里にも削り花があった。4月初め、三和から山越えをしてV字谷の川前に下りた。夏井川にかかる橋を渡るとすぐのT字路沿いに集落の戦没者墓地がある。そこに削り花がずらりと供えられていた。その墓地だけが点々と色鮮やかだった。そこから上流の山地が“削り花圏”なのかもしれない。

 このごろは、花のハウス栽培が増えて、流通ネットが拡大した。その結果、阿武隈の山里でも春彼岸に生花を供えることができるようになった。削り花の風習は残っているが、やがては生花に切り替わるのではないか。死者に対する思いは同じでも、すがた・かたちは暮らし方や財布を反映して変わっていくのだろう。

2017年4月13日木曜日

春まきネギ

 平北白土の篤農家・塩脩一さんは自家採種で地ネギを栽培している。千住系の「いわき一本太ネギ」だ。
 20年ほど前、私が夏井川渓谷の集落でやはり地ネギの「三春ネギ」を栽培し始めたころ、いわきのネギの歴史や栽培方法を聴きに行った。塩さんの畑のわきに捨てられていたネギ坊主をもらい、種を採って栽培したこともある。

 昔の「いわきネギ」と今の「いわきネギ」は別物――これが最初に教えられたことだ。病気と風折れ対策に重点がおかれた結果、今のいわきのネギは、見た目はテカテカして太く、白いものになった。食べては硬く、甘みが少ない。塩さんはそうしたネギを消費者=市場が求めるようになって、在来のネギの出荷をやめた。

 種を採ったあとの“選(よ)り分け”法は「目からうろこ」だった。実用書には、種殻やごみはフーフーやって取り除く、とある。これが、なかなかうまくいかない。種まで飛ばしてしまう。種を水につけることを、塩さんに教えられた。
 
 ステンレス製のザルに種もごみもまとめて入れ、水を張ったボウルにつける。すると、種殻や中身のない種は浮く。ザルのすきまからは細かい砂やごみがこぼれ落ちる。ザルの底に残った種だけを新聞紙の上に広げて一晩干せば種は乾いている。それを乾燥剤とともに小瓶に入れて冷蔵庫で保管する。

「三春ネギ」は10月10日に種をまく。「いわき一本太ネギ」は4月10日にまく。塩さんの畑からネギ坊主をもらってきたのは、まだ「ネギは秋まき」と思いこんでいたころだ。それも秋にまいたら、春にネギ坊主ができた。塩さんから「秋にまいたらネギ坊主ができる、春まきだよ」とアドバイスされたのはそのあとだった。

 車ですぐのところに、塩さんがよく言っていた白土の種苗店が引っ越して来た。「いわき一本太ネギ」の種を売っていたので、勢いで買った。日曜日(4月9日)に苗床をつくり、種をまいた=写真。こちらはネギの生態観察を兼ねて自宅で栽培する。

 そろそろ種まきの準備をと考えていたころ、塩さんの孫でもあるいわき地域学會の若い仲間がやって来た。塩さんは元気に畑仕事をしているという。今年も10日にネギの種をまいたことだろう。

2017年4月12日水曜日

葉を食害する幼虫

 庭の生け垣のマサキに“ヤツ”がふ化していた。オオゴトにならないうちに除去しないと――。
 11月初旬、どこからかガの一種のミノウスバが現れ、マサキの枝先を飛び回っていた。毎年のことで、枝先にびっしり産卵する。翌年の晩春、卵から幼虫がかえり、芽吹いたばかりの若葉を食害する。除去の時機を逸すると、マサキが丸裸にされる。

 これまでは、産卵時期が過ぎると枝先をチェックし、卵が産みつけられた部分を切除する、あるいは幼虫がかえっても葉裏に集団でいるうちにその部分を除去する――といった“合わせ技”で対応してきた。一度手遅れになって生け垣全体に散らばり、「シャワシャワ、シャワシャワ」と葉を食害する音が降り続いたことがある。隣家から苦情がきた。

 今回は先送りの悪いクセが出た。晩秋に産卵枝を切り取ればよかったのに、「あとで」、次の日もまた「あとで」を繰り返しているうちに冬がきた。冬になったら、今度は「寒いので暖かくなったら……」となまけていると、早くも第一陣が目を覚ました。

 4月上旬のふ化は予想外だった。早すぎる。暖冬? だとしても、もっと暖冬のときだってあった気がする。実は、マサキがさかんに落葉している。どうして?と見上げたら、新旧交代なのか若葉が開きはじめ、幼虫がふ化してかたまりになっていた。

 もう、待ったなしだ。花は好きでも虫は嫌い、という人がいる。近隣関係を平穏に保つためにも「わが家の幼虫」が周辺に散開しないようにしないといけない。

 晩秋の産卵は波状的だった。ふ化も波状的だろう。ここしばらくはときどきマサキの生け垣をながめ、若葉に異変が起きていれば幼虫がかたまっている証拠だから、葉ごと除去してごみ袋に回収する=写真。大型連休までこれを繰り返せば、たぶん食害は防げる。

2017年4月11日火曜日

台湾みやげ「土鳳梨酥」

 高3・高1の“孫”と両親が遊びに来た。パイナップルケーキの「土鳳梨酥」=写真=をみやげにもらった。
 私も仲間と2回、台湾へ観光に出かけたが、このお菓子は目に入らなかった。というより、食べ物にはそれほど興味がない。みやげ品店で甘納豆のようなハスの実の砂糖漬けを買ったら、ほかには目がいかなくなった。

 台湾は、行くたびに好きになる。初回(2010年9月下旬)は台北を中心に北部の烏来・野柳・九分(実際はニン偏付き)を巡った。2回目(2015年2月初旬)は 高速鉄道(新幹線)を利用して西海岸の南端・高雄へ。初回に台風の影響で高鉄がストップしたため、高雄行きを断念した。そのリベンジも兼ねた台湾再訪だった。日月潭も訪ねた。3回目は東海岸を巡ろう――と、仲間に諮っている。

“孫”たちはなぜ台湾へ? 下の“孫”の話で了解した。アニメ「千と千尋の神隠し」のモデル(舞台)になった、といわれる九分を訪ねたのだった。九分の「阿妹茶酒館」は、外側に赤ちょうちんが飾られている。私たちもそこで飲食した。経営者の父だったか祖父だったか、日本語を話すおじいさん(当時81歳)と歓談した。日本統治時代、子どものころに習った日本の歌も披露した。

 下の“孫”は高校入試・中学卒業と、3月をあわただしく過ごした。その区切りの台湾旅行でもあったか。

 幼・小・中と、“孫”の成長を見てきた。上の“孫”は能弁家タイプ、下の“孫”はひまがあれば画用紙に鉛筆を走らせるのが好きなタイプ。私ら夫婦の顔も、キラキラ目からリアルな素描に変わってきた。

 上の“孫”は「ストリートミュージシャン」でもある。わが家でもギターの弾き語りを披露する。このごろは現代詩にも興味を示すようになった。
 
 きのう(4月10日)、福島県立高校の入学式が行われた(きょう行う高校もある)。下の“孫”は「美術部に入る」と言っていた。
 
 カミサンは高校時代、美術部員だった。私もベンチャーズのコピーバンドの一員として、内郷公会堂(現・内郷コミュニティセンター)で演奏をしたことがある。
 
“孫”たちは「坂の上の雲」を見ている。私らは「坂の下の川」を見ている。親・子・孫の血はつながっていなくとも、人は交わりのなかで「非連続の連続」を生きている――そう勝手に解釈することにした。

2017年4月10日月曜日

夏井川渓谷にも春が

 夏井川渓谷の小集落・牛小川できのう(4月9日)、「春日様」(春日神社)の例祭が行われた。といっても、集落の各家から1人が出て参拝・直会(なおらい)をするだけだ。週末だけ隠居で過ごす半住民の私にも連絡がくるので、毎年参加している。
 集落の対岸はアカヤシオ(方言名・イワツツジ)の群生地。1週間前には影も形もなかったピンクの花が、斜面を点々と彩っていた=写真。この花が咲くと、木々が葉を落とし、冬の眠りに入っていた渓谷にも春がくる。土地の人はアカヤシオの開花とともに春日様にお参りして集落の1年の無事を祈る。

 全山がピンクの点描画になるのはこれから。“週末行楽”組には、今度の土(15日)・日(16日)が“花見どき”だろう。

 アカヤシオ以外ではアセビとアブラチャンが咲き、ハンノキ、ヤシャブシがひげのような花を垂らしている。林に入ればマンサク。隠居の梅の花は終わりかけている。道々、キブシが粒々の花を垂らしていた。光線の具合によっては、黄色というより黄緑色に見える。

 隠居の隣は「錦展望台」。もともとは家があり、谷側が杉林になっていた。持ち主がそれを解体・伐採して、ビューポイントとして開放した。車で次々に行楽客がやって来る。でも、天気が天気だから、対岸のピンクの花をながめてはそそくさと帰る。その繰り返しだったと、カミサンが言っていた。

 やがて、渓谷ではヤマザクラが咲き、道路沿いのソメイヨシノも花をつける。木の芽も吹き始める。さみどり色、臙脂色、黄色、薄茶色……。急斜面が淡いパステルカラーに染まるのを想像しながら、1年のうちで最も美しい瞬間に心を躍らせる。

2017年4月9日日曜日

井戸のポンプが劣化?

 夏井川渓谷の隠居では、井戸水をポンプアップして飲料や調理、風呂に利用している。この水が止まった。冬場、ときどき断水する。水道管の凍結・破損を防ぐために水道の電源を切っておくとそうなる。今まではポンプに「呼び水」をするとすぐ復活した。
 二度ほど呼び水をしたが、だめだった。「水道のホームドクター」に連絡する。「4月9日に渓谷で“春日様”のお祭りがある。できればその前に水が出るようになるといいのだが」

 先の日曜日(4月2日)、隠居にいると、やって来た。「呼び水をどのくらいしたのか」という。「1回か2回だが」。たっぷりやらないとだめだということらしい。20リットルは入るポリタンクに水を持参した。それをやかんに移し替えて何度も呼び水をした=写真=が、「呼び水じょうご」は「ジュジュジュ」という音を出して泡を吹くだけだ。

「エアがかんでいる」という。小一時間呼び水を繰り返しても泡が止まらない。ポンプのパッキングが劣化して空気が入るからではないか、ということになった。

 阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた年の5月末、隠居へ通いはじめた。それから22年になる。前にも一度、ポンプを替えている。見ると、メーカー名は「ナショナル」だ。新品ではなかったはずだから、震災前に取り換えたとしても10年前後はたつ。とっくに寿命がきていたか。

 きょう(4月9日)は午前中、山の中の春日神社を参拝し、宿で直会(なおらい)をする。1週間前には姿かたちもなかったアカヤシオの花が咲き出したという。

 いわきの平地では、ソメイヨシノが一気に五分咲きくらいになった。私の「春告げ花」はそれと同時期に咲く渓谷のアカヤシオ。隠居へやって来る人もいるはずだから、これから水をもって出かける。

2017年4月8日土曜日

クロッカスと保線車両

 三和から山を越えて川前に出た。谷底にポツンポツンと集落があり、夏井川に沿って道路とJR磐越東線が走っている。川前駅が改築されたのに伴い、いわき市が駅のそばに公衆トイレを設置した。用を足しに寄った。2月末に訪れたときにはまだ建築中だった。 
 ホームの待機線に作業車両が止まっていた。震災前に平地の小川・片石田地内で見たことがある。仙建工業のマルチプルタイタンパー(通称マルタイ=保線作業車)だ。バラスト(バラス)が敷き詰められた線路のゆがみをミリ単位で測り、修正するのだという。いやあ、すごい車両だ。
 
 ホームに出て作業車両の写真を撮り、駅舎へ戻りかけると、紫色の花が目に入った。クロッカスだ=写真。花は小さいのに、マルタイに負けないくらいの存在感がある。駅を愛するだれかが球根を植えたのだろう。
 
 クロッカスの全体の花言葉は「青春の喜び」「切望」、紫色は「愛の後悔」、黄色は「私を信じて」だそうだ。
 
 青春の「喜び」はあっという間に「絶望」や「失意」に替わる。それを見事に表現しているのが、4月5日に亡くなった大岡信さんの「青春」という短い散文詩。作品は「あてどない夢の過剰が、愛から夢をうばった。」で始まり、「あてどない夢の過剰に、ぼくは愛から夢をなくした。」で終わる。
 
 クロッカスの鮮やかな紫色に染まっているうちに、詩人の死のニュースに接した。真っ先に「青春」が思い浮かんだ。「夢の過剰」が青春なのだと、それゆえに愛から夢をなくすのだと、若いころ、教えられた。

2017年4月7日金曜日

プラムの花が咲く

 小学校の入学式に来賓の一人として参加した。校庭のソメイヨシノはまだつぼみだった。
 去年(2016年)は、おととしは?――あとで、拙ブログで様子を確かめる。去年「満開のソメイヨシノが迎えるなか、新1年生が親に連れられて学校の門をくぐる」。おととし「ソメイヨシノが満開のなか、小中学校の入学式が行われる」。さきおととし「学校敷地の境界にあるソメイヨシノはほぼ満開だった」。今年は極寒の時期があいまいで花芽の「休眠打破」が遅れたのだろう。

 入学式から帰ってノートパソコンを開く。と、フェイスブックで旧小名浜測候所の標本木(ソメイヨシノ)が開花したことを知った。小名浜まちづくり市民会議といわき観光まちづくりビューローがきのう(4月6日)、確認した。いわきの、つまり東北の桜開花宣言だ。平年並みだというから、過去3年は開花が早めだったわけだ。

 今年はソメイヨシノより庭のプラムの開花が早かった=写真。いや、プラムの花は毎年、今ごろ咲く。気づくと満開だった。

 それで、思い出した。近所の家の庭にソメイヨシノの大木があった。今年の冬、伐採された。理由は? 根っこが隣家に延びたためらしい。そこにあって、風景にどっしりとした安定感を与え、春には花をまとう大きな木が消えた。間もなく満開になる――幻の桜の花を空に思い浮かべてもしようがないことだが……。

2017年4月6日木曜日

年度替わり

 年度が替わったこの時期、区内会(自治会・町内会)の役員交代に伴う名義変更がある。それを踏まえて、2~3月、市役所から次々に封書が届く。
「広報いわき」をはじめとする行政資料を配付・回覧するための基礎データ=世帯数・班(隣組)数は? 行政嘱託員・保健委員の変更の有無は? それに伴う預金通帳の名義変更の有無は? 当たり前の話だが、提出を求める書類には “締め切り”(期限)がある。「4月○日まで」「4月×日まで」。今年(2017年)も“変更なし”の書類を出した。

 これはしかし、年度初めの定例行事のようなものだ。それとは別に、原発事故後、中止していた市道側溝の土砂上げ、あるいは防犯灯のLED化計画、区内会の防災計画といったものの調査・作成を求める封書も来た=写真。

 いわき市は昭和57(1982)年度から年2回、6月と10月の3日間、「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」を実施している。

 金曜日「清潔な環境づくりをする日」(学校や事業所周辺の清掃)、土曜日「自然を美しくする日」(海岸や河川の清掃)「みんなの利用する施設をきれいにする日」(公園や道路の清掃)、日曜日「清掃デー」(市内の全家庭周辺の清掃)で、住民が参加するのは「清掃デー」だ。“原発震災”後は、土砂の受け入れ先が確保できないために、側溝清掃は中止になった。

 すると、大雨時に歩道が冠水しやすくなる、害虫の温床になる、といった心配が出てきた。で、市が国に要望した結果、1回だけ国の予算で市内全域の側溝堆積物を除去することが決まった。
 
 土砂上げ関係の書類の提出期限も迫っているので、新年度最初の区の役員会はいつもより少し早く開くことにした。というわけで、年度替わりの今、慣れない書類づくりに時間をとられて胃が重くなっている。

2017年4月5日水曜日

45年前の海難事故

 会社を辞めて間もない後輩が遊びに来た。雑談をしているうちに、「きょう(3月31日)は母の命日なの」とカミサンがもらした。忘れていた。すると、後輩も応じた。「私もけさ、父親の墓参りをして来ました」。命日が一緒だったか。
 いわきにゆかりのある作家真尾悦子さん(1919~2013年)が『海恋い――海難漁民と女たち』(筑摩書房)を著したのは、昭和59(1984)年。<あとがき>に、本を書いた経緯を記している。
 
 漁村の女性の日常を知りたくていわきの浜で取材を重ねているうちに、「同じ船で夫を亡くした人、ふたりと知り合いになった」「北海道花咲沖で遭難した大型漁船が、船ごと、乗組員二十六人行方不明のまま、六年経っていた。しかし、未亡人たちはいまでも夫の死を信じてはいない」。その後、真尾さんは「見えない糸に引っぱられて花咲港へ通い」続け、作品を仕上げる。
 
 後年、真尾さんと親しく言葉を交わすようになった。そのなかで後輩も真尾さんと交流があることを知った。<あとがき>にある「ふたり」のうちの1人が後輩の母親だった。それが頭にあったので、父親の墓参りをしたと聞いたとき、3月31日が遭難日だと了解したのだった

『海恋い』を読み返したくなった。家にあったはず。私より本のありかに詳しいカミサンが探したが、見つからない。しかたない、図書館から借りてきて読んだ。最初の章<花咲へ>に「昭和四十七年に遭難した夫は、この、花咲沖に眠っているのだった」とあって、海難事故が起きた年月日がわかった。

 現実の事故はどうだったのか――図書館のホームページを開いて、電子化されたいわき民報の記事を探す。第一報は昭和47年3月31日付「第八協和丸消息断つ」、詳報は翌4月1日付「26人をのんだ“吹雪の海” 第8協和丸 いわきでは最大の海難事故」で、以後、同14日の合同慰霊祭まで関連報道が続く=写真。

 45年前の今ごろ、私は記者生活1年目を終えたばかりで、取材は先輩たちがした。26人が一瞬のうちに犠牲になるという事故の大きさに、胸の詰まる思いがしたことだけは覚えている。
 
 記事によれば、遭難したのは小名浜漁協所属の遠洋底引漁船で、乗組員26人の多くは山形県人、いわき在住者は4人だった。後輩のお父さんは当時28歳の機械長。後輩はまだ10歳にも満たない女の子だったか。真尾さんと『海恋い』のおかげで、あらためてそれぞれの「その後」に思いがめぐった。

2017年4月4日火曜日

「共同一致」

「おやじが高等小学校を卒業するときに書いたものらしい」と兄が言う。父親は大正4(1915)年に生まれた。ということは、尋常プラス高等で昭和の初めに小学校を出た。
 実家の仏壇の上の鴨居に、今までなかった習字の額が飾られていた=写真。四字熟語の「共同一致」で、わきに小さく「卒業記念」の文字と自分の名前を書き添えてある。

 よく見ると、「記」の右側が「己」ではなく「巳」になっている。「巳(み)は上に、己(おのれ)己(つちのと)下につき、半ば開(あ)くれば已(すで)に已(や)む已(のみ)」。そんな区別がつくようになったのは、記者になって文字の書き間違いを繰り返した末のことだ。

 初めて見る父親の少年期の“遺品”だが、家は昭和31(1956)年4月17日夜、町が大火事なったときに焼け落ちた。父親の同級生の家に残っていたとかで、兄がコピーをもらって額に入れた。古くて新しい“家宝”でもある。

 生きていれば今年(2017年)、102歳。阿武隈の山里で生まれ、育った13歳前後の少年はどんな思いで「共同一致」の文字を書いたのだろう。それがなぜ他人の家に残っていたのだろう。息子である私は、自分の孫の字でも見るように、少年だった90年前の父親の字を見ている。線は細い。が、ていねいに書かれている。

 15歳で家を離れた私は間もなく、親の期待に反して進路を変更する。そのとき、父親から何通か手紙をもらった。「東京の中央本線沿いだけでも文学青年は何万人もいる」。軽挙妄動を戒めることばを今も覚えている。

 それはそれとして、「共同一致」という言葉が、今の私には身にしみる。毎日が晴れの日とはいかない。さざなみが立ったり、停滞したり、小雨が降ったりする。所属するコミュニティや団体、あるいは家族・きょうだいは「共同一致」を旨とせよ――そう諭され、背中を押されたような気持ちになっている。

2017年4月3日月曜日

春は地べたから始まる

「風土」とは、大気の底と大地の表面が触れあうところ。その風(大気)と土(大地)はそこだけの、ほかに同じところがないローカルなものだ――それが、先日も触れた三澤勝衛(1885~1937年)の地理学的本質。
 きのう(4月2日)は久しぶりに夏井川渓谷の隠居で過ごした。4月10日に種をまく「いわき葱」(いわき一本太ネギ)の苗床用の土づくりをした。といっても難しいことはなにもない。物置にあったプラスチックの育苗箱(ポットが4列×4列=16個ある)に、苦土石灰をまぜこんだ土をふるいにかけて入れる。3箱、つまり48ポットに培養土を盛った。これが春の土いじりの始まり。
 
 白菜漬けから糠漬けに切り替える端境期でもある。漬物がないと食が進まない。前に国道49号沿いの直売所「三和町ふれあい市場」で買ったハヤトウリのみそ漬けが口に合った。あれば5パックくらい買って冷凍保存をしながら食べる――まずは直売所へ車を走らせた。
 
 ハヤトウリのみそ漬けは販売が終了していた。来年まで待つしかない。代わりの漬物を買ったあと、前とは逆ルートで差塩(さいそ)へと山を駆け上り、川前へ急坂を下った。雪は消えていた。
 
 春は地べた、つまり大地の表面から始まる。急坂にフキノトウが頭を出していた。黄色い花はタンポポ? 隠居では育苗箱の土づくりをしたあと、周囲を巡った。小流れのそばにキクザキイチゲが咲いていた=写真。ウグイスも近くでさえずっている。木々はまだ裸のまま。姿がはっきりわかる。今年は、平地の夏井川の河川敷より早く、渓谷で「ホー、ホケキョ」を聞いた。
 
 大地と大気の温度が少しずつ上がってきた。いわきの平地では間もなくソメイヨシノが開花する。渓谷のアカヤシオ(方言・イワツツジ)も時を同じくして花を咲かせる。といっても、真っ先に咲くポイントにピンクの花はまだない。今年は遅いか。きのうはチラホラ、気の早い行楽客の姿が見られた。

2017年4月2日日曜日

夕方の山麓線

 国道288号沿いにある田村市の実家で姉の葬儀をすませたあと、同288号~山麓線(主要地方道いわき浪江線)ルートで帰宅した。山麓線に入ったのは夕方の4時すぎ。平日の水曜日だ。いつの間にか前方に長い車列ができていた=写真。震災前にはありえなかった込みようだ。 
 国道288号は分水嶺の阿武隈高地を横断して、双葉郡大熊町の西方をかすめる。山麓線は同国道から大熊・富岡・楢葉・広野各町の西方、阿武隈高地の山裾を、南のいわきへと延びる。東方の太平洋岸に東電の原発(1F、2F)がある。東日本大震災に伴う原発事故では、どちらの道路も避難ルートになった。今は廃炉作業や復興事業に携わる人々が朝夕(日中も)利用している。
 
 いわきと隣接する双葉郡をつなぐ道路は、第一が国道6号、次いで山麓線だ。6号線は原発事故後、“時差出勤”もあって未明から込んでいる。
 
 おととい(3月31日)、浪江町、飯舘村、川俣町山木屋地区の居住制限・避難指示解除準備区域が解除された。きのうは、富岡町で両区域が解除された。大熊・双葉町のほか、5市町村の帰還困難区域は継続したままだ。
 
 NHKは一連のローカルニュースのなかで、富岡町から郡山市に避難し、復興公営住宅に入居している81歳女性を取り上げた。帰還しても周りに人はいない。今は歌や編み物で交流できる仲間がいる。「独りだけの生活には耐えられない」。大きな流れは復興・帰還へ向かっていても、個々人の考えはさまざまだ。コミュニティ機能が失われた地域に戻ってどうするのか――帰還を断念したお年寄りの気持ちもよくわかる。

 国道288号を下って大熊町の平地に入ると、道路沿いに家が散見される。家は1軒ごとに伸縮式の門扉で閉ざされていた。その両側には鉄骨を支えにしたガードレール。そこが帰還困難区域であることを物語っている。山麓線に折れると風景は一変する。重機があちこちで動き回っていた。

2017年4月1日土曜日

ソンタクよりセンタク

 殺風景な庭にも色が戻ってきた。スイセン、スミレのほかにクリスマスローズが咲いている=写真。名前はクリスマスローズだが、春咲きだ。ほんとうの名前はなんというのだろう。「ハルザキクリスマスローズ」という言い方もあるようだが、それでも違和感は残る。
 4月1日。年度が替わった。地面が濡れている。雨上がりの曇り空だ。あとでまた降るかもしれない、という意味では、雨模様の朝。ゆうべ、飲みすぎて頭が重い。こちらも雨模様だ。

「雨模様」は、今にも雨が降り出しそうな空模様をいう。が、雨が多かったり、雨が降っていたりする意味に誤用している例がある。若いときから『記者ハンドブック』(新聞用字用語集)になじんできた者は、誤用が気になってしかたがない。

 でも、誤用や珍解釈、連想には人間性があらわれる。このごろ、すっかり流行語と化したソンタク=忖度について、こんなやりとりがあった。未使用の乾電池などが入っている容器を出しっぱなしにしていたら、カミサンがとがめた。「なに、これ? 使い終わったら片づけて」「ソンタクして片づけてくれよ」「センタク(洗濯)はするけどソンタクはしないの」

 朝から晩までノートパソコンをいじっていると、夕方には目がかすんではれぼったくなる。ドライアイか――いやいや、「ス」のついたドライアイスか――となって、われながらがっかりした。老化現象だろう。

 若い人も負けてはいない。「戒名(かいみょう)」を「改名(かいめい)」の意味でとらえていた。「改名(かいみょう)」でも誤用だが、まあ違いがわかっただけでもよしとすべきだろう。気になったら辞書を引く。とにかく確かめることだ。

 きのう夕方、区の役員さんに回覧資料を届けたら、玄関に出てきた奥さんが空を見上げながらいった。「雨模様ですねぇ」。正確な言葉遣いに感動したのだった。