2017年6月30日金曜日

チョウが泊まりに来た

「あらっ、チョウ! なんでいるの?」。カミサンの声に振り向くと、茶の間のガラス戸でチョウがバタバタやっていた=写真。ははん、あのチョウだ。わが家に一泊したのだ。朝がきたので、外へ出ようとしているのだ――。
 チョウがホームステイをしたいきさつをカミサンに話す。
 
 おととい(6月28日)は宵になっても玄関を開け放していた。6時になれば晩酌を始めるのだが、行政区がらみの事務に追われていた。そこへチョウが現れた。テレビの画面の中に入り込もうとしたり、電灯の笠の内側に沿ってバタバタやったりしたあと、テレビのわきのパキラ(観葉植物)の葉陰に消えた。
 
 ヒラヒラ飛んでいるときには、翅の表のオレンジ色が目立った。翅の裏はザラザラした樹皮のような感じ。翅のへりがリアス式海岸のようにギザギザしている。タテハチョウの仲間らしい。パキラの葉裏に逆さに止まったあとは、まったく動かない。そこで眠りに就くのだと了解した。
 
 その通りだったのだろう。朝ドラの「ひよっこ」が放送中に飛び立ち、明るい庭の方へと向かったのはいいが、ガラス戸が閉まっていた。ちょっと待て。戸を開けて、手で囲うようにしてチョウを外へ誘導した。

 昭和の家なので、夏場は家の戸と窓を全開する。扇風機が欠かせない。夕方には蚊取り線香を焚く。庭と家との境がなくなるためか、日中はハチやチョウなどが、夜はガやコオロギなどが出入りする。ヒヨドリやスズメが迷い込んだこともある。

 ある夜、晩酌中にアシナガバチがやって来た。焼酎の入った“黒じょか”の注ぎ口をしばらくなめていたあと、どこかへ飛んで行った。こういう“飲み仲間”は困るのだが、7月、8月と、暑くなるにつれて虫たちが目立つようになる。

 ノートパソコンに撮影データを取り込み、ネットの図鑑でタテハチョウ類の翅の模様を見比べる。わが家に一泊したのはヒオドシチョウのようだった。

2017年6月29日木曜日

自前の食材

 ある朝の食卓――。マメダンゴ(ツチグリ幼菌)の炊き込みご飯、キュウリの糠漬け、豆腐とネギの味噌汁=写真=のほかに、前夜のおかずの残りが出た。
 マメダンゴは、夏井川渓谷にある隠居の庭で採った。キュウリは、隠居の庭の菜園で生(な)り始めたのを収穫した。初物だ。
 
 同じ菜園の一角に、毎秋、三春ネギの苗床をつくる。今年(2017年)も少し前に定植したが、密生して未熟なままの苗が残っている。1本1本は「ポッキー」くらいの太さだ。
 
 放置しておくのはしのびない。隠居へ行くたびに一つかみほど収穫する。土を洗い落とし、枯れた葉を取り除いて、すぐ調理できるようにしておく。下ごしらえをしてカミサンに渡せば文句は言われない。刻めば納豆や卵焼き、味噌汁の具になる。
 
 漬物は、冬の白菜漬けも夏の糠漬けも私がつくる。毎年、ゴールデンウイークをはさんで切り替える。初夏は糠床の塩分や軟度、風味を調整する時期。サンショウの若葉や、整枝した際に出たトウガラシの葉を加えたり、塩ザケの皮を入れたりして、糠床に栄養を補給する。それが、その家独特の味に結びつく。
 
 キュウリは、今は半日で漬かる。夕方漬ければ朝には食べられる。いわゆる一夜漬けだ。朝に漬ければ夕方には――ということで、このごろは酒のつまみになる最適の時間を意識しながら漬ける。

 三春ネギはやわらかいのが特徴の一つ。子ネギだからやわらかいのは当たり前だが、それを引いても独特のやわらかさがある。キュウリの苗は初めて、地元の種苗店から買った。しっかりしている。マメダンゴは梅雨期にしか手に入らない。
 
 たまたま隠居の庭で採れた食材のマメダンゴ、キュウリ、ネギ苗が食卓にそろった。「地産地消」の前に「自産自消」が大事と思っている人間にも、めったにない組み合わせだ。食材もまた、一期一会。質素な食生活でも大きな喜びを感じるときがある。

2017年6月28日水曜日

三春ネギの種を冷蔵

「きょうは忙しいからあしたにしよう」。自分のことなら先送りできても、ネギには通用しない。ネギ坊主を刈り取る時期がある。干して種を採る時期がある。
 夏井川渓谷の隠居の庭で昔野菜の三春ネギを栽培している。先週の日曜日(6月18日)、ネギ坊主を見たら黒い種がのぞいていた。刈り取るサインだ。種がこぼれる前にネギ坊主を回収し、レジ袋に入れてわが家の軒下で陰干しをした。
 
 10日後。乾燥が進んだので、ネギ坊主の種の殻を軽くもみ、種と殻・ごみを選り分ける。種選りはしかし、それで終わらない。さらに中身のない種や細かいごみを除去しないといけない。
 
 まだ若いとき、平に住む篤農家の塩脩一さんからごみの除去法を学んだ。モノの本には“風選(ふうせん)”をするように書いてあるが、これが難しい。口でフーフーやると、殻やごみだけでなく種まで飛んでしまう。“水選(すいせん)”にしてからは、種選りが簡単になった。

 ボウルに金ザルを重ね、殻やごみ、土と一緒にネギの種をザルにあける。そこへ水をたっぷり張ると土はボウルの底に沈み、種はザルの底に残る。殻や中身のない種は軽いので浮く。浮いた種は発芽しないから、容赦なく殻やごみと一緒に捨てる。

 あとは新聞紙に種を広げ、一晩軒下に置く。翌朝にはサラサラに乾いているので、これを乾燥剤とともに小瓶に入れて、秋の種まき時期(三春ネギは秋まき)まで冷蔵庫で保管すればいい。ネギの種は高温と湿気に弱い。2、3年、それで保存に失敗した。たまたま冷蔵庫で眠らせたら、発芽に成功したのだった。
 
 今年(2017年)もひとまず三春ネギの種を確保できた=写真、昔野菜のいのちをつなぐことができた、という安心感が広がる。(ネギ以外では、“水選”禁物というものもあるらしいので注意を)

2017年6月27日火曜日

マメダンゴ狩り

 夏井川渓谷の隠居の庭は、幅が15メートル、長さが40メートルほどある。東西に細長い。隠居をはさんで、ササが生い茂っていた西側を開墾し、家庭菜園にした。東側は、庭木が敷地境界に立ち、日陰になる部分には苔が生えている。駐車場に利用している。そこだけで3、4台は止まれる。 
 原発震災の影響で、庭の平均線量が毎時0.23マイクロシーベルトを0.01上回った。で、3年半前の師走に庭が全面除染された。

 除染前、苔の庭では梅雨に入るとツチグリの幼菌(方言名マメダンゴ=食用)が採れた。除染に伴って菌糸も消えたと思ったが、ちゃんと残っていたようだ。梅雨になるとまたマメダンゴが採れるようになった。

 マメダンゴは、すべてが食べられるわけではない。内部に胞子が形成されていると、食用にはならない。その識別は簡単だ。マメダンゴを二つに割る。食べられるものは内部が“白あん”状態、食べられないのは胞子で“黒あん”のようになっている。

 おととい(6月25日)は、朝から隠居で土いじりをした。キュウリを整枝しているうちに、主枝を切る失敗もあったが、こちらは大成功だった。靴で、あるいは手のひらで地中の感触を探るまでもなかった。砂浜のように白い地面からマッチ棒~鉛筆大ほどの茶色い頭が出ている。人さし指でグイッとやると、最大2センチほどのマメダンゴが転がり出た。たちまち20個ほど採れた=写真。

 カミサンを呼んで、マメダンゴがどういうふうに現れるかを教える。と、ためらわずに指を熊手にして周囲をほじくり返す。それが正解だった。小さなマメダンゴが地中から現れた。地中のマメダンゴを指で探し当てたのは初めてだ。よく洗って二つに割ると、すべて“白あん”。これも初めてだった。

 炊き込みご飯にする。外側はコリコリ、中はグニュッの食感は、「阿武隈の珍味」と呼ぶのにふさわしい。今度も「書くだけで届いたことがない」とだれかにいわれそうだが……。大量に採れるものではないし、1週間後には胞子も形成されているだろうから、採取は、今年はもう終わり。

2017年6月26日月曜日

大失敗!

 大失敗だった。キュウリの整枝をしているうちに、側枝(子づる)と勘違いして主枝(親づる)を切ってしまった。そのときには気がつかなかった。
 きのう(6月25日)は朝から、夏井川渓谷の隠居で土いじりをした。雨の予報だったのが、薄日さえさしている。
 
 菜園の野菜、といっても苗はキュウリ、ナス、トウガラシ各2本のほかは、三春ネギと、採種時期を迎えた辛み大根があるだけ。トウガラシからナスへ、さらにキュウリへと整枝の作業を続けた。そのあと、それぞれに追肥をし、1カ月前に定植した三春ネギの溝の草むしりをした。
 
 そこでひと段落つき、立ち上がって振り返ったら、片方のキュウリの葉がしおれていた=写真。なんだ、なんだ! 見ると、親づるが根元から切断されている。
 
 きょうはやるぞ――整枝・追肥・草むしりの手順をいったん頭の中でシュミレーションしてから、苗と向き合った。その前に、ちょうど食べごろのキュウリ3本を収穫した。いよいよやる気になった。
 
 いつものように、「しようがない、やるか」だったら、わりと冷静に相手を見られるから間違いはなかったかもしれない。張り切りすぎた。以前に脇芽を摘み、ついでに切った側枝をきれいに取り除こうとしたのが裏目に出た。初物を収穫したばかりなのに……。

しおれてはいられない。夕方、魚屋へカツオの刺し身を買いに行く途中、種苗店に立ち寄った。夏キュウリのポット苗があった。一つでなく二つにしたら、とカミサンが言う。糠漬け(浅漬け)のほかに、塩漬け(古漬け)にするのもいいか。
 
 来週、切断キュウリの跡とわきに定植する。今年(2017年)は、少しは長くキュウリを収穫することができる、と頭を切り替えることにした。

2017年6月25日日曜日

澄子は元気か

 5年おきに中学校の同級会が開かれる。9年前の還暦同級会では、配偶者と離別、あるいは死別したと語る同級生がいた。でも、一様に「いろいろあったが、元気でやっている」と明るかった。こういうときに決まって思い浮かぶ句がある。「花すすき誰もかなしみもち笑顔」。作者はいわき市の俳人・故志摩みどりさんだ。
 きのう(6月24日)も朝ドラ「ひよっこ」を見ながら、「誰もかなしみもち笑顔」を舌頭でころがしていた。登場人物がそれぞれに心配や悩みを抱えて暮らしている。主人公の谷田部みね子自身、父親が行方不明のままだ。ラストでみね子が、どこにいるかわからぬ父親に向かって語りかける――お父さん、みんないろいろあっけど、笑って生きています。
 
 みね子は「奥茨城村」の出身。高校を卒業すると、東京・向島のトランジスタラジオ工場に就職したが、オリンピック景気の反動で会社が倒産する。一緒に働いていた乙女寮の仲間たちは帰郷、あるいは転職する。みね子の妹分、「小名浜中」卒の青天目澄子(なばためすみこ)は、両国のせっけん工場へ。

 みね子の新しい職場は、父親も客になったことがあるレストラン。そばのアパートから通う。このアパート「あかね荘」の管理人も住人も個性的だ。

 あしたからの第13週「ビートルズがやって来る」は、もちろん昭和41年6月29日~7月3日のビートルズ来日公演を下敷きにしている。私が数え18歳のときで、高専の学生寮でも後輩たちが大騒ぎしていた。1人はチケットを手に入れて武道館へ聴きに行った。今から51年前の、忘れがたい青春のひとコマ――。

 おっと、いつの間にか「あかね荘」ほかの新しい人間に引っぱられて、乙女たち、なかでも青天目澄子のことを忘れかけていた。澄子は元気か。

 もう半月余り前になる。いわき民報が6月8日付1面に、青天目澄子役の女優松本穂香さんのインタビュー記事を載せた=写真。本人は大阪出身。いわき弁でしゃべるのが難しかったという。「平らな調子で話すことを意識」した。好きな言葉は「ひゃっこい」(冷たい)。ますます青天目澄子が身近に感じられるようになったのだが、再登場はいつのことやら。

2017年6月24日土曜日

花のコースター

 飲み会に行ったら、座卓に花びらをあしらったコースター(コップ敷き)が用意されていた=写真。花の字のつく店だった。「人生花づくし」という題で、演歌調の“ポエム”が記されていた。
「親の教えは きくのはな/人の悪くち くちなしで/頭(こうべ)は垂れて ふじのはな/笑顔あかるく ひまわりで/愛をはぐくむ ばらのはな/心清らか しらゆりで/世は移ろいて あじさいの/月日は早く たちばなで/散りぎわさやか さくらばな/先は浄土の はすのはな」

 キクと「聞く」、クチナシと「口」、タチバナと「経ち」は掛けことばだ。イメージの固定しているものでは、シラユリ=清純、サクラ=潔い、バラ=愛、ヒマワリ=笑顔。現実はしかし、ポエムとは違う。親の言うことは聞かなかった。人の悪口も言った。バラは、とげが痛かった。世の移ろいやすさや月日のはやさはその通りだったが。

 別のポエムもある。作家林芙美子作で世に知られているのが、「花のいのちはみじかくて/苦しきことのみ多かりき」。ところが、別バージョンでは続きがある。「赤毛のアン」の訳者村岡花子に贈ったものは、「花のいのちはみじかくて/苦しきことのみ多かれど/風も吹くなり/雲も光るなり」。死んだらおしまい、生きていればいいこともある、そんな意味だろう。

 きのう(6月23日)から、マスメディアもネットのソーシャルメディアも小林麻央さんの死を大きく取り上げている。

 ご本人がこんなことを記していたという。「まだ34歳の若さで、可哀想に。小さな子供を残して、可哀想に。私はそんなふうに思われたくありません」。なぜなら、「病気になったことが私の人生を代表する出来事ではないからです。私の人生は夢を叶え、時に苦しみもがき、愛する人に出会い、2人の宝物を授かり、家族に愛され、愛した、色どり豊かな人生だからです」。
 
 さわやかな風も吹き、白い雲も光った。短くて苦しいだけの人生ではなかった。病気がかえって愛を深めた。最後のことばが「愛してる」だったそうだ。夫へ、子どもたちへそう言って、彼岸へ旅立った。どのくらい長く生きるかではなく、短くても「色どり豊かな人生」を生きられた、という思いに、無念を越えた幸せと救いを感じてほろりとした。

2017年6月23日金曜日

「こわくない入口」

「こわくない入口」=写真=とはおもしろい。いわき市暮らしの伝承郷を訪れるたびに「ふふっ」となる。学習管理棟に常設展示室がある。ほんとうの入り口からすると、出口の扉の張り紙だ。
 ほんとうの入り口は狭くて暗い。マモノの侵入をふせぐ意味もあるのだろう、村境に道祖神が並んでいる。暗いのは晩秋の夕暮れ、つまりは逢魔(おうま)が時、という設定だから。大人もほんとうの入り口から一歩中に入ると、少したじろぐ。

 入り口を過ぎると、「暮らしと行事」「暮らしの中の子供たち」といった世界が広がる。全体のつくりは、記憶にはないが10カ月ばかりいたことのある子宮のような感じだ。

 伝承郷へは小学3年生が社会科見学だか遠足だかで行くらしい。企画展示室への通路壁面に来館した小学生の集合写真が何枚も張ってある。「3年生が常設展示室に入るときに怖がるのか」と知り合いのスタッフに聞けば、もっと小さい子どもたちだという。なるほど、幼児には、夕暮れの村境は恐ろしい。

 これも「こわくない入口」から始まったのではないか。大正14(1925)年3月、国会で治安維持法が可決される。「無理やりに質問全部終了」(治安法案委員会)「世論の反対に背いて治安維持法可決さる」(衆院本会議)。当時の新聞の見出しと同じようなことが、今度の国会でおきた。

「治安維持法は伝家の宝刀に過ぎぬ/社会運動が同法案の為抑圧せられる事はない=警視庁は語る」はずが、昭和8年には「治安維持法の運用を拡大強化」といった見出しが躍るところまでいく。
 
「こわくない入口」をくぐったら、内心の自由まで監視される世界が待っていた、なんてことにならないか。多少なりとも「時代とメディア」の関係を調べている身としては、過去と現在の相似が気になる。

2017年6月22日木曜日

ネギ坊主を収穫

 きのう(6月21日)は夏至。冬至の「一陽来復」にならえば、「一陰来復」だ。あしたから冬至に向かって夜が長くなる――最も昼が長い日に夜の長さを思って憂鬱になる。冬至には、逆に昼の長さを思って爽快な気分になるのだから、心はいい加減なものだ。ま、私のなかではいい加減でないとバランスはとれないのだが。
 きのうはまた、東北南部の梅雨入りが重なった。平年より9日遅い。午後も遅くなって大雨になった。風も吹いた。いったん風雨がやんだかと思ったらぶり返し、夜9時前になってやっと静かになった。

 縁側の軒下で、レジ袋を開口してネギ坊主を干している。干し始めたら、天気がぐずつきだした。湿って、乾いて、また湿って……。ここはネギ坊主が乾ききり、種がこぼれるまでがまんするしかない。

 夏井川渓谷にある隠居の菜園に、採種用の三春ネギを数本残しておいた。春になってネギ坊主が形成された。行くたびにチェックしていたら、日曜日(6月18日)、黒い種がのぞいていた=写真。種がこぼれる前に収穫しないと、というわけで、ネギ坊主を刈り取り、わが家に持ち帰って陰干しを始めた。

 採れる種はたぶん、いつもの半分だろう。ネギ坊主の数が少ないのだから。でも、秋に苗床をつくり、種をまくときに少し間隔をあければいいことを、今年(2017年)のネギ苗で学習した。“点まき”に近い方が、太い苗ができる。密にまけば間引きが必要になる。間引きを怠った苗は線香のように細い。

 なによりもまず種の確保が大切――失敗を繰り返すたびに、そのことを思う。「持ちネタ」と同じで精進を怠れば、簡単に「種切れ」になるのだ。種は少なくてもいい。種を確保し、秋にまき(三春ネギは秋まき)、初夏に定植して、翌年またネギ坊主ができれば、種は継承できる。乾燥剤とともに種を小瓶に入れて冷蔵庫に保管すれば、ひと安心。それまでもう少しだ。

2017年6月21日水曜日

タカノリさんの夢を見た

 朝方、夢を見た。山里のいわき市三和町で私とタカノリさんがワラビ採りをしている。そこへ、元職場の後輩Hクンがやって来る。歴史研究家であるタカノリさんに“一日弟子入り”をしたようだ。<お前も来たのか>といった感じで、私が後輩を見ている。そばでは、地元のおばさんたちが袋を破って肥料を見せ、<これを畑にまくといいんだよ>と言っている。
 夢は何の脈絡もなく展開し、目が覚めると霧のように消える。ところが、この夢は目覚めても明瞭だった。タカノリさんは東日本大震災が発生する前年、平成22(2010)年5月30日、共通の知人の通夜へ行った深夜、帰宅直後に急死した。享年69。7年ぶりに“再会”した。

 タカノリさんとは、いわき市江名町で生まれ育った歴史研究家佐藤孝徳さんのことだ。いわき地域学會が旗揚げする前からの知り合いで、会設立後は彼の著書『昔あったんだっち』や『専称寺史』などの校正を引き受けた。

 ただの古文書(こもんじょ)読みではない。歴史や民俗にとどまらず、農林水産業にも精通していた。元船主のせがれで、漁業にはすこぶる詳しかった。持ち山に案内してもらい、キノコのアミタケをいっぱい採ったことがある。野菜も栽培した。

 おととい(6月19日)は桜桃忌、太宰治の命日だった。たまたま近所の知り合いからサクランボ=写真=をいただいた。『専称寺史』にかかわったせいか、サクランボを食べると、専称寺―貞伝―今別―津軽―太宰のラインが思い浮かぶ。

 平・山崎にある専称寺は、かつては浄土宗の奥州総本山だった。名越派檀林、つまりは大学でもあり、東北地方から学生がたくさんやって来た。『専称寺史』で、同寺で修学した名僧を何人も知った。その一人が、津軽は今別の名刹・本覚寺の5世、貞伝(1690~1731年)。海峡を越えて蝦夷(北海道・千島)へも布教に出かけている。
 
 貞伝は「栽培漁業」の元祖のような人でもある。だし昆布として有名な「今別昆布」は、貞伝が漁獲の不安定に苦しむ漁師たちの生活を案じ、読経とともに海に紙片をまいたところ、それが昆布になったという伝説がある(今別町ホームページ)。
 
 いい夢だった。初物のサクランボがタカノリさんに会わせてくれたのかもしれない、というのはこじつけだが、夢で少し幸せな気分になった。

2017年6月20日火曜日

堤防が坊主刈りに

 この何年か、近隣の行政区長さんと話す機会が増えた。今までわからなかった各区の行事を小耳にはさむことがある。たとえば、夏井川の堤防と河川敷の早春の野焼き、梅雨期の草刈り。
 きのう(6月19日)、用があって市役所へ行った帰り、堤防を利用した。草がきれいに刈り払われていた=写真。隣の区長さんが前に、6月18日(日曜日)に草刈りをする、と言っていた。何日か前、キャタピラー型の自走式草刈り機が止まっていたから、あらかたはそれでやり、手に負えないところは人海戦術で対応したのだろう。その隣の区の堤防もきれいに刈り払われていた。

 両側からおじぎをするほど草の生えているところがあった。やはり、堤防はあおあおとした坊主刈りの状態がいい。

 堤防を利用する前、いわき駅前のラトブへ寄って1階で買い物をした。1階駐車場に誘導された。ふだんは地下駐車場へ下りる。たまたま空きスペースができたのだ。東西に通り抜けられる“いわき横丁” は、いつもは人がたむろしているのに閑散としていた。4、5階に入居している総合図書館は6月12日から23日まで特別整理期間のために休館中だ。その影響だろうか。1階が急に広くなったように感じられた。

 いつもの風景が違っていたのは、それだけではない。夜、夕刊のいわき民報を開いて、「黒ワク」(死亡広告)のスタイルが変わっていたことに気づく。

 顔写真入りで故人の人生が簡潔に記されている。「○×大法学部を卒業し、定年まで○×県庁に勤め、近年は2人の子供や5人の孫、友人の方々との交流を楽しみに、○×市内の自宅でゆったりと過ごしておりました」。この世にこういう人間が存在していた、そういう“あかし”でもある。単なる告知ではない温かみが感じられた。
 
 遺族の名前に驚いた。母のほかに故人の2人の姉の名が連記されていた。2人とも知っている。1人は元職場の仲間だ。あらためて弟さんの顔写真に見入った。

2017年6月19日月曜日

添野の「野らフェス」へ

 いわき市を代表するキノコ研究家の一人が添野町に住んでいる。小川勇勝(たけかつ)さん、78歳。平成14(2002)年に『野生のきのこ 17年間の山歩きで探し当てたきのこ生息地と写真撮影の記録』を自費出版し、翌年2刷、3刷を出した。
 カミサンが添野の「野らフェス」に行きたいという。朝日新聞に折り込まれるいわきのフリーペーパー「朝日サリー」で6月18日の開催を知った。同紙によると、主催者の小川慶子さんは東農大を卒業、ハンバーガーショップやパン屋、イタリアンレストランなどに勤めたあと帰郷し、平成22年6月に焼き菓子やケーキの受注販売を始めた。

 小川さんは同じ年、実家の一角に「野らぼう」という店を開業、以後、6月と11月の年2回、実家の敷地内で「野らフェス」を開いている。
 
 添野町、小川さん――とくれば、もしかしてキノコの小川さんの娘さん?となる。「父と娘かも」という“仮説”を立てて出かけた。山すその旧道に駐車の列ができていた。しばらく歩いて会場の「野らぼう」に着く。アリオスパークフェスと同じようなフリーマーケットで、おしゃれな若い家族でごった返していた=写真。出店者に一人、知り合いがいた。
 
 キノコの小川さんが首からカメラをぶら下げて歩いている。小川さんとは、いわきキノコ同好会が旗揚げする前に会い、仲間とともに酒を酌み交わしたことがある。小川さんは同好会には加わらなかったが、冨田武子会長らとは交流が続いている。
 
 最近は、山へはあまり行かないという。年齢的なこともあるが、原発事故が愛菌家の意欲をそいだ。「私も写真を撮るだけですよ」。キノコの情報交換をしたあと、「野らフェス」の話になる。仮説が当たっていた。「三番目(の娘)がやってるんです。今度で9回目。宣伝もしないのに、人が来るようになって」とうれしそうだった。
 
 家の北には道をはさんで山が、南には青田が広がる純農村。ここに、ファッショナブルな服装の若いママ・パパが幼い子を連れてやって来る。その魅力は何? 手作りの食べ物や雑貨、アクセサリーを売っているから? それもあるだろうが、田んぼにカエルやザリガニがいるムラの、人間と自然の関係が調和したのどかな景観に身をおく安心感、非日常感に引き寄せられるのでは?なんて愚考した。

2017年6月18日日曜日

タカギさんが講演?

 いわき地域学會の第327回市民講座がきのう(6月17日)、市文化センター視聴覚教室で開かれた。会員の大河原一浩さんが、「海軍軍人 高木武雄の人間観」と題して話した=写真。
 高木武雄(1892~1944年)はいわき市四倉町出身の海軍大将。太平洋戦争が始まって間もない昭和17(1942)年2月下旬、インドネシア・スラバヤ沖海戦で勝利し、海面を漂う敵兵を救助した。日本人提督としては唯一、この功績がアメリカのスミソニアン博物館で紹介されている。

 受講者は、いつもは20人前後だが、今回は50人近くが詰めかけ、視聴覚教室が埋まるほどだった。事前に文化センターや市役所に問い合わせがあったらしく、確認の電話が入った。文化センターからの電話では、結果的に向こうとこちらで大笑いになった。

 最初はこんな感じだった。「今回はタカギタケオさんという人が講演するんですか」「えっ、大河原さんですが。別の会のタカギさんは知ってるけど、その人だったら違うところで講演するんじゃないの」。そこでいったん電話は切れた。
 
 少しおいてまた同センターから電話がかかってきた。「講座の演題はなんですか」「あっ、そうだった。大河原さんが海軍大将の高木武雄について話すんだった。タカギさんが話すのではなくて、大河原さんが高木武雄について話すんです」。電話の向こうで爆笑がおきた。こちらもつられて大笑いした。会場の文化センターに問い合わせがあるほど興味をもつ市民がいたということだ。
 
 さて、敵兵救出を命じた高木だが、その根底にあったのはふるさとで培われた宗教的叡智、人間観だったろうと大河原さんはいう。庶民的で教養もあり、国際性豊かな海軍良識派だったともいう。高木は昭和19年2月、サイパン島で戦死する。大河原さんは、もっと語り継がれていい人物と締めくくった。

2017年6月17日土曜日

キャンパスのヒバリ

 その姿を見るたびに、「たれにもいわない」のではなく、だれかにそっと教えたくなる。ここにヒバリがいるよ――。
 木下夕爾の児童詩「ひばりのす」が頭をよぎる。<ひばりのす/みつけた/まだたれも知らない//あそこだ/水車小屋のわき/しんりょうしょの赤い屋根がみえる/あのむぎばたけだ//小さいたまごが/五つならんでる/まだたれにもいわない>

 週に一回、いわきニュータウンにある大学へ行く。駐車場から本館へと講堂のわきを通る。そばに、生け垣に囲まれた芝生がある。そこがヒバリの採餌場のひとつになっているようだ。新学期の授業が始まった4月中旬、初めて芝生の上を歩き回るヒバリを見た。以来、本館へ向かうたびにヒバリの姿を探す。

 おととい(6月15日)は、それまで1羽だったのが、3羽になっていた。ヒバリは産卵~ふ化~巣立ちまでおよそ3週間というから、増えたのは巣立って間もない幼鳥だろう。まだ警戒心が薄いのか、人間がぬっと現れても驚かない。カメラを向けたら、たまたまこちらを見た=写真。ぎょろっとした目、黄色っぽいくちばし、白いのど回り。いかにもこの世に生を受けたばかりの命、という印象だ。

 吉野せいの短編集『洟をたらした神』に「水石山」がある。ヒバリの話が出てくる。小麦畑の畝間にヒバリが営巣した。夫とせいはそこだけ小麦の刈り取りを遅らせる。キャンバスには麦畑はないから、生け垣のどこかに巣をつくったにちがいない。

 帰りにまた芝生を見ると、ちょうど1羽が青虫をくわえて飛び立つところだった。そばの桜の木の根元に降りたかと思うと、また飛んで車道に舞い降りる。“食事”にてこずっているのは幼鳥だからだろう。キャンパス生まれのヒバリなんて、そうない。

2017年6月16日金曜日

池の睡蓮

 いわき市暮らしの伝承郷にある池は、ちょっとしたビオトープ(生物の生息空間)だ。いつもは入園しても通り過ぎるだけで、池をのぞくようなことはしないのだが……。
 伝承郷で7月2日まで、福島県立博物館移動展「東北の仕事着コレクション」が開かれている。カミサンが見たいというので、運転手を務めた。

 ついでに、65歳以上は無料の特典を生かして園内を散策した。池の睡蓮が咲き始めていた=写真。コウホネ、アサザの黄色い花も咲いている。3センチほどのクロイトトンボ?が、子ガエルが水面の葉に止まる。メダカも葉の下を出たり入ったりしている。目を凝らせば、そこもワンダーランドだった。

 泥沼のほんの少しの上澄みの外で咲く花、中で泳ぐ小魚、外と中を行き来するカエル――池の生き物はまるで濁世(じょくせ)を照らす光の化身ではないか。
 
 そんな比喩が浮かぶのは、雨季にベトナムやカンボジアを旅したことが大きい。至る所に池があって、蓮が群生していた。仏教はアジアの蓮の文化圏から生まれた、とは乱暴ないい方かもしれないが、仏像が蓮の花の上に立ったり座ったりしている理由がわかったような気がした。

 バングラデシュの国花は睡蓮。いわきで震災の支援活動を続けた国際NGO「シャプラニール」は、ベンガル語で「睡蓮の家」を意味する。

 政治もまた、泥沼に蓮の花を咲かせるようなものだ、といったことを、作家の池波正太郎が随筆に書いていた。原文を思い出せないのだが、さまざまな困難を乗り越えて公共の福祉にかなう政策を実現する、そんなニュアンスだった。今は花が咲くどころか、蓮根が窒息しそうな状況ではあるが。

2017年6月15日木曜日

ツチグリはもう出た?

 マメダンゴはツチグリの赤ちゃん。コリコリした外皮と、やわらかい中身が特徴の食菌だ。梅雨期、まだ地中に眠っているところを掘り取る。阿武隈の山里では炊き込みご飯にしたり、同時期に採れる新ジャガ、キヌサヤエンドウとの味噌汁にしたりする。
 夏井川渓谷にある隠居の庭にツチグリが発生することを知ったのは、8年前の2009年7月。青葉が陽光を遮る苔むした一角にツチグリの残骸が点在していた。ふだんそこは駐車スペースにしているだけなので気づかなかった。以来、梅雨期になると、歩いて靴底に伝わる感触を確かめる。もっと精密にやるには、かがみこんで、ふわふわした苔を手で圧(お)す。苔の下の土中に幼菌が形成されていれば、そこだけ硬い感触が手のひらに伝わる。

 コケの間から先端をのぞかせているマメダンゴは、指を入れると簡単に採れる。しかし、ここまで生長すると胞子が形成されて、中身が黒っぽくなっていることが多い。これは食べられない。

 今年(2017年)は、6月の声を聞くとすぐ歩いて感触を確かめたが、まだ反応がない。ところが、庭の隅には成菌の残骸=写真=が散見される。もう発生した? いや、拙ブログで確かめると、隠居でマメダンゴが採れるのは決まって6月下旬以降だ。残骸は残骸として、これから地中で幼菌が形成されるのだろう。7月初旬までは、隠居へ出かけるたびに足踏みをする。
 
 郡山市の1年前の検査データでは、いわき市産、郡山市産ともベクレルがかなり低い。潮干狩りでは砂中の貝類を採るのに熊手を使う。地中のマメダンゴを採るのに有効かもしれない。今年はそうしてみるか。

2017年6月14日水曜日

ベストセラーランキング

 5月後半のことだが、いわき民報にヤマニ書房本店調べの「ベストセラーランキング」が載った。なんと、いわき地域学會発行の『いわきの地誌』が一番上にあるではないか=写真。5月7~13日の1週間にかぎっていえば、『NHK大河ドラマ・ストーリー「おんな城主 直虎」』(後編)や、又吉直樹の『劇場』、村上春樹の『騎士団長殺し』(第1・2部)より売れたことになる。
 同9日にいわき民報、11日に福島民報が『いわきの地誌』を記事にしてくれたのが大きい。直後に、同書店と鹿島ブックセンターから追加注文があった。活字メディアだけでなく、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のフェイスブックでも、拙ブログへのコメントとして「買います」「買いました」がいくつか寄せられた。直接、「買いました」と声をかけてくれる人もいた。

 ローカル紙に載った、ローカルな書物の、ローカルな「ベストセラーランキング」だとしても、これは“快(怪)現象”というほかない。いわきの自然地理・人文地理のほかに、都市機能的地域区分、災害地理などを論じ、震災前からのいわきの課題、震災後に生まれた課題などをおさえた本であることが、手に取ってもらえる理由だろうか。

 たとえば、いわき市の山里、小川町上小川の<限界集落「戸渡(とわだ)」の問題>という事例研究(156~157ページ)――。戸渡の地理的位置・自然環境・人文環境のほかに、地域づくり運動=戸渡リターンプロジェクトの活動と、原発事故による地理的事象(追い出された集落)の様子を紹介している。

 個人的には、空撮家酒井英治さんから提供してもらった空撮写真に引かれる。とりわけ「好間のV字谷(表生谷)」は、山とV字の谷の様子が一目でわかる貴重なものだ。「自然の彫刻を、鳥の目で一番美しくとらえた写真」からは、大地の営みの厳かささえたちのぼってくる。

 細部に「いわきの今」が宿っている。いわき市民だけでなく、双葉郡からいわきに避難している人たちにもぜひ読んでもらいたい本だ。
 
「大人には再度の郷土勉強、子どもたちなら新しい地域発見になろう」。ゆうべ(6月13日)は、いわき民報の1面コラム「片隅抄」に紹介された。最初から“赤字出版”ながら、買って読んでもらえることでその幅を縮めることはできる。もう少しで“出血”が止まる。

2017年6月13日火曜日

地下駐車場のスズメ

 6月5日夕の、いわき駅前再開発ビル「ラトブ」――。地下駐車場に車を止め、エレベーターホールへ向かっていると、前方の天井をかすめるように飛ぶものがいる。ツバメ?にしてはスピード感がない。少したってまた目の前を横切ったあと、奥の床面に舞い降りた。スズメだった=写真。
 ラトブは平成19(2007)年10月25日にオープンした。前の日に会社を辞め、若い仲間が入居した6階、インキュベートルームの居候になった。500円以上の買い物客や商工会議所利用者、図書館などの公共施設利用者は、2時間なら地下駐車場を無料で利用できる。毎日、ラトブ内の総合図書館に詰めて調べものを続けた身には、2時間無料の地下駐車場はありがたかった。

 以来10年弱、地下駐車場を利用し続けているが、鳥が迷い込んだのを目撃したのは初めてだ。1階南側に駐車場の出入り口がある。そこらへんを鳥が飛びまわったとしても不思議ではない。が、地下1階どころか2階までどうやって入り込んだのだろう。地下への車道以外に“鳥の道”はなさそうだが。
 
 平の街への途中にタイヤ倉庫がある。倉庫のシャッターが上がっていると、すだれ代わりにCDがつるされているのが見える。ダミーのカラスもつりさげられている。ツバメ、あるいはドバトの侵入防止策だろうか。鳥と人間の関係が見えておもしろい。カラスと人間は、至る所でごみをめぐる攻防戦を展開している。これはしかし地上での話で、地下のできごとではない。
 
 地下駐車場のスズメはあのあとどうしたろう。ちゃんと外へ出られただろうか。
 
 今思えば、あのスズメは出口がわからずにパニックになって、疲れきったために床面に舞い降りたのではないか。スズメにしては歩き方が弱々しかった。休んでいる状態もうずくまっているような感じだった。人間が接近しても逃げなかったのはそのためだ、きっと。きのう(6月12日)、地下駐車場にはスズメの姿はなかったから、どうにか外へ出られたのだろう(と思いたい)。

2017年6月12日月曜日

ハマの避難路

 ときどき塩屋埼灯台下の道路を通る。灯台の南は豊間、北は薄磯。平成23(2011)年3月11日の東北地方太平洋沖地震では大津波が襲来し、両集落とも壊滅的な被害を受けた。
 あれから6年3カ月。いわきの沿岸部では海岸堤防がかさ上げされ、防災緑地の建設が進められている。やや内陸部には災害公営住宅が建設された。薄磯、豊間の高台では宅地造成が進む。行くたびに風景が変わっている。道路も行き止まりになったり、新しくできたり……。
 
 子どものころ、小名浜の叔父宅へ行くのに、平駅(現いわき駅)前から海岸回りのバスを利用したことがある。沼ノ内・薄磯・豊間の集落では、家をかすめるようにしてバスが進んで行ったのを覚えている。平から小名浜へ行くバスは、今は鹿島街道がメーンだが、昔は湯本経由が主だった。ハマを巡るバスに乗ったのはたまたまか。
 
 内陸側に県道小名浜四倉線ができてからは、海岸そばの道路は灯台と海を見に行くときくらいしか利用しなくなった。バスは今も昔と同じ“旧道”を通る。薄磯・豊間を回る今の路線は、なぜか小名浜を通り越して泉駅前まで行く。
 
 先日、豊間と薄磯からひと山越えた内陸部の県道小名浜四倉線に直結する新道(市道南作青井線)が開通したというので、鹿島の本屋へ行った帰りに海寄りの道を利用し、ついでに新道を通った=写真。海側はいわき中央署豊間駐在所付近で“旧道”に、内陸側は塩屋崎カントリークラブ付近で県道に接続する。延長ざっと720メートルの復興道路(避難路)で、豊間小・中ともつながる。

 新道開通を告げる新聞記事によれば、震災時、豊間も薄磯も道路が通行不能になり、避難所の豊間小や高台の神社では多くの住民が孤立した。負傷者の搬送や物資の搬入も困難を極めた。
 
 薄磯では今夏、震災後初めて海水浴場が再開される。新道は海水浴場への近道としても利用されることだろう。

2017年6月11日日曜日

草が生えてはえて

 前の日曜日(6月4日)は地区の球技大会のために行けず、きょうの日曜日も用があって出かけられない。というわけで、金曜日(6月9日)の朝、夏井川渓谷の隠居へ車を飛ばして庭の様子を見た。
 まずはヨシ原と化した下の庭――。イノシシがほじくり返した穴が石垣に沿って広がっていた。階段をはさんだ反対側にも新しい穴ができている。このまま下の庭だけほじくりかえしてくれるなら、草刈りを業者に頼まなくてすむのだが……。
 
 菜園に植えたばかりの唐辛子とナスの苗は雑草にまみれていた。すぐ草をむしり、追肥をした。キュウリはつるが支柱とロープからはずれて、地ばい状態になっていた。テープでつるを支柱にしばり、ロープにひっかけて空を向くように誘引する。
 
 キュウリもナスも唐辛子も一番花をつけていた。実を伸ばし始めたキュウリもある=写真。こうなると、3~5日おきに隠居へ通わないといけない。日曜日ごとに収穫――というサイクルでは、巨大なキュウリができてしまう。芽かきを兼ねて未熟果を摘む。夜、みそをつけて食べた。
 
 三春ネギの溝に追肥して少し土を寄せる。苗床に残っている芽ネギを収穫する。こちらは刻んで味噌汁や卵焼き、納豆の具にする。

 辛み大根の種もさやのなかで眠っている。今年はさやを収穫しないでそのまま落果させ、自然に発芽するのを待つことにした。去年、放置したさやから発芽したのが、ずんぐりむっくりの立派な根になった。わが庭での最初の“放置農法”だった。秋に発芽したらもうけもの。
 
 ざっと1時間の土いじりを終えて帰る間際、東側の庭を歩いて靴底の感触を確かめる。ツチグリの幼菌(方言名・マメダンゴ)が地中に形成されていれば、ボコッとした“異物感”がある。ほんとうはよつんばいになって、手のひらを地面に押し付けてボコッとした感じを確かめるのだが、時間がない。感触はなかった。

2017年6月10日土曜日

異文化に触れて

 この半月の間に、アメリカ人のおおらかさと、バングラデシュ人の敬虔さに触れた。
 わが家の近くに故伯父の家がある。それをゲストハウスにしている。5月29、30日と、アメリカ・モンタナ州立大学生がホームステイをした。6月5日には、バングラデシュ人が泊まった。いずれも女性だ。

 アメリカの学生はジャーナリズムを専攻している。夏休みを利用して、東日本大震災・原発事故の取材旅行に参加した。

 一泊した翌日、学生たちは事故を起こした東電の1F(いちえふ)を見学した。パスポートがないと入れない。ところが、1人がゲストハウスにパスポートを忘れた(その顛末は6月2日、拙ブログに書いた)。

 翌朝、集合場所でボランティアの市民通訳が話していたことだが、1人が双葉郡のスーパーで紙幣(1万円札と千円札)を落とした。それに気づいて、立ち寄り先に確かめたところ、ちゃんとおカネが保管されていた。落とし主は? ゲストハウスに泊まったもうひとりの学生だった。「アメリカではおカネは戻らない、日本だから戻ってきた」。そんな話になったそうだ。よりによって2人が話題を提供するとは。

 その1週間後。シャプラニール=市民による海外協力の会の全国キャラバンが行われた。バングラの現地スタッフが家事使用人の少女の実態と課題を報告した。

 バングラは高温多湿の国。気温36度の世界から日本へやって来て、まず仙台で、次に福島、そしていわきで支援活動の状況を話した。いわきの夜も「寒かった」。会場のアートスペースもりたか屋から外に出ると、彼女はショールを「真知子巻き」にした。

 翌朝、帰京するのにいわき駅前のバスターミナルへ送り届ける。その車中での、スタッフの話。「寝るとき、西はどっちかと聞かれた」。“西枕”で寝たらしい。メッカの方角を確かめたということか。寝る方角は日本人も気にする。仏様になったら“北枕”だが、生きているうちは南か東が普通だろう。現にわが家は“南枕”だ。アメリカ人も日本式にふとんに“南枕”で寝た。

 もうひとつ、驚いたことがある。アメリカの学生のうちゲストハウスに泊まった1人を含む3人が、いわき滞在3日目の朝、「郡山へ行く」と言って集合場所からいわき駅へ向かった。

 郡山へ行って、そのあとどうしたのか。1週間後の朝日新聞(福島浜通り版)=写真=でどこへ行ったのかわかった。阿武隈の山村、葛尾村で原発事故の影響を取材し、民泊するダークツーリズムに参加したのだった。「世界最大規模の民泊予約サイト」がある。それで葛尾訪問を決めたという。おおらかで自由なアメリカ人らしい別行動だった。
 
 インバウンド(訪日外国人旅行)でも、有名観光地より山里の暮らしに触れるようなディープな旅を求める人々は、この民泊予約サイトをよく利用する。
 
 1年前、震災後に知り合ったフランス人女性写真家らとゲストハウスに泊まった日本の若者がいる。京都の郊外の山里に住み、多言語能力を生かしてインバウンド事業(里山ツーリズム)を手がけている。民泊予約サイト経由で外国人観光客がやって来る。インターネットは良くも悪くも人間の行動範囲を広げ、観光の中身を変えつつあるようだ。

2017年6月9日金曜日

「うえいぶ」最終号

 年度替わりには総会・打ち合わせ・書類作成その他の雑務が途切れなく続く。合間に、コミュニティ内の危険個所検分、地区球技大会、一斉清掃などもある。あした(6月10日)の朝は、公民館清掃が待っている。ほかに4~7月は週1回、計15回のおしゃべりとその準備がある。ここにきて、ようやくコミュニティの仕事に一区切りがついた。ということで――。 
 いわきの総合雑誌「うえいぶ」の第50号(最終号)=写真=を、ちょっと遅れたが紹介する。42号から編集を担当した。「編集後記」を以下に転載したので、よろしければお読みください。

 追記=いわきのヤマニ書房、鹿島ブックセンターなどで発売中です。
                      ◇
「うえいぶ」は1988年6月、いわき地域学會が発行母体となって創刊し、途中から「うえいぶの会」に引き継がれた。どちらも同学會初代代表幹事、故里見庫男さんが牽引役になった。<創刊の辞>に「文化の諸相にわたる広汎な情報と視点を提供するために、本誌を編む」とある。それから29年、本誌は今50号をもってひとまずその役目を終える。所期の目的が達成されたかどうかは、読者諸氏の判断にお任せするほかない。

 創刊号にサブ特集<巨大地震のくる日>が載る。藤井陽一郎茨城大学教授(当時)が「福島県沖巨大地震の可能性」、高橋紀信磐城高校教諭(同)が「招かれざる客」の論考を寄せた。第3号では、推進・反対を含めて特集<“原発”は身近な問題だ!>が組まれた。2011年3月、「原発震災」が起きる。「先見の明」があったと誇るものではないが、私たちが享受する文明への恐れ、巨大システムへの不安のようなものが漂いはじめていたことは間違いない。

「うえいぶ」の文化的ルーツについて、里見さんが自著『地域の時代へ』に記している。〈Ⅱ 文学研究〉所収、「山村暮鳥と東北」の最終3行。「いわき地域学會も、暮鳥が大正初期にまいた地方文化創生の一粒であると思っている。雑誌『うえいぶ』には、暮鳥の血が流れている、そう思いながら『うえいぶ』の発行を続けている」。里見さんの追悼特集が載る42号の後記でも、この文章を紹介した。


「うえいぶ」は暮鳥に始まる近代いわきの「地方文化創生」の流れに位置する。「広汎な情報と視点を提供する」思いの淵源には暮鳥がいる、という認識にはハッとさせられた。それを胸に、「50回までは出す」と語っていた里見さんの“遺言”にしたがって、ここまで仲間と歩んできた。協力をいただいた執筆者、並びに購読者、広告スポンサーの皆様に深謝し、「地方文化創生」を受け継ぐ若い世代に期待をかけつつ、筆を擱く。

2017年6月8日木曜日

若い力と新しい風

 関東甲信まで梅雨入りしたという。いわき市の気候は東海・関東型に入るから、実質的に梅雨入りしたことになる。けさ6月8日は雨模様だ。
 さて――。ILO(国際労働機関)は6月12日を「児童労働反対世界デー」と定めている。それを踏まえて、シャプラニール=市民による海外協力の会が6月を児童労働反対月間とし、バングラデシュでの活動を伝える全国キャラバンを展開中だ。

 月曜日(6月5日)は夜、同会いわき連絡会の主催で平・三町目のアートスペースもりたか屋で活動報告会「羽ばたけ家事使用人の少女たち~いわきから考える」が開かれた(きのうの拙ブログ参照)。

 若い人が新しく主催側に加わった。おかげで、その仲間の協力も得られた。会場がすんなり決まる。イベント告知のチラシ(フライヤーともいう?)をつくる。当日も、仲間が会場を設営してくれる=写真。片づける。若い人のデジタル技術とフットワーク、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を利用した参加の呼びかけと申し込みの多さに驚いた。

 若い人とは親子以上の年の差がある。別の若い人と知り合ったのが、そもそもの始まりだった。その彼が仲立ちをしてくれたために、若い人を知ることができた。昨年(2016年)秋、「いわきの現代美術の系譜」と題するシンポジウムが開かれ、6人の登壇者の1人として参加した。これもまた別の若い人を知るきっかけになった。

 シンポジウムは、NPOのワンダーグラウンドが「いわきまちなかアートフェスティバル玄玄天」の一環として主催した。市立美術館ができる原動力になったのは「市民ギャラリー」、その市民団体が生まれたのは「草野美術ホール」があったから――という観点で、草野美術ホールと経営者について話した。

 しめくくりに、玄玄天の主会場である「もりたか屋」を「第二の草野美術ホールに」と呼びかけた。若い人たちはワンダーグラウンドの仲間でもある。

 シャプラは設立から今年(2017年)で45年。創設当時の若者たちを第一世代とすれば、現在は第二~第三世代がシャプラを支える主力になる。年寄りには年寄りの役割がある。多少の知恵とカネなら出せる。そうして、支援する年寄りが若者とつながれば、次の展開も可能になる。その手ごたえ=新しい風を感じるイベントになった。

 にしても、アートスペースもりたか屋は“倉庫”のようでおもしろい。活動報告会を手伝った旧知の詩人に「詩の朗読会にもいいのでは」というと、うなずいていた。

2017年6月7日水曜日

羽ばたけ家事使用人の少女たち

 シャプラニール=市民による海外協力の会は、バングラデシュやネパールなどの南アジアで「取り残された人々」の支援活動を展開しているNGOだ。今年(2017年)で創立45年を迎える。
 創立メンバーの一人がいわき市出身で学校仲間だった。そのため、創立時からシャプラにかかわっている(カミサンが会員になり、私がマンスリーサポーターになったのはあとだが)。

 東日本大震災・原発事故が起きると、シャプラはすぐ緊急支援を始めた。茨城県北部から北上していわきに入り、以後5年間、平で交流スペース「ぶらっと」を運営した。初めての国内支援だった。

 おととい(6月5日)の晩、シャプラの全国キャラバン「羽ばたけ家事使用人の少女たち~いわきから考える」(同会いわき連絡会主催)が、平・三町目のアートスペースもりたか屋で開かれた=写真。「ぶらっと」を介してシャプラとつながった人たちを中心に、30人余が参加した。カレーライス(カレーはインド料理店マユール製)も好評だった。

 シャプラが南アジアで展開している事業のひとつに、家事労働に従事しなくてはならなくなった少女たちの支援プログラムがある。6月12日はILO(国際労働機関)が定めた「児童労働反対世界デー」。それを踏まえて、シャプラは6月を児童労働反対月間として、全国キャラバンを実施している。

 児童労働削減と教育は切り離せない。子どもらしく生きること、そのためには読み書きの学びや遊び、経験・感情の共有などが大切になる。

 シャプラの現地スタッフであるマフザ・パルビンさんが現状と課題を報告した。ベンガル語の通訳は福島市で震災支援活動を展開している元シャプラスタッフが担当した。映像と同時進行のために、親が娘を働きに出す理由や雇用主の意識、長時間労働の実態などがよくわかった。

「百聞は一見に如(し)かず」。いやいや、その前段として「百読は一聞に如かず」だ。シャプラの会報「南の風」を読んでわかっていたつもりでも、細部には想像力が届いていなかった。なかなか「一見」がかなわない身としては、貴重な現場の声=「一聞」だった。南の国の喧騒と熱く湿った空気、そのなかで休みなく働く少女……。「遠い」が少し「近い」に変わった。

2017年6月6日火曜日

タワークレーン

 年に一度は胃カメラを飲み、大腸の内視鏡検査を受けた方がいいというので、先日、いわき市立総合磐城共立病院へ行って検査日を予約した。敷地内で新病棟の建設が進められている。タワークレーンが2基そびえていた=写真。
 クレーンのオペレーターを相手に、組み上げつつある鉄骨の上でとび職人が「ゴーヘー」、あるいは「スラー」なんて合図をしているに違いない。

 前日の朝、BSプレミアムで2012年放送の「東京スカイツリーのすべて」前編をチラ見した。タワークレーンを紹介するコーナーでは、「ゴーヘー」と「スラー」の用語解説もあった。初めて語源を知った。

 はるか昔の10代後半、日本で最初の超高層ビル「霞が関ビル」の建設現場などでアルバイトをした。そのとき、「ゴーヘー」「スラー」を初めて聞いた。レッカー車の“手子(てこ)”として「ゴーヘー」「スラー」などと合図をした記憶もある。「ちょいスラー」という言葉が耳にこびりついている。

「ゴーヘー」は「go ahead(ゴー・アヘッド=進む)」からきているという。意味は「巻き上げる」。「スラー」は「slacken(スラッケン=緩める)」で、「巻き下げる」ときに使う。「ちょいスラー」は「ゆっくり巻き下げる」。そういえば、腕でも「上げる」(手のひらを上にして上に振る)、「下げる」(手の甲を上にして下に振る)をやった記憶がある。

 朝ドラの「ひよっこ」が今、私が17歳(青天目澄子の1歳上)だったころの東京を舞台にしている。店の看板や壁の張り紙を見ただけでも、当時の記憶がよみがえる。乙女たちの合言葉は「がんばろう」「がんばっぺ」。がんばれば必ずいい結果が出る、と信じられていた「ゴー・アヘッド!(前進!)」の時代。至る所で超高層ビルが建ち始め、「ゴーヘー」「スラー」が使われていたはずだ。

 病院へ検査の予約に行った翌日には、定例の飲み会があった。一人が、浜の言葉をまとめた昔の冊子を入手し、コピーをしたのを見せてくれた。なかに巻き網漁船にからんで「ゴーヘー、マキ」という言葉があった。「このゴーヘーは、たぶんゴー・アヘッドからきている」と仕入れたばかりの知識を披露する。

 さらに検索したら、船舶用語(ゴーヘー=前進)がクレーンの合図用語に転化したらしいことがわかった。漁業のまち・気仙沼市には震災からの創造的復興をめざす組織として「ゴーヘイ!気仙沼の会」がある。前に進め!気仙沼。同じように、「ゴーヘー!いわき」があってもいいわけだ。

2017年6月5日月曜日

地区対抗球技大会

 きのう(6月4日)の日曜日は、朝7時から午後3時近くまで人工芝のグラウンドにいた。神谷(かべや)地区対抗球大会が地区内の昌平中・高校で開かれた。
 グラウンドでは男性がソフトボールに火花を散らし=写真、そばの体育館では女性がバレーボールに汗を流した。わが行政区は去年(2016年)、ソフトボールで優勝し、V2を狙ったが3位に終わった。バレーボールは、結果的に優勝したチームと対戦し、1回戦で敗退した。
 
 地区内8行政区が参加した。勝てばうれしい、負ければ悔しい――とはいえ、普通の市民が試合に出場し、たがいに審判を務めるという点では、交流第一のイベントだ。参加することに意義がある。
 
 今年で44回を数える。逆算してみたら、いわき市が合併して7年後の昭和48(1973)年に始まったことになる。秋には石油ショックに見舞われ、日本の高度経済成長が終わりを迎える。その直前、右肩上がりの経済がコミュニティスポーツを生んだのだろう。

 高度経済成長期と違って、今は少子・高齢化の時代。大会に参加する若い保護者が減った。元気な高齢者が増えたといっても、ソフトは走り回らないといけない。どの行政区も出場選手の確保に苦労しているようだ。
 
 今年も某行政区がソフトの出場を見送った。人が集まらなかったという。いったん切れた糸をつなぐのは容易ではない。事前の抽選会で、わが区は某行政区と対戦することが決まった。結果は不戦勝で、いきなり3位が確定した。
 
 子どもが小さいころは、私もチームの一員として参加したものだが、今はテント設営・撤去の裏方兼弁当受け取り係兼応援団員に変わった。地区に戻ってからは反省会を開いて参加者の労をねぎらう。この反省会が貴重な情報交換の場になる。

「新しいごみネットを」「集積所に不法投棄の粗大ごみがある」。けさ、きのうのメモを読みなおして、現実に戻った。

2017年6月4日日曜日

庭の訪問者

 聞きなれない鳥の鳴き声がした。なにか小声でつぶやいているような感じ。あとで図鑑で確かめたら、「キリリ、コロロ」とつぶやいていたらしい。わが家の庭の角に電柱が立っている。奥の家に電線が伸びる。その電線にカワラヒワが止まっていた=写真。 
 やや逆光気味のために黒っぽい。がっしりしたくちばしからシメかと思ったが、体がスズメ大で小さい。撮影データをパソコンに取り込み、拡大してカワラヒワとわかった。ふだんは河川敷で見られる。住宅地に現れるのは珍しい。

 秋から冬、庭にアオジが現れる。ヒヨドリ、ムクドリ、メジロ、そして冬鳥のツグミ、ジョウビタキもやって来る。今はイボタノキの花が咲いているくらいで、鳥のえさになるようなものは少ない。カワラヒワもねぐらの河川敷へ帰る途中、電線で一休みしただけだろう。たまたま車で出かけようとして、声を聞き、見上げたら電線に止まっていた。

 庭の訪問者は鳥に限らない。晩秋、マサキの生け垣に産卵するガがいる。ミノウスバで、今年(2017年)は4月下旬にはふ化した。それからほぼ1カ月、何日かおきに生け垣をチェックした。ミノウスバの幼虫が葉裏でかたまりになっているところを除去する。それを繰り返した結果、今年は葉の食害を最小限にとどめることができた。
 
 玄関わきのツタは一部、1階の屋根を覆うまでに繁茂した。壁のトタン板や瓦を持ち上げるようになったので、先日、根元から茎を切断した。花どきには虫がいっぱいやって来た。
 
 今はイボタノキの花にクマンバチたちが群れている。この花が咲くと、どこからともなくアオスジアゲハが現れる。今年もそろそろかな――カミサンと話したばかりだが、まだ美しい姿を見せない。
 
 アオスジアゲハは、かつては東北南部、つまりいわきあたりが北限とされていた。今は温暖化の影響で青森でも見られるようになったそうだ。トランプ大統領には、温暖化はフェイクに映るらしいが、現実は間違いなく深刻化している。パリ協定離脱表明にはつい親指を突き出して下にした。

2017年6月3日土曜日

もう一つの口コミ

 ツイッターもフェイスブックもSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、つまりは「もう一つの口コミ」だろう。現実の生活圏をはるかに越えて、さまざまな場所から人間や自然に関する情報が届く。新聞やテレビといったオールドメディアでは太刀打ちできないきめ細やかさと広がりを持つ。 
 特に、冬。目的地の天気が気になる。と、「けさ起きたら雪だった」といったコメントと雪の写真がアップされている。山の向こうの「友達」の情報でルートを変更したこともある。
 
 今週(5月28日~6月3日)は、フェイスブックで「ホホー」が三つあった。
 
 5月30日夜、若い仲間が今年初めて、ホタルの光跡をアップした。もうそんな季節になったか。
 
 翌31日の朝、「かもめの視線」の空撮家酒井英治さんが平市街の上空をモーターパラグライダーで飛んでいるのを、たまたま市役所本庁舎の玄関前から見た=写真。その日の午後、パソコンを開けると、フェイスブックのメッセージ欄に、わが家とわが地区の写真が届いていた。ありがたいことに、「近くを飛んだので、チョット空撮しておきました」とあった。
 
 きのう(6月2日)は、元職場仲間(今は通信社の記者)がイノシシの写真をアップした。
 
 3年前、東洋大学生が被災地の現地学習にやって来た。彼と一緒に夜の飲み会に加わったとき、引率の先生の一人、カナダ人の准教授とイノシシ狩りの話になった。後輩は真顔で「イノシシ狩りをしたい」と応じた。
 
 そのときのブログの一部――。後輩はサーフィンをやり、水中に潜って写真を撮る。自然のなかに生身の自分を置くことで生きる実感をつかむタイプだ。イノシシを狩るには、まず講習を受けて狩猟免許を取る必要がある。
 
 そのあと、ほんとうに「わな猟」の免許を取ったのだ。コメントを入れると、「アクアマリンの測定で20ベクレルもなかったです」「もし希望でしたらお持ちします」。今回は遠慮する。が、ある公民館での測定でも問題のない個体があったというから、汚染度の低いイノシシも生まれつつあるのだろう。
 
 それぞれの“現場”から届く当事者情報――これこそが「もう一つの口コミ」の魅力、といえるのかもしれない。

2017年6月2日金曜日

オー・マイ・ゴッド

 きのう(6月1日)の続き――。アメリカのモンタナ州立大学ジャーナリズム学部の女子学生2人のホームステイを引き受けた。いわきには5月28日から31日まで4泊した。学生たちは日中、いわき市内と双葉郡内を巡って取材を重ね、29、30日に日本の市民の暮らしを体験した。
 ホームステイ2日目の晩は、“孫”の高3女子が、英語教諭でもある母親に連れられてやって来た。母親は初日の晩も来て、会話を助けた。2人は“孫”と4歳しか違わない。

 よくよく聞くと、夏休みを利用した取材旅行だった。1人は同学部を卒業したばかり。フォトジャーナリストになるために「モンタナを出たい」という。“孫”も大学進学のためにいわきを離れる考えでいるようだ。若者同士、通じるものがあったのか、しばらく質問をぶつけあっていた。

 アメリカ人を受け入れるのは初めてだった。こちらが何かを説明すると「ヤー」。「イエス」よりは親しみやすい感じだった。おかしかったりおどろいたりすると、「オー・マイ・ゴッド(ガッ)」。「ヤー」と「オー・マイ・ゴッド」が耳に残った。

食卓には、彼女たちが台所で一口大にまとめた=写真=そうめんが器に並んだ。それをタレにつけて食べる。はしの使い方が思ったよりうまかった。

 こんなこともあった。31日の朝、2人を集合場所の市役所本庁舎前まで送り届けて帰路に就くと、ケータイが鳴った。カミサンが応対した。「パスポートはコピーでは駄目ですか」。話がよくわからない。間もなく同行の市役所職員が出て、「ホームステイをした1人がパスポートを忘れた」という。オー・マイ・ゴッド。
 
 本物のパスポートでないと廃炉作業が行われている1Fには入れない。ケータイをかけてきたのは、取材旅行のスケジュールを組み立てた同大OBの日本人ドキュメンタリー写真家で、あとで聞くと東電のスタッフにかけるところを、間違って私のケータイにかけてきたのだった。それで正解だったのだが。
 
 マイクロバスはまだ平の市街にいた。わが家は1Fへ向かう国道6号の旧道沿いにある。運転手はそのへんのルートは知っているはずだから、旧道に入ってくるようにうながす。その間に、カミサンがゲストハウス(故伯父の家)に入って彼女のバッグからパスポートを取り出す。私は家の前の歩道に立ってマイクロバスの到着を待つ。

カミサンが歩道に戻ってくるのと、マイクロバスが到着するのがほぼ同時だった。カミサンがパスポートを掲げるとバスの中で歓声が起きたようだった。

 唯一、スマホの通訳アプリも不要、日本語で通じたのが、車のCDをアイルランドのエンヤに替えたとき。実は、1人は名字が「マクドナルド」、アイルランドにルーツがあるのではと考えて、エンヤのCDをかけたのだ。「これ、エンヤ」というと、「ヤー、エンヤ」うれしそうな声が返ってきた。エンヤはやはり世界的なミュージシャンだった。アイルランドの音楽の話でもすれば、もっと盛り上がったか。

2017年6月1日木曜日

ホームステイを引き受ける

 いわき市国際交流協会からカミサンに連絡が入った。アメリカのモンタナ州立大学ジャーナリズム学部の学生14人が被災地取材のため、いわき市に滞在する。市民との触れ合いを希望している。ついては5月29~31日、2泊3日のホームステイは可能か――。
 ちょうど1年前、インドの大学の学生・OB一行のうち、男性2人のホームステイを引き受けた。相手は、日本語はまったくダメ。こちらも、英語は単語を並べるだけ。日中は視察スケジュールが決まっている。朝、集合場所へ送り届け、夕方、迎えに行って、夜、家で食事を共にする。知り合いの高校の英語教諭を助っ人にして。

 去年(2016年)とまったく同じパターンで女性2人を引き受けた。顔を合わせると、スーパーマーケットへ直行した。食べたいものを選ばせる。握りずしや焼きそばその他、こちらの選んだものも含めて、買い物かごがあふれるほどになった。去年もそうだったが、2人の持つスマホの通訳アプリが役に立った。
 
 去年の学生たちは工学系で、いわきの復興状況や環境配慮施策を学ぶのが目的だった。今回はジャーナリズム学部だ。いわきの震災時の状況と復興を知るのが目的だという。元ブンヤとしては、英語うんぬん以前に、同じ道をめざす“後輩”を受け入れないわけにはいかない。フォトジャーナリスト志望だという。

 いわきは4泊5日、うち2泊3日をホームステイにあてた。送られてきたスケジュール表を見たかぎりでは、取材の密度が濃い。津波被害に遭った沿岸部の漁業関係者、応急仮設住宅入居者、復興作業員などの話を聞いた。同大卒でドキュメンタリ―写真家藤本敬二さんが取材の段取りをつけた。1Fも見学し、浪江町の牧場も訪ねたという。

 夜は日中取材した感想を聞きながら、質問に答えた。地震の状況、原発避難民と受け入れコミュニティの関係、賠償金による複雑な分断、福島の取材を続けているフランス人女性写真家のこと……。

シビアな話だけではない。双葉郡を訪ねたホームステイ2日目は暑かったので、カミサンがそうめんをつくった。めんを一口大に丸める仕事を手伝った。浴衣も試着した=写真。1Fへ出発する際には1人がパスポートを忘れるというハプニングもあった。いろんな場面で「オー・マイ・ゴッド」を聞いたが、それらはあとで。