2017年1月31日火曜日

「ほどらひといふことがござる」

 裏の義弟の家の庭に梅の木がある。もう何日も前に、カミサンから花=写真=が咲いていることを聞いた。きのう(1月30日)は暖かかった。梅のつぼみがさらにほころんだことだろう。
 極寒期にも次の季節の準備が始まっている。「一陽来復」の冬至から1カ月余り。“一日一分”、日の出が早まり、日の入りが遅くなる。春は近い。庭のスイセンも間もなく咲き出すはずだ。

 自然界の穏やかな移り行きとは裏腹に、人間界の動きは急にあわただしくなってきた。7カ国からの入国を拒否するアメリカの「大統領令」が世界のあちこちで混乱を引き起こしている。きのうまでは“合法”だった人の出入国に待ったがかかる。日本の航空会社にも影響が及んだ。

 共同通信の全国世論調査では、トランプ氏の大統領就任で国際情勢不安定化を懸念する声が8割余に達した。これはもう国民全体の空気といっていい。
 
 空港の混乱やデモのニュースに触れて、いささか憂鬱な気分になっていたら、敬愛する“お姉さん”がやって来た。カミサンと話しているところに加わった。芸術、政治、ファッション、人物評と話題は尽きない。「大統領令」にも話が及んだ。
 
 政治は人々の福祉のためにある。人々の暮らしを混乱させる、あるいは不幸にするやり方はおかしい。ヒトゴトではない。現に、太平洋戦争前には“排日移民法”があった。
 
 詩に興味を持ち始めた50年ほど前、雑誌「文藝春秋」で金子光晴の短詩「ほどらひ」を知った。「ほどらひ」は「ほどらい」、「ほどあい」と同じで「適当な程度」という意味だ。それをこのごろ、ずっと思い出している。

「ほどらひといふことが ござる/ひとを好くにしても、憎むにも/またせるにしても、待つのにも/また、なが生きをするにしても∥へうきんなおれの人生だつたが/金がないので、まだたすかった/さうは言へ 金はないにしても/ほどらひといふことが ござる」

「ほどらひ」が必要なのは、人の好き嫌いや待つ・待たせる、長生き、カネの有無――だけではない。政治は極端に走ったら、惨劇を招く。大事なのは現実主義の微妙なバランス感覚、「ほどらい」だろう。「殿、ほどらひといふことがござる」といえる人はいないのか。

2017年1月30日月曜日

いわき合衆市

 昭和30(1955)年前後の「昭和の大合併」のあとに、日本で最大の広域都市「いわき市」が誕生した。去年(2016年)10月1日で満50年を迎えた。およそ10年前の「平成の大合併」では、いわき市を超える超広域都市がいくつもできた。いわき市がモデルケースになったと、私はひそかに思っている。
 今でこそ「いわき市は多様性に富んだまち」という認識が一般的だが、合併から20年ほどは「旧市町村の垣根を取り払って一体化を」が、市議会やメディアの主要な論点だった。市制施行15年を記念してつくられた「いわきおどり」はその典型だろう。企業や団体、若い世代が参加するイベントに成長したから、一体感の醸成には貢献した。

「いわきは多様性に富んだまち」は、「広すぎて一体化はムリ、ならば地域の個性を生かせ」という認識からきている。多様性を裏付ける根拠のひとつとして、市民サイドから「いわきは流域の連合体」(やがて市長になった岩城光英氏が「いわき合衆市」=交流ネットワーク都市の考え)を提示する。

 バブル経済がはじける前のこと。いわきの平地の川の上流にゴルフ場や処分場建設計画が明らかになる。反対運動が展開される。そのなかで、「行政区域」ではなく、「流域」(水環境)で地域をとらえる視点が生まれた。3・11に伴う原発事故にも、風だけでなく水(川)の視点が必要だ。

浜通りはどこもそうだが、阿武隈高地が分水嶺になって川が一気に太平洋=写真=に流れ下る。川内や葛尾、飯舘を除けば、それぞれの自治体に山・平地・海がある。いわきは夏井川、藤原川、鮫川、プラス北の大久川の4流域連合体。浜通りの各自治体にも中心となる川がある。浜通りは、いわば“東阿武隈流域連合体”だ。

 なぜ「流域論」をもちだしたかというと、いわきを中心にしたSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)のなかで、「浜通り合衆国」という文字が目に入ったからだ。いわき市長は年頭会見で「連携中枢都市圏の形成を視野に、検討を進める」と述べた。浜通りの連携・共創が行政の課題になってきた。市民サイドでも若い人たちを中心に、連携・共創を考える機運が生まれてきたのだろう。

2017年1月29日日曜日

神谷産の白菜を漬ける

 いわき市の山里・三和町の直売所から買ってきた白菜は、やはり甘みがあってうまかった。また買いに行こうという段になって雪が降った。カミサンが近所の農家の直売所へ行ったら白菜があった。ふだんは無人だが、たまたま生産者がいた。「寒くなったから甘いよ」といわれたという。ではと、神谷(かべや)の白菜を漬けることにした。
 真冬にはいわきの平地でも最低気温が氷点下になる。畑の白菜は凍るまいと内部に糖分をたくわえる。この糖分が甘みのもとだ。

 甘い白菜にうまみを増すため、いつもは板昆布を砕いてちらす=写真。ところが、暮れにそれを切らした。しかたない。買い置きの刻み昆布を細かく切って白菜にちらした。

 白菜が漬かったので、切って食卓に出すと、隣家に住む義弟が刻み昆布を箸でよけた。白菜に枯れ草の茎がくっついているとでも思ったか。「昆布だから食べられる」。それで初めて納得したようだった。
 
 今度も刻み昆布を使ってみた。外からではなく、葉の間に塩とともにちらした。松前風白菜漬けは、葉と葉の間に細切りのニンジンやスルメ、昆布が入っている。ただの白菜漬けと違って下漬けなどの手間がかかる。刻み昆布を葉の間にちらしているうちに、その「松前風」が頭に浮かんだ。「プロシューマー」(生産消費者)という言葉も。
 
「プロシューマー」は『第三の波』の著者、アルビン・トフラーの造語だ。「コンシューマー」(消費者)であって「プロデューサー」(生産者)――カネではなく、家族や自分の満足のために生産する消費者のことを指すらしい。

 もう何年も前、いわき昔野菜フェスティバルで江頭宏昌山形大教授(当時・准教授)が講演した。そのとき「プロシューマー」を知った。教授は以来、欠かさずフェスティバルに参加している。今年(2017年)は2月5日に中央台公民館で開かれる。

 最近、ネギ生産者と話して思ったことだが――。一般の消費者が好むのは「白くテカテカして見た目はきれいなネギ」。しかし、「プロシューマー」の経験を積めば、「曲がっているけど加熱すれば甘くて味のよいネギ」があることがわかってくる。一人の人間のなかに、甘みの増した白菜を求める消費者と、自分の満足のために白菜漬けをつくる生産者がいる。今度は「松前風」に挑むか。

2017年1月28日土曜日

集水桝モニタリング

 きのう(1月27日)、家の向かいの歩道で集水桝のモニタリングが行われた=写真。定期的に市道の放射線量を測っているらしい。作業を見学した。放射線量は地上1メートルで毎時0.08マイクロシーベルト、1センチで0.11くらいだった。
 鋼材で組んだグレーチング(ふた)なので、ふだんから枡に土砂がたまっているのが見える。夏は草が生え、幼木が生えていた。なぜそうなのかといえば……。いわき市では春と秋の2回、「いわきのまちをきれいにする市民総ぐるみ運動」を展開している。原発震災後は、側溝の土砂上げができなくなった。放射性物質を含む土砂の受け入れ先が確保できないからだ。

 集水桝や側溝に土砂がたまれば冠水、悪臭、害虫の発生が懸念される。年ごとに市に苦情が寄せられるようになった。で、市が国に要望した結果、1回だけ国の予算で市内全域の側溝堆積物を除去することが決まった。夕べのいわき民報、けさの県紙などが、復興庁が今年度(2016年度)分の交付金の配分を発表したと報じた。2月にスタートする。いわき市のほか、福島市、西郷村へも配分される。

 わが区では2011年11月、福島県の補助金を利用して区内の通学路などの除染作業を行った。月に1回、通学路の側溝蓋の上、歩道、車道など定点10カ所で線量を測り、データを住民に回覧したこともある。

 拙ブログによれば、2012年11月までの除染後1年の変化はこうだった。4、5月は毎時0.2マイクロシーベルト以上だったのが、6月に入ると0.1台にとどまるポイントが出てきた。その後、0.1台が増え始め、10~11月は7~6ポイントで0.2を切った。
 
 それからでも丸4年がたつ。風雨などによる自然減衰(ウエザリング効果)と、半減期が2.1年のセシウム134の物理的減衰で、生活空間における放射線量はかなり低減した。問題は側溝の土砂――だったが、これも間もなく除去される。
 
 除去土砂はどこへ行くのか。2月に実施される小名浜の場合、同地区の市有地で仕分けし、2000ベクレル以下の汚泥は溶融処理をして放射性物質を分離したあと、処分する方法を検討しているという(朝日新聞)。市が国に提出した要望書(ネットにアップされている)を読むと、そのへんの事情がわかる。

2017年1月27日金曜日

キツネだけでなくリス?も

 夏井川渓谷の隠居の庭に残っていた雪に、けものの足跡らしいものがあった=写真。イノシシなら偶蹄(二つに割れている)、タヌキなら一部が爪でギザギザになっている。点々と連続していれば推定が可能だが、そこだけだった。結局、なにかはわからなかった。
 自然の領域では、けものの存在は普通のこと。が、人間の領域では異常な事態だ。およそ1カ月前の日中、まちなかのわが家の向かいの歩道をキツネが歩いているのが目撃された。直前には、別のところにイノシシが現れた。自然の領域で何が起きているのか。
 
 この1カ月の間にキツネの目撃例が増えた。夕方、散歩の途中でキツネと遭遇し、スマホでパチリとやった人がいる。映像を見た。まちがいなくキツネだった。「キツネは危険だから」と電話をくれる人もいた。わが家の斜め前の家でも、敷地内にある畑にキツネが現れた。いずれも半径50メートル圏内だ。
 
 自宅の庭(敷地)に猫が入り込むのを嫌う人がいる。隣の家の木にカラスが巣をかけたら、「除去してくれ」という人がいる。その逆、猫好き、鳥好きの人もいる。生きものが嫌いな人は、とりあえず自衛してもらうしかない。
 
 つい何日か前の早朝、家の前の歩道にあるごみ集積所にネットを出して戻ろうとしたら、隣家との境の取り付け道路から小動物が歩道に現れた。道路を横切るのかと思ったら、直角に曲がって隣家の駐車場に消えた。何年か前、夏井川渓谷の森で目撃したことがある。日曜日(1月22日)には平・大室の鎌田山を駆け下りて向かい側のコンクリート吹きつけののり面を駆け上っていった。リスだ。
 
 鎌田山のリスは、道路をはさんだ向かい山へ移動したのだとわかる。しかし、わが家と隣家の小道に現れたリスは、ペットが逃げたのでなければ、山からまちへ流れてきたのだ。
 
 イノシシ、キツネ、リス。あえて加えれば、生ごみを食い散らかすカラスも。野生の生きものがなぜ人間の領域に現れるようになったのか。原因は何なのか。わからないなりに考えていくしかない。

2017年1月26日木曜日

道路は拡幅されたが……

 いわき市の旧平市と旧神谷(かべや)村を結ぶ幹線道路は国道6号。ほかに、山際の小川江筋(農業用水路)を利用した水田地帯を貫通する抜け道(市道)がある。東から草野~神谷~平窪とつながって、国道399号に至る。夏井川渓谷にある隠居へ出かけるときには、このルートを利用する。
 神谷地区に、用地買収ができずに“細道”のままのところがあった。ほかの地区にもある。道の両側は田んぼだ。先祖から引き継いだ土地を自分の代で減らすわけにはいかない、あるいは行政不信、そういうものが根っこにあって拡幅が難しかったのだろう。3地区の区長協議会が連携して拡幅のための活動を続けている。

 それが奏功して、去年(2016年)、神谷地区の細道が拡幅され、年末に供用が開始された=写真。区間は100メートルちょっとだろうか。以前は幅員5.5メートル未満のためにセンターラインもなかった。今は白い破線が引かれている。しかし、その先は急カーブ。そこに、田んぼのあぜ道と直結した横断歩道の路面標示がある。そばの路肩には「幅員減少」の立て看。
 
 3・11後、いわき市は1Fの事故収束~廃炉作業のベースキャンプになった。双葉郡からの避難者も加わって、一気に交通量が増えた。国道6号の朝晩の混雑を避ける車が脇道に入り込み、この抜け道も交通量が増した。
 
 細道が始まる角に小学校がある。道路拡幅によって接触事故を防ぎ、歩・車道も分離して安全度が増した。それはそれでよかったのだが……。驚いた。車がビュンビュン飛ばして行き来しているではないか。
 
 学校の行き帰りに田んぼのあぜ道を利用する児童がいる。学校前には押しボタン式の信号機がある。急カーブの横断歩道にも――という要望が出ているらしい。ある集まりで学校の後輩(市議)と話して知った。一つ解決すればまた一つ……。地域の安全・安心には終わりがない。

2017年1月25日水曜日

人は来て、とどまって、去る

 舞台、土俵、ステージ……。呼び方はなんでもいい。人間もそれ以外の生き物も「この世」という舞台に立って、やがて退場する。人は来て、とどまって、去る。それを繰り返しているのだ。
 この世に現れた命が成長し、やがて次の命を生む。その命がまた次の命を生む。命のリレーによって私が、子が、孫がいる。リレーを終えたと感じたら、静かに舞台から退場するときを待つ――そんなことをつい考えてしまった。
 
 知人の訃報が相次いだ。市役所で観光分野に力を発揮したH氏が彼岸へ去った。65歳。結婚前に世話になった建築事務所の所長(50代で亡くなった)がいる。その奥さんが亡くなった。83歳。
 
 カミサンも世話になった佐々木芳弘さんは87歳。死亡記事=写真=を読んで、合掌した。老舗の家具店を経営しながら、アマチュアのバイオリニストとして活動した。私が勤めていた新聞社の監査役でもあった。
 
 一方で、こんな朗報もあった。男の孫が生まれたと、40年来の女性の友人が来てカミサンに告げた。上の孫の女の子は、「春」ではなく「小春」。弟は「朝陽」ではなく「夕陽」。こういう名づけの感覚がいいなと、若い母親から「おじちゃん」といわれる人間は、口元がほころぶのだった。

2017年1月24日火曜日

ストラスブールと最古の新聞

 BSプレミアムの「世界ふれあい街歩き」はほぼ欠かさずに見る。先日はフランスのストラスブールだった。行ったことはない。が、世界最古の新聞「レラツィオン」(Relation=伝達)が発行された地なので、興味を持って見た(レラツィオンのことは、2010年9月17日付朝日新聞で知った)。
 スイスのアルプスから始まるライン川は、フランスとドイツの国境を流れ、やがてオランダで北海に注ぐ。上流部左岸、河川交通の要衝がストラスブールだ。右岸域にはドイツの「黒い森」(シュヴァルツヴァルト)が広がる。いわき湯本温泉が新しいあり方の手本にした温泉保養地、バーデン・ヴァイラーは森の南方にある。

「レラツィオン」は1605年、製本職人のヨハン・カルロスによって創刊された。当時、ストラスブールはドイツ領シュトラスブルクだった。この地でグーテンベルクが活版印刷技術を完成させる。それからおよそ150年後、活版印刷による週刊新聞「レラツィオン」が誕生した。

 カルロスは「週1回の郵便集配に合わせ、水曜の夕方までにニュースを集め、木曜の朝に新聞を出した」(朝日)。欧州全土の政治や軍事のニュースなどが集められたという。

 日本でも、江戸時代には飛脚(郵便配達人)がいて、かわら版があった。特に、幕末の自然災害(噴火や地震・津波)は飛脚が情報提供者となってかわら版がつくられた。洋の東西を問わず、郵便システムが新聞を生んだ。

 そんなことを思い出しながら番組を見た。美しい街――というのが第一印象だった。EU議会場がある。国際都市でもある。ドイツ領になったり、フランス領になったり……。「ドイツ語もフランス語もこの地に深く根付いているわ」という女性の言葉(字幕)=写真=がしみた。

2017年1月23日月曜日

V字谷に残る雪

 きのう(1月22日)は、半月ぶりに夏井川渓谷の隠居へ出かけた。この間にいわきの平地にも雪が降り(13日)、水道管が凍結するほどの寒波が押し寄せた(15日)。20~21日には、平地で雨、山地で雪になった。隠居の庭に少し雪が残っていた=写真。もっと奥、標高の高い川前や三和、田人は雪野原が広がっていることだろう。
 北へ一里行くごとに雪が一尺深くなる――小林一茶を生んだ豪雪地帯の長野県北部には、「一里一尺」という言葉があるそうだ。いわきにはむろん、この種の言い伝えはない。が、住民はどこでどう雪が増えるかを知っている。夏井川渓谷では、平地から山地(渓谷)へ入る、JR磐越東線・磐城高崎踏切の先にある“地獄坂”、ここが境目だ。

 この何年かの間に、渓谷の道路沿いにあるミニ杉林が何カ所か伐採されて消えた。南の谷側に杉林があると、道路に降った雪は融けずに踏み固められてアイスバーンになる。日当たりがよくなったおかげで、スリップ事故の危険性が減った。

 渓谷までならスタッドレスタイヤで十分だ。雪が積もれば除雪車が出るし、少しの積雪ならほどなく太陽が融かしてくれる。雪は、しかし、あちこちに残っていた。日陰の路肩、V字谷の北向き斜面、空き地。隠居の濡れ縁に線状に残っていたのは屋根からの落雪。

 渓谷では、雪より寒波だ。何度も水道管の凍結・破損に泣かされた。ここ何年かは、冬がくると洗面台の水の元栓を締め、台所の温水器の水抜きをするようにしている。ところが、きのうはいったん出て、止まった。地下水をくみ上げるポンプを見たが異常はない。午後になってちょろちょろ出てきたところをみると、どこかで水道管が凍結していたのだろう(庭が全面除染になったあと、水道管が一部露出するようになった、そこか)。

 同級生でもある「水道のホームドクター」に連絡しようかと思ったが、「こんなことで呼ぶな」といわれるのがシャクなのでよした。

 それはそれとして、渓谷はまだ極寒期には入っていない。近くの「籠場の滝」のしぶき氷がほとんどないのでわかる。隠居の対岸にある「木守の滝」も似たようなものだろう。まさかこのまま2月の中旬になったら……、天然氷は今年もお預けになる。

2017年1月22日日曜日

いわきの明るい冬

 雪になるかもしれない――予報から悪天候を覚悟していたが、朝には天気が回復した。雨で終わった、
 きのう(1月21日)は、関係する催しが二つあった。一つは、神谷(かべや)地区区長協議会主催の「新春のつどい」。もう一つは、いわき地域学會が共催する文化フォーラム「江戸時代の文化を語る」。文化フォーラムは仲間にまかせ、「新春のつどい」に主催者側の一人として加わった。

「新春のつどい」は旧神谷村に属する平・鎌田山、東日本国際大の食堂「鎌田レスト」で行われる。大学は、いわき駅を中心とした平市街地の東方にある。鎌田山からは逆に市街西方、屏風のような阿武隈の山並みが見える。朝は、この屏風が雪化粧をしていた。昼前、準備のために「鎌田レスト」へ着いて屏風をながめたら、あらかた雪が消えていた。

 いわきにも、もちろん雪が降る。積もる。が、平地と山地では雪に対する感覚が異なる。平地の住民である私は、いわきの山里と平地を比較するなかで、平地には冬がない、春・夏・秋、そしてそれよりちょっと寒い秋があるだけ、という思いを抱いている。雪国からいわきへやって来た人は、冬に洗濯物を干せることを喜ぶ。これこそが「サンシャインいわき」だ。

 大学の構内に会津交通のバスが止まっていた。屋根に会津の雪が積もっていた=写真。1時間後に見ると、雪の量がかなり減っていた。会津の冬の宝は良くも悪くも雪、いわきの冬の宝はそれを融かす太陽。

 3・11を経験したものの、以後のいわきの6年は以前と同じように、大きな台風は避けて通る、雪は降ってもすぐ消える、東京で雪でもいわきでは雨――暮らすにはまちがいなくいいところだ。「新春のつどい」の来賓祝辞でもそれに言及するゲストがいた。

2017年1月21日土曜日

真夜中の緊急電話

 真夜中に電話がかかってきて、寝そびれたまま朝を迎えた。すると、今度はコンロや温水器が「ガス欠」になった。
 去年(2016年)11月22日早朝、ドドドドときた。震度5弱。そのとき、プロパンガスが自動停止をした。復帰ボタン=写真=を押したら復活した。今回は、地震はなかったが……。カミサンが復帰ボタンを押すと復活した。なにが原因だったんだろう。

 午前2時ちょっと前。電話の呼び出し音で目が覚めた。眠りに就いて3時間余り。カミサンがあらたまった様子で話を聞いている(だれかが亡くなった知らせではないらしい)。

 独り暮らしのおばあさんの家で、突然、明かりが消えた。それで、本人が緊急通信システムを使って受信センター(民間企業)に連絡した。カミサンが安否確認などをする「協力員」になっている。で、センターから緊急電話が入った、というわけだ。

 その家まで歩いて10分ほどだろうか。カミサンが「行ってくる」という。厳寒の真夜中だ、「気をつけて」とはさすがにいえない。車を出した。持参の懐中電灯で室内を照らしながら、ブレーカーを探す。私は、背は高い方だ。手を伸ばしてやっとつまみに触れられるというところにブレーカーがあった。案の定、つまみが下がっていた。

 つまみを上げると明かりが復活した。テレビもついた。オーブンは開いたままだった。ほかにもなにか電気器具を使っていたのかもしれない。

 詳しい話は避けるが、老人は、「自助力」だけでは日々の営みが難しくなっていく。とすれば、介護の力や近隣の「互助力」が必要になる。今回初めて、そういう力を必要とする“現場”を垣間見た思いがする。その印象が強かったのか、帰宅して床に就いても羊は現れなかった。

2017年1月20日金曜日

おすそ分けのリレー

 カミサンが仲良くしている近所の若い奥さんから、レンコンの煮物をいただいた=写真。ちょうど晩酌を始めたばかりだった。ときどき、手製の料理を分けてくれる。晩酌のおかずが一品増える。 
 レンコンは、カミサンが近所の奥さんからいただいたものだった。それを、若い奥さんに提供した。煮物になって返ってきた。おすそ分けのリレーだ。
 
 ざっと60年前、昭和30(1955)年前後の記憶――。醤油が切れると、急に親から言われて隣の家に借りに行った。燃料のマキ(たきぎ)を節約するために、両隣で「もらい風呂」をした。「これ食べて」と料理が届いた。
 
 今は、それぞれ個室で暮らしながらもリビングやキッチンを「共有」するシェアハウスというものがあるそうだ。
 
 高度経済成長の時代には可処分所得が多かったから、身の回りの問題はカネでけりをつける、近所づきあいなどはめんどくさいから避ける、という風潮があった(これは今も続く)。
 
 経済のグローバリズムが進んだ現代はどうか。一握りの富者はより富み、多くの人はより貧しくなった。加えて、少子・高齢社会が影響しているのか、質素な生き方を求める若者が増え、晩婚化が進んだ。そうした時代の変化が「共有」と「交流」の住まいのかたちを生んだのだろう。
 
 シェアハウスの“原点”は、私のなかでははっきりしている。高度経済成長期前の「支え合う暮らし」、「三丁目の夕日」だ。シェアの意味は「共有」だけではない。「分かち合い」「支え合い」をも意味する。「自助」と「公助」の間の、隣近所の「互助」の世界――。
 
 高度経済成長前の暮らしを意識するようになったのは、新聞記者になっていわきの公害・環境問題を取材しはじめた20代後半だった。その後、バブル経済が席巻し、はじけ、それがまた繰り返されるなかで、いよいよ高度経済成長前の「循環社会」と技術革新を結びつけた先に希望があるのではないか、と思うようになった。
 
「三丁目の夕日」は、「郷愁」ではなく、あしたの「現実」。未来のモデルは60年前にあるのだと、レンコンの煮物が教えてくれる。

2017年1月19日木曜日

「マリアの肖像」の絵はがき

 カミサンに、同じいわきに住む幼なじみから、ときどき絵はがきが届く。明治40年創刊の「いはき」をはじめ、大正~昭和初期に創刊された地域紙をチェックすると、名前の出てくる弁護士がいる。そのお孫さんだ(おじさん、おばさんたちもすごい。波乱に富んだ生涯を送っている)。
 去年(2016年)10月には、アメリカのエドワード・ゴーリー(1925~2000年)の絵はがきがきた。苦しい人間はますます苦しみ、悲しい人間はますます悲しむ――そういう救われない世界を描く絵本作家だ。初めて知った。

 先日届いた絵はがきは少女の肖像画だった=写真。この絵はネットで見て承知していた。スペインを代表するリアリズムの画家で、世界的に知られるアントニオ・ロペス・ガルシア(1936年~)、その愛娘9歳のときの肖像だ。タイトルは「マリアの肖像」(1972年)。紙に鉛筆だけで描かれているという。

 いわき出身の画家阿部幸洋がスペイン中部、ラ・マンチャ地方のトメジョソ(トメリョソ)に住んでいる。2014年10月、地元のアントニオ・ロペス・トーレス美術館で阿部の個展が開かれた。美術館に名前が冠されているトーレスは画家。ガルシアはそのおい。トメジョソで幼少期を過ごした。

 いわき市立美術館長がプライベートで個展を見に行った。帰国後、平・田町で話を聞いた。飲み屋のとまり木には言の葉が茂っている。酔眼にも見えているのだが、一夜明けると言の葉はきれいに消えている。メモ、メモ、メモ。箸袋でもなんでもいい、メモしておけば思い出す。画家ガルシアはそうして記憶に残った。
 
 ネットにアップされているガルシアの作品をながめているうちに、ガルシアから俊英画家と認められたスペイン留学経験のある故磯江毅や、同じリアリズムの画家諏訪敦にたどり着いた。NHKEテレ「日曜美術館」でも2人の作品を見ている。

「マリアの肖像」はガルシアの代表作のひとつらしい。キリッとした女の子の表情が見る者を厳粛な気持ちにさせる。次は、どんな絵はがきが届くか。

2017年1月18日水曜日

ルビは「ルビー」から

 面白いだじゃれや言葉遊び、子どもの言い間違いを、つい記録してしまう。言葉には無関心ではいられない。テレビ番組を見ていてもそうだ。
 土曜日(1月14日)の「池上彰のニュースそうだったのか!!」のなかでやっていた。振り仮名の「ルビ」の語源は?「ルビー」。唐突に尋ねられても「知らない」が普通だろう。池上さんだって番組をつくるまで知らなかったのではないか――なんて、うがってみるのはいけない。

 ネットで再確認した。イギリスの印刷業界では、文字の大きさを小さい方からダイヤモンド・パール・ルビー・エメラルドと宝石の名前で呼んでいた。ルビーの大きさは5.5ポイント。日本独自の文字サイズでは、本文用文字の標準・5号活字に、「ルビー」に近似した7号活字(5.25ポイント)を振り仮名として利用した。で、日本でも振り仮名を「ルビー」と呼び、縮まって「ルビ」になった。

 明治の新聞にはルビが多かった=写真(いわき最初の民間新聞「いはき」)。日本語は上から下へ、右から左へ――の縦書きが基本なので、難しい漢字は右わきに仮名を振る。横組みの場合は漢字の上に振る。現代の新聞は行間が詰まっているので、漢字の下に丸ガッコで読み仮名を入れた。一例が「神谷(かべや)」。今はデジタル技術のおかげで簡単にルビが付けられるようになった
 
 もう一つ、テレビニュースから。今年(2017年)6月の東京都議選にからんで、現知事が自分の与党会派を増やすためにいろいろ動いているというニュースが流れた。そのときのアナウンサーの言葉。「シユウハを送っています」。「シュウハ? あきなみ、ではないのか」。私は、「秋波を送る」の「秋波」を「あきなみ」と思い込んでいた。
 
 女が男に媚びる、という意味からいっても、「秋波」は音読み言葉(シュウハ)より訓読み言葉(あきなみ)がふさわしい。ずっとそう思ってきた。原因は、「秋波」を浴びたことがないからだが、にしても「秋波を送る」はもう使わないのではないか。現知事の顔がテレビに映るたびに「シュウハ」を思い出しそうだ。
 
 で、肝心の最近メモした言葉たち――。中華料理店へ行ったときのこと。2階の座敷にクラシック音楽が流れていた。隣の席は若い親子連れ。2歳くらいの男の子が「ダダダダーン」に反応して「ベントウベン」とつぶやいた。いいねぇ。思い出す。わが孫たちも、潜水艦を「スイセンカン」といい、パソコンを「パコソン」といったことを。なにか子どもに大人の価値観をひっくり返されたようでおもしろかった。
 
「アイキュウ(IQ)よりアイキョウ(愛敬)」。これは、先日わが家へ酒を飲みに来た若い仲間のことば。いつだったか、田町で仲間と飲んだときにはこんなやりとりをした。「みんなナヤン(悩ん)デルタール人だよ」。すると、一人が「クロー(苦労)マニョン人もいる」と応じた。現実はその通りなのだろう。

*きょうのブログをアップ中、作業のミスできのうのブログを消してしまいました。復活は無理なのでしょうね。

2017年1月16日月曜日

ふっかけ雪の観音祭

 1月半ばの日曜日は荷物運びの運転手、と決まっている。いわき市小名浜の徳蔵院で観音祭が催される。護摩祈祷に合わせて、境内で「かんのん市」が開かれる。いくつか団体が参加する。カミサンも毎年、「シャプラニール=市民による海外協力の会」のフェアトレード商品を展示・販売する。
 今年(2017年)はきのう(1月15日)開かれた。この冬一番の寒波が押し寄せた。太陽が時折、うっすら雪雲でかげる。四方八方から雪が吹きつける。積もる雪ではない。「ふっかけ」だ。そのなかで、祈祷を終えたお坊さんたちが境内の大観音を巡りながら、散華ともちをまいた=写真。

 以前は荷物とカミサンを送り届けるといったん帰宅し、「かんのん市」が終わるお昼ごろに合わせて迎えに行ったものだ。が、わずか2時間ほどの催し。このごろは、寺の駐車場に車を止めて、車内で資料読みなどをすることにしている。

 晴れて風もないときは、車内が暖かくなって、つい眠気を誘われる。きのうは日が差したりかげったりで、エンジンをかけていないとすぐ寒気に包まれる。しばらく暖機運転をしながら資料読みをした。

「かんのん市」に参加するようになって、もう20年近い。ここにも「少子・高齢化」の波が押し寄せているようだ。いや、時代の変化はこうした地域の催しに真っ先に現れる。わが地域でもそうだが、高齢化が進んで参加を見合わせる人が増える、祭りに連れていく子どもが少なくなる――近年はそんなことを感じる例が増えた。

 それはともかく、今年も「初観音」に来ることができた、という思いはある。哲学者内山節さんの時間論ではないが、時間は矢のように過ぎ去るだけではない。時間は蓄積する。1年がひとまず無事に終わって、また新しい1年が始まる。そんな思いを抱く節目の日でもある。

「かんのん市」が終わると、いつもどこかで昼食を――となる。私はすぐにでも帰宅したいのだが、カミサンはせっかく小名浜に来たのだから、という気持ちでいる。それで、北茨城市までのしたことがある。今回は小名浜でとなって、いわき・ら・ら・ミュウで昼食をとった。思ったより人は少なかった。

2017年1月15日日曜日

屋根の雪が融けて雫になって

 おととい(1月13日)降った雪は、太陽に暖められてあっという間に消えた。
 翌朝、2階の物干し場を見ると、うっすら積もった雪がザラメ状になっていた。湿った雪が夜のうちに凍ったのだ。縁側のひさしの雪もザラメ状だった。少しずつ融けながら滑り落ちてひさしからはみ出す。午前10時ごろになると、融けたザラメ雪の雫(しずく)がポタポタ垂れるようになった。
 
 めったにないシャッターチャンスだ。デジカメの撮影モードダイヤルを「スポーツ」にして“連写”した。その1枚がこれ=写真。
 
 雫の大きさは、雪の量が少なかったこともあって径3ミリ前後だろうか。撮影データをパソコンに取り込んで拡大すると、微細な雫の表面に青空も太陽も庭木も映り込んでいる。極小に極大が宿っている。
 
 肉眼ではわからない、かといって顕微鏡レベルまでいかなくとも拡大すれば見える“宇宙”。カメラをちょっといじる程度の人間にも可能なお遊びだ。こんなときは、「沈黙の春」を著したアメリカの生物学者、レイチェル・カーソンのいう「センス・オブ・ワンダー」(不思議さに目を見張る感性)に包まれる。
 
 自然の不思議さは山野へ出かけないと体験できない、というものではない。人間には迷惑・危険なことも含めて、自分の家にも庭にもある。玄関先にツバメが営巣する。アシナガバチが軒下に巣をつくる(これは、わが家)。庭にモグラ塚がいっぱいできる(これも、わが家の庭)。生物とはちがう気象現象、屋根の雪融けの雫もカメラを介して不思議さを教える。

 夏井川渓谷の隠居でカエデの枝先にできた露を接写したことがある。パソコンに取り込んで拡大したら、やはり青空と雲、太陽、裸木が映っていた。雨上がり、クモの巣が水滴で網目模様になっている。雨の日、コケの先端から雫が垂れている……。目に飛び込んできたその瞬間、その場所がワンダーランドに変わる。

 けさはこの冬一番の冷え込みになった。風呂の水が出ないのでわかった。台所の水は凍りかけていたが、蛇口をひねったらガガガガいいながら通水した。気象台のデータでも、小名浜で今季最低の氷点下3.2度とあった。風もある。こういう自然の不思議さは、人間には厳しい。

2017年1月14日土曜日

いわきの平地にも雪

 きのう(1月13日)は、晴れて曇って雪になった=写真。雪は午後3時前後から降ってきた。いわきの山間部では今季3回目らしいが、平地では初雪だ。
 大きく湿った“ぼたん雪”だから、アスファルト路面では車の通行もあってすぐ消える。が、畑も河川敷も林もうっすら白くなった。山間部では日陰(南側に切り通しがあったり、杉林があったりするところ)が要注意だ。圧雪されて滑りやすくなっている――ということは、平地から山間部へ向かうとき、頭に入れておかなければならない。

 浜通りは、きょうは「晴れ時々曇り」、あしたは「昼過ぎまで時々晴れ、所によって夕方から雪」という天気予報だ。けさは、橋の上はどうだったろう。水たまりができていたところは凍っていたに違いない。大学入試センター試験がきょう、あしたと行われる。受験生は、足元にはくれぐれも注意してほしい。

 テレビが北国の大雪を報じていた。地吹雪に見舞われたところもある。その映像を見ながら思い出したことがある。

 母方の祖父母の家が旧都路村(現田村市都路町)の鎌倉岳東南麓にあった。母親に連れられて真冬に訪ねたとき、猛吹雪になった。祖母は吹雪を「フギランプ」といった。ただの吹雪ではない。空からも足元からも雪が吹きつける「地吹雪」。小学校に上がるか上がらないころの記憶だ。
 
 60年前後たった今も、吹雪の映像を見ると、「フギランプ」という言葉が頭に浮かぶ。なぜそんな言い方が生まれたのだろうと気にもなる。「吹き乱舞」という漢字を当てたくなるが、それでは文学的すぎないか、方言はもっと即物的なはずではないかと、もう一人の自分が言う。いつかは納得できる解釈に出合いたいものだ。

2017年1月13日金曜日

数の子わさび漬け

 おととい(1月11日)に続いてまた魚卵の話で恐縮だが――。この正月、数の子=写真=を初めて満足するまで食べた。
 暮れに魚屋さんへ刺し身を買いに行くと、冷温ケースにパック入りの数の子があった。塩蔵だが冷凍品ではない。食べるときに塩抜きをするといいというので、カミサンがフンパツして買った。

「数の子入りわさび漬け」が好きで、ときどきスーパーから買って来る。そのつどガッカリする。肝心の数の子が少ししか入っていない。数の子だと思ったら大根だった、そんなことがたびたび起こる。実態は「大根のわさび漬け数の子添え」といった感じ。

 正月三が日に毎晩、焼酎を飲みながら塩抜きした数の子をポリポリやった。そのとき、ひらめいた。市販の「数の子入りわさび漬け」を買ってきて、それに数の子を加えよう。頭に描いていた、ほんとの「数の子わさび漬け」ができるかもしれない。カミサンに“調理”してもらったら、その通りになった。

 ごはんと一緒に食べる。晩酌のつまみにする。食べ続けていると、足の親指がうずき始めた。まさか、数の子のせい? 数の子に含まれているプリン体を調べたら、問題はない。すると、うずきの原因は……アルコールと運動不足か。

 年末年始もこたつをデスク代わりにして、ノートパソコンと向き合ってきた。合間に食事をし、昼寝をして、夜は飲む。わが家なのに“入院患者”のような一日が影響しているのかもしれない。好きなものを食べて飲むためにも、少しは歩かないと。

2017年1月12日木曜日

震災詩集『夢の壺』

 いわき市の木村孝夫さん=2014年福島県文学賞受賞=は3・11以来、震災詩を書き続けている。
 昨年(2016年)秋には、『ふくしまという舟にのって』『桜蛍』に続く3冊目の詩集『夢の壺』(発行・土曜美術社出版販売)を出した=写真。時間の経過とともに変化する原発避難者の心を代弁する。
 
 たとえば、<フレコンバッグ>という作品。「この町は/線引きから解除され/帰還に向けた準備を急いでいる∥うわものは急ぎ足だが/その中に入るものが追いつかない∥フレコンバッグの山と/同居するような近さにあるのは/災害公営住宅∥放心状態にある町が/活気付く/なんてことはまだまだ先だ」

 あるいは<羊>。「原発震災後には/羊を百頭用意して/眠りの入り口に持って行ったが/眠れなかった∥友人から百頭などでは駄目だ/と 言われた∥俺は入り口に/千頭持って行ったが/数えている途中で分からなくなって/全く眠れなかったよ∥(略)あれから五年が過ぎたが/未だに眠れないので/何度も試みたが駄目だった∥今は心療内科で/睡眠導入剤をいただいている」

 いわきで心療内科医院を開いた精神科医の本もある。熊谷一朗著『回復するちから――震災という逆境からのレジリエンス』(星和書店、2016年)。震災と原発事故で多くの人が理不尽な喪失を体験した。
 
「本来なら心療内科などとは無縁で、豊かな自然に恵まれ、満ち足りた日々を送られていた方々である。幾分落ち着きを取り戻されたとはいえ、未だに先の見えない不安は隠しようもなく、苦しみは継続している。(中略)苦しみの根本のところは無論金銭で賠償できるはずのものではなく、むしろ新たな差別の元凶となることも多い」

 月曜日(1月9日)に放送されたNHKスペシャル「それでも、生きようとした――原発事故から5年・福島からの報告」は、東京などの非被災地に向けて発信されたものだろう。福島県民にとってはローカルニュースなどで承知している内容だった。個別・具体で深くえぐったところがNHKのドキュメント番組らしい。

 番組に福島医大「災害こころの医学講座」主任教授前田利治さんが登場した。去年10月、いわきで前田さんの講演を聴いた。演題は「アルコールと心身、睡眠の問題」。朝日新聞にインタビュー記事が載ったばかりだった。同趣旨の話になった。そのときの記事の要旨を拙ブログで振り返る。

 福島県内で避難指示が出た市町村に住んでいた21万人の健康調査を行っている。うつ病の可能性がある人の割合は全国平均より高いが、減る傾向にはある。「ただ、岩手、宮城では急減した震災関連自殺は、福島では依然として高く、累計で80人を超えました。アルコール摂取に問題を抱える男性も2割前後で横ばいが続いています」

「5年後も福島だけ突出して多いのは、原発事故の影響と考えざるをえません。(中略)当初は希望を抱いていた人が希望を失いつつあります。地域社会との断絶が自殺の根底にあるのかもしれません。(中略)我々の調査で、地域社会が持つ助け合い機能の低下が、人々の心の回復を妨げることもわかってきました」
 
 木村さんの詩に戻る。<孤独死は今も>の最終連。「今夜も仮設住宅のどこかで/気配だけがそっと体から離れようとしている/誰にも気づかれないように/新聞やニュースなどでは事件性がないと/小さく取り上げられるだけだ/忘れてならない 孤独死は今も続いている」。原発避難者や津波被災者のなかには、厳しい心的状況に追い込まれている人がいる――そのことを、頭においておかないと、と自分に言い聞かせる。

2017年1月11日水曜日

初めてのキャビア

 正月3日に息子一家と会食したとき、カミサンがキャビア=写真=を出してきた。去年(2016年)夏、同級生とロシアのサハリン(樺太)島、シベリア大陸のウラジオストク・ナホトカを旅した。手のひらにのるくらいの小さなガラス容器に入ったキャビア(本物だと思うのだが)を土産に買ってきた。高かった。それだった。カミサンに渡したあとは忘れていた。
 トリュフ、フォアグラ、キャビア――。世界三大珍味だというので、一度は口にしたいと思っていた。

 マイタケに黒マイタケと白マイタケがあるように、トリュフにも黒トリュフと白トリュフがある。黒はフランス、白はイタリアで好まれるようなことを、前にテレビで知った。

 もうずいぶん前のことだ。いわきキノコ同好会の総会・勉強会・懇親会で冨田武子会長がフランス土産の瓶詰めトリュフを提供した。テレビで知っていたのは「ニンニクや森の匂い」。ところが実食して感じたのは香水のような芳香だ。ヨーロッパの人間と日本人とでは「比喩」の土壌が違っているのか。
 
 キャビアと聞くとつい連想するのが「畑のキャビア」だ。44年前、宮沢賢治の世界(小岩井農場など)に触れたくて、新婚旅行先を盛岡市に選んだ。
 
 披露宴に岩手出身の画家松田松雄が出席した。翌日、訪ねた盛岡の画廊に松田がいた。松田の案内で飲み屋街に繰り出し、フグ刺しをごちそうになった。そのあと、居酒屋「茶の間」に連れていってもらった。「とんぶり」(ホウキグサの実)を食べた。「畑のキャビア」だという。
 
 最近知り合った若い人が年末、弘前へ帰省する途中、盛岡へ立ち寄った。フェイスブックに昼間の飲み屋街の写真をアップした。なかに「茶の間」の看板が映っていた。「畑のキャビア」を思い出した。おととい(1月9日)、わが家へ来たので「茶の間で飲んだのか」と聞くと、「?」だった。たたずまいが気に入って写真を撮っただけだったらしい。
 
「畑のキャビア」はプチッとした食感だけが記憶に残っている。ロシア産のキャビアは? 塩漬けだから多少はしょっぱい。プチプチ感はある。うーん、それだけのような気もする。だから、美味ではなく珍味? フォアグラも食べたことがあるはずだが、味はよく覚えていない。

私には、トリュフよりマメダンゴ(ツチグリ幼菌)、フォアグラより焼き鳥レバー、キャビアより数の子が向いている。

2017年1月10日火曜日

山里から山里へ

 平市街から望む阿武隈の山並みに雪はない。山のふところ深く入っても大丈夫だろう――そう踏んで、夏井川渓谷の隠居へ出かけたついでに、川前から差塩(さいそ)経由で下市萱の直売所・三和町ふれあい市場を訪ねた。
 雪は、川前の枯れ田の土手にほんの少し残っているだけだった=写真。差塩は海抜500メートルほどの山里。そこへ上る道も、そこから下る道も乾いていた。師走の下旬、車検に併せてタイヤをノーマルからスタッドレスに替えた。アイスバーンになっていたら、スタッドレスタイヤでも歯が立たないが、何の問題もなかった。

 川前の公民館に車がいっぱい止まっていた。きのう9日は成人の日。いわきでは一日早く旧市町村単位で、川前地区は同公民館で成人式が開かれた。夏にミツガシワの花が咲く差塩湿原はかなり乾燥が進んだらしい。湿地(池)が大相撲の土俵くらいに小さくなっていた。

 昼下がりだったので、国道49号沿いでラーメンでも――と思ったが、甘かった。3連休の中日で、どこも混んでいた。結局、わが家近く、住宅街のラーメン屋で遅い昼食をとった。

 三和町ふれあい市場では白菜を2玉買った。地元の梅干し・古漬け・ラッキョウ漬けなども手に入れた。加工品は三和の“おふくろの味”だ。

 白菜は漬物にする。夏は糠漬け、冬は白菜漬け。同じ白菜でも、平地よりは山地のを、南よりは北のを選ぶようにしている。寒さがきついほど白菜は凍るまいと糖分を蓄えて甘くなる。

 ふれあい市場のおばさんがお茶を出してくれた。「雪はないですね」「2回くらい降ったんだけどね。この冬は雪がないの」

ところが、それから天気が崩れた。4時間後、ふれあい市場から峠を二つほど超えた先、平田村の国道49号で交通事故が起き、高齢夫婦が亡くなった。濡れた路面が原因かと思ったが、テレビニュースを見る限りそうではなかった。いずれにしても、今の時期、天気が崩れると山里はあっという間に白銀の世界に変わる。

2017年1月9日月曜日

これが“イノシシの道”か

 年があらたまって初めて、夏井川渓谷の隠居へ出かけた。庭を見て驚いた。西側の一角がほじくり返されている。犯人は?
 2013年2月、市が隠居の庭の放射線量を測った。平均値が毎時0.23マイクロシーベルトを0.01上回ったために、師走、全面除染が行われた。表土がはぎとられ、山砂が投入されて、庭が砂浜のようになった。時がたつにつれて草が増えたが、まだ地面を覆いつくすほどではない。

 今はほとんどの草が枯れて黄土色になっている。そこがぐちゃぐちゃに荒らされた。これまでにも何度か、そばの土手や休耕中のうねがほじくり返されている。犯人はミミズ狙いのイノシシだ。今度もそうだろう。

 隠居は県道沿いにある。庭の南側は一段低くなった空き地で、ヨシが繁茂するため、年に2回は業者に頼んで草刈りをする。その南、敷地境界の土手の下には電力会社の私道が通っている。夏井川の対岸に水力発電所がある。発電所にはつり橋を渡っていく。

 敷地境界の土手はすっかりヤブ化した。木も茂っている。その木に2009年と11年の2月、エノキタケが発生した。以来、冬になると、じっくりヤブをながめるのだが、“再会”はまだかなわない。

 きのう(1月8日)もそうしてチェックしたら……。エノキタケの代わりに、“けもの道”に遭遇した=写真。ササダケに覆われているが、すき間を縫って下の電力の私道から簡単に上がって来られるようになっている。これだ、これが“イノシシの道”かもしれない。ハクビシンも、ノウサギもたぶん、そこを通って隠居の庭へやって来る。

 あるときは、日中、つり橋を渡ってくるタヌキを目撃した。対岸の森でよく、黒い碁石のようなイノシシの糞を見かけた。それからの連想。日が暮れると、対岸からイノシシ(親子か単独かはわからないが)がつり橋を渡ってやって来る。私道沿いにまっすぐ進んだり、ヤブを横切ってわが隠居の庭へ入り込んだり……。

 庭の下の空き地は刈られたあとにのびた草が枯れている。その枯れ草が、線状に踏み倒されているところがある。その先にあるのは庭へと通じる枕木を利用した階段。これも“イノシシの道”にちがいない。
 
 イノシシは美食家だ。地上に現れる前のタケノコを掘り起こす。ヤマイモも、ヤマユリの根も食べる。先日、わが隠居とは車で数分のところに住む友人宅のロックガーデンにあったヤマユリの根がイノシシに食べられた。
 
 トリュフ(セイヨウショウロ)も見逃さない。阿武隈の山中からその仲間が発見された。イノシシが掘った穴に残っていたのでわかった。イノシシは田畑や庭園を荒らす厄介者だが、愛菌家の間では新発見をもたらす“森先案内人”でもある。

2017年1月8日日曜日

野生の大根のようなもの

 夏井川渓谷にある隠居の庭で会津の辛み大根を“栽培”している。師走に引っこ抜いたものは、見事なほど太かった=写真。4年間“栽培”して、初めて小躍りしたくなるほどの出来栄えだった。年末から年始にかけて、大根おろしにして楽しんだ。
 5年前(2012年)の夏、知人から辛み大根の莢(さや)をもらった。中に種が眠っている。初秋、莢を割り、中から種を取りだして、隠居の菜園に点まきした。冬に収穫した。翌年は、師走に庭が全面除染され、菜園が消えた。三春ネギも含めて野菜栽培を休んだ。
 
 2014年春に野菜栽培を再開する。辛み大根の莢が残っていたので、初秋に種をまいて育てた。何株か越冬させた。それが、春に花を咲かせて実を結んだ。葉が枯れかかったころ、時期をずらして2回、莢を収穫した。
 
 おととし(2015年)はきちんと土をおこしてやわらかくし、「育てよ、育てよ」と念じて種をまいたら……。細くて長ひょろい大根になった。これでは大根おろしにもならない。土を耕したのが裏目に出た。手をかけすぎて失敗した。
 
 で、去年。採種用に越冬させた株からさやがこぼれたのだろう。月遅れ盆のあとに見ると、十数株が発芽していた。種をまく必要がなくなった。11月に入って、“初採取”した。直径5センチ、長さ15センチほどの「ずんぐりむっくり」形だ。
 
 クリスマスの日曜日、1株を引っこ抜くと、もっとずんぐりしていた。それが、冒頭の大根。今回はたまに肥料をやっただけでほったらかしにした。手抜きがよかったのだろう。大根そのものが野生の力を発揮した。

 辛み大根の莢はこぶ状になっている。爪をたてると“発泡スチロール”状の殻が裂け、中から直径1ミリ余の赤玉(種)が現れる。それを続けていると、爪が痛くなる。こぼれたさやから発芽するなら……。今年は初夏にさやごと埋めてみようか。それで月遅れ盆あたりに発芽したらもうけものだ。

2017年1月7日土曜日

山で迷う人々

 年末のいわきキノコ同好会の集まりで印象に残ったことがある。同会は年に3回、いわきの山で観察会を実施する。そのとき、予定の時間になっても集合場所に戻って来ない人がいた。集合場所からそんなに離れていないのに、迷ってパニックになった――当の本人の述懐を笑えなかった。
 総会、勉強会=写真=のあとに懇親会が開かれた。酒が入るにつれて、何人かが山で迷った話をした。いやあ、みんな迷ってるんだ――私は黙っていたが、パニックになったときのことを思い出していた。

 観察会で迷った人からじっくり話を聞いた。場所は閼伽井嶽(604.3メートル)。私も閼伽井嶽の観察会で迷ったことがある。自分のブログ(震災が起きた2011年の11月3日付「キノコ観察会」)でそのときの様子を振り返る。

 ――尾根から沢へ下りる。沢から尾根へ上がる。別の尾根へ、別の沢へとなると、よほど東西南北を頭に入れておかないと、自分の位置がわからなくなる。行きと帰りの景観がまるで違うからだ。迷ったら冷静ではいられない。

 閼伽井嶽で20分ほど迷ってしまった。道路から混交林に入り、仲間とつかず離れずしているうちはよかったが、だんだんばらばらになる。ある人は棒で木をたたき、ここにいるよというサインを送っている。ある人は声を掛け合っている。それが、途中から聞こえなくなった。たまにカケスが鳴くほかはコソリともしない。

 さて帰るか。“キノコ屋”の習性で単独行動をとり、キノコの少なさに見切りをつけて来た道を戻ったら、まるで知らないところに出た。

 あらかじめ観察場所の地図を渡されていた。それによると、北側の道路から林内に入り、尾根付近を南へ、南西へと林床をなめまわしたが、成果は少なかった。とぼとぼ“そま道”を戻る。道なりに進んだら、北東へ、途中から下って北へとなるところが、東にある頂上へ着いたのだった。地図を見て迷ったことを知った。ずいぶん逸脱していた。

 さあ、どうするか。たまたま磁石を持っていたので、地図と方位を組み合わせて歩く方角を修正する。磁石を持っていたのはほんの偶然だった。夏に骨董店で売っていたのを、軽い気持ちで買った。山に入ることがあれば方角を確認するために使いたい。初めて胸ポケットにひそませたら、たちまち役に立った。

 あとで集合場所に参加者が戻ってきた。一人がつぶやいた。「道に迷って閼伽井嶽の頂上まで行っちゃった」。同じではないか。途中で左に下りなければならないところが、道なりにまっすぐ進んでしまったのだ。北へ。それが東へ、になった。たかだか1キロ四方程度なのに、同じ尾根筋で迷ってしまう。キノコ採りの怖さをあらためて知った――。

 今はGPS(衛星利用測位システム)機能を備えたスマホなどがある。今回迷った人はGPSもケータイも使えたのに、パニックに陥って使うことを思いつかなかった。ただただそのへんを巡るだけだったという。
 
 平市街に近い石森山(224.4メートル)でも迷ったことがある。通い慣れた里山でさえ、初めての沢に出ると方位がわからなくなって、パニックになる。石森山には遊歩道が張り巡らされている。それが頭に入っていたので、とにかく沢を下りきることにした。遊歩道に出ると、ようやく方位の感覚が戻った。
 
 愛菌家は冬でも山に入る。天然のエノキタケが発生しているかもしれないからだ。あした(1月8日)は夏井川渓谷の隠居へ行って、敷地境界のやぶの木にエノキタケがでていないかチェックする。迷う心配はない。

2017年1月6日金曜日

白富士と赤富士

 おととい(1月4日)の夜、いわき地域学會の若い仲間・タケヒロ君と「いわきから見える富士山」の話になった。
「かもめの視線」で知られるいわきの空撮家酒井英治さんが大みそかに、照島上空から雪の富士山を撮影し、フェイスブックにアップした。「シェア歓迎」ということだったから、たちまち映像がSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)の世界に広がった。

 続く元日。今度はタケヒロ君がいわき市と鮫川村の境に位置する朝日山(796.9メートル)から初日の出と初日に赤く染まる富士山の撮影に成功し、やはりフェイスブックに投稿した。いわきを中心にしたSNSの世界では、大みそかと元日、いわきから見える「白富士」と「赤富士」の写真で幸せな気分になった人が多かったのではないか。

 いわき民報がきのう、1面で酒井さんの“快挙”を報じた=写真。富士山空撮のためにいろいろ準備を重ね、シミュレーションをした。朝日山の北方、三株山頂には富士山方面のライブカメラがある。大みそか、フェイスブックに書き込みがあり、ライブカメラを確かめて鮫川河川敷からモーターパラグライダーで離陸した。で、みごとに富士山をとらえた。

 タケヒロ君もまた、初日の出の時間に合わせて、ぎりぎり朝日山頂に到着するように出かけた。山頂は寒い。初日の出の待ち時間を少なくするためだった。中学生の長女も同行した。

 今ではおととし(2015年)の12月29日早朝にも、タケヒロ君は朝日山から雪化粧をした富士山を写真におさめている。そのとき聞いた話のポイント――撮影場所は三角点より東側なので、いわき市。国土地理院の電子地図でも頂上のしるしはいわき市側にある。
 
 朝日山は「富士山が見える鮫川村の山」であると同時に、「富士山が見えるいわき市の山」でもある。地元(いわきでいえば田人地区)の熱意次第で「富士山が見える田人の山」として認識されるようになるだろう。ま、鮫川村だ、いわき市だ、ではなく、その両方でいいわけだが。

2017年1月5日木曜日

日曜日は刺し身

 今年(2017年)の元日は日曜日。行きつけの魚屋さんも、地元に本社のあるスーパーも休みだ。刺し身はあきらめようと思っていたら……。
 日曜日の夜は刺し身と決めている。ところが、昨年(2016年)11月から12月にかけて、行きつけの魚屋さんの先代夫妻が相次いで亡くなった。

 閉店中に日曜日が3回めぐってきた。3回ともスーパーの「パック入り刺し身」で代用した。顔を見てからつくる「魚屋の刺し身」とはやはり違う。カツオからカツオとサンマ、さらにはタコその他へ――刺し身の中身が変わる時期の相次ぐ不幸だった。師走の後半になって営業を再開した。タコの刺し身にホッキ貝を添えてもらった=写真。

 お母さんが亡くなった直後の日曜日、予約があって仕事をしたという。たまたまシャッターが開いていたところへ刺し身を買いに行った。「マグロなら……」というのでOKしたら、カネをとらなかった。そのときの若だんなの述懐。「おふくろは痛みも感じずに普通に暮らしていられたんですよ。おやじは『当たり所』(文句をいう相手)がなくなっちゃったんじゃないですかね」

 お父さんが亡くなったあとに営業を再開したとき、若だんなの妹さんが言っていた。「2人とも手がかからずに逝きました。あの世でも夫婦でやり合っているんじゃないですかね。若い人の邪魔にならないようにと、(母親が)呼んだのでは」。ともに85歳だった。

 そうしたなかでめぐってきた元日、日曜日。刺し身はパスするしかない――そう思っていたところへ、白身魚の“サク”が届いた。長男一家が年始のあいさつに来た。もう一組の親の家(久之浜)からいろいろいただいたなかに、それがあった。夜、刺し身にして食べた。

 食べたときはよくわからなかった。が、今まで口にした白身魚の記憶をたどっているうちに、ヒラメかもしれないと思った。ヒラメは冬、タコその他の盛り合わせのなかで少し加えてもらうだけだった。こりこりした歯ざわりが記憶を呼びさました。しかし、自信はない。なんという魚か、聞いておけばよかった。
 
 いわき市の「見える化プロジェクト「魅力アップ!いわき情報局」によれば、安全が確認されて試験操業が行われている魚種は94種。ヒラメもそのなかに含まれる。市民生活のなかにいわきの海の食文化が戻りつつある。

2017年1月4日水曜日

正月はお年玉だけじゃない

 正月三が日の最終日、昼。息子一家と会食した。乱雑なままのわが家ではなく、近所にある“ゲストハウス”(故義伯父の家)で。スーパーの開店時間に合わせて生ずしを買いに行った。それがメーン。小学3年と1年の孫はすしを食べ終えると、じっとしてはいない。カミサンがそのためにいろいろ用意した。
 まず、もち焼き=写真。ふだんは全く使わない桐の手あぶり(火鉢)を出す。中には五徳(三本足がついた輪っか=鉄瓶などをかける)、灰ならし、火箸。熾(おこ)した炭を真ん中におき、五徳の上に網渡しをかけ、もちをのせたら、あとは上の孫にまかせる。

 去年(2016年)まではもちを食べる側だった。今年は食べるだけでなく、焼く仕事を覚えさせる。父親にひっくり返すタイミングを教えられ、手でやろうとして「アチチ」となった。これが大事。もちは焼くとやわらかくなるだけでなく、やけどをするほどに熱くなる。私らだって今も「アチチ」を繰り返している。私は白もちのほかに、豆もちを頼んだ。

 書き初めもした。カミサンが硯(すずり)・墨汁・筆・半紙を用意する。故義伯父はアマチュア書家だった。道具が残っている。上の孫は漢字を教えられて「酉年」、下の孫は「とりどし」と筆を走らせる。

 終われば、たこ揚げだ。私もかりだされる。風が時折吹いた。動かずに糸を操れば揚がるのに、走り回るからたこはすぐ地面をはう。途中でボール蹴りに移ったが、これには体がついていけなかった。

 仕上げは、カミサンの趣味である抹茶点(た)て。茶筅(ちゃせん)で「の」の字を書くように動かすことを教えられたに違いない。その延長で台所からしずしずと茶碗を運んできた。まず、私がもらう。親も飲む。

 昔の子どもは、正月、いろんな遊びをした。たこ揚げのほかに、家の中ではかるた・福笑い・すごろく。お年玉はもらったが、額はたいしたことがなかった。元日、年始に来たのでお年玉をあげると、下の孫がもう一人のじいじは○×円だったと、倍の金額をいう。すかさず母親が「クリスマスプレゼントをしなかったからだよ」とフォローしてくれた。

 正月はお年玉をもらうためだけにあるのではない。1年のうちで最も安らぐ三が日だからこそ、いろいろ遊びがあるんだよ。あとは大変だろ、子どもも。もち焼き・書き初め・たこ揚げなんかは文化でもある――なんてことは、もちろん孫には言わない。

 さて、きょう(1月4日)は仕事始め。私もそう。これからごみネットを出す。わが地域はきょう、「容器プラスチックの日」だが、風の心配がある。吹き飛ばされる。食べかすが残るマナー違反の容器プラはカラスに狙われる。「とり年」だからといってカラスに気を許したら泣きをみる。

2017年1月3日火曜日

「本の貸出福袋」

 いわき市の総合図書館は休みが少ないので重宝している。月末の月曜日、図書整理期間、臨時のほかは元日に休むだけ。
 総合図書館はいわき駅前のラトブに入居している。きのう(1月2日)、ラトブは初売りだった。今年(2017年)最初の返本を兼ねて本を借りに行った。

 新着図書コーナーに「本の貸出福袋」が飾られていた。カミサンが面白がって「館長おすすめNO.1 伝統と私たち」の“荷札”のついた福袋を借りた。福袋に入っているのは3冊。袋入りだから、いつものように図書館利用カードを貸出機にかざして借りる、というわけにはいかない。カウンターで手続きをとった。
 
 帰宅後、カミサンが福袋を開けたのを見てニヤリとする。3冊は①山崎祐子編『雛の吊るし飾り』(三弥井書店、2006年)②『熊川稚児鹿(しし)舞が歩んだ道 福島県双葉郡大熊町』(いわき地域学會、2015年)③高倉浩樹・滝沢克彦編『無形民俗文化財が被災するということ』(新泉社、2014年)――だった。
 
 カミサンは『雛の――』に喜んだ。編者を知っている。『熊川――』は手前みそになるので省略。<東日本大震災と宮城県沿岸部地域社会民俗誌>と副題の付いた『無形――』編著者の一人、高倉さん(東北大教授)は知人の息子だ。編著者がいわき出身・在住者という点で共通している。
 
『雛の――』は震災前に発刊された。が、山崎さんも含めて編著者は大津波と原発事故で危機に瀕した無形民俗文化財の保存・伝承に向けて調査・研究を続けた。『無形――』は初めての本なので、“又借り”をして読んでみよう。

 図書館のホームページで確かめたら、「本の貸出福袋」は去年(2016年)も実施している。去年は“借り初め”が遅れたのか気づかなかった。休館中の常磐を除く小名浜など4地区図書館は年末年始休が明ける4日から実施されるという。思いもよらなかった本に出合える企画だ。

2017年1月2日月曜日

紅白イエモン

 大みそかの夜はなんとなくNHKの紅白歌合戦を見て過ごす。どんな歌手が出演するのかはあまりよくわからない。新聞、ファンのフェイスブック、当のNHKの情報でピンポイント的に知るだけだ。
 ハーフタイムにピコ太郎が出た。「あさイチ」で出演を知った。が、このグループはNHKの直前番組を見るまでわからなかった。イエローモンキー、復活していたのか!

 去年(2016年)12月30日の朝日新聞に、SMAPへの感謝と惜別をこめた意見広告が載った。なんと全8ページ。しかも、朝日新聞社のクラウドファンディングサイトを活用したものだという。自社の新聞に広告を載せるためのファン動員だったか――そんなことをちらりと思ったが、もちろん“真相”は別のところにあるのだろう。

 次の日、また朝日に同じようなスタイルの文字広告が載った=写真。読んでいるうちに、ん?となった。イエモンの曲「JAM」の歌詞だった。「外国で飛行機が墜(お)ちました ニュースキャスターは嬉しそうに『乗客に日本人はいませんでした』『いませんでした』『いませんでした』……」。「JAM」はしかし、本筋は「君に逢いたくて君に逢いたくて」にある。井上陽水の「傘がない」に共通する愛の歌だ。
 
 全面広告を見たときにはわからなかったが、直前番組を見て合点がいった。広告を読み返すと、だんだん大きくなった歌詞の文字のあとに極小文字で「今晩JAM歌います。……」とある。紅白出演を告げる広告だった。
 
 ざっと20年前、長男からエンヤや佐野元春、イエモンらを教えられた。いくつかカセットテープを譲り受けて、車の中で聴き続けた。

「JAM」がぐさっときた。ニュースを発信する側に身を置いていたので、「乗客に日本人はいませんでした」には複雑な思いを抱いた。国内外を問わずなにかあったとき、肉親・友人・知人の安否が気になる。「日本人はいませんでした」はそういう人たちに安心を提供する。一方で、いのちの普遍性という視点からは「日本人が無事ならいいのか」という反応も生まれる。

 報道はどこでも、いつでも自国(ナショナルメディア)・自県(ローカルメディア)・自地域(コミュニティメディア)の視点で展開される。「日本人はいませんでした」には、メディアの特性と限界が示されている。
 
 飛行機事故だけではない。船舶・列車・バス事故、そしてテロ事件。きのう(1月1日)未明(日本では朝)、トルコのナイトクラブで銃乱射事件が起きた。時事通信は「日本領事館によると、これまでのところ日本人が巻き込まれたという情報は入っていない」と報じた。だれかの安心のためには、こういう情報が欠かせないと思いつつ、やはりなんとなく釈然としないものが残った。

2017年1月1日日曜日

とり年スタート

 今でも「あのとき、なんで写真を撮れなかったのだろう」と、少しの悔しさとともに思いだすことがある。キビタキ、雄。きれいだった。
 息子たちがまだ小学生のとき、日曜日になると夜明けにおこして平の里山(石森山)へ連れ出した。子どもには迷惑だったかもしれない。
 
 初夏。ちょうど愛鳥週間が始まったころ。キビタキの雄がさえずっていた。「オーシツクツク ポーピーピッコロ」。森の中に張り巡らされている遊歩道のひとつ、沢から尾根へ出たとき、1.5メートルほどの先の木の枝に、さえずり主がいた。
 
 出合い頭だった。鳥もびっくりしたろうが、こちらもびっくりした。スズメほどの小ささなのに、色彩は歌舞伎役者並みに派手だ。黒・黄・白・橙。カメラを肩にかけていたのに……。「あのとき、写真を撮ってたらねぇ」と、ときどき息子に言われた。
 
 その息子が結婚して、2人の父親になった。石森山をフィールドに子どもを連れていく。親・子・孫三代の石森山通いだ。キビタキの写真を撮ってくれないものか――。
 
 キビタキの雄だけではない。姿を見たい鳥がいくつかある。身近なところでは、夏に渡ってくるカッコウ。夏井川の河川敷で営巣するオオヨシキリの巣を狙って、「カッコー、カッコー」とやっていたものだが、今は全く聞かれない。夏、河口近くで群飛していたコアジサシも姿を消した。
 
 いわきで新聞記者になり、結婚して子どもが生まれた。ここで根を生やすと決めたとき、アフターファイブはいわきの自然を知ることに使おう、でないと記事が薄っぺらいものになる――そう考えて、まず始めたのがバードウオッチングだった。鳥から花へ、そのかたわらのキノコへ、野菜栽培へ。私にとっては「いわきという書物」を読む原点が野鳥観察だった。

 とり年がスタートした。で、なにか野鳥の“撮っておき”の写真をと思ったが……。やはりハクチョウしかない=写真。今年もよろしくお願いします。