2018年5月31日木曜日

トカゲ?カナヘビ?

 低気密・低断熱の「昭和の家」だから、暑くなりそうな日には朝から戸も窓も開ける。先日も書いたが、「小さな訪問者」が後を絶たない。きのう(5月30日)の昼間は曇天。茶の間のガラス戸は閉めていたのだが……。部屋にニホントカゲが現れた=写真。どこから入り込んだのだろう。
 写真を撮ってパソコンに取り込み、拡大したら、舌を出している。ピンクだ。カナヘビの舌は黒っぽくて、蛇のように裂けているという。すると、トカゲ?

 9年前には、茶の間ではなく、店(米屋)の一角にカナヘビが現れた。拙ブログにこうある。
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「トカゲの飾りの上にトカゲがいる」「???」。カミサンの話がよく分からない。導かれるままに行くと、地域図書館(かべや文庫)として開放している部屋の、ディスプレー(元は透かし欄間)の先端にカナチョロ(ニホンカナヘビ)が鎮座していた。すぐ下には布でできたトカゲのストラップがつるしてある。

 ストラップのトカゲに引かれたかどうかは分からない。が、地上最小クラスのトカゲもどきが部屋に入って来て、ディスプレーの欄間に駆け上がった。駆け上がったのはいいが、行き場を失って動きが取れないでいた。そんな風情である。レジ袋を広げるとポトリと入ったので、縁側から庭へ放してやった。
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 カナヘビかトカゲかはいつも迷う。そのときそのときのピンポイント的な特徴で、カナヘビだ、トカゲだ、といっているにすぎない。今回はピンクの舌で判断した。

 開放系の部屋のために、ハエも蚊も現れる。アリが迷い込むこともある。トカゲないしカナヘビがこれらを口にしてくれるなら、それはそれでありがたい。でも、嫌がる人はいるだろうな――。ひとまず、トカゲが現れて、まだ茶の間にいるかもしれないことを、カミサンに伝えた。

2018年5月30日水曜日

防災研修会

 日曜日(5月27日)午前、いわき市消防本部で平地区の自主防災会リーダー研修会が開かれた。資料とともに乾パンの缶詰と2リットルの飲料水入りペットボトルが配られた。会場には防災グッズが展示されていた=写真。飲料水の賞味期限は5年。今年(2018年)の8月までだった。有効な処分方法ではあるかもしれない。
 大災害が発生した直後には、消防・警察の「公助」は期待できない。阪神・淡路大震災を経験して、「自助」(自分のいのちを守る)、そして「共助」の必要性が叫ばれるようになった。住民による自主防災会も急増した。

 4年前にも研修会に参加した。東日本大震災を経験して以来、研修会は“義務参加”ではなく、防災知識と技術を身につけるいい機会――そんな意識に変わった。防災ビデオを見たあと、火災実験体験、救助・応急訓練が行われた。竹の棒と毛布、シャツの袖を通して担架にする方法や、物の下敷きになった人を助けるときの心構えなどをおさらいした。

 3年前、防災士の資格を取るのに、提供された教本で勉強した。それを座卓のそばに置いてある。研修会から戻ってパラパラやった。「止血時の手当て」を確かめた。研修会では、出血個所を布で押さえて強く圧迫する「直接圧迫止血法」を実施するように、とアドバイスされた。教本にもそうあった。

 骨折の応急措置には感心した。骨折固定法として身近にある新聞・雑誌・傘などを利用する。レジ袋も三角巾になる。

応急手当ては進化する、自助力・共助力は「そこにあるもの」を応用することでアップする――そんなことを再認識する研修会になった。

119番を受信する通信指令センターも見た。119番がかかってきたが、緊急車両が出動するまでには至らなかった。間違いか、子どものいたずらだった?

2018年5月29日火曜日

住宅団地とズリ山と梨畑

 吉野せいの作品集『洟をたらした神』に収められている「水石山」は、なかなか調べがいのある作品だ。文末に記されている「昭和三十年秋のこと」、つまりいわき市が合併する11年前、高度経済成長が始まる直前の光景が描かれる。
「村を横ぎり、鬼越峠の切り割りを越えて隣町に出たが、いつか見た高台の広い梨畑地区は住宅団地に切りかえられはじめて、赫(あか)い山肌が痛ましくむき出していた」

「鬼越峠」は北の好間村(当時)と南の内郷市(同)をつなぐ丘の切り通し。阿武隈高地から東へ指状に延びる丘陵の一角をカットして(いつの時代かはわからないが)、好間と内郷との往来を容易にした。丘の東方には戦国大名・岩城氏がよりどころとしていた好間・大館が、近世に入るとさらに指状の丘の先端に磐城平城が構築される。

 峠というほどのものではないが、鬼越を過ぎて「隣町」の内郷へ出ると、左手は平の街と水田地帯。右手にむき出しの「赭い山肌」が見えたのだろう。そこはのちの高坂団地だったか。

「いわき市内郷高坂町は、かつては常磐炭鉱のズリ山となっていた場所で、ズリ山を崩して住宅団地が造成された」。震災後の温泉噴出を調査した論考のなかに出てくる。それは分かるのだが、すべてがズリ山だったわけではない。

 きのう(5月28日)、いわき市内郷支所で「内郷学講座運営委員会」が開かれた。委員になっているので参加した。
 
 かつての支所長室の前に、昭和36(1961)年秋の内郷市街を空撮した大型写真パネルが飾られている=写真。高坂団地(東に「現・高坂一丁目」、西に「現・高坂二丁目」のラベルが張ってある)が開発される前の写真のようだが、書きこまれた道路網がすごい。
 
 昔を知る地元の委員に尋ねたら、ズリ山を切り崩して住宅団地にしたのは高坂二丁目らしい。写真には南北に伸びたズリ山が映っている。西側は白っぽく輝き、東側にうっすら影ができているのでわかる。一丁目の方は木々が茂っている。せいのいう「梨畑地区」はこちらか。
 
 この空撮写真とせいの文章を重ね合わせて思ったことだが――。『洟をたらした神』の世界を調べれば調べるほど、せいの文章の正確さが浮き彫りになる。その正確さはどこからきているのか。記憶だけでは、そうはいかない。自分の記録だけでもそうはならない。書くために“調べ”もしたのではないか。もしかしたら協力者がいた?

2018年5月28日月曜日

ここに暮鳥が住んでいた

 詩人山村暮鳥こと、日本聖公会牧師土田(旧姓志村)八九十(はくじゅう=1884~1924年)が、常陸太田講義所から平講義所に着任したのは大正元(1912)年秋。
 平講義所は明治36(1903)年、今のいわき市平・紺屋町に開設された。2年後には新田町(しんたまち)に移転し、同39年2月の「平大火」で被災する。講義所のすぐ近くが火元だった。
 
 暮鳥は赴任後、結婚する。講義所はあまりにも狭い。丘のふもとの平・才槌小路に家を借りて教会兼住まいにした。西隣は弁護士の新田目(あらため)善次郎宅。斜め向かい、坂道の角は清光堂書店才槌小路分店。この分店で生涯の友となる吉野義也(三野混沌)と出会う。暮鳥、混沌、清光堂書店、新田目家。いずれも興味の尽きない対象だ。
 
 東日本大震災後の2013年1月、坂道を通ったら暮鳥の住んでいたところが更地になっていた。そこに最近、レストランがオープンした=写真。きのう(5月27日)、カミサンがいうのでランチを食べに行った。ここに暮鳥が住んでいた。彼はこうして隣の家を、坂道を眺めていたのか――そんな感慨がよぎった。
 
 大正4年のあるとき。新田目家から煙が上がる。暮鳥は新聞(いはらき新聞?)の連載エッセーにこう書いた(文中に出てくる「玲子」は生まれて1年にも満たない長女。玲子は母親と一緒に水戸の祖父母の家へ「うまれて初めての旅」をした。娘にあてた手紙の形式をとる)。

「火事だ、火事だ。/びっくりして飛び出す。お隣りの弁護士の新田目さんの二階が、けむりをもかもか吐きだしてゐる。火事だあああ。火事だああ。/玲子。/(中略)昼日中、二時ごろのこととておもては見物のくろ山。そのなかでかはいさうに松子ちゃんも竹子ちゃんもとし子さんもそのとし子ちゃんをおんぶして傳(ねえや)さんも、泣いてゐる」

 隣家の長女「松子ちゃん」はこのとき9歳。彼女たちはのちに、いずれも波乱に満ちた人生を送る。私家版『書簡集 人間にほふ――新田目家の1920~30年代』を編集した平田良氏はまえがきに、次のように書く。

「大正デモクラシーから昭和ファシズムのドン底へと向う不幸な時代の新田目家の人々」は、善次郎の義理の甥・鈴木安蔵(のちのマルクス法学・憲法学者、護憲運動のリーダー)、つまりいとこの強い影響を受けて「直寿、マツ、竹子、俊子の四兄妹が相次いで夫夫(それぞれ)の夫や妻ともども社会主義運動に参加し、否応なしに全家族が苦難を味わねばならなかった」
 
 暮鳥の視点を加えると、暮鳥自身の、隣家の人々の“光跡”がさらに陰影を伴って見える。

2018年5月27日日曜日

川崎巡回文庫

 今から95年前の大正12(1923)年11月、「いはらき新聞」平支局の川崎文治記者が28歳で独立し、「常磐毎日新聞」を創刊する。川崎は平生まれ、中央大中退で、作家巌谷小波に師事して童話を書いた。日本児童文学大事典にも載る。いはらき新聞平支局時代には詩人山村暮鳥と交流があった。
 創刊から間もない11月8日付(7日夕刊として配達)の常磐毎日新聞に「川崎巡回文庫」の社告が掲載された=写真。新聞購読とは別に、月1円で新刊雑誌5冊が読めますよ、回し読みの会員になりませんか。1カ月遅れの諸雑誌は5~6割引きで分譲します――という呼びかけだ。それから7年後の昭和5年、元商家の家庭に川崎巡回文庫が根づいていたことを知る。

 吉野せいの作品集『洟をたらした神』の注釈づくりと、本町通りを中心とした平の“まち物語”掘り起こしを兼ねて、いろいろ資料をあさっている。

 情報の宝庫は電子化された明治40年~昭和53年の地域紙だが、このごろは山崎祐子著『明治・大正 商家の暮らし』(岩田書院、1999年)も手放せない。平でも有数の豪商・塩屋の分家、「塩屋呉服店」(大正15年廃業)の年中行事を中心に、廃業後の暮らしを伝える「キンの金銭出納簿」などが収められている。

 キンは著者の祖母の祖母だ。出納簿がつけられたのは昭和4~6年。本には同5年の記録が載る。この記録と同年の常磐毎日新聞を照合すると、1行1行がいろいろ意味を持って立ち上がってくる。ここでは川崎巡回文庫と新聞だけにしぼって紹介する。
 
 1月29日、「三十銭 夕カン川崎渡し(夕刊)」。翌30日、「一円 主婦之友川崎払」。「川崎」は川崎巡回文庫のことと著者の解説にあるが、それだけではない。常磐毎日新聞のことでもある。
 
 29日の30銭は「夕刊」常磐毎日の購読料、30日の1円(別の月には80銭)は川崎巡回文庫の月ごとの会費と思われる。「主婦之友」は月刊誌。昭和6年で定価50銭だから、買い取り値段ではない。5種類の雑誌のひとつをたまたま記したか。この二つはほぼ毎月出てくる。たとえば、3月31日には「一円一〇銭 川崎三月分払」と合算されて。

 常磐毎日新聞の公式の料金は月50銭だ。1面の題字下にうたっている。それが、30銭なのはなぜか、巡回文庫会員の特典なのか。その巡回文庫の会費も1円だったり80銭だったりするのは、希望する雑誌が5冊ではなく4冊になったりするときがあるからか。
 
 ほかには、2月27日に都新聞(のちの東京新聞)の購読料1円20銭の記載がある。地域紙、東京紙のほかに、巡回文庫で届く回覧の雑誌で情報を更新する。当主に先立たれて廃業した家とはいえ、経済的に問題はなく、日々の暮らしを豊かに楽しんでいる様子がうかがえる。古新聞はこうして、当時の世相を、家庭の様子を伝える鏡にもなる。

2018年5月26日土曜日

わが家の小さな訪問者

 5月も残すところあとわずか。この時期になると、決まって草野心平の「五月」という短詩を思い出す。
「すこし落着いてくれよ五月。/ぼうっと人がたたずむように少し休んでくれよ五月。/(略)五月は樹木や花たちの溢れるとき。/小鳥たちの恋愛のとき。/雨とうっそうの夏になるまえのひととき五月よ。/落着き休み。/まんべんなく黒子(ほくろ)も足裏も見せてくれよ五月。」
 
 今年(2018年)の5月は、「雨とうっそうの夏」の前なのに、暑い夏になったり寒い春になったりと、気温の変動が大きい。そのためか、「5月20日」には蚊のチクリを注意していたが、姿を見せただけで終わった。おととい(5月24日)午前、暑いので茶の間のガラス戸を開け放して座業をしていると、手や額にかゆみを覚えた。今年初めて蚊に刺されたことを知る。

 わが家で蚊に刺された最初の日と最後の日を記録している。最初の日は5月20日前後。最後の日は、そういえばあの日が最後だった――程度だが、10月20日前後だ。2年前、これが1週間伸びて10月27日になった。今年の“初刺され”は、“定点観測”からいうと4日も遅い。夕方、蚊取り線香をたいた。これも、今年初めてだ。
 
 心平の詩、蚊の出現、だけではない。5月になって庭のイボタノキ(と思われる)の花が咲くと、アオスジアゲハが現れる=写真(9年前のきょう、2009年5月26日撮影)。それもまた気になる5月のいきものだ。
 
 今年は5月11日に現れた。イボタノキの花はまだで、庭のへりに咲き乱れているマーガレット(と思っていたが、フランスギク?)の花から吸蜜していた。南方起源の蝶だ、昔は東北南部が北限らしかったが、地球温暖化が進んで北上しているという。

 この時期はまた、朝、歯を磨きながら地面から生え出たヤブガラシの芽を摘む。根茎で増えるから“対症療法”でしかないが、小さなわが家の庭にはなくていい植物だ。ほんとうは外科手術(根こそぎ除去)が必要なのだろう。主に隣地との境に芽を出す。もう半月以上“芽むしり”をしているが、いっこうに収まらない。

2018年5月25日金曜日

戸渡のシラカバ

 5月初め、田村市常葉町の実家へ行くのに阿武隈高地を縦断する国道399号を利用した。
 いわき市小川町から双葉郡川内村へ抜けるあたりがなかなかやっかいだ。標高700メートルほどの十文字まで右に左に曲がりながら駆け上ったあとは、小盆地に向かってまた右に左に曲がりながら下る。すり鉢の底が小川の中戸渡(とわだ)地区。そこでも標高は500メートルある。旧戸渡分校の建物が残っている。

 旧分校の校庭には、皇太子殿下(現天皇陛下)から贈られたメタセコイアが3本。そして、分校と道路をはさんだ南側には、シラカバが少し間隔を置いて2本と4本=写真。なぜそこにシラカバが?

 平地の街や郊外と海抜の高い山里では、生息する動植物に異同がある。シラカバはいわきの平地にはない。奥山ではどうか。三和町の芝山(標高819メートル)の頂上近くにシラカバ林がある。天然林かどうか、私はわからない。

 故奈良俊彦著『阿武隈のきのこ』(阿武隈の森に親しむ会、2008年?)には、場所は明かされていないが北方系のベニテングタケの写真が載っている。

 シラカバなどカンバ類の樹木と共生するキノコだが、それらの樹木が自生していない阿武隈では見つけることが不可能だろう――と奈良さんは思っていた。ところが、「偶然にも憧れのベニテングタケが目の前に現われたものであるから、大感激をしてしまった」。周囲をよく見たら、シラカバが十数本植えられていたという。ならば、戸渡のそこにベニテングタケが発生しても不思議ではない。

 欧米では、毒キノコなのにキノコの代表みたいに愛されている。絵本やグッズによく登場する。一度はこの目で確かめたい幻のキノコだ。

 おととし(2016年)の8月、サハリン(樺太)を旅した。東海岸の道路沿いにはシラカバが生えていた。ベニテングタケが出そうだな――車で移動しながら思った。いつかは戸渡でベニテングタケの写真を撮りたいものだ。

2018年5月24日木曜日

昭和8年のヨーヨー広告

 このところ、図書館のホームページを開いて戦前の地域紙・常磐毎日新聞を読んでいる。昭和8(1933)年3月26日付の1面にヨーヨーの広告が載っていた=写真。
 地元・平町(現いわき市平)の「佐藤挽物製作所」がつくって、特約玩具店を通じて売り出した。「御待兼(おまちかね)の世界的流行玩具の王様 ヨーヨー が出来ました 各特約店にてお求め下さい」「安値 一個五銭 十銭 ニ十銭」「當工場製品にはヨーヨーの遊び方説明書進呈します」とある。

「世界的流行」はともかく、昭和8年には国内でヨーヨーが大流行する。平でつくられたヨーヨーは3種類。食べ物でいえば、「特上・上・並」といったところか。

 吉野せいの作品「洟をたらした神」は、昭和5年夏、数え年6歳の「ノボル」が「小松の中枝」にできたこぶを利用してヨーヨーをつくる話だ。そのころのヨーヨーの値段は「二銭」。アニメ映画『この世界の片隅に』には、同8年、「ヨーヨーは十銭……」という話が出てくる。

 2銭は昭和恐慌(昭和5~6年)=デフレ不況の影響かと考えたが、「特上・上・並」の「並」というとらえ方も必要のようだ。

 で、今度「もしや」と思ったのは、伝説のこけし工人・佐藤誠と佐藤挽物製作所の関係だ。製作所を経営していたのは彼ではなかったか。
 
 彼の長男、故光良さんは小説を書いた。次男誠孝さんは子どもたちとともにこけしづくりを継承している。久しぶりに光良さんの作品集『父のこけし』(七月堂、1978年)を読み返した。
 
 それによると、誠は伊達郡五十沢村(現伊達市)の生まれで、宮城県白石市で弥治郎系こけし工人の修業をしたあと、平で独立・開業した。
 
「やがて工場が軌道にのるにつれて、父はこけしから離れていく。工人から経営者に変わっていった」。それが、太平洋戦争が始まると「玩具製造を中止させられた。木馬、歩行器、木製の汽車などを作っていた工場は、かわりに日本陸海軍の指定工場とされて、軍属の監視のもとで軍需品の製造にあたるようになる」

 工人から経営者になった、玩具を製造していた、という流れからみても、ヨーヨーをつくって販売した佐藤挽物製作所は誠が社長だったのではないか。このころが、数奇な人生を生きたこけし工人の、最も幸せな時期だったのではないか――古新聞を介して、またひとつ宿題が生まれた。

2018年5月23日水曜日

「5月の乙女」

 平市街の西方に阿武隈の山が連なる。南端は湯の岳。山肌の黒っぽい緑は針葉樹。杉林だ。周りの淡い色は落葉樹。つまり、本来の天然林。こちらは芽吹きの時期を過ぎて、青葉に変わった。この緑の濃淡がおもしろい。
 
「あそこに『5月の乙女』がいる」といったら、カミサンはけげんな顔をした。「どこに? あれが?」
 
 何年か前、若い仲間が教えてくれた。「人のかたちに見えませんか」。見える。湯の岳の東側斜面。杉林の黒い緑が、それをとりまく落葉樹の淡い緑のなかで、横を向いて座っている乙女に見えた。以来、街への行き帰り、国道399号(旧6号)の平大橋を渡りながら、この乙女を眺める=写真(橋上灯と橋上灯の間に見えませんか)。
 
 乙女と決めてからは、老婆でも母親でもない、ましてや少年でもない――というわけで、「1月の乙女」に始まって「12月の乙女」まで、月ごとに呼び名を替える。で、今は「5月の乙女」だ。
 
 わが家(米屋)に、定期的に訪れる静岡県のルートセールスマンがいる。カミサンが注文した商品とともに、季節の便りが届く。「富士山に春の訪れを告げる『農鳥(のうとり)』が出現したそうです。残雪が鳥のように見え、地元では田植えや農作業を始める目安とされているそうです」

 福島市の吾妻山の「雪うさぎ」は有名だが、富士山の「農鳥」はどんなかたち? ネットで検索したら、ツイッターの右向きの小鳥を左向きにしたような感じだった。レ点に近い写真もあった。今年(2018年)は5月11日、地元の富士吉田市が出現を発表した。
 
 いわきの山は、雪が積もっても数日で消える。残雪が鳥になったりうさぎになったりすることはない。「農鳥」に刺激されて、「種まきうさぎ」でもなんでもないが、「5月の乙女」を思い出した。
 
「5月の乙女」の山陰には、元同業他社の知人が住んでいた。10年前、いわきで勤務を終え、そのまま定住して「農の人」になった。私も会社を辞めたばかりだったので、情報交換を兼ねて夫婦で訪ねたことがある。その後、闘病生活に入ったことを風の便りで知った。その彼がゴールデンウイークの直前に亡くなった。

同い年で、私は週末だけの、彼は日々の山里暮らし。私はキノコ全般を、彼は冬虫夏草を――と、似たような志向をもっていた。冬虫夏草と虫カビは違うことを教えられたのが、その後のキノコ観察に大いに役立った

2018年5月22日火曜日

「磐城平城・六間門の戦い」

 いわきでは「戊辰戦争150年」を振り返る市民講座がめじろ押しだ。
 講師の一人がいわき地域学會の夏井芳徳副代表幹事。小説で福島県文学賞正賞を受賞した文学的資質を生かして、戦いを「人間のドラマ」のレベルでわかりやすく読み解くので人気がある。
 
 いわき地域学會の今年度(2018年度)最初の市民講座が土曜日(5月19日)に開かれた=写真。夏井副代表幹事が、『磐城平藩戊辰戦争日録』(『いわき市史 第9巻 近世資料』)『外城番兵一番隊戦状』(『薩藩出軍戦状』)などの史料に基づいて、戊辰戦争で平城が落城する直前の、旧暦7月13日の「磐城平城・六間門の戦い」を解説した。およそ95人が受講した。
 
 東軍・西軍が各所で一進一退の戦いを繰り広げる。その戦いのひとつが、城の西方、好間の「枡形(ますがた)門」~久保町~八幡小路と、大手門(高麗橋=幽霊橋)をはさんだ六間門の攻防だ。

 カミサンは八幡小路や城のある台地のふもと・久保町で生まれ育った。曾祖母から聞かされた戊辰戦争の話をたまにする。あたり一帯が戦場になった。先祖は「ちょうどお昼ご飯が焚きあがったばかりで、釜を抱いて平窪の方へ避難した」そうだ。
 
 曾祖母は慶応3(1867)年生まれ。赤ん坊だったから、あとで親から「御一新」のときの戦争の様子を聞かされたわけだ。

「柳川藩の一手、大手、六間門に先登し、久保町より攻め込める一手と合し、八幡社前に大砲を控え、砲発、頻(しき)りなりしも……」(『磐城平藩戊辰戦争日録』)

あるいは「神谷外記、久保町枡形御門へ隊長にて出張致し、(中略)長橋より向新町、御厩村の辺(あたり)迄、平一面、敵、雲霞(うんか)の如く攻寄候……」(『神谷外記書き上げ』)

といった状況では、庶民は避難するしかない。この講座で「ひいばあさんの話」の背景がよくわかった。

2018年5月21日月曜日

ネギ苗を植える

 きのう(5月20日)は、夏井川渓谷にある隠居の庭の菜園で三春ネギの苗を定植した=写真。溝を切る・苗をばらす・選別して定植する――となると、けっこう腰にくる。で、溝は1週間前に切っておいた。これがよかった。かがんで動くだけの“軽作業”ですんだ。
 畳半分くらいの苗床をつくって種を筋まきにしたのが、昨年(2017年)10月8日。芽生えは順調だったが、モグラが地面を盛り上げたり、覆土が十分でなかったりして、根づいたのは5分の1くらいだった。間引きをする手間が省けたものの、歩留まりとしては最悪に近い。

 厳冬に耐えた苗は春になるとグングン生長する。4月後半には、太さがボールペン大、丈が40センチにもなった。例年、ゴールデンウイークの後半に定植するが、今年は育ち具合を見て半月ほど遅らせた。

 苗床にスコップを入れて苗をばらす。太いのは人間の小指大まで生長していた。しかし、未熟苗も多い。定植した苗の本数を数えたら80本ほどだった。例年の半分以下だ。
 
 未熟苗は捨てるしかない。が、ここ2、3年は家に持ち帰り、“芽ネギ”として食べている。

 まずは汁の実に。次は卵焼き。納豆にもまぜる。香りも味も薄い。それでも、「自分で育てた」ので、食べきるという思いが強い。汚れを落とし、枯れたところを切って(さらにはひげ根をカットし、刻むところまでやって)、カミサンにあずける。

 原発事故が起きたときには、家庭菜園を断念しないといけないのか、と悩み、怒ったものだ。種を絶やしたらそれまで。永遠に「次」がない。なにがなんでも三春ネギの種だけは残す、と決めた。

 採種から次の採種までは足かけ3年がかり。種を冷蔵庫で保存し、秋にまき、越冬して生長した初夏に定植し、採種用に残したもの以外は秋・冬に収穫する。このサイクルが守られている限り、種は大丈夫。
 
 しかし、ここにきて、「新品種は自家採種ができない」とかなんとか、「種子法」廃止の影響がいろいろ言われるようになった。勉強せねば――。

2018年5月20日日曜日

雨の中の花火

 もう5月の下旬。未明の4時過ぎに目が覚めると、部屋がうっすら明るくなっている。二度寝をせずに、そのまま起きることがある。前夜、ほろ酔い気分で打ち込んだブログの文章を“清書”してアップする。これが、一日の最初の“仕事”。
 
 夕刊の地域紙でメシを食ってきた。朝刊の県紙・全国紙と違って、一人何役も、の世界。コラムも担当した。会社を辞めて「締め切り」から解放されたときにはホッとした。ところが、2カ月を過ぎたあたりから落ち着かなくなった。
 
 そのころ、若い仲間が「ブログ」というものがあることを教えてくれた。こうやれば発信できる――と、ノートパソコンをいじってセットしてくれた。以来10年余、一日に一回だけ「締め切りのある生活」を続けている。

 それもあってか、早朝の天気には敏感になった。きのう(5月19日)も4時半に起きた。曇天だった。5時を過ぎると、雨が降ったりやんだりに。6時半ごろには、雨の中で花火が鳴った。そのあとも、遠くから花火の音が聞こえた。
 
 先週の土曜日(5月12日)は、地元の平六小で、隣の学区の草野小で運動会が行われた。6時に開催を知らせる花火が打ち上げられた。きのうの花火も、「今は雨が降っているが、間もなくやむから、予定通り運動会を開催する」という合図だった。とはいえ、雨がやんで晴れるまでには少々時間がかかったはず。学校の先生も保護者も気をもんだことだろう。
 
 運動会の“花”は、プログラムの最後を飾る紅白リレー=写真。下の孫が出るというので、先週、見に行った。小学校時代を思い出した。学生時代には1600メートルリレーのメンバーだった。それから何十年もたつが、リレーを見るとやはり興奮する。

 きのう、運動会を実施した学校の児童・保護者も、リレーには大声援を送ったにちがいない。胸の中も「雨のち晴れ」のいい一日になったことだろう。

2018年5月19日土曜日

ホトトギスの初音を聞く

 2週間前(5月6日)に夏井川渓谷でジュウイチの初音を聞いた。それに刺激されて拙ブログにこう書いた。
                  *
 日本へ渡って来るカッコウの仲間は4種。鳴き声を聞く限りでは、ツツドリ・ジュウイチ・カッコウ・ホトトギスの順に到着する。カッコウは、わが生活圏ではもう幻の鳥になった。
 
 ホトトギスは山にも平地にも現れる。夜も鳴く。幼いとき、その鳴き声を聞きながら、祖母が寝物語に怖い話を語ってきかせた。

 昔、きょうだいがいて、食べもののことで口論になった。食べていないのに「食べたべ」と弟から邪推された兄が、身の潔白のために腹を裂いて死んだ。弟は自分の誤りを悔い、悲しみ、ホトトギスになって「ポットオッツァケタ」=ポッと(腹が)おっつぁけた=と鳴き続けているのだという。
                  *
 その後、腹を裂いて死んだのは兄かどうか、気になって家にあるはずの昔話集を探したが、見つからない。
 
 先週の土曜日(5月12日)、平のマチで「一箱古本市」が開かれた。カミサンが行きたいというので、アッシー役のついでにのぞくと、若い仲間が経営する古本屋が出店していた=写真。日本昔話記録3・柳田国男編/岩崎敏夫採録『福島県磐城地方昔話集』(三省堂)があって、ホトトギスの「弟恋し」が載っていた。
 
 昭和48年発行だが、もとは昭和17年(「付記」には同18年とあるが間違いだろう)に刊行された。復刊本だ。500円なので買った。「弟恋し」は双葉郡富岡町の60代女性から採録した。
 
 ――あるところに兄弟がいた。兄は仕事に出かけ、弟は山へ行って芋を掘って暮らしていた。兄思いの弟は、芋のおいしいところを兄に食べさせ、自分は芋の端っこばかり食べていた。ところが、腹黒い兄は、弟が自分よりもっとうまいところを食べているのだろうと邪推して弟を殺し、腹を裂く。中から出てきたものは芋の皮や“しっぺた”(端っこ)ばかりだった。

 兄は悔い悲しんで、ホトトギスになった。春から夏になると、それで「弟恋し弟恋し」と鳴く――。
 
「補註」を読んで、兄弟が姉妹だったり、腹黒いのは弟だったりと、話はバリエーションに富むことを知る。食べ物も食べ方も地域によって異なる。ということは、私の記憶も間違いとはいえない。
 
 それだけではない。補註にこうあった。「鳴き方も、『おとと恋し。』の他に、(略)『ぽっとおっつぁげた。』、『ほんぞんかけたか。』とか、『おとのどつきたおとのどつきた。』と鳴く。(略)そして山芋の蔓(つる)の出るころ鳴くのである」。「ポットオッツァケタ」のケは濁音のゲだったか。
 
 台所に置いてあったトロロイモ(山芋と同類)が芽を出し、蔓状になったので、夏井川渓谷の隠居の庭に植えた。その話を、さきおととい(5月16日)書いた。きのう(5月18日)、夏井川の堤防でホトトギスの初音を聞いた。山芋の芽がのびるとホトトギスがやって来て鳴く、というのはほんとうだった。

2018年5月18日金曜日

「ばっぱの家」の跡の今

 山の中に「ばっぱの家」があった。半世紀ほど前に家が解体され、跡地に杉苗が植えられた。今は放置された小さな杉林にすぎない=写真。
 
 5年前(2013年)のゴールデンウイークに、実家へ帰る途中、「ばっぱの家」の跡を訪ねた。林の後ろの道のそばに黒いフレコンバッグが仮置きされていた。沢の向かいの家では除染作業の真っ最中だった。今年(2018年)、またゴールデンウイークに寄ってみた。フレコンバッグは消えていた。
 
 そこは、阿武隈高地の中央部、田村市常葉町と都路町にまたがる鎌倉岳(967メートル)の南東山麓。国道288号からは200メートルほど奥まったところにある隠居だ。
 
 母の両親が住んでいた。祖父の記憶はしかし、病んで寝ている姿しかない。小学校の春・夏・冬休みになると、常葉町からバスで出かけた。祖父は間もなく死んだから、祖母にくっついていろいろ動き回った。で、どうしてもそこは「ばっぱの家」になってしまう。

 かやぶきの一軒家で、夜はいろりのそばにランプがつるされた。向かい山からはキツネの鳴き声。庭にある外風呂にはちょうちんをかざして入った。寝床にはあんどん。家のわきには池があった。三角の樋から沢水がとぎれることなく注いでいた。3、4歳のころ、囲炉裏から立ち上がった瞬間にほどけていた浴衣のひもを踏んで転び、左手をやけどしたこともある。

 今風にいえば、毎日がキャンドルナイトでスローライフ。いいことも悪いことも含めて、黄金のような記憶が詰まっている場所だ。

 祖母がふもとの別の集落にある息子の家に移ってからは、隠居の下の段々畑が田んぼに替わった。今はどうか。今年見たら、5月だというのに放置状態だった。過疎・高齢化が進んでいるところへ、原発事故が追い打ちをかけた。杉林も田んぼもこのまま荒れて寂しい自然に帰るだけなのだろうか。
 
 そうだとしても、生きている限りは崩れ、滅びる「ばっぱの家」の跡を見続けようと思う。

2018年5月17日木曜日

「ぶな石」と星空

 カミサンが図書館にでも置いてあったいわき市の観光パンフレット「ぱわふるいわき」を持ち帰った。「イベント」「食」「癒し」「パワースポット」のワッペンがついたものもある。「パワースポット」のワッペンは、もしかして今回が初めて?
 1枚の写真に引かれた。三和町差塩(さいそ)の「ぶな石」。夏の夜、この巨岩と、その上に広がる星空が見事な“光度”で表現されている=写真。同時に、キャプションが「宇宙石」ではなく「ぶな石」であることにも引かれた。メディアは「宇宙石」、あるいは「宇宙岩」という名で紹介する。観光パンフには、いや、そうじゃない、地元の人は「ぶな石」と呼んでいる――そんな意思がこめられているように思えた。
 
 私は、いわき市内のあちこちを歩き回っている方だが、この観光パンフに載っている自然スポットでは、「ぶな石」「中釜戸のシダレモミジ」「田人のクマガイソイウ」は、まだ見ていない。だからなのか、「ぶな石」と星空の写真には、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のイメージが重なって、ますます心が躍った。
 
 ついでながら――。「ぶな石」の前のページで「背戸峨廊」を紹介している。これには「セドガロ」の読みが付けられている。「宇宙石」ではなく「ぶな石」ですよ、というのと同じで、「セトガロウ」ではなく「セドガロ」ですよ、というメッセージでもある。

「いわき市三和町 ぶな石」で検索すると、FMいわきの2012年秋の<「みみたす」こぼればなし>に出合った。かつての広報誌「みみたす」に載った中山間地ルポの延長で、ネットに発信したものだろう。行きあたりばったりなのに、人に出会って地域のディープな世界に触れていく。かつてのルポ記事のような文章をまた読みたくなった。

「こぼればなし」のなかに、ちょうど確かめたかった昔話「白蛇のたたり」が出てくる。永井小・中学校PTA編/夏井芳徳校注『永井の昔ばなし――ふるさとの民話と伝承』(いわき新書、2009年)にからんで、地元の人にじかに昔話を聞く。なぜゴマを栽培しなくなったか、そのいわれを紹介したものだ。つまりは、ゴマではなくエゴマ(ジュウネン)を栽培するようになったいわれでもある。

「ぶな石」の話に戻る。パンフの説明にこうあった。「差塩地区にある、標高670メートルほどの山『一本山毛欅(イッポンブナ)』。その頂上に鎮座するのが、巨岩『ぶな石』です。その神秘的な雰囲気から、今ではパワースポットとして親しまれています。周辺は牧草地となっているので、立ち入る際は牧草を傷めないよう配慮し、マナーを守って鑑賞してください」

 パワースポットかどうかはともかく、一本山毛欅の頂上にある巨岩だから「ぶな石」だった。

2018年5月16日水曜日

トロロイモの長い芽

 植物の生き残り戦略には、いつも驚かされる。
 台所の棚に置いてあったトロロイモ(ナガイモ)から芽がのびて、いつの間にか人間の行き来を妨げるようになった=写真。米袋に入ったお福分けのネギも、食べきれずに残ったものから花茎がのびてネギ坊主ができた。土から離され、乾燥した状態でも、イモやネギは枯れずに生きている。

 台所の隅っこに置いてあったジャガイモも、やはり一斉に芽を出した。しぼんでシワシワになったイモにも新しい命が宿っていた。生ごみとして出すのはしのびない。4月に入るとすぐ、夏井川渓谷の隠居へ持って行って、菜園の一角に植えた。しっかりした親イモなら二つに切るが、2分の1くらいにしぼんだイモに包丁を入れる気にはなれなかった。

 植えてから1カ月半。ジャガイモの葉は立派に茂っている。大きいイモは期待しない。小イモがいっぱいできれば、それはそれで立派な食材になる。

 2013年師走に表土を5センチほど入れ替えた。自家採種をしている在来作物の「三春ネギ」から家庭菜園を再開した。年ごとにひとつ、栽培する野菜を増やす――そんな気持ちで二十日大根やカブ、いわき一本太ネギの種をまいて栽培した。今年(2018年)は台所で芽を出したジャガイモとトロロイモだ。

 トロロイモは長いのが2個、むかごが肥大したような球状のものが4個。菜園のはずれ、立ち枯れたタラノキのそばに植えた。長くのびた芽は、それに誘引した。むかごが採れるならいいとしよう。

2018年5月15日火曜日

奄美の田畑家と西郷どん

「安政の大獄」と薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の急死で追いつめられた西郷隆盛は、僧月照とともに錦江湾に身を投げる。月照は死に、西郷は生き残った。「一度死んだ男」は藩から「潜居」を命じられて奄美大島へ――。
 おととい(5月13日)の大河ドラマ「西郷(せご)どん」に続き、きのうは朝ドラ「半分、青い。」のあと、衆議院予算委員会中継までの15分間、「西郷どん」などの番組宣伝が行われた=写真。

 西郷を世話するのは島の豪農・龍佐民。ドラマでは、柄本明が演じている。ネットで検索したら、西郷の「島妻」の愛加那は佐民の姪っ子だそうだ。

 テレビを見ながら、奄美出身の故田畑金光いわき市長を思い出していた。東京帝大を出て満州国官吏になり、将校(陸軍主計少尉)に任官、戦後は縁あって勿来の大日本炭砿に就職した。労働運動に生きがいを見いだしたあと政界に転じ、福島県議、参議院・衆議院議員を歴任した。

 龍佐民は田畑氏の祖父の兄だという。「田畑」姓なのに、「龍」と名乗らなければならなかったのはなぜか。平成19(2007)年、会津の歴史春秋出版から田畑金光著『私の半生』が発刊された。そのなかの<田畑家の出自と西郷隆盛>の項に理由が書いてある。
 
「田畑家の先祖は笠利姓を名乗っていた。琉球王から奄美大島の笠利(現・奄美市)に派遣された家系である」。最初は「笠利」姓だった。正徳2(1712)年、薩摩藩命により、当主が鹿児島で土木の技術を学び、帰島して新田開発に従事する。「五百町歩の開墾を実現する。その功で郷士に列せられ、田畑姓と屋敷五畝歩」を賜った。「笠利」から「田畑」姓に替わった由来が語られる。

「天明五(一七八五)年正月、藩命により龍姓に改めた。城下士二字姓、地方士は一字姓とされたのである」。一種の身分差別だろう。「田畑」姓に復するのは明治8(1785)年。「龍」姓の時代は90年に及んだ。

 西郷は安政5(1858)年からまる3年間、田畑氏のふるさとでもある龍郷(たつごう)で蟄居生活を送った。西郷を世話した佐民は、島妻・愛加那との結婚の媒酌人も務めた。西郷と愛加那の間に2人の子が生まれる。長男・菊次郎は西南戦争で重傷を負ったが、のちに京都市長になる。「愛加那の墓は田畑家歴代の墓所の片隅にひっそりと立っている」そうだ。

 市役所担当の記者になって2年目の昭和49年、田畑氏が市長選に出馬し、現職を破って革新市政が誕生した。それから3期12年のうち前半の6年間、田畑氏をウオッチした。今はないが、大黒屋デパートではときどき奄美大島の物産展も開かれた。

 哀切極まる「島唄」に替わった大河ドラマ「西郷どん」のテーマソングを聞きながら、田畑氏を介していわきと奄美が最も近かった時代にタイムスリップしていた。

2018年5月14日月曜日

いわき昔野菜保存会

 土曜日(5月12日)に、いわき昔野菜保存会の総会・懇親会が開かれた。同会は、いわき市内に残る在来作物の調査・保存・普及を図り、次世代に継承していくことを目的にした市民団体だ。
 夏井川渓谷の隠居で在来作物の「三春ネギ」を栽培している。8年前、市が在来作物を調査することになって、担当者からインタビューを受けた。それが、「いわき昔野菜」事業とかかわる始まり。年度ごとに発行される報告書の巻頭言を、求められて書いた。

 市農業振興課が、いわきリエゾンオフィス企業組合に発掘・調査事業を委託した。リーマンショック後の緊急雇用事業を兼ねていた。事業を始めた翌年には“原発震災”がおきる。ますます事業の意義・必要性が増した。保存会もできた。

 しかし――。在来作物は、大量生産・流通、そのための同一規格、という経済性からはずれたところで、「自産自消」のサイクルのなかで細々と生き残ってきた。地域の食文化、あるいはローカルな循環型社会の構築を模索する流れができると、今度はそれを経済に結びつけようという安直な発想が生まれる。
 
 同保存会は調査終了を機に、自立した。会の中軸は生産者や、生産~加工~消費の流れを調査した元スタッフだ。フィールドワークの強みが生かされている。これに、理論的なアドバイザーとして江頭宏昌山形大教授が加わっている。
 
 懇親会では栽培技術や料理の話で盛り上がった。私は「いわきでもアカネギが栽培されている、種屋から買ってきた種をまいて育てたものか、昔から自家採種して栽培しているものか」を尋ねた。元調査スタッフは「アカネギ栽培は初耳だ」といい、江頭教授は「在来種のアカネギは貴重。しかし、種採りが面倒くさいのでやめる生産者がいる。今は種屋から種を買ってきて栽培している」と教えてくれた。
 
 二次会の店にたまたま、映画「洟をたらした神」の上映会で知り合った若い仲間がいた。「いわき昔野菜」のドキュメント映画を――と誘ったら、乗り気になったようだ。ぜひ実現したい。
 
 その店では女性シェフが「いわきでしか食べられない豚の生ハム」を出してくれた=写真。いわきの北部で飼育されている「あぶくまX豚」だとか。いわきだから口にできる食材は、昔野菜に限らない。豚も、魚も、キノコも――。しかし、そんな思いを深く抱くようになったのは、やはりあの“地獄”を経験したからだ。

2018年5月13日日曜日

「いわきの映画館」展

 吉野せいの短編「赭(あか)い畑」に、戦前・戦中、悪名をとどろかせた“特高”が登場する。せいの夫・混沌(吉野義也)が理由もなく特高に連行される。そんな息苦しい時代の物語だ。作品の末尾には「昭和十年秋のこと」とある。
 夫婦の友人に地元の女性教師がいた。彼女も、「中央公論」を読んでいるというだけであげられる。その女性教師とせいがある晩、町へ映画を見に行く。女性教師が「子供を全部混沌に押しつけて私を誘い、夜道を往復二里、町まで歩いて『西部戦線異状なし』を見て来た」のだった。

 せいの作品集『洟をたらした神』のなかでは唯一、せいが自分のために時間をつくって映画を楽しむ、なにかホッとさせられるエピソードだ。

 中央公民館から月に1回、計4回の市民講座を頼まれた。『「洟をたらした神」の世界』と題して、作品に出てくることばの「注釈」をすることにした。同公民館のあるいわき市文化センターで耐震化工事が行われている。平・一町目のティーワンビル4~5階に入居する生涯学習プラザが臨時の会場になった。

 5月8日に1回目の講座が開かれた。せいが見た映画「西部戦線異状なし」の話もした。「町」は市になる前の「平町」にちがいない。せいの住む好間・菊竹山から平(現いわき)駅前あたりまではざっと4キロ。となると、どこの劇場でこの映画が上映されたか――新しい“宿題”ができたことも話した。
 
 たまたまだが、同プラザのエレベーターホールとロビー壁面を利用して、「写真に見るいわきの映画館――娯楽の王様映画の記憶」展が開かれている=写真。同プラザ開館15周年記念の特別展だ。この特別展に探索のヒントがあった。
 
 同プラザが入居するティーワンビルそのものが、いわきの映画文化の先駆け、「聚楽館(しゅうらくかん)」が建っていたところ。それが特別展を開く根拠にもなったようだ。

 紹介パネルで、①聚楽館は平・有声座に続き、昭和12(1937)年に映画の上映を開始した②昭和初期の「常磐毎日新聞」に「シネマ週報」として、平館・世界館(元有声座)の上映作品が載っている――ことがわかった。この地域紙に当たれば、「西部戦線異状なし」の上映時期・上映館がわかるかもしれない。

「西部戦線異状なし」は1929年、第一次世界大戦の敗戦国ドイツ出身の作家、エーリヒ・マリア・レマルクが発表し、世界的な大ベストセラーになった小説だ。この作品を、翌年、アメリカのユニヴァーサル社がルイス・マイルストン監督で映画化したという。優れた作品であることは、第3回米国アカデミー賞最優秀作品賞、最優秀監督賞を受賞したことでもわかる。

 市民講座では、いわき地方には5年後に映画「西部戦線異状なし」が巡って来た?と、「?」をつけて説明したが、甘かったかもしれない。文中には「ある夜」とあるだけだから、昭和10年とは限らない。
 
 戦後の日本映画でも平で上映されるのは2年後、という例がある。アメリカの映画が平あたりで見られるのは3年後、あるいは4年後だったかもしれない。狙いを定めながらも幅をもって調べる――すると、映画以外のことでも、たとえ「西部戦線異状なし」にたどり着けなかったとしても、おもしろい事実に出くわすかもしれない。
 
「<昨日>の新聞はすこしも面白くないが/三十年前の新聞なら読物になる」(田村隆一)。ましてや、50年前の、80年前の新聞は物語の宝庫だ。

2018年5月12日土曜日

上神白のアカネギ

 ある晴れた日――。鹿島街道沿いの古書倉庫を訪ねた帰り、小名浜から神白(かじろ)川沿いの道路を利用して、海岸部の豊間へ抜けた。昔だったら山あいの“村道”といった感じの道だ。神白温泉国元屋を過ぎたあたりで、道沿いの畑にアカネギ(赤ねぎ)が並んでいるのが目に留まった=写真。
 アカネギ栽培とは珍しい。市販の種をまいて苗を育てたか、それとも自分で種を採って栽培を続けているのか。“自産自消”だとしたら、まだ記録されていない「いわき昔野菜」かもしれない。とりあえず、記録用に写真を撮る。

 夏井川渓谷の隠居で昔野菜のひとつ、秋まきの「三春ネギ」(加賀ネギ系?)を栽培している。いわきの平地には春まきの「いわき一本太ネギ」(千住ネギ系)がある。ネギといっても同じではない。それで、少しずつだが「ネギの来た道」を調べている。

 平地でも山里でも、直売所にネギがあれば買う。スーパーへ買い物に行っても、赤ネギ(茨城)や曲がりネギ(宮城)を見ると、買って試食する。
 
 還暦を機に始めた同級生との“修学旅行”は、土地のネギ文化を知る絶好の機会だ。京都では青ネギ(葉ネギ=九条ネギ)を食べた。会津の大内宿では、観光客が曲がりネギを一本箸にしてそばを食べていた。それを買ってきた。ベトナムやカンボジアでもネギを食べた。こちらは葉ネギだった。
 
 国内外を旅行するごとに、年を経るごとに、脳内にいわきと日本、アジアのネギ地図が書き込まれる。日本では白根をつくるのに土寄せをするが、台湾には、幅の広い高うねにしてまとめて栽培し、稲わらで畝を覆って白根をつくる「三星ネギ」があった。

 アカネギは表面の赤紫色が美しい。一皮むけば白根があらわれる。茨城のそれを加熱して食べたときには、甘くてやわらかかった。
 
 そうそう、福島県中通りの天栄村でもアカネギを栽培している。去年(2017年)11月16日付の福島民報で知った。「天栄赤ねぎ」を村の新しい特産品にしたい――ということだった。作付面積が増えれば、浜通りでも手に入るようになるのではないか。食べてみたいネギの一つではある。
 
 そんなことを考えていたところへ、たまたま知人からアカネギが届いた。赤紫色が鮮やかだ。どうしたらきれいに食べられるか。きょう(5月12日)は午後、いわき昔野菜保存会の総会が開かれる。アカネギに詳しい人がいれば、話を聞いてみよう。

2018年5月11日金曜日

地域の片隅で

 月初めの日曜日、早朝7時台。いわき市平中塩の水田地帯を行くと、網代(あじろ)笠をかぶり、墨染の法衣をまとって托鉢をしているお坊さんに出会う。山際に沿って小川江筋(農業用水路)が伸びている。幅4メートルほどの江筋を渡った山側に曹洞宗の寺がある。そこの住職だ。
 私がまだ現役のころ、定期的にこのお坊さんが福祉関係に贈ってほしいと、職場(いわき民報社)に浄財を持参した。浄財のもとが庶民のお布施だった。もう何十年も托鉢を続けているのだろう。

 この水田地帯で3、4回出会っている(こちらは車だから、目撃した、が正解か)。3年前のゴールデンウイーク後半最初の日曜日(5月3日)――。江筋のそばの民家の庭におじいさんが立っていた。お布施を用意しているらしく、お坊さんが近づくと門扉を開けて道に出た。ああ、こういうふうにして人は徳を積むのだな、と感心したものだ。

 今年(2018年)の大型連休最後の日は月初めの日曜日、5月6日。たまたま朝の7時半ごろ、夏井川渓谷の隠居へ行くために家を出た。中塩の水田地帯に入ると、はるか斜め前方山際の道を墨染のお坊さんが歩いている。

「今度見たらお布施をしたい」。前にカミサンがいっていたのを思い出す。で、そちらの道へハンドルを切ると――。「あれ、いない、おかしいな」「ほんとに見たの?」「うーん、見た。幻ではない。確かに見た」。そんなやりとりをしながら大回りをして、間道に止まっていると、山際の家の方からお坊さんが現れた。その家の奥にも家があったのだ。

ころあいをみてカミサンが近づき、貧者の一灯をささげる=写真。すると、「『子供だましですが』といって、これをくれた」。昔なつかしいガーナチョコをかざしてみせる。ひとまず念願をかなえたあとは、お坊さんと逆の方向へハンドルを切って、遠回りをして隠居へ向かった。

2018年5月10日木曜日

全国紙の「福島」報道

 地域紙で37年近く仕事をしてきた。新聞には愛着がある。業界の最新情報は頭に入れておきたい――そんな気持ちで今も日本新聞協会発行の月刊誌『新聞研究』を読んでいる。毎月、書店から届く。(いや、読んでいた、に訂正する。支出を減らすようにいわれて、最近、何誌か定期購読をやめた。「新聞研究」もそのひとつ。5月号が来てないのでわかった)
 東日本大震災と原発事故がおきた平成23(2011)年3月以降、「新聞研究」は節目になると震災と原発事故を特集する。といっても業界誌だから、各社の編集者や記者がどんな視点から企画を練り、取材し、どう感じたか、どんな反応があったか、といったことがつづられる。

 2018年4月号は「東日本大震災7年――復興への道筋探る報道」がテーマだった。定期購読の悪いクセで、つい“積ン読”になってしまう。座卓のそばに置きっぱなしにしておいた。

 おととい(5月9日)、そばに横積みの新聞切り抜きや雑誌類を整理するなかで、まだ読んでいなかったことを思い出してパラパラやったら、見たことのある地名や名前が出てくる。最初からちゃんと読んでみたら、わが家のことを取り上げていた。

 筆者は毎日新聞東京本社社会部都庁キャップ・竹内良和さん。春まで福島支局次長だった人だ。「『福島の分断』を不断の努力で伝える――たとえ半歩でも前に進める気概で」というのがタイトルだ=写真。

 拙ブログを下敷きにしながら、次長(デスク)が取り上げた記事の経緯を振り返る。

 去年(2017年)8月中旬、カミサンに毎日新聞福島支局の記者から電話が入った。6年半の節目に合わせた連載を企画している。ついては取材をしたい、ということだった。
 
 初めて国内支援に入ったシャプラニール=市民による海外協力の会などと連携して(カミサンはシャプラの会員、私はマンスリーサポーター)、家(米屋)が「まちの交流サロン・まざり~な」になった。もともとは米屋の一角を地域図書館「かべや文庫」として開放していた。最初は地域のこどもたちの、最近は大人たちのたまり場だ。
 
 震災と原発事故のあとは、地震・津波被災者と原発避難者が加わった。それぞれに屈託がある。建前だけでは誤解の溝は埋まらない。本音でぶつかりあったっていいではないか。人によってはそれでつながりができた。

 ――月遅れ盆明け、取材にやって来たのは入社2年目の女性記者だった。以来、デスク(竹内さん)からいろいろ指摘され、福島から車で通うこと4~5回に及んだ。写真撮影にはわざわざ東京本社からカメラマンがやって来た。その連載「復興断絶・東日本大震災6年半 つながりたい」が9月8日に社会面で始まり、最終回の9月14日、「避難者と本音出し合う」という見出しで、「かべや文庫」のことが取り上げられた。

 それから半年後――。同紙の東日本大震災関連企画「明日を探して」の5回目が3月11日に載った。いわき市平薄磯地区で今夏、カフェ「サーフィン」を再開する女性の物語だ。わが家の「かべや文庫」にも来る人なので、良く知っている。取材したのは同じ女性記者だった。

 半年前に知りあってからは、いわきへ取材に来ると、たまにカミサンに連絡をよこす。わが家へ寄っていくこともあった。3月の連載企画では、取材の一環なのか、私を指名して電話であれこれ聞いてきた。
 
 事件・事故のニュース取材だけでは、新聞の面白さはわからない。日常の中に埋もれているニュースを掘り起こす連載企画や特集を手がけたときに、「記者をやっていてよかった」という思いがわく。彼女もきっとそうだったろう。

 今度の「新聞研究」を読んで、彼女のデスクとは直接顔を合わせたことも話したこともないのだが、「つながっていた」という思いを抱くことができた。「まちの片隅で起きている小さな一歩」という見方は、私自身もふだんから口にしていることなので共感できる。「デスクにこういわれた」「おれがデスクだったら」。わが家に取材に来るたびに、彼女とそんな会話を交わして楽しんだ。

 この春、デスクは東京本社へ、彼女は中部本社へ転勤した。最後は「アパートを探さないといけないんです」。そんな胸の内を話してくれるようになった。いや、取材で家に来るたびに、自分のことや家族のことを話すようになった。記者であると同時に人間として人に接する、これは得難い資質だ。

2018年5月9日水曜日

夏鳥飛来

 大型連休中の5月4日夕方――。街からの帰りに夏井川の堤防を通ると、ヨシ原から聞こえてきた。「ギョギョギシ、ギョギョシ――」。夏鳥のオオヨシキリが渡って来たのだ。点々と数羽がいた。
 ヨシ原といっても、新しいヨシは生えたばかり。去年の枯れヨシがあらかた残っている=写真上。例年だと2月の早い段階で土手と河原に火が入れられる。今年(2018年)は1月28日の日曜日に野焼きが行われた。

 ところが、上流と下流の間の中神谷地区だけ野焼きが「自粛」になった。枯れヨシが燃えると、煙が立ちのぼって燃えかすが飛散する。以前、対岸だったか下流側だったか、住民から洗濯物を干せないという苦情が寄せられた話を聞いたような……。同じ理由で自粛になったのだろうか。

 枯れヨシと新しいヨシが混在する河原で、オオヨシキリはどう巣をかけるのか。影響があるのかないのか、気になるところだ。

 夏鳥は山にも渡って来る。夏井川渓谷に住む友人のフェイスブックであえなく絶命した夏鳥のキビタキ(雄)の写真を見た。渓谷にも渡って来ることを、そんなかたちで知るとは――。

 連休最後の日の6日、渓谷にある隠居で土いじりをしていたら、対岸の山=写真下=からかすかに「ポポッ、ポポッ」というツツドリの鳴き声が聞こえた。これも夏鳥だ。
 日本へ渡って来るカッコウの仲間は4種。鳴き声を聞く限りでは、ツツドリ・ジュウイチ・カッコウ・ホトトギスの順に到着する。カッコウは、わが生活圏ではもう幻の鳥になった。
 
 ホトトギスは山にも平地にも現れる。夜も鳴く。幼いとき、その鳴き声を聞きながら、祖母が寝物語に怖い話を語ってきかせた。

 昔、きょうだいがいて、食べもののことで口論になった。食べていないのに「食べたべ」と弟から邪推された兄が、身の潔白のために腹を裂いて死んだ。弟は自分の誤りを悔い、悲しみ、ホトトギスになって「ポットオッツァケタ」=ポッと(腹が)おっつぁけた=と鳴き続けているのだという。

 以来、私のホトトギスの聞きなしは「ポットオッツァケタ」であって、「トッキョキョカキョク」や「テッペンカケタカ」ではない。実際、そう聞こえるのだからしかたがない。

2018年5月8日火曜日

田村市常葉町の三角油揚げ

 大型連休の谷間(5月2日)に、田村市常葉町の実家(床屋)へ帰って散髪した。ワカメとメヒカリを土産に持って行ったら、帰りに三角油揚げをもらった=写真。同じ町内の佐久間豆腐店でつくっているという。店主は私より少し年下ではなかったか。
 前は町内にもう1軒、豆腐屋があった。子どものころ(昭和30年代の高度経済成長期前)、鍋をもって豆腐を買いに行った。需要が増える田植えシーズン、豆腐配達のアルバイトをしたこともある。

 数が少なくなった地元の豆腐屋で三角油揚げをつくっている、ということは聞いていた。が、実際に見るのは初めてだ。おみやげに用意するところをみると、評判がいいらしい。

 震災前の2010年秋、郡山市立美術館へ行った帰り、三春ダムの近く、三春の里田園生活館そばのおおはたやで三角油揚げを買った。三春では、この油揚げに切れ込みを入れてネギなどを差し込み、焙烙(ほうろく)で焼いて、みそをつけて食べるのが好まれている、ということだった。

 三春だけのオリジナル油揚げと思っていたら、そうではなかった。秋田・由利本荘にも、宮城・定義にもあった。それよりうれしかったのは、三春と同じ田村地方のわがふるさとと、その東隣の都路にも三角油揚げをつくる豆腐屋がある。どこの三角油揚げも「外側はカリッ、中身はふっくら」が売りのようだ。
 
 家に帰って大きさを測った。厚さは4センチ。辺の長さがそれぞれ違う。直角三角形らしいので、斜辺を求める計算方法(ピタゴラスの定理)をネットで確かめ、あてはめてみたらだいたいあっていた。縦9.5センチ、横10.5センチの、長方形の豆腐を斜めにスパッと二分して、低温で揚げ、さらに高温で揚げて、「外側はカリッ、中身はふっくら」に仕上げるらしい。
 
 夫婦2人では食べきれない。いわきには厚さ4センチもある油揚げはない。珍しい形と味をどうぞ――そんな気持ちで近所にお福分けをした。
 
 三春町の三角油揚げは観光客にも知られているが、常葉や都路のそれは暮らしに根づいているだけのものだ。私が小さかったころはなかったから、新しい郷土食品にはちがいない。町の数少ない“特産品”のひとつとして、これからは帰省のたびにおみやげに買って帰ろうか

2018年5月7日月曜日

青田が広がる

「稲の苗の生長が早くて――」。大型連休の前、いわき市平の、同じ中神谷(かべや)地区に住む知人が言っていた。常磐線と山すその間に「神谷耕土」が広がる。その耕土の田植えがいつもの年より少し早まるということだろう。
 その2日後、日曜日(4月29日)。いわき市の山間地・三和町~川前町~小川町を巡った。標高500メートルの三和・差塩(さいそ)も、そこから200メートルほど下った谷間の川前・宇根尻も、あらかた田んぼの代かきが終わっていた=写真。

 それからさらに1週間。きのう(5月6日)朝、夏井川渓谷の隠居へ行くため、神谷耕土の道を利用すると、ずいぶん青田になっていた。あぜ道に稲苗の箱を並べているところもあった。ゴールデンウイークが終わると、神谷耕土はおおむね青田に変わる。が、それにしても少し早い。やはり、稲苗の育ちが影響しているか。
 
 隠居までのルートは決まっている。平地はあえて山際の田んぼの道を行く。渓谷にも水田はある。
 
 水田が中心の集落は“水社会”だ。上流の田んぼから水が来ないことには、代かきも田植えもできない。
 
 平野に広がる神谷耕土を潤すのは、小川町・三島の夏井川から取水した「小川江筋」(農業用水路)。地域内の田んぼの水の流れを考えれば、田植えを早めても遅らせることはできない。早め早めにコトを進める人がいて、それが積み重なって、結局、神谷耕土の田植えはほかより早くなったか。“平窪耕土”は代かきの真っ最中、“小川耕土”も似たり寄ったりだった。
 
 そうだ、昔は梅雨時が田植えのピークだった。小学校6年の、たぶん6月。阿武隈の山里から汽車で小名浜港へ、日帰りの修学旅行が行われた。夏井川渓谷を過ぎると、急に平野が広がる。今は、そこが小川町・片石田だということがわかる。人がいっぱい出て田植えをしていた。
 
 60年前の記憶が、片石田を通るたびによみがえる。そこでは田植えが始まったばかりだった。人はおらず、トラクターが1台、水の張られた田んぼを行き来していた。

2018年5月6日日曜日

祭りが終わったら夏がきた

 今年(2018年)のゴールデンウイークも、きょう(5月6日)で終わり。3日と4日午前、雨にたたられたものの、おおむね晴れか曇りと行楽・祭り日和が続いた。
 4日は近所の立鉾鹿島神社で例大祭が行われた。氏子ではないが、ほかの区内会の代表と一緒に、午前10時からの祭典に出席した。

 もともとの参道は、わが家の近くの旧浜街道から神社へと北にまっすぐのびている。明治30(1897)年、鳥居と境内の間に常磐線の線路が敷設される。以来、ふだんは横断できないが、ハレの日だけは人も神輿(みこし)も堂々と線路を渡る=写真。神輿はそこから集落へ繰り出す。
 
 雷が鳴って雨になった。雷雲が去ったあとも雨が続いたので、傘をさして出かけた。震災直後、参道の両側にはまだ水田があった。7年がたった今は、戸建て住宅・アパートができて、田んぼは1枚だけになった。草が生えているところをみると、それもやがては宅地になるのだろう。

 祭礼に出席するのは6回目。6年連続で祭礼をウオッチしていると、それなりに変化がわかる。今年は、宮司のほかに禰宜(ねぎ=他県で修行中の息子さん)が加わった。一行を誘導する「猿田彦」は、わが区内会の役員が務めた。
 
 神輿渡御が始まるころには、雨がやんだ、終わるのは午後6時。わが家の前は、夕方5時前後に通過する。今年はわりと整然としていた。知り合いの氏子幹部が説明してくれた。夏井川でも渡御するのだが、今年は川で砂利採取が行われ、底が深くえぐられている。おぼれかねないので、川には入らなかった。白いズボンが乾いたままだったのは、そのため。
 
 この1週間は、いわき地域学會の事務局の仕事、土いじり、回覧資料の配付、公民館の市民講座の準備のほか、薬をもらいに病院へ、頭を刈りに実家へ、神社へと、用事が続いた。おかげで、二日酔いで一日を棒に振るようなことはなかった。
 
 気がついたら、きのう(5月5日)は「立夏」だ。ゴールデンウイークが始まる前から半そでになることもあった。祭りが終わったら夏がきた。

2018年5月5日土曜日

国道399号を行く・下

「とわだリターンプロジェクト」という市民組織があった。平成13(2001)年、廃校になったいわき市の小川小戸渡分校を拠点に、「土の人」と、よそから移住した「風の人」、そして「町の人」が一緒になって地域づくり活動を展開した。
 きのう(5月4日)少し触れた冊子『自立・循環の村へ とわだリターンプロジェクトの取り組み』=写真=は、その10年間の成果をまとめたものだ。

 平成23年3月には、冊子の中身がほぼ完成していた。ところが3月11日、東日本大震災と、それに伴う原発事故がおきる。たちまち発行の停止、上下2巻を予定していた冊子の変更などを余儀なくされた。

 冊子に差し込まれた同プロジェクト代表のあいさつ文には、そのへんの事情を踏まえた無念さがにじむ。「まさに今必要とされる循環型社会へのパラダイムシフト(価値観の転換)の手段は、奥山にひっそりと、たくましく存在し続けた集落の生活手法からヒントを得ることが出来る」はずだったが……。

 戸渡は、事故を起こした1Fから25キロのところにある。いわき市内では川内村に接する川前の荻~志田名などとともに、3月15日、市から自主避難を要請された。

「脱原発」の暮らしをデザインしようとしていたところが、逆に原発の事故によって暮らし自体が立ち行かなくなる、この文明の矛盾。そんな視点で、3・11前の戸渡の様子を、冊子に引用されている草野心平の詩・散文からうかがうと――。

 詩「大字上小川」。心平の生家のあたりは、「昔は十六七軒の百姓部落。/静脈のやうに部落を流れる小川にはぎぎょや山女魚(やまめ)もたくさんいた。戸渡あたりから鹿が丸太でかつがれてきた。」。「ぎぎょ」は魚のギバチのこと。夏井川沿いの平野部の村にさえヤマメがいた。戸渡はそれこそ、山奥の自然豊かなワンダーランドだった。

 随筆「兄民平のこと」。「祖父母の養子草野宇多吉一家は、私の家より十六キロ山奥に住んでいた。『風の又三郎』の分校があった。先生は一人、生徒は六年生まで全部で七人位だった」。<「風の又三郎」の分校>とは、いかにも宮沢賢治を高く評価してきた詩人らしい表現だ。

 同「背戸峨廊(せどがろ)の秋」。「一日で二箭山に登るよりも、もっと足の達者な人は背戸峨廊から内倉に出て更に三里の山奥の戸渡にはいり、十軒程のその小部落のどこかに一ト晩泊めてもらって翌朝、天然記念物のモリアオガエルのいる川内村へ、ここも山道三里だが、降ってゆくのも面白い。そこから七里をバスで常磐線の富岡へ出れば、何処へでも帰ってゆける」

 ――十数年ぶりに利用した国道399号から少し寄り道して分校の前に立ちながら、私はあれこれ思い出していた。山の音楽会と遊学の森の散策・座談会・牧牛共立社の調査同行……。旧知のプロジェクトメンバーから、震災の翌年発行された冊子『自立・循環の村へ』をちょうだいしたことも。それできょう(5月5日)は、6年遅れながら冊子を紹介してみた。

2018年5月4日金曜日

国道399号を行く・中

 いわき市街から国道399号を進み、標高700メートルほどの十文字峠を越えて下ると、すり鉢の底のような小盆地に至る。いわき市小川町・戸渡(とわだ)地区。そこでも標高は500メートルある。
 
 この山奥の小盆地に、平成11(1999)年度まで小川小戸渡分校があった。建物は今も残る=写真上。
 
 昭和34(1959)年11月12日、分校児童・生徒(当時は中学校の分校も兼ねていた)がヤマユリの球根約2千個を集め、皇居の吹上御苑に献納した。
 
 同36年6月1日、小名浜の放魚祭に皇太子夫妻(現天皇・皇后両陛下)が臨席した際、平(現いわき)駅で戸渡分校生と対面し、美智子さまがヤマユリのお礼に『新美南吉全集』(3巻)を贈る。初めは戸渡分校を訪れる考えもあったようだが、あまりにも遠く道が悪いために平駅での対面となった。分校の子どもたちも前日、十文字を越えて本校に泊まり、対面に備えたそうだ。
 
 さらに同年11月3日、東宮御所にヤマユリの球根300個を献上する。お礼に皇太子がメタセコイアの苗木5本を贈った(上の写真右奥にそのメタセコイアが3本見える)。
 
 皇太子夫妻と戸渡分校生の心温まる交流をメディアが取り上げた結果、同分校はやがて「ヤマユリ分校」として知られるようになる。
 
 ――きのう(5月3日)は雨。家にこもって、あれこれ戸渡分校関係の資料を引っ張り出しては読んでみた。ヤマユリ分校の先生の“回顧録”で、皇居と分校がつながったワケを知る(いや、思い出す)。
 
 先生は子どもたちの作文を、ガリ版文集「やどりぎ」にして発行していた。それが、小川町出身者のある人の目に留まった。分校に古本を寄贈するなどして交流が深まった。
 
 修学旅行で東京へ行ったある児童は、作文に、皇居は豪華で寂しいところ、草花一本見えない、ぼくたちの周りにいっぱい咲いている百合(ゆり)で皇居を飾ってやりたい――といったことを書く。それら修学旅行記を収めた号外「やどりぎ」がメディアに取り上げられた。交流のある町出身者は元侍従次長を知っていた。この2人が橋渡し役を務めた――。
 
 これらの“検証”のため、総合図書館のホームページで地元紙・いわき民報をチェックしたが……。平駅での対面は大々的に報道しているものの、それ以外の記事は見当たらなかった。戸渡は、取材するには遠すぎる。徒歩はもちろん、自転車で行けるようなところではない。現地取材は見送ったか。
 
 先生の回顧録も、年月日が少々ゆるやかだ。そのまま引用するわけにはいかない。結局、年月日は手元にある冊子『自立・循環の村へ とわだリターンプロジェクトの取り組み』(2012年、同プロジェクト発行)に収められている「戸渡分校の沿革」に従った。

 平成元(1989)年5月3日には、天皇陛下の即位を記念して「皇室と戸渡分校」の交流を伝える石碑が分校の前に建てられた=写真左上。その平成もあと1年で終わる。